第40話:ダイキチ、ヤバいことに気が付く
リーベラの朝は、相変わらず潮の匂いがした。
港の板張りは陽に温まり、遠くで船大工が木槌を打つ。波は何事もなかった顔で寄せては返り、昨日の重さを「知らん」と言わんばかりに光っている。
コミックガーデンの一角――以前は倉庫だった建物の中に、小さな机が並びはじめた。
椅子は高さが合わないから、木箱をひっくり返して代わりにする。
黒板なんて洒落たものはない。壁に板を打ちつけ、炭で字を書くだけだ。それでも、集まる者は毎日増えた。
「リク、今日も来たのか」
「うん!」
リクは返事をして、すぐ席に座った。
鉛筆はまだ握り方がぎこちない。けれど、紙の上を走る線には迷いが減っている。
昨日までは丸だらけだった文字が、今日は少し角を持つ。たったそれだけなのに、本人の顔は誇らしげだった。
「これは……『海』って書くんだっけ」
「そうだ。三本の線をそろえるんだ。ほら、考えた跡が残ってるだろ」
「ほんと?」
「ああ。間違えてもいいんだ。考えた跡が残ってれば、後でどこが間違いかわかる」
教えているのは、教師ではない。
元兵士、元商人、それにコミックガーデンと一緒に来た知識層。読み書きに慣れた者が、慣れていない者の横に座る。
教える側も完璧じゃない。だから、よく止まって考える。止まるたびに、周りがのぞき込んで、笑ったり首をひねったりする。
「おい、計算ってのは、数を殴り合いさせるんじゃねえぞ」
「殴り合いの方が分かりやすいって!」
「分かりやすいけど、最後が痛い」
そんなやり取りが、いつの間にか場を明るくしていた。
外では、ガンドが訓練用の杭を立てていた。
忍者としての稽古――と言うより、最近は“見せるため”の稽古だ。
飛び、転がり、止まり、また飛ぶ。音が立たない。影だけが動く。
けれど、リクがこちらを見ている時だけ、ガンドの動きはほんの少し大げさになる。
刃の代わりに木刀を振り、最後に「決め」の姿勢で止まる。
周囲の子供が「おおーっ!」と声を上げると、ガンドは照れ隠しみたいに咳払いをして、背筋だけは崩さない。
「父上、今のすごい!」
「……うむ。まあ、拙者にしては」
「またやって!」
「鍛錬は、回数を重ねるほど上手くなる。欲張りはよいが、順番がある」
「順番!」
リクが笑う。
その笑い方を見て、近くで水を運んでいたサラの肩が、ほんの少しだけ下がった。
目の下の影は消えていない。だが、ふとした瞬間に口元がほどける。
それを見たガンドが、気づかないふりをして目線を外すのが、最近の二人の距離だった。
戻ってきた当初。
サラはガンドを真っすぐ見なかった。
恨みと言うほど強い感情でもない。ただ、わからなさが怖かった。
いなくなった人間が、急に「ただいま」と戻る。
その日々の間に積もったもの――食べ物の工夫も、寝かしつけも、働き口探しも、全部が「一人でやった」記憶になっている。
そこへ、昔の夫が“別の顔”をまとって現れる。忍びだの殿だの、子供には説明しきれない。
だから、サラは一度だけ言った。
「あなたは……どこに行ってたの」
ガンドは、言い訳をしなかった。
ただ、頭を下げて。
「拙者は、愚かでした」
それだけで、サラは泣けなかった。怒れなかった。置き場所が分からなかった。
それでも、朝は来る。
飯は作る。
リクは育つ。
そして――リクが笑い始める。
サラは、その変化だけを大事にすることにした。
ガンドの過去を許すかどうかは、まだ決めなくていい。
ただ、今日のリクが、昨日より少し前を向いているなら、それでいい。
そんな空気の中で、ダイキチだけが、少し離れた場所にいた。
椅子に深く座り、缶を指先で転がしながら、全部を見ている。
(……ほんと、勝手に回るな。世界)
誰かが世界を救ったわけでもない。
誰かが大悪党を倒したわけでもない。
それでも、人は机を並べて、文字を書き、笑って、次を考える。
ダイキチが好きなのは、こういう時間だった。
昼前、港の方から声が飛んだ。
「おい、ガンド殿! いや……ガンドの旦那、ちょいと頼みがある」
声の主は荷運びの商人だった。最近はリクの「父上すげえ」に釣られて、村の連中もガンドに気安く声を掛ける。
ガンドは一瞬だけ、呼び方の揺れに目を細めた。
殿でもなく、忍びでもなく、奴隷でもなく。
ただの「旦那」。
「用件を」
「荷の番だ。最近、夜にちょろちょろする奴がいてな。見張りを増やすと金がかかる。……まあ、お前さんなら目立たずに済むだろ?」
「承知」
答えは短い。だが声は軽い。
“命令”ではない頼み事に頷けるようになったのは、この土地の変化でもあった。
リクはその背中を見て、胸を張った。
「ぼくのお父さん、頼られてる」
サラが小さく笑う。
「うん。……頼っていい人だって、みんな分かってきたのよ」
ガンドは照れたのか、わざとらしく咳払いをしてから、リクの頭に手を置いた。
「よい。だが浮かれるな。頼られるとは、責任が増えることだ」
「責任……」
「守る、ということだ。仕事も、家も」
リクは真面目に頷いた。そうやって頷ける子に戻ったことが、サラには何より大きかった。
リクが、紙を持って走ってきた。
「ダイキチ! これ、見て!」
「お、なに」
「ぼくね、今日『海』って書けた! あとね、これ『人』!」
紙の上の文字は、まだ線が太い。傾いている。
でも、確かに「海」だし「人」だ。考えた跡が、べったり残っている。
「おー……やるじゃん」
「えへへ」
リクは得意げに笑って、ふとガンドの方を振り返った。
ガンドは遠くから親指を立ててみせた。忍びの仮面じゃない、父親の顔で。
リクはそれが嬉しくて、胸を張って戻っていく。
その背中を見送ったダイキチが、ふと首をかしげた。
(……ん?)
今のやり取り。
家族。
父親。
子供。
戻ってきた日常。
全部、ちゃんと“家”になっているのに。
ダイキチの視線が、何となくガンドに固定される。
ガンドは相変わらず「殿」と呼ぶ。
命令に従う。
報酬の話もしない。
自分から何かを要求しない。
それは性格だけじゃない。
癖でもない。
――“立場”の匂いだ。
ダイキチは缶を止めた。
口の中で、嫌なほどはっきりと言葉が形になる。
(……やっべ、ガンドまだ奴隷じゃね?)
次の瞬間、ダイキチは何でもない顔に戻した。
リクは笑っている。サラも笑いかけている。
今、ここで余計な波を立てるのは、一番面倒だ。
(……うわ。面倒が見つかった)
ダイキチは缶の口を開け、ひと口だけ飲んだ。
潮の匂いの中で、炭の粉と鉛筆の音が、今日もやけに平和だった。




