冷徹管理会計士は老舗洋菓子メーカーを救う 〜夢を見る寄生虫役員は、数字で処刑します〜
相良詩織。二十八歳。
職業、管理会計士。
主な業務は、死に体の企業にメスを入れ、腐敗した患部を摘出すること。
感情?
そんなものは、貸借対照表には記載されない。
「……現在時刻、深夜。残業時間は労働基準法の上限を既に超過。未払い残業代の累積額は、もはや笑えない桁に達している」
乾いた打鍵音が、深夜のオフィスに響く。
老舗洋菓子メーカー『華月堂』。
創業百年超。贈答用高級ゼリーで一世を風靡したこの会社は今、倒産の危機に瀕していた。
原因は明白だ。
数字を見れば、死因など一秒で判別できる。
「相良さん、まだ残ってるの?」
甘ったるい声が、背後から鼓膜を揺らした。
香水の匂い。
食品メーカーのオフィスにあるまじき、強烈なローズの香り。
振り返る必要はない。
足音のリズムと香水の成分だけで、対象は特定済みだ。
二階堂美香。二十五歳。
現社長の姪であり、新設された『未来創造企画室』の室長。
そして、この会社を食い荒らす寄生虫。
「……お疲れ様です、二階堂室長。何か?」
私は視線をモニターから外さず、最低限の音素で応対する。
美香は私のデスクに、華美な装飾が施された企画書を放り投げた。
「これぇ、工場の桐島さんが『無理だ』って言うのよぉ。ひどくない? 私、みんなの笑顔のために頑張って考えたのにぃ」
企画書の表紙には、『愛と奇跡のレインボージュレ ~天使の涙を添えて~』という、正気を疑うタイトルが踊っている。
ページをめくる。
原価計算シートが存在しない。
あるのは、「ふわっとした食感」「きらきら感を出す」という擬音語と、インスタ映えしそうなイメージ画像だけ。
「……工場のラインは、現在クリスマス商戦向けの主力商品『琥珀』の製造で稼働率は限界値です。新規ラインの増設には、数週間のリードタイムと、莫大な初期投資が必要です」
私は脳内のデータベースから即座に概算を引き出し、提示する。
「えー、そんなのわかんない! 気合でなんとかなるでしょ? うちは老舗なんだから、職人さんの底力見せてよって感じ?」
気合。底力。
最も嫌悪すべき単語だ。
物理法則と経済合理性を無視したその言葉の下で、どれだけの現場人間が血を吐いてきたか。
「物理法則は、気合では曲がりません」
「相良さんってさぁ、ホントつまんない人だよね。数字ばっかりで、夢がないっていうか」
美香はふんと鼻を鳴らし、ヒールの音を高く響かせて去っていった。
夢。
彼女の言う「夢」とは、他人の労働力を搾取して得られる、自分だけの称賛のことだ。
私は溜息を殺し、再びキーボードに指を走らせる。
怒りはない。
ただ、処理すべき「不良債権」のリストに、彼女の名前を太字で刻み込んだだけだ。
***
翌日。
私はヘルメットを被り、製造工場のライン脇に立っていた。
熱気。
砂糖の焦げる匂い。
ベルトコンベアの駆動音。
ここは戦場だ。
一分一秒の遅れが、数百万の損失に直結する最前線。
「……邪魔だ。会計士がこんな油まみれの場所で何の用だ」
低い声。
桐島湊。三十二歳。工場長。
無精髭に、油の染みた作業着。
目つきは鋭く、まるで親の仇を見るような目で私を睨んでいる。
だが、その目は死んでいない。
稼働し続けるラインの微細な異常音を聞き分ける、プロフェッショナルの目だ。
「現場の数値を視察に来ました。管理会計上の原価差異が、先月から大幅に悪化しています。その原因究明です」
「原因ならわかってるだろう。あの馬鹿げた『レインボージュレ』の試作だ」
桐島は吐き捨てるように言った。
彼は手元の端末を操作しながら、ラインの流れを微調整している。
その手際は、ピアニストのように繊細で、外科医のように正確だ。
「企画室からの割り込み試作指示により、段取り替えが頻発。主力ラインの停止時間は長時間に及びます。機会損失額は……800万円です」
私が事実を告げると、桐島の手がピタリと止まった。
「……800万円、だと?」
「はい。さらに廃棄ロスを含めれば、被害は甚大です。これは、工場のボーナス原資を大きく削り取る規模に相当します」
桐島が、ギリと奥歯を噛みしめる音が聞こえた。
彼は現場を守ろうとしている。
部下たちの生活を、会社の伝統を。
だが、論理的な武器を持たず、ただ「現場の苦労」という感情論で戦おうとしているから、経営陣には届かない。
「桐島工場長。私はあなたの敵ではありません」
私はタブレットを取り出し、彼に見せる。
そこには、私が昨晩徹夜で構築したシミュレーションが表示されていた。
「工場の稼働データを解析しました。美香室長の無茶なオーダーを、最小限のロスで捌くための最適化プランです。Cラインの温度設定を下げ、混合工程のシーケンスを並列化すれば……空き時間が捻出できます」
桐島は食い入るように画面を見つめた。
数秒の沈黙。
彼の瞳孔が開く。プロが、解を見つけた顔だ。
「……これなら、いける。だが、粘度調整の工程がボトルネックになるぞ」
「そこは、添加物の配合比率を微調整することで流動性を確保できます。品質基準内です」
「……あんた、会計士だろ? なんで配合比率までわかる」
「過去十年分の製造日報と、品質管理データをすべて読み込みましたから」
当然だ。
現場を知らない人間に、数字を語る資格はない。
数字とは、現場の汗と血が凝縮された結果なのだから。
桐島は、初めて私の顔をまともに見た。
値踏みするような視線が、やがて「信頼」の色に変わる。
「……わかった。やってみる。背中は任せていいんだな?」
「計算上、リスクは許容範囲内です。存分に」
言葉はいらない。
共有すべきは感情ではなく、目的と手段の最適解のみ。
彼が現場を回し、私が数字で援護する。
それだけで十分だ。
***
一週間後。
Xデーが訪れた。
クリスマス商戦に向けた、全社プレゼン大会。
役員たちがずらりと並ぶ大会議室。
美香は、勝った気でいた。
彼女の背後には、きらびやかなプロジェクター資料と、外部のパティシエに作らせた試作品が並んでいる。
「見てくださいぃ! この輝き! これこそが華月堂の未来ですぅ! 現場の皆さんも、私の熱意に動かされて、徹夜で作ってくれたんですよぉ!」
美香が涙ぐむ演技をする。
役員たちが「おお」「さすが社長の姪御さんだ」と感心した声を上げる。
嘘だ。
その試作品は、彼女が私費で雇った有名パティシエの作品。
工場のラインで量産できる仕様ではない。
現場の人間は、彼女の無茶振りに対応するため、徹夜などではなく、極限のシフト調整でなんとか主力商品を生産していたのだ。
「では、製造コストについてですがぁ……」
美香が言葉を濁す。
彼女の手元には、まともな原価計算書がない。
「コストについては、私が説明します」
私は席を立ち、無機質な声で告げた。
会議室の空気が凍る。
美香が「えっ、ちょっ……」と慌てるが、無視だ。
私は自分のPCをプロジェクターに接続する。
画面に映し出されたのは、冷酷なまでの「現実」だ。
「現在提案されている『レインボージュレ』の量産化における試算です。美香室長の指定する原材料を使用した場合、原価率は八十五%。損益分岐点に達するには、非現実的な個数を完売させる必要があります」
「は、八十五%!?」
経理担当役員が悲鳴を上げる。
食品業界の常識ではあり得ない数字だ。
「さらに、この形状を再現するための専用金型の導入に数千万円。償却期間を考慮すると、初年度の赤字は四千万円に達します」
「う、嘘よ! そんなの計算間違いだわ! 相良さん、私を陥れようとしてるんでしょ!?」
美香が金切り声を上げる。
顔は真っ赤だ。
論理で勝てない人間が最後に行き着く場所。
それが「被害者ムーブ」だ。
「計算間違いではありません。すべて、御社が契約しているサプライヤーの見積もりと、工場の稼働データに基づいています」
私は淡々と次のスライドを表示する。
「対して、こちらが現場の桐島工場長と共同で策定した、主力商品『琥珀』の改良案です」
画面が切り替わる。
地味だが、堅実な数字が並ぶ。
「既存ラインを流用しつつ、配合比率の最適化により原価率を低減。さらに、パッケージデザインの刷新により、ターゲット層を二十代まで拡大。予測利益は、前期を大幅に上回ります」
役員たちの目の色が変わる。
夢物語よりも、確実な現金。
それが経営者の本能だ。
「で、でもぉ! そんなの地味じゃない! 映えないわよ!」
美香が食い下がる。
往生際が悪い。
「映え、ですか。では、こちらをご覧ください」
私は最後の一撃を用意していた。
監査レポートだ。
「これは、未来創造企画室の経費使用履歴です」
画面に羅列される項目。
『市場調査費』名目での高級ホテル宿泊。
『資料代』としてのブランドバッグ購入。
『接待交際費』としてのホストクラブ利用。
「これらの支出と業務との関連性を証明する領収書および報告書は、一切提出されていません。これは、会社法における特別背任の疑いがあります」
「な……ッ!?」
美香の顔から血の気が引いていく。
役員たちがざわめき立つ。
社長である叔父も、さすがに顔を青くして俯いている。
「また、先ほどの試作品ですが、外部のパティシエへの発注メールも確保しております。『とにかく見た目だけ良くして。味はどうせわからないから』……これは、創業百年超の暖簾に対する冒涜ではありませんか?」
決定打。
老舗において、「味への裏切り」は大罪だ。
役員たちの視線が、称賛から軽蔑へと一瞬で反転する。
「ち、違うの……私はただ……」
「言い訳は、監査役会でどうぞ。数値データはすべて保全済みです」
私はプロジェクターの接続を切った。
画面が暗転する。
美香はその場に崩れ落ちた。
涙を流しているが、計算高い彼女のことだ、これも演技かもしれない。
だが、もう誰も彼女を見ようとはしない。
数字は嘘をつかない。
そして、寄生虫には、支払うべき対価が必ず回ってくる。
それが、この世界のルールだ。
***
会議終了後。
私は屋上の喫煙スペースにいた。
煙草は吸わない。
ただ、空調の効いたオフィスでは感じられない、自然の風を浴びたかっただけだ。
「……えげつないな、あんた」
背後から声。
桐島だ。
彼は缶コーヒーを二つ持っている。
「事実を陳列しただけです。私の業務範囲内ですから」
「まあな。おかげで助かった。現場の連中も、これでやっと枕を高くして眠れる」
桐島は隣に来て、缶コーヒーの一つを私に差し出した。
微糖。
私がいつも飲んでいる銘柄だ。
「……観察眼が鋭いですね」
「現場の人間は、細かい変化に敏感なんだよ」
受け取る。
指先が触れた瞬間、ほんのりと温かい温度が伝わってくる。
それは、データには表れない「熱」だ。
「今回の『琥珀』の改良案、あれはあんたのシミュレーションがなきゃ通らなかった。……礼を言う」
「礼には及びません。あなたの実務能力があったからこそ、成立したプランです。私一人では、机上の空論で終わっていました」
これは謙遜ではない。
事実だ。
私の計算式を、現実の製品に変換したのは彼だ。
その泥臭い手腕を、私は評価している。
桐島は、ふっと短く笑った。
無愛想な男の、珍しい笑顔。
悪くない。
「また、頼めるか? うちはまだ、問題だらけだ」
「契約期間が続く限りは。……ただし、残業代はきっちり請求させていただきます」
「ああ、払ってやるよ。俺の稼ぎでなんとかなる範囲ならな」
「計算しておきます」
甘い言葉はない。
視線が絡み合うこともない。
私たちは並んで、眼下に広がる街を見下ろした。
無数の光が灯っている。
あの光の一つ一つに、経済活動があり、労働があり、そして生活がある。
それを守るのが、プロフェッショナルの仕事だ。
冷たい風が吹く。
けれど、隣にある体温と、手の中のコーヒーの温かさだけで、今の私には十分だった。
「さて、戻りますか。二四期の予算策定がまだ終わっていません」
「鬼か、あんたは」
「プロです」
私は空になった缶をゴミ箱に捨て、踵を返す。
振り返ることはしない。
足音が二つ、規則正しいリズムで並んで響く。
それが、私たちの最適解だ。
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