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人生単位の劇薬と毒

作者:
掲載日:2026/05/16

ある一人の小説家の話。


彼は小説家になりたかった。


つまり、

小説で生計を立てられる人間になりたかった。


彼は沢山の文字を綴った。


何万文字も、

何十万文字も。


朝に書き、

夜に書き、

眠れない日に書き、

何もしたくない日にも書いた。


ノートに。

パソコンに。

スマホのメモに。


思いついた言葉を、

物語を、

感情を、

ただひたすらに書き続けた。


だが彼は、

出版社への持ち込みにも行かなかった。


新人賞にも応募しない。


インターネットへ投稿することもない。


誰にも見せない。


ただ、

自分で書いて、

自分で読んで、

自分で確認するだけだった。


それは、

自分には才能があるのだと、

そう信じたかったからだ。


自分には、

面白い小説を書ける力がある。


そう思っていたかった。


ではなぜ、

誰にも見せないのか。


怖かったからだ。


もし誰かに読まれて、


「つまらない」


「才能がない」


「売れない」


そう言われたら。


自分が今まで信じていたものが、

全部崩れてしまう気がした。


自分は特別なんかじゃなく、

ただ妄想を殴り書きしていただけの、

空っぽの人間なのだと、

証明されてしまう気がした。


それが、

どうしようもなく恐ろしかった。


だから彼は、

自分自身だけを読者にした。


彼の世界は、

肯定だけで出来ていた。


否定は生まれない。


生まれようがない。


誰にも見せていないのだから。


それはとても静かで、

とても安心できる世界だった。


楽だった。


傷つかなくて済むから。


だから彼は、

その小さな世界に閉じこもり続けた。


彼は小説を書いていた。


だが同時に、

小説を書くことで、

現実から逃げていた。


投稿しなければ、

失敗しない。


見せなければ、

否定されない。


誰にも読まれなければ、

自分の才能は、

まだ死んでいないことにできた。


彼はずっと、

可能性の中に閉じこもっていた。


ある夜。


書き終えた小説を前に、

彼はふと画面を見る。


投稿サイトの、

作品投稿ページ。


何度も開いて、

何度も閉じた場所。


指先が震える。


心臓がうるさい。


たった一つ、

投稿ボタンを押すだけ。


それだけなのに、

まるで崖から飛び降りるみたいな、

彼はそういう心だった、


もし誰にも読まれなかったら?


もし酷評されたら?


もし才能なんて無かったら?


考える。


考えて。


考えた。


それでも彼は、

ゆっくりとボタンを押した。


投稿完了。


画面には、

たったそれだけが表示される。


何も起きない。


世界は変わらない。


誰にも見られるわけでもなく、

評価されることもない。


それでも彼の中で、

何かが少しだけ変わった。


何かを変えるのに必要だったのは、

才能でも、

実力でもない。


ほんの少しの勇気だった。

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