SCENE19
ドサッ。
大石の手から漫画が滑り落ち、床に重い音を立てる。
部屋の空気が凍りつく。雨音だけが響く。
大石「……え?」
大石、冗談を言われているのかと思い、引きつった笑みを浮かべる。
大石「なんやそれ、おもろないで。俺やん。大石や。……隣の席の、陽向やんか」
大石が一歩近づく。
しかし、湊は困ったように眉を下げ、申し訳なさそうに微笑む。
湊「すみません、私の知り合いに、そんな名前の方がいましたでしょうか……? 最近、物忘れがひどくて」
「私の知り合いに」。
その他人行儀な敬語が、鋭利な刃物となって大石の胸を貫く。
「記憶係」として全てを覚えておくと誓ったのに、湊の世界から「大石陽向」という存在そのものが、データごと消去されてしまった瞬間。
大石「…………嘘やろ」
大石の目から光が消える。
湊は、ただ純粋に、目の前の「親切そうな他人」に微笑みかけている。
その笑顔が、かつて自分に向けられていたものと同じだからこそ、大石には耐え難い。
大石「俺……お前の親友やぞ……」
湊「……親友? 私に?」
(嬉しそうに)
「そうですか。私に親友がいたんですね。……どんな人でしたか?」
湊の無邪気な問いかけ。
大石は答えられず、唇を噛み締め、踵を返す。
これ以上ここにいたら、自分が壊れてしまう。
病室を飛び出す大石。
廊下に、彼の走る足音だけが遠ざかっていく。
ザァァァァァァ……!
バケツをひっくり返したような豪雨。アスファルトを叩く雨音が、鼓膜を圧迫する。
病院の自動ドアが開き、大石が飛び出してくる。
傘もさしていない。制服は瞬く間に濡れ鼠になる。
大石は走る。
病院から逃げるように。
さっき聞いた「初めまして」という残酷な言葉から逃げるように。
大石「はぁ……はぁ……っ!」
足がもつれ、水たまりに派手に転ぶ。
泥水が顔にかかる。
しかし、大石は痛みを感じない。ただ、胸の奥が冷たくえぐり取られたような感覚だけがある。
大石「……なんでやねん……」
立ち上がり、再び走る。
向かう先は自宅ではない。
本能が、あの場所――「記憶」が保存されている場所――を求めていた。




