最終話:世界は回っている
リーベラの朝は静かだった。
潮の匂いが薄く、木の桟橋は陽に温められている。
波は規則正しく、昨日と同じ顔で返ってきた。
だが町は、毎日が違う、同じ日はない。
コミックガーデンの前には、小さな黒板が立っていた。
『本日:紙芝居/午後:録画実験/夕刻:読み書き算術』
字は拙いが、消し跡が多い。誰かが考えて、書き直した跡だ。
ダイキチはそれを見て、鼻で笑った。
自分で書いたわけじゃないのに、妙に腹の奥が軽い。
彼の手には缶。
相変わらず、気の抜けた歩き方。
ただ、目だけは起きていた。
「ダイキチ父さーん!」
呼ばれて振り向くと、リクが走ってきた。
背は伸び、声も少し低い。けれど走り方だけは昔のまま、無駄が多い。
リクはガンドの息子で、サラの息子だ。
ダイキチの家の子じゃない。
それでもこの町の“うちの子”みたいに育っている。
「今日さ、紙芝居の読み手やる。俺、練習した」
「へえ」
「すげーだろ」
「まあな」
雑な返事でも、リクは勝手に満足して笑った。
そういうところは、父親に似ている。
――ガンドは、少し先で子供たちを並べていた。
忍びに憧れる子は多い。
次代の忍者達は真剣なまなざしだ。
「腰が高い! 膝を折れ!」
「頭を動かさずに走るのだ!」
少し離れた所では、剣の稽古をしている子供たちがいた。
「師匠、これでいい!?」
「違う! だが悪くない!」
“師匠”と呼ばれているのはミリアだ。
ミリアはダイキチの妻で、剣を振れる。
戦うための剣だが、今は守るために、教えるために振っている。
そのミリアの足に、娘がまとわりついていた。
「ししょー! 見て! 木剣、回せた!」
「マリン、周り見て。回すなら距離」
「はーい!」
マリンはダイキチとシーナの娘だ。
元気が余っている。余りすぎている。
ミリアに怒られては笑い、笑ってはまた怒られる。
たぶん、それが楽しい。
その横で、男の子が本を抱えて座っていた。
紙芝居の絵を、じっと見ている。読みたくて仕方がない顔だ。
「ソラ、また歩き読みしてたでしょ」
「してない。座って読んでる」
声は冷たいが、目は柔らかい。
言ったのはシーナだった。
シーナはダイキチのもう一人の妻だ。
合理主義で、情が深い。厄介なほどに。
ソラはダイキチとミリアの息子で、本が好きだ。
そしてシーナを、ずっと「先生」と呼ぶ。
「先生、これ、こっちの字のほうがきれい」
「どれ。……ああ。線が迷ってない。考えた跡が残ってる」
「じゃあ、間違えてもいいの?」
「いい。考えた跡があれば、後で直せる」
その会話を聞いて、ダイキチは缶を鳴らした。
昔なら、そういう“まっすぐな教育”は面倒だと思った。
今は、面倒だと口では言えるのに、足は止まって見てしまう。
コミックガーデンの奥では、知識層の連中が何かを組んでいた。
木枠、布、レンズっぽいガラス、魔術の小回路。
人間を写し取るための箱――カメラもどきだ。
「動いた!」
「いや、動いたのは布だ!」
「でも、影の輪郭が残ってるぞ!」
失敗に近い成功。
成功に近い失敗。
それでも皆、顔が明るい。
ダイキチは思う。
地球から本物を持ってきたほうが、百倍早い。
けれど――それをやらないと決めた。
必要なのは“答え”じゃない。
この世界が、自分で答えを作れるようになることだ。
彼が持ち込むのは、せいぜい「資料」だけだった。
忍者の古い記録。
舞台演出の図。
紙の種類と保存法。
時々、妻たちのための化粧品や服、旅行の土産。
それ以上は、しない。
この世界の文化は、この世界の人間が作る。
作る速度は遅い。寄り道も多い。回り道だらけだ。
でも――その遅さは、ちゃんと未来に繋がる遅さだった。
昼前、紙芝居が始まった。
板の向こうで手が動き、絵が入れ替わるだけ。音も光も派手じゃない。
けれど子供たちは前のめりで、息を止めて、次の一枚を待った。
読み手はリクだ。
台詞を噛む、早口になる、登場人物の声色が全部同じだ。
それでも、最後の場面で、リクは一度だけ間を取った。
「――ここで、決めたんだ。
逃げない、って」
その一言が、妙に綺麗に響いた。
ソラが本を抱えたまま、こくりと頷く。
マリンはじっとしていられず、でも途中で口を挟まなかった。
終わった瞬間、拍手が起きる。
誰が教えたわけでもないのに、ちゃんと“終わり”を受け取れる手が揃った。
「どうだった?」
リクがサラの方を見る。
サラは笑って、親指を立てる。
「噛んだとこ以外、最高」
「そこも褒めろよ!」
「次、もっと良くなるでしょ」
「……うん」
その会話だけで、リクの背中が少し伸びた。
隣でガンドが腕を組み、低い声でぼそっと言う。
「読み手は、間で決まる」
「急に職人みたいなこと言うな」
「職人だからな」
荒い口調のくせに、結局は誇らしげだ。
サラはガンドの横腹を肘で小突き、ガンドはわずかに顔をしかめた。
夫婦のやり方も、だいぶ戻ってきた。
午後、録画実験の現場では、盛大に失敗した。
箱の中で光が暴れ、布が焦げ、知識層の一人が泣きそうになっている。
「温度管理、してなかったの?」
シーナが無慈悲に言う。
「してたつもりで……」
「“つもり”は禁止。事故の第一歩」
そう言いながら、シーナは手を動かす。
焦げた布を外し、回路を描き直し、魔力の流れを整える。
怒っているのに、助けるのが早い。
ソラが箱の横でメモを取っていた。
字が小さい。真面目すぎる。
「先生、これ、次は熱が逃げる道が必要?」
「そう。逃げ道がないと、必ず燃える」
「逃げ道……」
「世界も、同じ」
シーナが言ってから、自分で少しだけ顔をしかめた。
説教臭いのは嫌いらしい。
でもソラは嬉しそうに頷いた。
夕刻、訓練場ではマリンが泣いていた。
木剣を振り回して、勢い余って転んだだけなのに、大事件みたいに泣く。
「痛いのは、成長だ」
ミリアが言う。
「痛いのきらい!」
「じゃあ、上手くなれ」
「むり!」
「無理じゃない。……ほら、立て」
ミリアが手を差し出す。
マリンは鼻をすすりながら掴んで立ち上がる。
その瞬間だけ、泣き顔が誇らしげになる。
ダイキチは一歩離れた場所で、それを見ていた。
口を出せば、何かは早くなる。
だが、早くしたら“彼らのもの”じゃなくなる。
自分がやれることは、少ない。
やってしまえることは、多い。
だから、選ぶ。
夜、妻たちが並んで座っていた。
ミリアが湯上がりの髪を拭き、シーナが帳簿を閉じる。
それだけの光景なのに、ダイキチは少しだけ目を細めた。
「……なに」
シーナが気づく。
「いや。家っぽいなって」
「今さら?」
「今さらだよ」
ミリアが笑う。
その笑い方は、戦場のものじゃない。
「ダイキチ。明日、また地球行くの?」
「行かねえ。今週は行かねえ」
「化粧品は?」
「資料と一緒に、来週な」
「資料が優先なのね」
「面倒が減るからな」
シーナが鼻で笑う。
ミリアも肩をすくめる。
「でも、資料だけ持ってきて、あとはこっちで作らせるの、好きだよ」
「好きって言うな。照れるだろ」
「照れてる?」
「照れてない」
そのやり取りの端で、ソラが眠そうに本を抱え、マリンが木剣を抱えて寝落ちしていた。
ダイキチはその二人を見て、「ちっこいな」と笑う。
守りきれないものがある。
こぼれるものもある。
それでも、こぼれた分だけ、誰かが拾うようになった。
ダイキチは、昔みたいに世界を変えようとは思わない。
大きい正義も、救済も、嫌いだ。
ただこの町で、何かを作りたいと思うやつが、好きに作れるなら、それでいい。
彼は缶を一口飲んで、誰に言うでもなく呟いた。
「世界は回ってる」
少し間を置いて、もう一度。
「……たのしいよな?」
返事はない。
波だけが、いつも通りに音を返す。
明日も誰かが失敗して、誰かが笑って、また何かが始まる。
その回り方が、地球より遅くて、ずっと人間くさい。




