人生単位の劇薬と毒
ある一人の小説家の話。
彼は小説家になりたかった。
つまり、
小説で生計を立てられる人間になりたかった。
彼は沢山の文字を綴った。
何万文字も、
何十万文字も。
朝に書き、
夜に書き、
眠れない日に書き、
何もしたくない日にも書いた。
ノートに。
パソコンに。
スマホのメモに。
思いついた言葉を、
物語を、
感情を、
ただひたすらに書き続けた。
だが彼は、
出版社への持ち込みにも行かなかった。
新人賞にも応募しない。
インターネットへ投稿することもない。
誰にも見せない。
ただ、
自分で書いて、
自分で読んで、
自分で確認するだけだった。
それは、
自分には才能があるのだと、
そう信じたかったからだ。
自分には、
面白い小説を書ける力がある。
そう思っていたかった。
ではなぜ、
誰にも見せないのか。
怖かったからだ。
もし誰かに読まれて、
「つまらない」
「才能がない」
「売れない」
そう言われたら。
自分が今まで信じていたものが、
全部崩れてしまう気がした。
自分は特別なんかじゃなく、
ただ妄想を殴り書きしていただけの、
空っぽの人間なのだと、
証明されてしまう気がした。
それが、
どうしようもなく恐ろしかった。
だから彼は、
自分自身だけを読者にした。
彼の世界は、
肯定だけで出来ていた。
否定は生まれない。
生まれようがない。
誰にも見せていないのだから。
それはとても静かで、
とても安心できる世界だった。
楽だった。
傷つかなくて済むから。
だから彼は、
その小さな世界に閉じこもり続けた。
彼は小説を書いていた。
だが同時に、
小説を書くことで、
現実から逃げていた。
投稿しなければ、
失敗しない。
見せなければ、
否定されない。
誰にも読まれなければ、
自分の才能は、
まだ死んでいないことにできた。
彼はずっと、
可能性の中に閉じこもっていた。
ある夜。
書き終えた小説を前に、
彼はふと画面を見る。
投稿サイトの、
作品投稿ページ。
何度も開いて、
何度も閉じた場所。
指先が震える。
心臓がうるさい。
たった一つ、
投稿ボタンを押すだけ。
それだけなのに、
まるで崖から飛び降りるみたいな、
彼はそういう心だった、
もし誰にも読まれなかったら?
もし酷評されたら?
もし才能なんて無かったら?
考える。
考えて。
考えた。
それでも彼は、
ゆっくりとボタンを押した。
投稿完了。
画面には、
たったそれだけが表示される。
何も起きない。
世界は変わらない。
誰にも見られるわけでもなく、
評価されることもない。
それでも彼の中で、
何かが少しだけ変わった。
何かを変えるのに必要だったのは、
才能でも、
実力でもない。
ほんの少しの勇気だった。




