第43話:剣を振る理由
私が生まれた土地は、森と草原の境目にあった。
朝は霧が薄く流れ、昼は風がまっすぐ吹き、夜は星が近い。
父は郷士で、剣を持つ家だった。
けれど、暮らしは武名より畑と税で回っている。
兄たちは畑を手伝い、母は帳面を守り、私は末っ子として甘やかされて育った。
剣は、私にとって「家のもの」だった。
父が壁に掛け、兄が磨き、祭りの日だけ抜かれる。
それが、私の手に落ちてきたのは、たぶん偶然だ。
ある日、兄が庭で素振りをしていた。剣先が陽にきらりと光って、私は思わず見とれた。
その視線に気づいた兄が、笑って木剣を放って寄こした。
受け止めた瞬間、腕が痺れるほど重かったのに、不思議と嫌じゃなかった。
「振ってみるか?」
「うん!」
最初の一振りは、情けないほど遅かったと思う。兄が笑い、私は悔しくて泣きそうになった。
でも、泣かなかった。泣かないと決めた。悔しいからこそ、もう一回振った。
父は反対した。
「女が剣を持つと、面倒が増える」
父らしい言い方だった。優しくて、現実的で、だからこそ腹が立った。
母は困った顔で私の頭を撫でた。兄たちは何も言わず、木剣を増やした。
私は、勝手に上手くなっていった。
畑仕事の合間に素振りをする。井戸の往復で足を鍛える。薪割りで腰を作る。
剣が上手くなるほど、村の中で私の居場所は増えた。
護身のためだと言うと褒められる。
祭りの演武を頼まれると、誇らしかった。
でも、剣が「家のもの」だった頃と違って、
私の剣は「私のもの」になった。
それが嬉しくて、怖かった。
私は冒険者になりたかった。
理由は立派じゃない、村の外を見たかった。
知らない景色を、自分の足で踏みたかった。
昔、旅商人が語った大都市の話。
海の向こうの香辛料。
空を飛ぶ魔獣。
そういう嘘みたいな話を、嘘だと笑えないくらい、私は本気で信じた。
父に言った時、父は溜息をついた。
「面倒を拾いに行くのか」
「拾うんじゃない。選ぶの」
私はそう言ってしまった。今思えば、可愛げがない。
その夜、母がこっそり私の荷袋に布を入れてくれた。
擦り切れた手拭いと、干し肉と、小さな銀貨。
兄は木剣を一本、黙って差し出した。
父は最後まで何も言わなかった。
言わなかったけれど、朝、門の前に立っていた。
見送りだ、許可じゃない。
でも、拒絶でもない。
「名前は捨てるな」
父が言ったのは、それだけだった。
私は頷いた。
……そのくせ、私はその後、何度も名前を隠すことになる。
ギルドの町は、臭かった。
人が多く、汗と酒と獣の匂いが混ざる。
それでも、私は胸が躍った。ここには「外」が詰まっている。
知らない言葉、知らない靴、知らない剣。
受付の女が、淡々と札を渡してきた。
「ミリア。登録ね。階級は……最初はEから」
「はい」
名を呼ばれた瞬間、私は自分の足が地面に刺さった気がした。
村では末っ子、郷士の娘。
ここでは、冒険者ミリア。
同じ名前でも、違う生き物になった。
最初の依頼は、草刈りと荷運びだった。
魔物退治は、思っていたより遠い。
でも、私は嫌じゃなかった。
剣は抜かなくても、足は動く。
汗をかけば腹が減る。
腹が減れば飯がうまい。
剣を抜く日は、ちゃんと来る。
そう信じられるだけで、毎日が少しずつ明るかった。
やがて、私は仲間を得た。
固定のパーティーではない。ギルドが斡旋する、その日限りの寄せ集め。
経験者に混じって、臨時の穴埋めで呼ばれることが多かった。若い女の剣士は扱いやすい、と言われた。
悔しい。でも、仕事があるなら振るうしかない。
私がBまで上がれたのは、運と、根性と、あと少しの才能だ。
何より、私は「死なない」ことに固執していた。
勝つことより、帰ること。
英雄より、生存。
そういう冒険者は地味で、だけどしぶとい。
しぶとさは、たまに評価される。
護衛依頼が来たのは、春の終わりだった。
商隊が山道を抜ける。
荷は布と金属。
目的地は港町。
報酬は良い、だが期限も厳しい。
私の役割は前衛。
道が狭いところで先頭を切る。
悪くない。そう思った。
メンバーは五人。
私と、古参の槍使い。魔法使いの女、弓の男。
あと、口数の少ない剣士。
ギルドの斡旋だ。
顔合わせは酒場。
握手と乾杯と、軽い冗談。
その剣士だけが、目を合わせなかった。
気になった。
気になったが、仕事だから流した。
流した……その「流した」が、後で何百回も頭を殴ってくる。
初日は順調だった。
道は乾いて、馬の足取りも軽い。
二日目の昼、谷の細道で、矢が飛んだ。
待ち伏せ。盗賊だ。
人数は十を超えていた。
山肌の上で逃げ道は少ない。
商人たちは叫び、馬が暴れ、荷が傾く。
「前へ!道を開ける!」
槍使いが怒鳴った。
私は反射で前に出る、剣を抜く。
息が冷える、視界が狭くなる。
戦いは、訓練よりずっと汚い。
石が滑る、血が熱い、叫びが近い。
弓の男が矢で牽制し、魔法使いが光を投げた。
私は盗賊の一人を斬り倒し、二人目を押し返した。
……ここまでは、想定内だった。
想定外は、背中の味方から来た。
誰かが、私の腕を掴んだ。引いた。
剣がぶれる。刃が空を切る。盗賊の棍棒が、私の脇腹を殴った。
息が潰れ、膝が落ちる。
掴んだ腕を見た。口数の少ない剣士。
目が合った。冷たい。迷いがない。
その瞬間、理解した。こいつは最初から、こっち側じゃない。
槍使いが叫んだ。魔法使いが悲鳴を上げた。
商隊の馬が、何かに驚いて暴走した。
弓の男が追う……追った先で、背中に刃が入った。
盗賊は、動きが良すぎた。
山の地形を知りすぎていた。
隊列の弱いところを、最初から狙っていた。
罠だ。
護衛依頼そのものが、餌だった。
私は必死に立ち上がった。血の味がした。息が浅い。
槍使いが、私の前に立った。背中が大きい。父の背中みたいだ、と一瞬思った。
その背中が、矢で跳ねた。槍が落ちる。膝が砕ける音がした。
「逃げろ、ミリア……!」
その声が最後だった。
逃げる?
どこへ?
道は狭い。
荷は散っている。
商人が泣いている。
私は、逃げる代わりに、剣を振った。
開けた場所へ押し戻す、誰かを逃がす。
剣は、私の「選んだ人生」のはずだった。
だから、ここで折れたら、私が私じゃなくなる。
結果として、生き残ったのは私と、商人の一部だけだった。
盗賊は荷を奪い、仲間を連れて消えた。
裏切り者も、消えた。
残ったのは、死体と、損失と、責任だけ。
港町に着いた時、商人は泣きながらギルドに訴えた。
ギルドは困った顔をして、帳面を開いた。
そして、淡々と告げた。
「損失分の賠償責任は、護衛側にある。契約にそう書いてある」
「裏切り者が……!」
「斡旋はしたが、保証はしていない。個人の素性までは知らない」
言葉が、頭に入らなかった。
私は、剣で戦った。
逃げずに守った、死にかけて、生き残った。
それでも、契約は契約だった。
生き残った商人の視線が痛かった。
責めているのか、頼っているのか、分からない。
分からないのに、私はその目から逃げられなかった。
ギルドは最後に、さらりと言った。「支払いが難しいなら、方法はある。保証人を立てるか、資産を差し出すか……」
私は、家名を言わなかった。
父の顔が浮かんだ。あの背中。あの一言。
名前は捨てるな、と言ったのに。私は、名前を守るために、家を呼べなかった。
剣を握る手が、震えた。
剣はまだ重い、技もある、戦える。
でも今、この場で必要なのは剣じゃない。
銀貨だ。帳面だ。印だ。
私の「選んだ人生」は、紙の上で折れ始めた。
その日、ギルドの壁は、村の森よりずっと高く見えた。
私は、ただ息をしていた。生き残ったのに、呼吸の仕方だけが
分からなかった。




