5.素直のメリット
甘いにおいが鼻先をくすぐった、それに誘われ無意識に鼻がピスピスと動く。
眠りが覚める直前のすこしけだるい感覚が体にまとわり付いていた。現実に引き戻されようとする体とまだ眠りを手放したくないという意識がひしめき合う。
私はもうちょっとだけ、と体を包むあたたかな温度に身を任せまどろんだ。
いましばらく、この心地よい感覚を堪能していたい。
その穏やかな眠りを、さえぎったのはよく通るハキハキとした声だった。
「猫、起きたか」
青年期に入る前の少年特有の少し高い声。
それに導かれるように瞳を開けると、目の前には銀髪の少年と平たい器に入った淡い乳白色の食べ物があった。あれ、なんかデジャヴ?
「ほら食え」
涼やかな声が頭上から落ちてきた。
少年はそう言うと、スープ皿を私が食べやすいように置きなおした。
……私が食べ物を盗むのを全力で阻止したくせに、いったいどういうつもりなのだろうか?
「にゃあ」と一鳴きして少年を見つめると、彼はわずかに眉をしかめる。
「勘違いするなよ、お前を飼ってやるわけじゃないからな」
ただ僕の所為でくたばられても気分が悪いからな。と、早口に告げると彼はもう一度私に食べるように促した。
信じて良いものだろうかと再び彼の顔を覗き見てみる。すると私をガン見していたらしい少年とばっちり目が合ってしまった。ただでさえ険しい少年の目つきは、限界まで眉間がよった事でさらに素晴らしく悪どいものになっている。
私は何事もなかった風を装い、視線を皿に戻した。
……やっべえ超みられてる!
まるで、やくざにガンを付けられた善良な一般人のような気分だ。
これ本当に食べて良いのだろうか、まさか罠とか、毒じゃないだろうな。皿を見てゴクリと唾を飲みこむ。
見た感じとてもおいしそうなんだが……。乳白色の食べ物から立ち上る、やわらかな湯気に運ばれた香りに限界にちかい私の食欲がこれでもかとくすぐられる。
そのすべてが『食べても良いのよ』と私を誘惑していた。
ええい! 女は度胸だ。
そう自分に気合いをいれると、おそる恐る皿へ舌をのばした。
舌先でチロリと乳白色のご飯をなめてみる。意外なほどに優しいミルクの味わいが、口の中でじんわりと広がってゆく。
ほのかな甘さが絶妙に食欲を掻き立てた。
なんだこれ、美味しい!
お粥に似たとろみの中で、つぶつぶとした麦のような触感が舌の上で弾ける。
優しい味わいが空腹をゆっくりと癒してゆく。
こうなると、さっきまでヤーサンそのものに感じれた少年が、天使のように見えるのだから現金な話である。
それからはもう、言葉どおり皿をも食べんばかりの勢いで食べることに夢中になった。
半分ぐらい私が皿の中身を食べすすめた頃だろうか、少年が私の頭上で小さく息を吐いた。
「なんだ元気そうじゃないか」そういいながら、私の近くにそろりと座り込む。
冷たくも聞こえる物言いだが、彼の言葉にはどこか安堵が滲み出ていた。
「さっさと食べて出ていけよ」
あいつらに見つからないうちにな
と、少年は脇に抱えた布の包みから質素な薄いパンを取り出して、隣でもそもそと食べ始める。
食事を一時中断して見上げると、それは拳ぐらいの大きさで、彼が腹一杯になるにはとてもじゃないが足りないだろう。
もしかするとこのお粥みたいなのは、少年のご飯だったのではないだろうか。
そう考えると、彼にちょっと悪い気がしたけれど、本を投げてきたのは少年なので慰謝料としてありがたく頂戴することにする。……まあ私の食いかけのご飯を返されても彼も困るだろう、うん。
え? さきにご飯を奪ったのは私だろうって?
……そ、そんなこと気にしたら負けだとおもうの。
――――その時だった。
静かな部屋に、少年のものとは違う声が響いたのは。
「おい、こんなところで何してんだ」
その声に、パンを机のうえに置くと少年が私を隠すように立ち上がる。
そうして感情の見えない声で短く応えた。
「……べつに、何か用?」
「なんだ、アルベルトじゃないか」
少年の声きいたとたん、侵入者はわかりやすく声色を変えた。
私にもはっきりと分かるほど、見下しの強いからかうよう嫌な喋り方になった。そしてふり返り後ろの方へ合図を送ると、ズカズカと部屋に入り込んでくる。
どことなく不穏な空気が、部屋に流れていた。
入ってきたのは少年――アルベルト少年より大柄の、これぞ悪ガキ大将といった少年と、子分らしき小太りの少年、美少女と見紛うほどの美少年といった三人組だった。
言いにくいので勝手だが、ボスとデブ、女男と言わせてもらおう。
それぞれニヤニヤ笑いを浮かべて、少年――アルベルトを見ている。
少年は口をかみしめ、三人組を睨み付けていた。
……彼も目つきは悪いのだが、ボスに比べると細っこく色白なせいでどこか迫力に欠ける。
「相変わらず湿気たツラしてやがんなァ、アル坊」
「こんなところで何してんだい?」
ボスとデブが笑いながら近づいてくる。
彼らより少し後ろにいた女男は、形の良い唇を面白そうに釣り上げアルベルトの背後に隠れる私を覗き込んだ。
「へえ、猫じゃないか」
ピュウッと誰かの口笛が部屋に響く。
さすがの私も空気を読んで食べるのを止め、居心地悪く彼らの視線を受けとめた。
「用事が無いならいますぐ去れ」
思いもよらず喧嘩腰に応えるアルベルトに、私はビビった。
おいやめろ少年、私まで巻き込まれたらどうしてくれる。
お前ひょろいから間違いなく返りうちに合うぞ。
ヒヤリと背筋に滝のように汗を流す私に気付くことなく、少年たちは物騒な会話を続ける。
「アルベルト、こんなところで猫に何をやってんだ」
「調理場からくすねたんだろう?」
「違う盗んでない、僕の夕飯だ」
「へえ? それをなぜ猫が食べてるのさ」
アルベルト少年が唇をギリリと噛み締める。
三人組の余裕な笑みは揺るがない。
「お腹がいっぱいでご飯が余った。余った食べ物はゴミになるんだ、それを猫にやったって僕の勝手だろう。それだけだ」
「ふうん」
ボスが楽しそうに鼻をならした。
子分たちも馬鹿にするような笑みを浮かべている。
そのことが、とても嫌な予感を煽った。
ボスが、机に置いてあった少年のパンを持ち上げた。ニヤリと笑う彼の、鋭い犬歯が唇から覗く。
「ならこれも、猫にやっても文句はねぇよな」
凶暴な笑みを張りつけ、彼はアルベルト少年のパンを床に叩き付けた。
アルベルト少年は顔色を変えなかった。
それに三人組のリーダらしきボスはつまらなそうに鼻を鳴らす。
「おい、行こうぜ。優等生のアルベルト坊っちゃんは俺たちみたいなのとは会話できねぇってよ」
出口へ向かって顎をしゃくり、出ていくボスに子分二人が続く。
彼からドアの向こうに消えてしばらくたつと、少年は落ちていたパンを拾い、埃を軽く手で掃った。
「……くだらないな」
ポツリと呟き少年はパンを机のうえに乗せた。
湯気の漂っていた粥は、もうすっかり冷めている。しばらく、部屋は静けさに包まれた。
少年も私も何も言わなかった。
けれども少年の手が白くなるまで握りしめられていることに気づき、そのこぶしをペロリと舐める。それしか出来なかったのだ。
そのとき、やっとアルベルト少年は私に気づいたようだった。
「 ……猫?」
彼は私を抱きあげると、糸が切れたようにずるずるとしゃがみこんだ。そして顔を私の背に埋もらせる。
小刻みに震える体にめんじて、私は大人しく彼の腕中に収まっていた。あんな場面の後に腕を押し退け暴れるほど、非道ではない。
彼の頬に涙はなかった。
泣いたら負けだとでもいうように、少年は唇をくいしばって僅かに血が滲んでいた。
泣かないことこそが、彼を守る最後の鎧なのだというように。
泣かないから、傷ついて無いわけではない。衝突に私は思った。
この少年は、泣けないのだ。
「……馬鹿馬鹿しい」
ポツリと、彼はつぶやいた。
それは、まるで彼自身に言い聞かせるようだった。