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九月も初旬を過ぎれば、空は夏から秋へとその色を変えていくが、まだまだ日差しが厳しい日も残っている。
燦々と輝く太陽の下、籠目高校一年A組、B組及びC組の女生徒達は、今年最後のプール授業を受けていた。籠目高校では男子と女子は別々に体育の授業を受ける。プール授業でも同様である。今も女子はプールでつかの間の涼を得ているが、男子は冷房のない武道場で汗まみれになっている。
さて、この時期にはプールが見える窓際の席に座っている男子は一様に落ち着きを無くすのだが、今年はそれが更に顕著であった。
もちろん超絶美少女、枇々野那奈がいるからだ。
注目の的である美少女は二十五メートルを泳ぎ終え、手すりを使ってプールから上がる。美しい身体のラインに沿って水滴が転がり落ちていく。髪をスイミングキャップの中に納め、学校指定の少しださい紺色のスクール水着を着ていても、その美しさは全く損なわれることなく、水面よりもキラキラと輝いている。
長い手足とメリハリのついたボディには、女子でさえも熱い眼差しを向けている。
プールサイドを優雅に二十五メートル歩いて列に並ぶと麻友が絡んできた。
「なんかもー、泳ぐ姿まで綺麗ってどういうことよ。ま、あんまり早くはないけど」
「だって、私が求められているのは速さではなくて美しさでしょ」
「わざとゆっくり泳いでいるっての?」
「違うわ、フォームを重視しているの。私のフォームが綺麗じゃなかったらがっかりするでしょ」
「誰が?」
「私を見ている人が」
ナナはすっと目を細めて麻友を見つめる。麻友は恥ずかしそうに目を逸らす。
「だからと言ってね、泳げないというのもダメ」
ナナの順番が回ってきた。飛び込み台の上に乗り、すっと右腕を上げた後、美しいフォームで飛び込んだ。小さな水飛沫を上げて入水する。ぴんと身体を伸ばして水中を進む。浮上するのに合わせて足が水面を打ち、手が水を掻く。天女が空を舞っているかのような優美な泳ぎ。
その美しさに皆が見惚れている時、隣のコースで大きめの水飛沫が立った。大きな身体がすぐに浮上してくる。こちらはナナのものとは違う意味で綺麗な、お手本になるようなフォームで力強く進んでいく。遅れて飛び込んだのに、壁をタッチしたのはナナと同時だった。
「さっきの話聞いてた?」
ナナは隣のコースに少し不機嫌そうに言う。
「速さよりフォームなんだろ。競ってたつもりはない。普通に泳いだら追いついただけだ」
ルリはそう言ってプールの縁に手をかけ、身体を持ち上げてプールから上がる。着痩せするために普段は目立たない大きな胸と大きな尻を地味な水着が強調している。プールサイドに立って、まだ水の中にいるナナを見下ろす。
「ほら、次の人が来たぞ」
ルリはむっと眉を寄せ、同じように身体を持ち上げてプールから上がった。
「無理するな」
「何言ってんの。ちゃんと上がったでしょ」
「頑張ったな」
なおも突っかかろうとするナナを置いて戻ろうとしたルリが呼び止められる。
「やっぱり、今からでもいいから水泳部に入ってよ」
声をかけてきたのは全身真っ黒に日焼けした二人の水泳部員だった。
「疲れるのは嫌なんだ。授業だけでフラフラだ」
「けっこう良い所に行くと思うんだけどな」
「ありがとう。でも止めとく」
「そっか。気が向いたら来て。あ、コーチには是非是非また来てね」
「泳いでもいいなら」
「もちろん。大歓迎」
「なんの話?」
ナナが不機嫌そうに割って入る。
「ルリが夏休みにコーチしてくれたんだ。教えるの上手いんだよ。先生なんかよりすっごい的確に悪いところを教えてくれるの。私なんか二秒も早くなったんだから」
「そんなことは知ってるわ。カッチンはスポーツオタクなんだから。私が知らなかったのは、コーチに行ってたこと」
「お前が実家に帰っている時のことだ」
「メールでも電話でも言ってなかったじゃない」
「興味ないだろうと思って」
「私だってプールで泳ぎたかったわ」
ナナの希望を水泳部員が断る。
「それはちょっと~~~」
「ナナが来たら、男子が練習にならないよ」
「カッチンは大丈夫なの!この胸は!」
ナナは喚きながら、ルリの大きな胸を両手で鷲掴みにした。
「ひゃっ」
驚きの声を上げながらもルリの身体は反射的に防御行動を取った。
投げ飛ばされたナナは、大きな水柱を上げてプールに落下した。
投げ飛ばされた超絶美少女は超絶不機嫌になるのではないかと麻友や水泳部員達は恐れていたのだが、意外にもけろっとしており、むしろ「貴重な経験ができたわ。もう一度しようとは思わないけど」と楽しんでいた。
投げ飛ばしたルリも大して気にしていない様子であった。クラスメイト達は安堵した一方、やはりこの二人に関わるのは疲れるとの認識を新たにしたのだった。
ナナとルリが更衣室を出ると、遥が待ち構えていた。プールの隣には二階建ての体育館があり、その一階は男女更衣室、学食、武道場になっている。
「訊きたいことがあるんだけど、ちょっと良い?」
「少しぐらいなら大丈夫ですけど」
プールは四時間目だったので今は昼休みである。売店や学食組は急がなくてはならないが、弁当組の二人は時間に余裕がある。
「いえ、枇々野さんだけでいいんだけど……、そうね、あなた達は二人で一人か」
「そんなんじゃありません」
「あ、あれ、どうしたの?」
更衣室から出てきた麻友が、教師相手に強い口調で反論しているルリに驚く。
「ああ、すまない。なんでもないんだ」
ルリは少し罰の悪い顔を見せる。
「そういえば湯川は学食じゃなかったっか?こんな時間まで着替えてて大丈夫なのか?」
「そ、そうなの。ちょっと手間取っちゃって。じゃあ行くね」
「プールへ行きましょう」
麻友が走り去るとすぐに、遥は時間を惜しむように歩き始めた。体育館の横を過ぎ、プールの階段を上がり、地面から一メートルほどの高さにあるプールサイドに出る。プールサイドはぐるりと柵で覆われている。柵は金属製の部分と半透明の樹脂製の部分に分かれており、金属製の部分は学校外の道に面している。
体育館側の一辺は階段状になっており、その上にはフードが取り付けられている。頂点から振り下ろしてくる陽光は、フードの下に深い影を作っている。
昼休みが始まったばかりのプールには誰もいない。
先程まで女子高生達が泳いでいた水面が、激しい日光をゆらゆらと反射させている。
遥は体育館から遠い方の金属製の壁の一角を指差した。そこにはポールが一本伸びており、その先端には丸い物体が取り付けられている。
遥はその丸い物体を指差している。
「あれが何か知ってる?」
「分かりません」ルリが答える。
「監視カメラよ。学校にはあちらこちらにカメラが仕掛けられているわ。主には防犯用だけど、プールのは安全対策でもあるわ」
「はい……」
ルリは遥が何を言おうとしているのかを探るように顔を見る。
「あくまでも防犯用よ。普段から生徒の行動を見ていたりするわけじゃないわ。一応先生であれば誰でも見ることはできるけど、専用のアクセスコードを使わなくちゃいけないし、ログを取られているから、誰がいつどのカメラを見ていたか調べようと思えば調べられるようになっているの。不自然に使っていたら教頭から指導を受けるから、当番の時以外はめったに見ないわ」
「当番とかあるんですね」
「設置している以上はある程度活用しなくちゃいけないしね。どうしたの、おとなしいじゃない」
遥がさっきから黙っているナナに話を振ると、少女は澄まして答えた。
「訊きたいことがあるんでしょう?訊かれないから黙っているんだけど」
「そうね。本題はここから。さっきの時間、職員室にいた男の先生達が監視カメラのモニターの前でいやに盛り上がっていたの。何をしているのかと見に行ったら、なんの変哲もない校門が映っているだけ。テンションも急に下がって、早くあっちに行けってオーラを出してくるの。でも、離れたらまた盛り上がる。不思議に思って調べてみたら、あなた達がプールだったのね」
「それってつまり・・・・・・」
「そうだとして、私達に何を訊きたいのかしら?」
ナナはあくまでも澄ましている。
「確かに。プール授業中のナナを観ていたのは先生であって、ナナは観られていただけ。問い質すとしたら、先生達じゃないんですか?」
「新米の私が、先輩の先生達を問い質すなんてできるわけがないじゃない。もっともそんなことしないでも何をやっているのかは確実に分かったけど、それを教頭にちくったりする気もないわ。私が知りたかったのは、あなたがそれを知っていたのかどうかよ」
「どうしてそれが気になるの?」
「カメラの画像を見たからよ。あなた、すっごくカメラを意識していたでしょう」
遥は咎める口調で言うが、ナナは落ち着いている。
「答える前に私からも質問。カメラの画像は録画しているのかしら?そしてそれを持ち出せるのかしら?」
「録画はしているけど、三日後には自動的に削除されるようになってる。持ち出しは特別な許可がないとできないわ。特別な許可っていうのは警察沙汰になったレベルのことだから、実質的にはできないってことね。もっとも私が知らないだけで、パソコンとかが得意な人ならできるのかもしれないけど」
「得意な人って誰ですか?」
「関水先生とか、八木先生とか。もちろんやってないだろうけど」
「なるほど」
質問に答えても、何も話そうとしないナナに遥が少し苛立ち始めた時、プールサイドに水泳部員が姿を現した。
「すいません。清掃をしたいんですけど」
「ごめんなさい。すぐに出るわ」
プールサイドから降りる頃には、遥は少し落ち着きを取り戻していた。
「それで?私のカードは全部出したわよ」
「カメラがあるのは知っていたわ。遥ちゃんなら分るかしら?撮られている時って、なんとなくその感覚が分かるの。で、更にはどこから撮られているかも分かるようになってきて、その応用からどこに監視カメラがあるのかも分かるようになってくる。でも、監視カメラのそのレンズの向こう側にいるのが誰だかまでは分からないし、どんな使い方をされるのかも分からない。カメラに映らないようにするというのも一つの手ではあるけれども、それはポリシーに反するわ。そして、どうせ見られるのなら素敵な姿が良い。そうは言っても、録画データがばら撒かれるのは気持ち良いものではないけど、さっきの話で一安心したわ」
ナナは今まで何も語らなかったのを取り返そうとでもしているのか、饒舌に語った。
「見られることによって、他人の視線に敏感になるのは分かる」
遥は少し肩をすくめる。
「一応確認しておくけど、見られているのがどういうことなのかは分っているわよね」
「先生達をあんまり興奮させるなってこと?」
「そうね」
教師っぽい顔で諭す。
「心に留めておくわ。そしてありがとう。監視カメラがあるのは分かってたけど、どんな使われ方がされているのは知らなかったから、参考になるわ。遥ちゃんは良い先生ね」
「貸しを返しただけよ」
「貸しなんかないでしょ」
ナナの機嫌が一気に悪くなる。先日、遥に降りかかったトラブル、というか自業自得的な謎を鮮やかに解いてあげたつもりだったが、実際は見当外れの推理をしていただけだったのだ。
「結果は外れていたけど、一生懸命考えてくれたことには感謝してるのよ」
「そういうのは良いのよ」
そのまま立ち去ろうとしたナナが、ふと足を止めた。
「一応訊くけど、更衣室の中にはないわよね」
「もちろん無いわよ。どうして?」
「少し……違和感を感じるの?」
「違和感?監視カメラでないってことは、誰かがカメラを仕込んでるって事?」
「それが良く分からないの。盗撮を見つけるのはちょっと自信があるんだけど、それとはどこか違う気がする」
「あなたが言うなら気になるわね。探しましょうか」
「悪いけどお昼ご飯がまだなの。何か見つかったら教えてちょうだい」
まだ不機嫌が残っているのか、ナナは疑問を残してさっさとその場を離れた。
「失礼します」
頭を下げて後を追うルリの背中に、遥がぼそっと言葉を投げかけてきた。
「私もまだなんだけどな」
ルリはあっさり無視した。