2 小恵-さえ-
霞朝妃の第二の人格ともいえる小恵。理知的で、朝妃の父親の心理学者としての才能を一身に受け持つ存在だ。
そして、小恵は妹的な存在の美香を従妹のなつから生み出した。
そしてようやく朝妃に出来た親友の突然の死。ここからすべてが動き出す。
ようやく外に出れた。最近の朝妃は精神的に安定している時間が長いので、彼女が何かの精神的ショックで不安を感じてこちら側に逃避して来る隙を伺っているのだが、外に出たがっているのは小恵ひとりではない。とにかく、この目の前にいるいやらしい顔で笑っているオヤジのおかげだ。朝妃の中で、せっかくの出るチャンスを美帆は小恵に譲ったのだ。どうやら、美帆が少し優しくしたら、図に乗ってその気になってしまったらしい。まったく美帆ったら、男の心理を何もわかってない。
「どうしたの、気分でも悪いの?」
朝妃から小恵に変わる瞬間、意識が遠のいて目を閉じた顔をオヤジが覗き込み、その息臭い顔が朝妃の顔を覗き込んだ。
「何でもない」
静かに目を開けて、小恵は答えた。
「昨日、競馬で大穴当てちゃってさ、今日はおじさん金持っているんだ。あれ、欲しがってたろう?」
「あれ?」
「あれだよ・・・なんとかってブランドの赤いキャミソール。あれ高いんだろう?」
「・・・趣味悪い」
小恵は不快な気分を抑え切れずにつぶやいた。
「そりゃないよ。あれを買ってあげたら一晩つきあってくれるって約束したのに。美帆ちゃん」
小恵はますます不快な気持ちになって行った。朝妃や他の人格に間違えらえるならまだ許せる。が、美帆に間違えられるのは耐えられなかった。美帆はいつも男絡みだ。そういえば、初めて間違えられた時もそうだった。
小学6年生の教室。小恵が外に出た時、教壇の担任の隣には見慣れない男の子が立っていた。確か、名前を・・・尾藤光。その時なぜ朝妃がこちらに逃げてきたかは今ではわからない。尾藤光は、少しダブダブのズボンを履いた小柄な少年だったが、まつげが長い美少年だった。
その時の小恵は、美少年尾藤光よりも、父親の善次郎の体調が気にかかっていた。先日から体を崩し、都内の大学病院に入院している。病室には代わるがわる精神医学学会の関係者が見舞いに訪れてはいるが、誰も彼もが善次郎の研究途中の課題を知りたがっているだけだった。その時点でそれを知っているのは、おそらく善次郎と自分のふたりだけだろうと小恵は確信していた。その反面、小恵はそのことが気になり学校を終えると、その足は善次郎がいる病院に向かっていた。小恵が外に出れない時は、朝妃を中から煽ってなるべく病院に向かわせるように仕向けていたのだ。
学校と病院の往復をして幾日めかのある日の朝、学校の校庭を歩いていると後方から来た尾藤光が小恵の前に回り込み「昨日はありがとう、助かった。今度家で引っ越し祝いをするからさ・・・美帆ちゃんも来てくれよ」と、思い切って言ったのだろう。光は顔を赤らめて校舎に向かって走り始めた。
後でわかったことだが、前日の下校の時刻には昼頃から降り始めた雨が本降りになっていた。傘を持ってきてない光は下駄箱で立ち尽くして降り続ける雨を見ていた。そこに美帆が声をかけたのだ。美帆は、光が傘を持っていないという話しを聞き相合い傘で光を家まで送って行った。本来、この年頃の子供は、噂の種になることを嫌って相合い傘などはしたがらない。これには光も少々困惑していたが、雨に濡れて帰ることとの引き換えは出来なかったのだろう。そして美帆は、ご丁寧にも自分の家を通り越して、光の家まで送って行ったのだった。
美帆は光を家の前まで送ると、そのまま来た道を引き返した。この話しを光から聞き、感動した光の両親が美帆を呼んで引っ越し祝いをしようと考えついた。可愛い息子が不安な転校先で初めて出来た女友達だと、勝手に解釈してしまったのだ。
また光が「美帆ちゃん」と呼んだことについては、この頃の美帆は自分を指して「美帆」と呼んでいた。朝妃はクラスではいつも苗字で呼ばれていたから、下の名前を知らない朝妃のことを「美帆」と勘違いしても仕方がなかった。
そんなことから、小恵が美帆と間違えられるときはいつも色目を使った男たちが声をかけてくる時だった。今、小恵の目の前にいる小太りの中年オヤジもそのひとりだった。
「美帆ちゃん、今度は競艇を教えてあげるから一緒に行こうよ。この前、馬は臭いから嫌だって言って競馬場に一緒に行けなかったからさ」
「おじさん、暇なのね。仕事してないの?」
その間、周りに誰がいたとしてもおそらく小恵にしか気づくことができない、一瞬の間があった。
「おじさん、今無職でさ。暇なんだよ」
小恵はフゥーッと、ため息をついた。
「ストレス解消もいいけど、きちんと仕事した方がいいよ。従業員になめられるよ、社長さん」
男は「えっ!」と絶句したままだった。その間の抜けた顔を背にして、小恵は歩き始めた。
小恵は歩きながら、あの男も大変なんだ。多分、彼なりの逃避行動だろう。あれも一種の多重人格なのだろうと小恵は思った。誰にもあるのだ。ただ、病的な多重人格に比べ、常人は深層意識にいろいろなパーソナリティーを持っていても記憶の連続がある。が、病的な多重人格者いわゆる解離性障害者は、それが無い。そして、それぞれに名前がついているのが特徴だ。それぞれのパーソナリティーは趣味がまったく違うことが多い。また、筆跡までもが変貌をする場合がある。
まだ口をぼんやり開けたままのオヤジの顔が遠くになった頃、小恵が誰かの手に軽く叩かれた。また男か、と思って振り向いた小恵の目に小柄な少女がいた。少女は仁王立ちになり、Vサインを明るく小恵に送っていた。
「なつ・・・・じゃない、美香ちゃん?」
少女はVサインを崩さないまま、大きく頷いた。
「今の全部、見てました」
「一部始終、見てたの?」
美香はまた大きく頷いた。 「やっぱりかっこいい、小恵さん。でも、どうして、あのおじさんがプー太郎じゃなくて社長って見抜いたんですか?」
「あれは、心理学の基礎中の基礎よ。」
「やっぱり小恵さんはすごいや」と美香は声にならない笑い声で顔をくしゃくしゃにして笑った。
「どうしてそれだけで社長ってわかったと思う?」
美香は首を傾げた。その仕草がまた小恵には可愛い仕草と映ったのか、小恵は声を出して笑った。
「ひどい、小恵さん。笑うと美香、帰っちゃうからね」
「ごめん。わたし、なつは苦手なんだ。だから、いてちょうだい」
「じゃあ、マックでハンバーガーおごってください。それで、許します」
小恵は気持ち良く頷いて歩きだした。その後から、美香が嬉しそうについて来るのを楽しみながら。小恵はマックに入ると美香に好きな物を注文させて、自分も席に座った。
「でも、美香ちゃんと会うのは久しぶりね」
「わたしが、なっちゃんの中に引っ込んでいる時いきなり引っ越すんだもの」
「ごめん。見送られるの嫌いなんだ。それに、あれはほとんど朝妃がした事だし」
美香はその時の感情を呼び起こしたのか、少し淋しそうな顔をした。
「今、まだひとり?」
美香は、何を勘違いしたのか顔を紅潮させた。
「まだ、高校2年ですよ」
小恵は美香の勘違いに、また大笑いをした。
「また笑うんですか?」
「そうじゃなくて・・・・」
小恵の表情に緊張の色が浮かんだことに、美香は意味を察したらしく、美香もまた真剣な面持ちになった。
「大丈夫です。なっちゃんの中にはわたしひとりだけです」
小恵は安心したのか、「そう」とひとこと言ってコーラを口に含んだ。
小恵が美香に初めて会ったのは、朝妃が中学校に上がった時だった。会ったというよりは、小恵が美香を造ったと言っても過言ではない。
朝妃が小学校を卒業する直前に、父善次郎がこの世を去った。その為、朝妃は小学校の卒業式には出席出来ずにいた。その遺言は正規に弁護士を通じて、善次郎の腹違いの弟の穂波丈次郎に宛てた手紙があっただけで、朝妃にはそれらしい物はなにひとつなかった。善次郎は生前から弟の丈次郎にかなりの信頼を寄せていたことは朝妃も小恵も他の人格達も知っていた。
善次郎は事あるごとに「丈次郎は欲がない。あんな純粋な奴はいない」と、口にしていたことは皆が聞いていた。
丈次郎に宛てた手紙の内容は「遺産をそっくり譲るが、条件として朝妃が高校を卒業するまで面倒を見てやって欲しい」という内容だった。
かくして穂波家に引き取られた朝妃が見たものは、研究家として医者として名を馳せた善次郎が、小さな家に住んでいたにもかかわらず、いちサラリーマンの丈次郎は案外豪華な造りの家に住んでいたその違和感だった。
丈次郎は善次郎に似ず、背が高く彫の深い顔の美男子だった。そのタイプは、さすがに腹違いというべきだろうか。朝妃がその家に入った時には、丈次郎とその妻の郷子がいただけだった。朝妃は初めての環境にどこかおどおどして、無口だった。平日の昼間にどうして丈次郎が家にいるのかを聞く勇気はその時の朝妃にはなかったし、自分の為に会社を休んだのだと朝妃は勝手に解釈をしていた。 その日の夕方、朝妃は学校から帰ってきたそこのひとり娘なつに引き合わされた。なつもまた異常ともいえる程におとなしい無口な少女だった。両親とさえなるべく目を合わせようとせずに、見るときは上目使いで見る。そんななつに、母郷子はイライラを隠せずに朝妃の前であっても叱咤をやめなかった。
丈次郎は、何も言わずにただソファに座って夕刊を読み耽っていた。
朝妃の部屋はなつと一緒の部屋になった。いくら大きな家とはいえ、二階部分はやはりそんなものだろうと、朝妃は思った。 夕食後、中学生になったばかりの朝妃は新品のセーラー服をベッドの枕元の壁に吊るしながら、なつに言葉をかけてみた。
「ごめんね。わたしが来て迷惑しちゃうかもね。なるべく勉強の邪魔にならないようにするから」
なつの方からは何も返答が無い。
その反応に朝妃は逃げ込んだ。
なつは、一心腐乱に爪で髪の毛の先を引っ張っている。時には長い毛がそのまま一本抜け、その毛の先をまた爪で引っ掻き始めてふたつに裂けた先から、一本の毛をきれいに2本に裂いていく。 「自分を裂いてるの?」
ふと、なつの背後から声がした。朝妃と同じ声だが、なぜか朝妃と違うものを感じたなつは思わず振り向いてその顔を見た。 小恵だった。が、その時のなつには、そんなことがわかる筈はない。
「髪の毛をふたつに裂くということは、別な自分に生まれ変わりたい。つまり、変身願望の象徴」
小恵の瞳をまじまじと見つめたなつは、そこに初めてみる暖かさを感じ取ったのだろうか。こんな長く人の目を見れたのは生まれて初めての経験かもしれなかった。
なつは、喉の奥から声を絞り出すようにゆっくりと小さな声で言葉を発した。
「・・・学校・・・嫌い」
なつはまた、目を伏せた。なつの行動が遅いようだ。夕方学校から帰って来たときから、今また俯くまでの行動すべてが小恵にはのろまに見えた。そして、髪の毛を抜く癖、何かを抑圧している。 「そう。嫌いなら行かなければいいじゃない」
小恵の誘導だった。
「・・・怒られる」
「誰に?」
「・・・」
小恵は話題を変えてみた。このままでは小恵自身が、なつを追い詰めてしまうことになる。そして、小恵はまだ思索中の試していないことを実践してみようと決心した。
「いつも何時頃に寝るの?」
なつが首を横に振るまでの間が、小恵には何分にも感じられた。 「・・・わからない。布団に入ってもなかなか眠れなくて・・・気が付いたら、いつの間にか寝ているの」
小恵はなつを、自分が座ったベッドの隣に誘導した。なつは、素直に横に座るが、その姿はどこか怯えているみたいにに足を引きずるように、ゆっくりな動作だった。おそらく学校でも、行動の遅いことをからかわれて、クラスメートに脅かされているのかもしれなかった。
小恵の手が、なつの小さな手を優しく包み込むように握った。 なんて冷たい手なのか。なつは、体がこんなに冷え込むまで心の芯が冷たく閉ざされているのだ。小恵は、なつの手の冷たさから逃げずに挑戦を続けた。
「夜眠れないという人には、何通りかの理由があるの。翌日が大好きな運動会だとワクワクして眠れない人がいるかと思えば、逆に早く明日になって欲しいという願いがあって、早く寝付ける人がいたり。また逆に、運動会が嫌いな人は、明日が来なければ良いって思うこともあるじゃない」
なつは頷かずに小恵の透き通った瞳をじっと、見つめた。否、頷けなかったのだ。あまりにも、自分に当てはまり過ぎてる話しだからだ。なつは、運動会でなくても毎日が明日を怖がっている。
明日が来るな。夜は起きていれば長い。朝が来なければ、誰にもからかわれなくても済むし、誰かに怒られないでも済む。そんな、心の奥底での願いが、なつの不眠症を誘っているのだ。小恵はそんな意味の内容を、なつに優しく説明した。
「夢ってよく見る?」
なつが頷いた。
「今朝の夢、覚えてる?」
なつがまた、ゆっくりと頷いた。
「今朝見た夢を思い出そうとすると、まるで夢に誘われているように眠くなることってあるでしょう」なつの目が一瞬、右上に向かった。今朝みた夢のイメージを追っているのだろう。そして、なつの口元が、小さな欠伸をした。
「そう、それで良いの。落ち着いて、リラックスして・・・」
なつがスーッと眠りに落ちていく。
ゆっくりと、なつの波長に合わせるように小恵は言葉を続けた。 「暖かいでしょう。そう、あなたの体は暖かな布団の中・・・もう誰もあなたを責めることはできない・・・」
翌朝、朝妃はダイニングで朝食をとっていた。その目の前では、丈次郎が朝刊を読んでいた。昨日の夕方に朝妃がこの家に来た時には、丈次郎は夕刊を読んでいた。まるで、昨日の続きを丈次郎は演じているように朝妃には見えた。
しかし朝妃は昨日、なつの部屋に入ってからの記憶が無い。3日後には新しい学校が控えている。行く先の不安を感ぜずにはいられなかった。
穂並家の朝食はパン食だった。トーストにモーニングコーヒーとスクランブルエッグにサラダ。朝妃が善次郎とふたりで暮らしている頃は、いつも朝妃が朝食を作っていた。和食嗜好の善次郎は、朝妃が作る味噌汁が大好きだった。
郷子が朝妃に「我が家の朝食はパンだけど」と言ったことに、朝妃はただ愛想笑いをして頷いただけだった。慣れねばならない。これが、朝妃がこの家に来て決心したことだから、我がままは言えなかった。
その郷子は、キッチンの洗い物をしていたが、どこか苛立っているように手元が荒っぽいような気がした。初めて見る光景なのだから、もしかすると毎日が、こうなのかもしれない。ただ、漠然とそんな気がしてならない朝妃だった。
「あなた、なつを起こして来て下さいよ」
言われた丈次郎は、ただ「うん」と頷いただけだった。郷子は郷子で、口の中で何かブツブツと呟いていた。
「・・・今、何時だと・・・あの娘は・・・誰に・・・」
動かない丈次郎に、郷子は苛立ちを隠さなかった。
「あなた、お願い!」
「あのー、私が起こしてきます」
「良いのよ。朝妃ちゃんは、朝ごはんを食べていて」
立ち上がりかけた朝妃は、また座るしかなかった。郷子には、どこか逆らえるところが無い。
「あなた、お願い」
ようやく、丈次郎が立ちあがった。
その時、二階から階段を駆け降りる音がした。
瞬間、丈次郎が顔を上げて階段を見、郷子も何事が起こったかのような顔で、階段の方を見た。
「おはよう!」
元気良く挨拶して降りてきたのは、なつだった。
郷子はまるで幽霊を見るような大きな目でなつを見た。また、丈次郎は元気の良いなつの挨拶に思わず腰を上げていた自分を恥ずかしいように視線が左右に流れた。朝妃の目にも、昨日までのなつの姿とはまるで違うものに映っていた。もしかして、なつは本来こういう女の子で、昨日の姿はたまたま落ち込んでいただけなのかもしれない。そう思い込もうと努力はしてみたものの、そうじゃないことはふたりの様子から伺い知れた。
「おなか空いた。ママ、あたしの分もトースト焼いて」
ママ?ママっていったい誰のことか。いつもなつは郷子を「お母さん」と呼んでいる。
それもこんな快活なものの言い方をするなつは、なつが生まれて此のかた見たことがなかった。
「もう・・・おなか空いたったら。いいよ、わたしがやるから」
なつは自分でパンを取り出そうと、食パンの袋に手を伸ばした。 「なつ・・・ちょっと・・・」
郷子が何かを言い淀んだ。
「あっ、そうか。まだ、顔も洗ってなかったか」
「なつ・・・」
「はいはい、手もね。ちゃんと洗いますよ」
その時、丈次郎がやっと座り直したばかりの椅子から立ち上がった。
「あなた・・・どこへ・・・」
郷子は不安そうに丈次郎に聞いた。
「会社に決まってるだろう」
丈次郎がこのわけのわからない状況から逃げたがっているのは、見る目に明かだった。今までと違う娘が今、キッチンで顔を洗い、手を洗っている。その姿は昨日までの娘とはまるで違う手際の良さだ。昨日までは、髪もろくに梳かさないような髪形が今日はきっちりとまとめあげられている。我が娘ながら、今までのなつは理解できなかった。
そして、今ここにいる娘も他の意味で理解に苦しむ姿を見せている。その後ろ姿は小学5年生のなつよりも、どこか大人びて見えたことに丈次郎は不気味に見えた。
なつの変貌は、なつの土日の休日が終わっても変わらなかった。だが、自分の部屋にいる時にのみ、元のなつに戻るということを朝妃だけが知っていた。なつは果たして演技をしているのか。わざと両親の前では明るく振る舞っているのか。常識的に考えればそういう理由が成り立つ。が、朝妃が部屋で見るなつと両親の前のなつは余りにもギャップがあり過ぎる。このギャップを埋める演技はかなりの精神的な無理が生じるだろう。演技ではなく何かがなつの身に起こったことに朝妃の直感が働いた。そう言えば、自分もなつと一緒の部屋にいる時の記憶が断続的だ。もしかすると、部屋でも快活ななつが存在するのかもしれないが、その姿の記憶が得たいの知れない何者かに剥がされている気がしてならなかった。
月曜日、登校中の生徒達が校門の中に流れる中を縫うように、なつも校庭を校舎に向かって歩いていた。その足はいつものゆっくりななつの足運びではない。普段のなつを知っているクラスメートは、不思議そうに顔を見合わせた。
なつは担任の女教師沢田の横を通り過ぎた。
「おはようございます!」
「おはよう」
一瞬、沢田はその生徒が誰かの区別がつかなかった。それが、なつだとわかった時は、なつはもう遥か先を歩いていた。
「ちょっと、穂波さん?」
なつが自分のクラスに入った時、それまで騒がしかったクラスメート達が一斉に静かになり、なつを見た。海藤という男子が妙な視線をなつに送る。
なつは自分の席に着こうとして椅子を引いて、初めてその視線の意味がわかった。椅子の上に糞便の玩具が置いてある。とたん、海藤がお囃子をたてるように言葉を発した。
「臭っせー、穂波のやつ椅子にウンコ垂れ流してるぜ。どうりで毎日臭せーと思った」
いつもならその言葉に煽られるように周囲も騒ぎ始め、なつも言葉を返せずに唇を噛むことすらできずに俯くだけだが、今日はクラス内が静まったままだ。その異様な光景に海藤自身が気づいた時、なつは机の上に仁王立ちになり海藤を見下ろしていた。その手には玩具の糞便が握られ、なつの不敵な微笑が海藤を捉えた。なつは、混乱する間も海藤に与えずに飛び降り、その玩具を海藤の口の中に詰め込んだ。周囲は凍りついた。
なぜだかわからないが、急激に強くなった、いじめられっ子穂波なつ。ひとりでもなつに同情を向けていた者がいたのなら、クラス全員が凍りつくことはなかっただろう。誰もがなつの仕返しを恐れた。
なつは、糞便を口に咥えた海藤を壁に押し付けながら朝妃の顔をした小恵に感謝した。
今自分は生きている。名前も小恵が付けてくれた。〃美香〃という名前だ。小恵は、なつがクラスメートから「臭い」と言われ続けていたことは知らない筈だが、〃美しく香る〃とは上手いネーミングだった。美香が自宅でなつに戻った時に、なつは美香としての自分を覚えていない。確実に多重人格が完成されている。小恵は、多重人格によくあるような凶暴な性格として美香を造っていない。多重人格の中に凶暴な人格が現れるのは、主に幼少時からの虐待が原因だった。その恨みのパワーが凶暴な人格を作り上げる。しかし、小恵は、虐待なくなつの中から美香という人格を引き出した。その為、凶暴な性格は美香の中には存在していないのだが、今暴れているのはなつとしてのケジメだった。もう二度とクラスメート全員がなつをいじめることはない。万が一またそんなことがあっても、美香が必ずなつとして仇を奪る。本来、美香はなつの中の一番しっかりとしている部分を引き出されたのだ。頭の回転が速い。今のこの行動はすべて計画通りで冷静な行動だった。
それからのなつは両親を含め、人前では明るい小学生になった。 なつの母親の郷子は、それが朝妃のお陰だと思っている。
「朝妃ちゃんが来てから、なつはすごく明るくなったわ。ありがとう」
郷子は事あるごとに、朝妃に感謝の言葉をかけた。それまでの郷子は、朝妃には冷たかった。いくら善次郎から遺産を譲り受けたとしても、やはり郷子には他人の子供だったのだ。やはり人間、お金じゃない。朝妃は自分がしたことでもないのだが、なつが変わったことによって郷子も変わったことに一応の満足を得ていた。丈次郎は最初戸惑いを見せていたが、その後の丈次郎の態度にはあまり変化は見られなかった。ただ彼が安堵していることは朝妃にもわかった。男親とはそんなものだろう、と善次郎を思い出しながら朝妃は遠くなりがちな思いでに耽っていた。
前田ユキは、心の中には悪魔が存在する。そう思った。
ここはユキが通う大学の心理学教室だった。各組に別れて、幾つかの円陣が出来ていた。
一人の女子生徒が、その円陣の中に入り込もうと必死になっているが、どのグループも決して仲間にいれてやろうとしない。 それでも女子生徒は円の中に突入を試みる。彼女は、泣き出しそうな顔になった。今度は、ユキのいるグループに向かって来た。 「お願い、入れて!」 と懇願する女子生徒の声に、ユキ達は無視した。ユキは、それでも心が痛まなかった。その心の片隅で、ユキは自分の中の悪魔と対峙していた。
ユキは、悪魔にこのまま負けても良いと思った。人を無視していじめるのは、気持ちが良い。今まで〃いい子〃で通ってきたユキには、初めての快感だった。
「ハイ、それでは交替します。次は、前田ユキ君」
ユキは、円陣から離れた。
これは、心理学の実習授業で「いじめといじめられ」を体験する学習だった。カウンセラーを目指すユキは、そういう実習には進んで参加した。
カウンセラーは、相談者の心理に共感を得ることが、技術として必要だ。しかし、その技術も理論理屈を越えた、自らの感情としての経験が必要になって来る。
ユキは、最初のグループに向かって歩き始めた。
各グループは、決していじめられ役を入れてはいけないことになっている。そんなことは、ユキもわかっていた。が、心のどこかに仲の良い同期生なら「きっと入れてくれる」という矛盾した気持ちがあることを、ユキは認めていた。
ユキは、仲の良い同期生のいる背後に立って言った。
「ねえ、入れて」
同期生は、全員ユキを振り向くこともせずに無視していた。 ユキは、輪の中に無理に入り込もうとした。しかし、誰もが肩を硬く寄せあって隙間を開けようとはしなかった。
無理やり押し込めた首だけが、同期生達と並ぶ。ユキはその眼で隣の同期生を、チラリと見た。
背筋が凍った。仲の良い同期生は、ユキを見ることもなく、唇が片方に笑っていた。
悪魔の顔だった。ユキの中にいた悪魔が、同期生に移った。 ユキは、愕然と後ずさりとしてその場に座り込んだ。体中から力が抜けた。
「どうした、他のグループに行かないのか?」
助教授の声が、ユキを促した。
ユキの目尻から涙が流れ、激しくしゃくり上げた。
それで、その実習は終わった。
涙が乾ききらないユキを、〃仲間はずれ〃にした同期生が慰めていた。
その光景を、助教授が真剣に見ていた。
前田ユキは、使える。
助教授は、以前からある男に頼まれていることを実施しようと心に決めた。
「前田君!」
助教授はユキを呼び、小声だが毅然とした態度で言った。
「研究所で手伝いをしてみないか?」