湖の妖精と騎士のお伽噺
昔々、ある所に深い森がありました。
そこの一番奥深くには美しい湖がありました。
人が足を踏み入れない場所にある湖は酷く澄み切っていて、稀に来る動物たちの喉を癒しました。
そこには深い静寂だけが何百年も続きました。
そうする内に森の中の妖精の力が溜まり、
湖は美しい女性として存在できるようになりました。
彼女は孤独が孤独だと言うことも分からないままに長い月日を過ごしました。
そんなある時、少年が森の中に迷い込んで来ました。
彼は両親を流行り病で亡くし、親戚に邪険に扱われていました。
そうしてある日、とうとう耐えかねて家を飛び出してきたのです。
彼の頭の中には親戚たちの冷たい言葉達が溢れかえっていました。
少年は人目につかないよう森の中に入り、衝動のままに歩き回りました。
少年はやがて自分が迷子になってしまった事を悟りました。
それでも彼はちっとも気にしませんでした。
何故なら少年を愛してくれる人は誰もいません。
彼の帰りを待って必死に探してくれる人も同じようにいなかったからです。
少年は痛いぐらいそのことを分かっていました。
彼は真っ暗な闇の中に取り残された様、独りぼっちだったのです。
やがて少年は歩き疲れてへとへとになって倒れてしまいました。
暗くなっていく意識の中で彼は抵抗もせずに目を閉ざして行きました。
少年は目を覚ますと見た事もないような美しい女性が覗きこんでいました。
彼女は湖の妖精だと名乗り、彼に迷子になったのかと尋ねました。
少年は確かにそうだが自分は何処にも帰る家がないと言いまいた。
女性は暫く悩むと彼の額に口付けました。
少年は驚いたのと照れくさいので黙りこくりました。
彼女は彼の手を引くと少年の育った所とは、別の村の近くまで案内しました。
女性は森からは出て行けません。
村の近くまで来ると少年に大きく手を振って別れを告げました。
彼がそこで呆然としていると通りかかった老夫婦が声を掛けました。
少年は彼等に自分の帰る場所がない事を素直に打ち明けました。
そこから不思議なくらい、彼の人生は軌道に乗りました。
老夫婦は少年を大層不憫がり、養子として温かく迎えてくれました。
彼は今まで縁がなかった優しい言葉と温かいご飯に恵まれながら疑問に思いました。
そうして少年はもう一度彼女に会うために森の中に入りました。
女性は彼が森に入って程なくすると表れ、何かあったのかと尋ねました。
少年は僕が急に幸運に恵まれる様になったのは貴方のおかげですね、と言いました。
彼女は気紛れだと答えました。
彼はそれでもありがとうと言うと、また来ますと告げて去って行きました。
彼等は会うようになりました。
初めはお互いに何をする訳でもなく只隣にいました。
彼等は会う回数を重ねるごとに馴染んで行き、徐々に話をするようになりました。
少年は今の引き取ってくれた人たちが優しい事を話しました。
女性は今までずっと独りでいた事を話しました。
少年は寂しくありませんかと聞きました。
彼女は首を傾げました。
意味が分からなかったのです。
彼等はやがて親しくなりました。
女性は少年の心の傷を癒しました。
彼は彼女に寂しさの意味を教えました。
女性は海のような愛おしさを少年に感じていました。
彼女は大事な人が出来てやっとその意味が分かったのです。
少年を引き取ったお爺さんは高名な騎士でした。
彼は年を取ったからと隠居生活を送っていたのです。
お爺さんは可愛がっている自分の養子に剣の手ほどきをしました。
少年はすぐに強くなり、お爺さんは天武の才だと本格的に教える事に決めました。
少年はやがて青年になり、お爺さんを負かせる程の剣の腕前になりました。
お爺さんはお前は何のために強くなったんだと尋ねました。
彼は大事な人を守る為ですと答えました。
青年は湖の美しい女性との逢瀬を続けていました。
彼女は見守っていた少年が段々大人になっていくのに気が付きました。
女性は時間が流れて行くのが怖くなりました。
彼女は年を取りません。
何十年、何百年経っても同じ姿のままです。
女性は彼がいなくなった後の孤独を想うと目眩がしました。
それでも青年は生涯離れないで傍にいることを約束してくれました。
けれども、その誓いは破られてしまいました。
青年の育った国と隣国が大きな戦争になったからです。
お爺さんは自分の養い子に国の役に立つよう命じました。
そうして、彼は戦場に行くことになったのです。
青年は戦って戦って、沢山の勲章をあげました。
しかし、彼の体は段々ぼろぼろになって行きました。
やがて、戦争が終結する頃には長い時間が過ぎていました。
青年はすっかり死に近くなった体を引き摺って女性に会いに行きました。
しかし、多くの人を傷つけ、返り血を浴びた彼は、
その瞳に彼女の姿はもう映らなくなっていたのです。
青年はどうしたら女性と共にいる事が出来るのか必死に考えました。
そうしてある考えが彼に浮かんだのです。
彼は彼女に案内された記憶を思い出し、
女性の本性である湖にやっとの思いで辿り着きました。
彼等はよくその畔でゆっくりとした時間を一緒に過ごしました。
青年はその記憶を懐かしみ、湖を心底美しいと感じていた事を思い返しました。
そうして彼は覚悟を決めると、湖に飛び込み二度と浮かび上がって来ませんでした。