第38話:父と子 ――いつかわかるために(前編)
リーベラの空気は、あの夜のパリよりずっと柔らかかった。
潮の匂い。木の匂い。遠くで聞こえる笑い声。
なのに、ログハウスの中だけが、ひどく静かだった。
リクが、笑わなくなった。
食事はする。返事もする。
だけど、声が薄い、目が遠い。
何かを見ているようで、何も見ていない。
テーブルの上のパンをちぎりながら、サラが何度もリクを見た。
言いたいことがあるのに、言葉にできない顔だ。
ガンドは、普段よりも背筋がまっすぐだった。
まっすぐすぎて、硬い。守る姿勢が、そのまま棘になっている。
ミリアは、リクに話しかけるタイミングを何度も失敗していた。
笑わせようとして、途中で黙る。
優しさが、怖さに変わる瞬間を知ってしまったからだ。
シーナは淡々としているが、目線が少しだけ鋭い。
それは警戒ではなく、怒りに近い。
子供を壊すものに対する、静かな怒りだ。
そして、ダイキチは――。
いつも通りだった。
ビールを飲み、椅子に沈み、気の抜けた顔で空を見ている。
だが、誰よりも見ていた。
リクの小さな手が食べ終わった皿を押す指先の震え。
視線が逃げる瞬間、笑いの作り方を忘れた顔。
(……面倒だな)
ダイキチは心の中でだけ呟いた。
そして、その「面倒」は、嫌悪ではなかった。
この手の面倒は、嫌いじゃない。
誰かを殴って終わる面倒より、ずっと良い。
ただ――自分が触るべきじゃない面倒だ。
夜。ログハウスの廊下で、ガンドが一人で立っていた。
サラとリクの部屋の前。扉の向こうは静かで、寝息だけがある。
ガンドは、拳を握ってから、ゆっくり開いた。
握るのは簡単だ。開く方が難しい。
そこへ、ダイキチが来た。足音を立てずに。気配だけで、いると分かる。
「……寝た?」
ダイキチが小声で聞く。
「はい。……眠りは浅いようです」
「そっか」
それだけ言って、ダイキチは壁にもたれた。
気の抜けた声なのに、目は冷めている。
「なあ、ガンド」
「は」
「俺さ。ああいうの、嫌いなんだよね」
ガンドの眉が一瞬だけ揺れた。
あの夜の言葉が、まだ残っている。
「……御意」
「でもさ、嫌いだからって、全部消せるわけでもないし」
ダイキチは指で缶を弾いた。軽い音が鳴る。
「子供ってさ。見ちゃうんだよな。見えないはずのものも」
ガンドは黙った。黙るしかない。ガンドは忍びだ。
見せない仕事をしてきた。それでも、見せてしまった。
「……殿」
ガンドが言いかけて、止めた。
言い訳にも、謝罪にもなる言葉は、今いらない。
ダイキチは、軽く手を振った。
「いや、責めてない。責めるのも面倒だし」
そして、少し間を置いてから言った。
「俺は、何かしてやりたい気もするんだけどさ」
ガンドが小さく息を吸う。
「それは……父としての役目でございます」
言葉は硬い。だが、そこに迷いはなかった。
ダイキチは目を細めた。
普段なら「めんどくさ」と言って笑う場面だ。
でも、今日は笑わない。
「……そっか」
短く言って、頷いた。
「じゃあ、任せるわ。俺は、余計なことしない」
ガンドは深く頭を下げる。
「御意」
そして、少しだけ顔を上げた。
「……殿。私は、傭兵でございました」
ダイキチの視線が、ガンドに向く。
軽い相槌も、茶化しもない。
「人が争う理由は、些細です」
静かな声だった。
「誇り、金、恐れ、噂。
愚かだと思うこともございます。
ですが……それは異世界でも、地球でも変わりません」
ガンドは、廊下の先――リクの部屋の扉を一度だけ見た。
眠っている。だから、今は大人の話でいい。
「こんなことがございました。
ある国で、隣り合い、小競り合いを繰り返してきた領主がおりました」
ダイキチは黙って聞く。
「一方の領主の跡取りと、もう一方の領主の娘が、
貴族学校で――何の因果か、お互いの素性を知らずに恋仲になりましてね」
「……それで?」
「両家に知られてからは、それはもう大騒ぎでした。
娘が『男女の仲だった』と告げたことで、
父親は娘を自害させました」
ダイキチの眉が、わずかに動く。
「そして相手に、
“名誉回復のための戦だ”と攻め込みました」
「……あほだな」
「ええ。全くです」
ガンドは淡々と続ける。
「最終的に、恋人の仇だと突撃してきた跡取りは
傭兵に討たれて戦死。
王家が介入し、両家は揃って降爵されました」
「救いがねえ話だ」
「ですが――」
ガンドは少しだけ、声を落とした。
「一番くだらないのは、
そんな戦争に行って金を稼ぎ、
報酬を払いたくないからと罪人にされ、
妻子を捨てた人間です」
ダイキチが、ゆっくり息を吐く。
「……それ、お前か」
「はい。拙者でございます」
逃げない。言い訳もしない。
「拙者は、人を殺す技で生きておりました。
誇りも、正義も、後付けです」
沈黙が落ちる。
廊下の外で、風が鳴った。
「ですが今は」
ガンドの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「その技で、人に喜んでもらえる。
忍者として、芸として、芝居として」
ダイキチは、視線を逸らさずに聞いている。
「それが……とても嬉しいのです」
ガンドは、扉の向こうを見ずに言った。
「だから、リクには――
今は分からなくてよい。
だが、いつか分かるようになった時のために、
学ぶ価値がある世界もあると、伝えたい」




