召しませ雪女
人を喰らうと言われる雪女。
けれど彼女が喰らうのは、人ではなく、心を縛る冬だった。
雪女と、一人の傷ついた男性が紡ぐ、冬の終わりの物語。
第一幕 寒冴えの邂逅
いつとも何処ともつかない寒く暗い雪山の、その裾野に広がる雪深く静かな森。
何処から来たのか何があったのかもわからぬ、身も心も傷つき疲れ果てた男。
何のために、どこに行くのかもわからぬその男、いままさに全てが尽きようとしていた。
もしかしたら、これを望んでここまでやってきたのかもしれないと思うほどに男の心は穏やかになりつつあった。
「ここまで来れた。だがここまでか……」
言葉とは裏腹に、志半ばといった後悔は見受けられない。
むしろ男にとってもここまで来れたことは予想外だったようだ。
「お前は死ににきたのか?」
透き通った躊躇いのない女の声が森のどこからか聞こえた。
「は、はは……最後に幻聴とはね」
残されたわずかな気力と体力で男は薄く笑みを浮かべる。
「おい、問いに答えろ」
「……な!?」
「おい、お前!」
「誰か……いるのか?」
「そんなことは聞いておらぬ」
(何かよくわからないが答えてみるか)
「違う。死にに来たのではない」
「ほう。なら、なぜ抗わぬ」
「なんのことだ?」
「お前、そのままでは死ぬぞ」
「ああ……そうだな」
「なぜ死に抗わぬ」
「どっちでもいいからね」
「お前の言ってることは意味がわからん」
「死んでも生きても、どっちでもいいからって意味」
「そんな理由でゴミを置いてゆくな」
「ゴミ?」
「そうだ、ゴミだ」
「俺がゴミだと?」
「他になにがある」
最後の時だと平坦な気持ちで目を閉じたまま受け答えをしていた男は、思ってもみなかった問いの連続にゆっくりと目を開ける。
――犬……?
「え!?」
目線の少し上、小さな犬が男を見ながら座っている。
「さっきから話しかけてるのはお前……か?」
犬は静かに座っているだけで、吠えも喋りもしない。
「ふざけたゴミだ。わたしが犬だと言うか」
明らかに目の前の犬からではない、森のどこからか声が聞こえた。
「はは、そりゃそうか」
すっかり血の気も失せ、笑みを浮かべることもできなくなった男。
「おかしくもないのに愛想笑いか、無様なゴミだな」
「なんせゴミだからな、俺は」
男は再び目を閉じる。
「もしも生きられればゴミにはなりたくないか?」
「死ななくても何も目的もない。生きていたってゴミと変わらないよ俺は……」
「やはりゴミのようなことしか言わないな」
(ゴミだゴミだとしつこいな)
「おい、お前」
(もういいだろ、ゴミなんだから放っておけよ)
「おい!」
(なんなんだ、最後ぐらい静かにしてくれ)
「お前の冬、わたしが食らってやろうか?」
「は?」
「お前の冬を喰らってやるからゴミを置いていくな」
(どういう……)
「お前の暗くて冷たい冬、わたしが喰らってやるから来た道を戻れ」
「戻って何をしろと」
「そんなことはお前が決めろ」
「だから生きる目的なんて無いと言ったろう」
「おいゴミ!」
先ほどまで最後を迎えるべく穏やかになりつつあった男の感情がにわかに動いた。
「さっきからなんだ!人のことをゴミ扱いして!」
「ゴミのようなことしか言わないのであれば当然だろう」
「どこがゴミだ?」
相変わらず血の気は失っているが、男の返す言葉の温度は少し上がってきていた。
「お前、この世に生まれ、物心がついたときには目的が用意されていたのか?」
「何が言いたい!」
「聞いているのはわたしだ」
(……ちっ)
「あのな、よほどの名家の子供とかでもない限り、目的なんて用意されているわけないだろう」
「ようやくまともな答えが返ってきたか」
(何様なんだこいつ)
男は徐々にイライラしてきたが、ここにきてそれを態度に出せるほどの体力はもう残っていなかった。
「お前、冬を食らってみたら案外いけそうだな」
「だからその、ふ……ゆ……」
言い返そうとしたが、いよいよ男の体力、そして気力も限界に到達していた。
そしてそのまま意識を失った。
――囲炉裏。
少し離れたとこに敷かれた布団で男は目を覚ました。
囲炉裏の揺れる炎の向こう、暖をとるには遠い壁際に一人の女……と一匹の犬。
男はゆっくりと起き上がり、部屋をぐるりと見渡し、再び女の方を見る。
女は何も言わずに熱い茶を男のもとへと運び、再びもとの場所へと戻っていった。
ゆっくりと一口、また一口と茶を啜る。
体の内側からじんわりと暖まるような感覚に、これが夢や幻ではないと確信する。
半分ほど飲んだところで、男は温まった息を吐く。
「落ち着きましたか?」
目の前にいる女が穏やかな表情と口調で話しかける。
「え、あ……ゴホッゴホッ」
「焦らなくていいですよ」
「いや、すいません」
「もう少し待てばよかったですね」
「大丈夫です!」
「ならよかった」
女は小さく笑みを返す。
「あ、あの……」
「はい、なんでしょう」
「ここは……いや、さっきの……いや、あなたは……」
男の問いにならない問いに一拍置いて女が少し声を張って言う。
「おいゴミ!ここはわたしの家だ!ここまで運ぶのは手間だったぞ!」
さきほどの穏やかで落ち着いた様子からは想像もできない女の一言に男は度肝を抜かれた。
それを見て女は口元を軽く隠しながら笑う。
「驚きましたか?」
なおも笑みを浮かべたまま女は問う。
「は、はい。それはもう」
「どうやら心は死んでいませんね」
「え?」
「話を続けても?」
女はまた穏やかな口調に戻り話始める。
「疑問があればあとで答えますので、まずは一通り聞いてください」
「はい」
「そうですね、ではまずなにから……」
女は少し考え、話したいことが整理できたのか再び話し始める。
「まずわたしは雪女です」
(え?)
「いわゆる妖怪や怪異と呼ばれている雪女です」
(は?)
「証明はいずれわかることなので省いて、まずは話を続けます」
「……はい」
「あなたが雪女というものについてどれほど知っているかはわかりませんが、先に言っておくとあなたを凍らせたり命を奪ったりはしません」
「昔話でよく語られてる内容ですね」
「はい」
空になった男の湯飲みに熱いお茶を再び注ぎ、女は話を続ける。
「子沢山にもなりませんよ」
クスッと雪女は笑う。
「そんなような展開の伝承もあったような覚えもあります」
「そうなんですよ、言われたい放題ですよね」
雪女は続けて笑う。
「少し脱線してしまいましたね」
「いえ、大丈夫です」
「では本題に」
「はい、お願いします」
「あなたの冬を喰らいたいと思います」
(俺の冬?)
「あなたの心を凍てつかせる冬を喰らいます」
(えっと……)
「わかるような、わからないような」
「そうでしょうね」
「え、ええ」
「簡潔に言いますね」
「お願いします」
「暗い気持ち、重苦しい思い、ありとあらゆる悪い感情は、留め過ぎれば胸の内で冬となります」
「象徴的な意味ですか?」
「わかりません。」
「でも、ご自分で冬って……」
「わからないのです」
「……というと?」
「それが“冬”であるとしか、わたしにはわからないのです」
(んー……?)
「ごめんなさい、話を続けます」
「あ、はい」
「その冬がまた、次の悪い感情を引き起こしたり増大させたりするのです」
男は雪女の話を頭の中で整理しながらも、話を邪魔しないように気遣いながら気になったことを尋ねる。
「その冬を喰らうとは?」
「そのままです」
「食べる……んですか?」
「そうです」
「えっと……こう」
茶碗を片手に、箸で食事をする真似事を男はして見せた。
「はい、そのようなことです」
「え!?」
「ときに煮たり焼いたり、蒸したりして」
「ええ!」
「冗談です」
またしても雪女は小さく笑う。
(なんか……かわいい)
「たびたび脱線してごめんなさい」
「ちょっと驚いてしまいました」
やられたなという感じで男も少し照れながら返す。
「なんというか、冬の喰らいかたについて説明のしようがなくって……」
「そうなんですね」
「わたしがあなたの冬を食らって、あなたが命を落としたり病になることはありません」
「そう……ですか」
「はい」
「では何が俺に起こるんですか?」
「起こるのではなく、無くなると言ったほうが良いかもしれません」
「無くなる?」
「悪い感情、負の感情といったものです」
「つまり、悪いことが起きるどころか、俺にとっては良いことだと?」
「どう捉えるのかはあなた次第ですが、負の感情をもしもあなたが悪いものとしているのならば、良いことだと言えるでしょうね」
「なるほど、わかりやすい」
「伝わったようでなによりです」
「で、では、命も無事だし病にもならないけど、記憶がなくなったりすごく痛かったり苦しかったり?」
「痛くも苦しくもありません」
「記憶は?」
「冬ができる原因となった記憶や思い出については消えてなくなるかもしれません」
「そうですか……」
「はい、なにせ冬が身の内にできる原因ですから」
「そりゃそうですよね」
「はい」
「その記憶には良い思い出も含まれているかもしれないけど、それも全て?」
「わたしには細かく喰らい分けることはできません」
「難しいんですね」
「雪の上に砂糖を散らして別々に分けるなど、あなたならできますか?」
「よくわかりました。その説明で十分です」
「納得が早くて助かります」
「ところでなんですが」
「なんでしょうか」
「あなたになんの得が?」
「得……ですか?」
「それが主食っていうことではないんですよね?」
「焼いたり煮たり蒸したりの話ですか?」
「いやいや!それは冗談だとわかりましたんで!」
互いに笑顔で話は進む。
「これもわたしには説明のしようがないのですが」
「はい、お願いします」
「そうすることになっているというか、そうしなければならないというか……」
説明している雪女自身も困惑した表情で話を続ける。
「とにかくそういうことで、何故とか誰かに命じられたとか、一切がわたしにはわかりません」
男も返事に少し困ったが、わからないことを聞くよりわかっていることを尋ねようと切り替える。
「話は戻りますがいいですか?」
「もちろんです」
「俺が、冬を食べてもらうことで記憶が無くなることを覚悟というか承諾したら、あなたに俺の中の冬を無くしてもらえると?」
「その解釈で間違いありません」
「ふむ」
大事なことなので熟考しなければとも思ったが、ほんの数刻前まで記憶はおろか、命を失うことすら厭わなかった自分を思い出し笑った。
「何をいまさら」
「どうかされましたか?」
「いや、自分の滑稽さに可笑しくなってしまっただけです」
「たぶんあなたが思った滑稽さは、誰しもが持っているものだと思います」
「ですかね」
「はい、そう思います」
「ならばその、月並みな滑稽さを恥じる必要もないし、ためらうことなんて俺にはないですね」
「どんなことをそう思ったのかはわかりませんが、あなたの心のことです。あなたがそう思ったのならそうなのでしょう」
押し付けがましくも無く、他人行儀すぎず、相変わらず穏やかで静かに雪女は返した。
男は少し悪戯な笑みを浮かべて言う。
「さて、焼きにします?それとも蒸し?」
その問いに口元を緩めて雪女が返す。
「では、せっかく鮮度が良さそうなので生でちょうだいします」
互いに笑顔のまま、それ以降は大した言葉も交わさずに、冬御膳喫食へと移っていく。
男の胸元に手をあて、しばらくすると胸の中より浮き上がるように出てきた煙のようなものを、雪女が顔を近づけ一気に吸い込んだ。
胸に当てた雪女の手は氷柱ほどに冷たかったが、冬が喰われていくと同時に胸の中がじんわりと温かくなっていくような気がした。
◇◇◇
第二幕 冬尽く
冬喰らいの一件から数日が経ち、以前のように日常を過ごす。
ただ以前と少し違っていたのは、日を追うごとに前向きに、そして笑うようになっている。
ひと月も過ぎた頃には、気力も体力も以前以上に健やかに保たれ、仕事にも普段の生活にも熱が入った。
ふた月を過ぎ、連休前の仕事の帰りにふと遠くの景色を眺めた。
夕日で赤く染まる山肌に、何故か雪女のことを思い出す。
実際の雪女は、肌は透き通るように白く冷たく、目に映る山肌とは似ても似つかない。
だが、笑って話している時の彼女の顔が、男にとっては紅潮して暖かなものに感じた。
勝手に脳内変換をした雪女と真っ赤に染まった山が重なって、いま再びあの時のことを強く思い出していた。
さらに、家屋の間から時折見える山に目をやりながら歩いていると、視界の隅に気になるものが入って足を止める。
雑貨屋――
掃除道具や収納用品、果ては調理道具などが色鮮やかに並んでいる。
気になったのは焼き網、それと蒸し器。
男の気持ちはこの時点で固まっていた。
先ほどの焼き網や蒸し器、他にも何点か購入し、さらに食料品も買い込み家路を急ぐ。
明朝は早く家を出る。
「急いで準備!準備!」
翌朝、日の出よりも少し早い時間。
遠くに見える山の輪郭が、ぼんやりと確認できる程度の明るさ。
男は雪女と出会った森へと急ぐ。
太陽が地平と頭上の中間、視線を斜め上にして見える位置に来た頃、男は雪女と出会った場所に着いた。
正確には、“出会ったであろう場所”に着いた。
「たしかこの辺だったような……」
雪女の家に行く前の記憶は定かでない。
雪女の家で冬喰らいのあとで意識を失い、気がつくと自宅だったために雪女の家の場所も記憶にない。
雪女に再び出会える可能性があるのは、朦朧とした意識で雪女と出会うまでに歩いてきたと思われる曖昧な風景や道筋の記憶。
声を張り上げて良いものかわからず、普段よりも少し大きな声で呼びかける。
「おーい」
(もう少し大丈夫かな)
「おーい!」
(もう少しだけ)
「おーーい!」
男が呼びかけたあと、ただただ静まり返った時間がすぎる。
むしろ静かすぎて、“シーン”という音が聞こえてきそうなほど静かだった。
木々は霜付き、山野に膝丈ほど積もった雪には、自分の足跡以外には何も無かった。
「ここではなかったのか」
なんと言っても山野の雪景色、どれも同じくどれも違って見える。
「おーーい!雪女殿ー!」
「おーーい!雪女様ー!」
「雪女さーん!」
「ゆきめちゃ……」
(いや、これはやめとこう)
――静寂。
太陽は来たときとは逆の方向に赤色を強めて傾いていた。
男は太陽を眺めるように仰向けになって、大の字になって積もった雪へと倒れ込む。
しばらく空を眺め、太陽に向かって叫ぶ。
「あーーーー!」
「死ぬーーー!」
「俺はここで死んでゴミになるのかー!」
「なんてことだー!」
叫び終わると再び静寂に包まれる――と、その時。
「おい、バカ」
森のどこからか、声を張った女の声が聞こえた。
男はニヤリと笑って手足をバタバタとしながらさらに叫ぶ。
「バカが死んでゴミになってしまうー!」
「それもこれも冬のせいだー!」
……。
気がつくと顔の横に犬が座っている。
男はさらにニヤリと笑い、犬に向かって言う。
「誰か俺の冬を何とかしてくれる者はいないのかー!?」
犬は首を傾げてジッと見ている。
男はなおも犬に向かって言う。
「冬を喰らえる者はいないの……」
男が言い終えるのを待たず。
「もういい加減にしてもらえませんか」
見えていた太陽を遮り、雪女が覗き込む。
太陽を背に、顔は暗いが見間違えるわけもない。
「久しぶり!」
男はもう、嬉しさを隠す気など微塵もなく満面の笑みで雪女との再会に歓喜した。
――囲炉裏。
再び雪女の家。
ここに来るまで周囲をキョロキョロと見渡し、道筋を覚えようとしていたら雪女にたしなめられたり。
それでも止めずに風景を目に焼き付けようと凝視していたら――
「記憶消しますよ」
などと怒られたりと色々あったが、それでも呆れつつ雪女は男を家へと招き入れてくれた。
湯飲みに熱いお茶を注ぎ、男の前へと置く。
それとほぼ同時に、持ってきた荷物を男は広げた。
焼き網。
蒸し器。
土鍋。
茶菓子。
用途不明の玩具。
――などなど。
「なんですか、それは」
「調理器具!」
「いや、それはわかるんですけど、そういう意味じゃなくて」
「これはそちらのお犬様?殿?ちゃん?に!」
用途不明の玩具は、どうやら犬用おもちゃらしい。
「あの……」
「なんですか?雪女……えー、さん?様?」
「敬称はなんでもいいんですけども、それらは何のためにお持ちになったんですか」
「調理するためです!」
「それはそうなんでしょうけど、そういうことではなくて」
「料理は嫌いですか?」
「そういうことでもなくて」
「なら俺がしましょうか?」
「それはありがとうございます。いや、そういうことではなくて」
「なにか足りませんでしたか?」
「何かというか、全てが要らないというか」
「もしかして、全てお持ちでしたか?」
「ええ、まあ一般的な調理道具などは一式……そうじゃなくて」
「ではなんなんです?」
なんと説明して良いのやら困り果てた様子の雪女。
「わたしは食事が不要なので調理道具や器具は必要ないのです」
「でも一式あるんですよね?」
「そうなんです。なぜか揃ってるんです。不思議ですよね。」
「気がついたら揃っていた。たしかに不思議ですね」
「だから、そうじゃなくて」
「なんです?」
「どうしてわたしの家で調理をしようと思ったんですか?」
「ここでご飯を、あなたと食べたいと思ったからです」
「わたし食べないんですが……」
「なら、あなたと話しながら俺がご飯を食べたいと思ったからです」
「わたしのことはさておき、清々しいほどに自分のやりたいことを言いましたね」
「はい!」
「なんでそんなに自信満々なんですか」
「わかりません!」
「あー……そうですか」
雪女は、呆れを通り越して諦めにも近い表情で静かにお茶を啜る。
「お茶は飲むんですね」
「飲食しなくても差し支えないですが、出来ないということではないので楽しみとしてお茶は飲みます」
「おお!なら食事もできるのでは?」
「たぶん可能だとは思いますが、いままでしたことはありません」
「なら、ちょうど良い機会ですね」
「なにがちょうどいいのかサッパリ理解できませんけど」
そんか冷めた様子の雪女の態度にも、一歩も退かず男は続ける。
「そんなこともあろうかと!」
……?
「なんと蒸し器の中には既に出来上がった軽食が!」
……。
「こちらには、鍋に入れて囲炉裏にかけるだけで熱々が飲めれる汁物が!」
……。
「そしてこれが!って、どうしたんですか、黙ってしまって」
「あの」
「はい」
「妖怪です」
「はい」
「怪異です」
「はい」
「人によっては畏怖の対象です」
「はい」
「しかも、出会った相手を凍死させると名高い」
「はあ?」
「一緒にご飯?」
「はい」
「なにを考えているんですか」
「なにって……あ」
「なんでしょうか」
「名前」
「名前?」
「ずっと“あなた”とか“雪女さん”って呼ぶのもどうなのかなって」
「ありません。というか知りません」
「生まれてこのかた?」
「それもわかりません」
「疑問に思わなかったんですか?」
「特に必要とは思いませんでしたので」
「なるほどー」
「あなたがわたしの質問に答えてくれないことのほうが、よほど疑問です」
「それは追々!」
「追々って…」
「そんな急がなくても」
「まだいるつもりですか?」
「まだ来たばかりですよ」
「ここ、あなたの実家じゃないんですから……」
「もし実家なら、次からも来やすいんですけどね」
「また来るつもりですか?」
「嫌ですか?」
「先ほどから私の問いに答えてくれないのに、倍ぐらい質問を返してくるのやめてください」
「対等じゃありませんでしたね」
「そういうことじゃなくて」
いっときこんな不毛で有意義な時間は過ぎ、空腹に耐えられなくなった男は食事を始める。
食事は断ったが、男からの強い勧めにより茶菓子はいただくことにした雪女。
擬似的にでも、一緒に食事をしているようだと納得して男は箸を進める。
「そ、そういえ、あ、落ちた、あの……」
「食べながら話さない」
「ふぁい、ふいまへんでひた」
「だから喋りながら食べない」
「ふぁかひまひた」
……。
自分が話しかける限り返答してくると理解した雪女は、しばし静かにお茶菓子を食べる。
「ちょっと休憩」
「食事中に休憩とる人って初めて聞きました」
「はい、俺も初めて休憩とりました」
……。
「ひあしのぶゆき」
「なんですか?」
「ひあし」
「はい」
「のぶゆき」
「はい」
「俺の名前」
「あー、何かと思いました」
「漢字で書くと日を書いて、脚を書いて……」
「教えてくれるのは嬉しいですが、わたしは文字が読めません」
「え、あ、そうなんですか」
「模様のようにしか見えないのです」
「あはは…なら、耳でだけで覚えておいてくださいよ」
「わかりました。なるべく覚えておきます。再び突飛なことがない限り」
「突飛?ああ、ちょっと変わった苗字ですもんね」
「それもですが、いきなり名乗ったことに対してです」
「唐突すぎました?」
「少し慣れてきた自分が恐ろしいです」
「素晴らしいことだと思います」
「ものすごく偏った高評価ありがとうございます。ところで。」
食事を再開するよう促して雪女が日脚に話しかける。
「はいといいえ、それか最小限の返事だけで構いません」
「はい?」
「ひあし……さんは、ご家族は?」
「いません」
「そうですか。それは寂しいですね」
「雪ちゃんは寂しいですか?」
「え?雪ちゃ……あー、えーと。寂しくないですよ」
「ご家族がいるんですか?」
「わかりません」
「そうですか」
「はい」
「なら、雪ちゃんと同じで俺も寂しくありません」
「そうですか。そういうものなんですね」
「はい!」
たぶん強がりなどではなく、本当に寂しくないのであろうことが日脚の様子から伝わったので、雪女は家族についての質問はしないことにした。
なにより家族のことはおろか、自分自身のことすらわからないのに、これ以上の質問は意味がないと判断した。
「仕事は?」
「頑張ってます」
「そういう意味じゃなかったんですけど、それで結構です」
「つぎどうぞ!」
「え?」
「遠慮なく聞いてください」
実のところ、一方的な質問攻めに遭っていたので閉口させてやろうという思いつき。
なので質問をそんなに考えてはおらず雪女は少し困った。
質問か話題をと考え、ふと思いついたことを口にする。
「そういえばあの時に森で……」
「はい?」
言いかけて雪女はすぐにやめた。
冬を喰らってせっかく今の状態になったのに、森で死にかけていた理由など聞こうものなら、新たな冬を宿しかねないと判断した。
「あの時に……なんですか?」
「えーっと……」
「あの時に森で?」
「あ、あの、用を足しにきてたとか?」
「命がけで?」
「そう、命がけで」
「そんなわけないですよね」
雪女流の冗談だと思って“ひあし”は手を叩いて笑った。
そんな最中、雪女の横に黙って座っている犬の背後の床の間。
そこに設けられた床脇棚に、たった一つだけ古びた木箱があることに気づいた。
「雪ちゃん」
「はい」
「あの箱ってなに?」
「箱?」
「その犬、えっと…名前は…」
「わたしもわかりません」
「そ、そうなんだ。とにかくその犬の後ろの棚に箱があるでしょ?」
「ああ、そういえばありますね」
「雪ちゃんのじゃないの?」
「さあ、わたしには全く覚えもありませんし、開けることはおろか触ったことすらありません」
「そうなんだ。気にならない?」
「まったくなりません」
「他に何も置いてないのに、あの箱だけポツンと……気になりません?」
「なりません」
「でもさ」
「なりません!」
「はあ、さようでございますか」
「はい」
食い下がって機嫌を悪くしてもと思い、話題をすかさず変える。
「それで話は戻るけど、犬の名前はわからないって、雪ちゃんが飼ってるんじゃないの?」
「一緒に住んでますが飼ってません」
「へえー」
「じゃあ迷い犬?」
「わかりません」
「えーっと……」
「とにかくわたし自身のことだけでなく、この家のこと、この犬のこと、何もかもがわからないのです」
「そうなんですね」
先ほどに続きしつこ過ぎて不快にさせたのかもしれないと思い、再びすぐに別の質問に変えることにした。
「冬のことなんだけど」
「はい」
「喰らった冬がどうなるのかも、たぶんわからないんですよね?」
「いえ、わかります」
「そうですかー、やっぱそれもわから……え?わかるんですか!?」
「はい」
予想外の返答に、思わず身を乗り出して驚く。
「それは聞いても構わない……ですか?」
「仔細ありません」
「では、喰らった冬はどうなります?」
「わたしの内に溜まっていきます」
「溜まり続ける……と?」
「ただ溜まり続けているだけで、特になにかあるというわけではないようです」
「では収容量の上限とか、他人の冬を喰らうことによって雪ちゃんに悪影響が出るとかも……」
「ありません」
「そうですか」
「はい」
「雪ちゃんが苦しんだり辛かったりしなくて良かった」
「良かったんですか?」
「そりゃそうでしょ」
「どうしてですか?」
「だって、命の恩人が苦しんでるのを見るのは嫌じゃないですか」
「そうなのですね」
「そうなのです!」
「では、命の恩人でなければ苦しんでいても構わないと?」
「んー、それはちょっと極論かな」
「そうですか?」
「博愛主義や犠牲愛とか、なんかそういう規模の話ではなく、俺は目の前にいるあなたに対して俺が思っていることを話しているだけなので」
「わかりました。たしかに話の規模感が違いましたね」
「いやいやいや!責めてるとかそういうことではないんですよ!」
「少し気に障ったのかと」
「違います違います!ただ俺はバカだから、そんな途方もない大規模なことなんて想像することすら出来ないってだけです」
「バカなんですか?」
「バカですよ」
「ゴミじゃなく?」
「んー、ゴミでもあるかも」
「そこまで本人がハッキリと断言したら、今後わたしはあな…“ひあし”さんのことをバカゴミ呼ばわりできなくなりますね」
ごく僅かに、口元を緩めて雪女は男を煽る。
「雪ちゃん」
「はい」
「意外と性格悪い?」
「そう感じました?」
「はい、感じちゃいました」
「なにせ人の悪い部分、冬を喰らっておりますから」
「そういうのを、冬を喰らっている悪影響って言うんじゃないですかね」
雪女は口元を隠しクスりと笑う。
「冗談ですけど」
(く……遊ばれた)
とはいえ、こんなやりとりさえも男にとってはとても楽しいものだった。
だが、そんな楽しいやりとりにも終幕の前触れとなる一言を雪女が発する。
「雪で明るく見えるとはいえ、そろそろ家に戻らないと危ないかと」
「あ……」
小窓から見える夜の帳に、ようやく日脚は気づく。
「そうですね……」
「意外です」
「え?なにがですか」
「“ひあし”さんなら、泊まっていくと駄々を捏ねそうと思っていたので」
悪戯に笑っているのが、囲炉裏の淡い炎に照らされわかる。
「いやいや、そんな妙齢の女性の家に泊まるなんて!」
「妙齢……ですか?」
「はい」
「妙齢とは?」
「年齢が若いっていうような意味だったと」
「年齢が若い女性ということですか?」
「そ、そうですそうです!」
「ではわたしがもしも若くなくて……」
「ちょっと待った待った!」
「どうしました?」
「何を言おうとしているのか分かってしまいました」
「あら、察しがいい」
「とにかく、うら若き未婚の美しくて可愛い女性の家に泊まるなんて以ての外だってことです」
……。
雪女は少し考え。
「ではわたしが美しくなく、可愛くもなくみこ……」
「あー、待って待って!」
「またですか。どうされました?」
「雪ちゃん、俺で遊んでません?」
「ませんよ」
「ほとにー?」
「本当です」
「少し腑に落ちないけど、そういうことにしておきます」
「そもそも長い歳月を過ごしている雪女の妙齢とは何なのでしょうか」
「言われてみれば」
「既婚の雪女とお会いしたことある人がいるのでしょうか」
「いや、それは……」
「自宅以外で就寝するだけの行為をそこまで忌避するとは思えないので、就寝すること以外に何かあるのでしょうか」
「いや、あの……」
「そう考えたとき、妙齢の女性の家にとま……」
「待った!雪ちゃん待った!」
「なんでしょう?」
「やっぱり俺で遊んでませんか?」
「そんなことありません。だってわたしは雪女ですよ」
「雪女は真面目な話しかしないみたいな前提で言わないでください」
「誤魔化されませんでしたか」
「誤魔化そうとしたんですね」
「さて、なんのことかわかりません」
そんなやりとりを繰り返している内に、夜はいっそう更けていた。
「では、本当にそろそろ失礼しようかな」
「促しておきながらお引き止めするような形になりました」
「とんでもない。本当に楽しかったです」
「楽しかった……そう、楽しかったんですね」
「雪ちゃんどうしました?」
「いえ、わたしも楽しかったんです」
「なんですかその言い方」
これもまた雪女流の冗談だと思い男は軽妙に笑う。
とその時、長いこと座りっぱなしだったせいか立ち上がった瞬間に男がよろめく。
倒れまいと慌てて足を踏み出そうとするが、そこには犬が逃げる様子もなく座っている。
なんとか犬を跨いで足を着くが、勢い余って床の間へと突っ込んでいく。
体を支えようと床脇棚に手をかけると、棚ごと外れて結局は床の間へと倒れ込んだ。
「あたたた」
「大丈夫ですか?」
「いやー、すいません、大丈夫です」
「お怪我などありませんか?」
「どうやら怪我は無さそうですが、棚が……」
「棚は時間をかけて直せば済むので、怪我が無いのが何よりです」
申し訳なさそうな表情を浮かべながら立ち上がる。
「これぐらいなら俺でも直せそうなんだが……」
崩れた棚を片付けながら、他を壊していないか確認すると、さきほどまで棚に置いてあった箱が足元に転がっていた。
拾い上げて壊れていないか見てみると、箱の表書きに消えかけの文字。
……。
その表書きの文字を見て、日脚が何かを思いついたかのように小さな声で言う。
「みお」
小さな声だったが、その声は雪女の耳に届いた。
「なにか言いましたか」
男は再び、先ほどよりも声を張って言う。
「みお!」
「何を言ってるのですか?」
「あれ、違うか……」
「何のことですか?」
「この箱にですね、“みお”と書かれているんですよ」
「みお……ですか」
「はい」
「どういう意味でしょうね」
「んー、これが雪ちゃんの名前なんじゃないかと思って呼んでみたんですけど」
「記憶にありませんね」
「そっかー、違ったかー」
「だと思います」
少しグラつくが、床脇棚は落下しそうな気配も無く元の位置に戻せたので、箱もまた同じ場所に戻す。
「雪ちゃん」
「まだなにか?」
「自分の名前が分からないのは寂しくない?」
「名前が分からないと寂しいものなのですか?」
「俺だったら寂しいと感じますね」
「そうですか」
「ほかの誰でもない、自分のことだーってわかるじゃないですか」
「呼んでいるのが誰のことかと迷うほどの場所に行ったことも、ここにも人はほとんどきません」
「そういう実務と言うか実用性というか……」
「それに、“雪女”と呼ばれるだけでだいたいことは済みますよ」
「うーん、そうなんでしょうけど」
「雪女友達とかいません。わたしが知る雪女はわたし一人です」
「雪ちゃん」
「はい」
「雪ちゃん、お茶は楽しみとして飲むじゃないですか?」
「そうですね」
「友達とお茶会というか、茶飲み話をしたりとかは?」
「今言った通り雪女の友達だけでなく、そういう知り合いは誰もいません」
「では、今までずっと?」
顎に軽く指を当て、遠い昔のことを思い出す。
「いましたよ」
「いました?」
「はい、数十年前か数百年前かは覚えていませんけど」
「いま……は?」
「いません」
何とも言えない複雑な感情、そしてまだ言葉にできるほど整理されていない言いたいことが日脚の中に溜まっていく。
もしかすると機嫌を悪くさせるかも、不快な思いをさせるかもしれないのを覚悟して日脚は雪女に尋ねる。
「雪ちゃんは、このままずっと雪女のままでいいの?」
「質問の意味がわかりません」
「あー、ごめん。なんて言ったらいいのか……」
……?
「このまま、仲良くなった人も誰もいなくなり、それでもずっと一人でいるのは辛く……いや、苦しく…えーっと、嫌じゃないの?」
「やはり質問の意図がわたしには見えません」
「なんて説明すればいいだろ、うーん」
「雪女に雪女のままでいいのかという愚問にしかわたしには思えませんが」
「そうじゃなく、雪女はやめられないだろうけど、ずっと誰かの苦しさを喰らい続けて、自分はたった一人で今後も過ごしていくことに何かを感じない?」
「何か……ですか」
「はい!」
「そう言われましても」
「みんなを救って、雪ちゃんには何が残るんです?」
「そうするものだと思っていますし、それを違えてもいけないという気持ちしかありません」
「うーーん」
イライラでもない、モヤつきでもない、納得するとかしないとかそういうものでもない、そんな感情が日脚の中に蓄積されていく。
「もうだいぶ夜も更けました。お帰りなさいな」
膠着したまま解決しそうにない雰囲気に、日脚に帰るように促す。
「雪ちゃん!」
「まだなにか」
「雪ちゃん!」
「なぜ泣いておられるのです?」
日脚にも理由は分からない。
わからないが消化しきれない感情が涙となって累々と溢れ出てくる。
気遣いや配慮といった思慮の枠を超え、感情が言葉になって涙とともに溢れ出す。
「雪ちゃんが人の苦しみを喰らって、溜めて、一人でずっと、昔から今まで、何もわからないし、名前もわからないし!」
「ひあしさん、ちょっと落ち着いてください。どうしてしまったんですか」
もう日脚本人にも、自分が何を言っているのか、何を伝えたいのか、伝えてどうしたいのかなんてわからなくなっていた。
それでも日脚の言葉は止まらない。
「雪ちゃんは誰が救ってくれるの?」
「ちょっとひあしさん」
「雪ちゃんはどうやったら笑えるの?」
「ひあしさん!」
「雪ちゃんが今日よりもっともっと笑うところを俺は見たいよ!」
「ひあしさんってば!」
「雪女のままだっていいよ」
「ひあしさ……」
「ずっと見ていられなくてもいいよ」
……。
「俺が終わるまで、そのあとまた一人にしちゃうかもしれないけど……」
……。
「でも見たいよ。見ていたいよ」
「ひあしさん……」
「冬を喰らい続けなきゃいけないかもしれない」
……。
「けど冬を喰らったあとには、お疲れ様って美味しいもの食べたり綺麗なもの見たり」
…………。
「大したことなんて何にもできないけどさー!」
…………。
「雪ちゃんがさ、笑ってさー」
気の利いた言葉も、異論も反論も慰めの言葉すら雪女には思いつかなかった。
それでも一言だけ――
「ありがとう。ひあしさん」
その言葉に、涙で滲んだ目で雪女を日脚は見つめる。
「ありがとうね」
日脚は涙を手で拭い、驚きの眼で雪女を見つめる。
――涙。
それは紛れもない、雪女の目からつたう涙。
きらきらと涙から雪の結晶のようなものが宙を舞う。
いまの雪女の顔は日脚の目からは、仕事帰りに見た夕日に焼けた山肌のように紅潮して見えた。
「ありがとう」
雪女が何回も繰り返しその言葉を口にするたび、拭っても拭っても止まることなく日脚の目からは涙が溢れた。
しばらく二人は見つめ合ったまま言葉なく互いに微笑み合っていた。
程なくして二人同時に視界の中に何かを感じる。
二人の間、足元にはいつの間にか犬が座っていた。
「驚かしてしまったかな」
「さあ、どうでしょう」
二人は再び顔を合わせて笑う。
そして犬に話しかける。
「おー、ごめんなー、びっくりしたよなー」
「そんな風には見えませんけど」
「あれ?箱」
「ひあしさんが棚の上に戻したのに」
座っている犬の前足の先、棚に戻したはずの箱があった。
「お前が持ってきたのか?」
「あそこを登ってですか?」
日脚は違和感を感じ箱を拾い上げると、箱の表書きの字がうねうねと変化し始めた。
◇◇◇
第三幕 未徠への投光
箱の表書きの字がうねって変化し、刹那の瞬間に漢字一文字が見えた。
変化していることはわかるが、やはり雪女には読めない。
しかし日脚には、一瞬見えた一文字だけの漢字に見覚えと字の成り立ちや由来について、偶然か必然かはわからないが知識があった。
ただ、この不思議な現象とそのことが結びつくのか確信がなかったので、とりあえず口にするのはやめた。
「また元に戻ったように見えますね」
「戻りましたね」
「なんだったのでしょうか?」
「俺にもわかりません」
「そうですか」
「わかりませんが、もしかしたら……」
「なにか心当たりでも?」
「心当たりというか、そういう意味であってほしいというか……」
……?
整理が追いつかないまま、再び犬に話しかけようとする。
先ほどまで足元に座っていた犬がこちらに背を向け、戸口のほうを向いて座っていた。
「おーい、何してるんだー」
「外へ行きたいのかしら」
「おーい、こっちへ……」
その時――
《ゆきとけて ひかりをいだき みおとさく》
「な!?」
「えっ?」
どこからともなく、声が聞こえた。
耳から聞こえたような、頭の中に響いてくるような不思議な声。
驚いてる二人の方に犬が向きを変える。
「お前……か?」
『違う。』
「いや、いま喋ってる!」
『いま、天上の御声により赦しは降りた。』
「天上?天上ってまさか……」
『ひあしのぶゆき。』
「さっきの声はもしかして」
『お前は気づいたんだな。』
「な、なにが……」
いままで喋るどころか吠えも鳴きもしなかった犬が流暢に話すなど、雪女は初めての経験に驚きすぎて言葉も出ない。
『ひあし、どうしたい。』
「どうって……」
『もう決まっているのだろう?』
「そ、それは……」
『お前の名をよこせ。』
「名!?」
『一部でよい。』
「一部って……あ」
日脚は何かに気づいた。
『その者の冬を終わらせ、雪を溶かしたいのであろう?』
「つまり、ということは!」
『その者の贖罪はとうの昔に終わっておった。』
「贖罪?」
『だが、誰もその者の冬を終わらせようとするものが今まで現れなかった。』
「贖罪って、彼女は一体何を……」
『それを尋ねるか。なにゆえに。いまさら意味などなかろう。』
「終わってるんですよね。贖罪とやらは」
『終わっている。』
「なら、聞いても仕方ないですね」
犬の言いたいことをなんとなく察した日脚はあっけらかんと返す。
「名前、頭から尻尾まで、好きなところを持っていってください」
『未練はないか?』
「ここで成すべきを成さないほうが未練になります」
強気に笑ってみせる。
雪女はというと、状況も犬と日脚の会話の意味もわからず、ずっと呆気にとられている。
『では問え!』
「はい?」
『お前の気持ちだけではダメだ。』
「ああ……」
『さあ、その者に問え!』
「そうですね、そうします!」
『問うて答えを得たならば呼べ!』
「呼ぶ、そうか、呼ぶか……」
『我はテル。天上より使わされし見届け導く者。』
「テル……さん、様」
日脚は全てを理解し、テルに一礼をして雪女のほうを向く。
「ゆ……みおちゃん!」
「え?みお?えっ?」
「あなたの名は“みお”だ!」
「え、いや、名前なんて……」
「俺は自分の名の一部をあなたの名前に捧げる」
「な、なにを!?」
「だからどうか、あなたは俺に笑顔を捧げてほしい」
「え、あ……」
いままで静かで穏やかだった雪女の姿はそこにはなく、完全に混乱状態に陥っていた。
「どういうことなんでしょうか?」
「みおちゃん!」
「え、わたし」
「みおちゃん!」
「え、あ、はい!」
「俺と一緒に笑って過ごしてくれないか!」
「な、ど、どういう」
さすがに勢いだけで詰めすぎたと、日脚は大きく深呼吸をして、落ち着いた声で雪女に問いかける。
「この前も、今日も、一緒に過ごしていて嫌だった?」
「そんなことは…」
「じゃあ楽しかった?」
「たぶん」
「なら、これからもずっとそんな日が続くといいな、続けたいと感じなかった?」
「わからない」
「俺のことは嫌い?虫酸が走る?」
「考えたことも感じたこともないです」
日脚はテルを見てコクっと頷き、そして最後の問い、最後の行動に出る。
「みおちゃん」
「え、はい」
日脚は雪女を抱きしめ、なおも問う。
「離してほしい?」
「わからない」
「このままでもいい?」
「わからない」
「明日もこうしていい?」
「わからない」
「みおちゃん」
……。
「みおちゃん、返事してみて」
……。
「みお……」
「……はい」
「うん、そう。あなたはみおだ」
『これ以上はもう無用。』
ここまでを見届け、もう頃合いと言わんばかりに雪女にテルが問う。
『良いのだな。』
……。
『これからはその者と共にありて生を全うする。』
「はい」
『もう一度問う。迷いはないな。』
「迷いはこのかたの名前の一部と共に溶けてどこかへ行ってしまいました」
『相分かった!』
テルの体毛が光を帯び、やがて体の周囲とも光りだす。
◇◇◇
終幕 雪溶けて照る
テルから発した光が、やがてテルをも包み込むようにいっそう輝く。
それと同時にテルの輪郭も光へと溶けるように薄くなっていく。
『もうここに用はないはずだ。』
「はい、ありません」
みおはしっかりとした返事をし、日脚は傍らで頷く。
テルの光は、二人を導くように戸口の外へと伸びている。
『この光より出ないよう、二人でしっかり歩いてゆけ。』
「はい!
息が合った二人の返事は、まるで長年連れ添った夫婦鶴のよう。
手を取りゆっくりと、着実に照る道を進んでいく二人。
その手には温もりが満ち、みおの頬にも赤みが差して夕日に焼けた山肌以上に美しさをたたえていた。
戸口を通り抜けると雪景色は一変して、一面を覆う花畑となっていた。
二人はもう振り返ることはなかったが、雪女の家は跡形もなく消え失せ、一つの木箱だけが花に埋もれるようにあった。
その木箱の表書きは、二人も気づかない内に再び変わっていた。
手を取り花畑を歩いていく二人――
「おー、すごく綺麗だね」
「そうですね」
「ですいらない」
「いらない?」
「うん。そうですねの“です”いらないよ」
「そうか」
「いや、その場合は“です”欲しいかも」
一瞬目を丸くして、次の瞬間。
「わがまま」
と笑って返す。
そんなやり取りをしながら歩いていると、日脚は足元の花を一輪取って、みおの髪に挿した。
「ありがとう……って、こら!」
よりによって、みおの頭頂部のど真ん中に花が咲いてるように挿したのだった。
日脚は軽く駆け足で逃げる。
みおも目を細め、頬骨をふっくらとさせながら満面の笑みで追いかける。
「伸ー!待てー!」
「ごめん美桜!許してー!」
二人の笑い声が花畑一面に響いて花々を揺らす。
柔らかで優しい光は
二人を見守るように照る。
雪女やテルについて、多くは語りませんでした。
読み終えたあと、皆さんの中にある答えが、この物語の正解です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
最後に一句。
雪解けて 光を抱き 美緒と咲く




