第36話:パリの夜に忍ぶ父(前編)
サラとリクが転移で消えた直後、夜の空気が一段冷えた気がした。
遠くではサイレンが鳴り始め、人の波は散り、通りには乱れた足音と荒い呼吸だけが残る。
さっきまで、甘い菓子と川の灯りがあった。
リクが笑って、サラが肩の力を抜いて、ガンドの歩幅が少しだけ家族に寄っていた。
それが、ひとつの破裂音で、全部ほどけた。
ダイキチは何も言わない。
怒鳴りもしない。笑いもしない。
ただ、目だけが冷たくなっていた。
「ガンド」
それだけで十分だった。
ガンドは一礼し、影の中に溶ける。
「許可を」
「出してる。チートビル座標固定。必要なだけ使って」
ダイキチはそれ以上を言わなかった。
“表に出ない”という約束は、ガンドにとって命令と同じだった。
シーナが小さく息を吐く。
「……ここから先は、あなたの領分ね」
「御意」
ガンドは一歩下がり、フードを深く被った。
そして懐から、地球の薄い端末――スマートフォンを取り出す。
画面に触れる指の動きは、もう迷いがなかった。
忍びの学びは速い。
ダイキチから渡された「道具」は、武器と同じ速度で吸収していた。
まずは状況の俯瞰。
イヤホンを片耳に差し、アプリを起動する。
小型ドローンの映像が画面に流れ込んだ。
空撮。
見下ろせば、今起きた襲撃は“偶発”に見える。
だが、群衆の流れの切れ方、逃げ道の塞ぎ方、視線誘導の配置――全部が「計画」だった。
撃った者は消える。誘導者が残る。
残る者を追えば、巣に繋がる。
ガンドは走らない。
急がない。
必要なのは速さではなく、捕まえ方だ。
黒い上着の内側で、防刃ベストを整える。軽い。動ける。
手首には腕時計に見える端末。脈拍も位置も拾う。
見た目は観光客、動きは狩人。そういう日が来た。
襲撃現場から三ブロック。
路地裏。
人だかりの裏で、“仕事の顔”をした男が二人いた。
耳の小型無線、背中の不自然な膨らみ。人を見ず、角を見る。逃げ道を数えている。
ガンドは視線を落としたまま近づく。
すれ違いざま、指を弾いた。
乾いた音。
男の喉が詰まり、膝が落ちる。
倒れる前に、壁へ預けるように押してやる。派手に転べば、目が集まる。
もう一人が振り返ろうとした瞬間、ガンドの指が顎を押し、壁に吸い付けた。
力任せではない。“動けない角度”を知っている動きだ。
「口を開くか」
男が睨み返す。
ガンドは淡々と無線を引きちぎり、耳から外した。
「開かぬなら、開かせる。痛みは二種類。短いか、長いかだ」
沈黙。訓練された沈黙。
だがガンドは無駄を嫌う。
スマートフォンの画面に戻る。
ドローン映像が、別角にいる“連絡役”を捉えていた。
ここで粘れば、枝を切るだけになる。幹へ行く。
連絡役は若い。
フランス語で早口に報告し、指先が震えている。
現場の人間ではない。末端だ。だから逃げる。だから吐く。
ガンドは背後に立ち、肩に手を置いた。
それだけで、連絡役は息を止める。
「落とす」
手刀が首筋に入り、男は音もなく崩れた。
死なない程度に。必要なのは言葉だ。
床に寝かせ、スマホの翻訳を介して問いを投げる。
「指示系統はどこだ。誰が金を出した。どこへ報告する」
男は怯えた目で吐いた。
テロ組織の名前。合流地点。暗号の文句。受け渡しの時刻。
だが、ガンドはそこで止まらない。
“テロ”は表の看板だ。
裏に流れる金が、どこから来るかが重要だった。
名前の端々に、犯罪組織の匂いが混じる。
偽造パスポート、麻薬、武器、運び屋。
そして、その先に「国家の匂い」が薄く漂う。
ガンドは小さく息を吐いた。
面倒が好きな連中だ。
面倒を、輸出してくる。
ガンドは印を結び、座標固定転移を使う。
空間が歪み、彼の身体は一瞬で場所を飛ぶ。
最初の地点は、郊外の倉庫街。
川沿いの物流拠点。表向きは食料の積み替え。
しかし木箱の底が二重になっている。爆発物の部材、起爆の機材、偽装用の衣類。
観光客の列に、これを混ぜるつもりだった。
ガンドは正面から入らない。
屋根裏の通気口。忍びの基本だ。
古い建物ほど隙間が多い。配管、点検口、梁の影。逃げ道は、侵入路にもなる。
見下ろせば――
傭兵崩れ、犯罪組織と繋がった、寄せ集めだ。(統率が甘い)だからこそ、危険でもある。
一人目は、振り返る前に沈めた。手刀。頸動脈。意識を刈り取るだけ。死なせる必要はない。
二人目は銃を抜こうとしたが、遅い。ガンドの蹴りが手首を砕き、銃は床に転がった。叫ぶ前に、顎を打つ。音は出ない。
三人目が異変を察した時には、もう遅かった。
四人目は仲間の倒れ方に気づき、息を呑む。だが息を呑んだ瞬間、喉に圧が入る。
五人目は走った。走る方向が悪い。通路は狭く、角は死角だ。影が先に待っている。
銃声は鳴らない。
悲鳴も上がらない。
それが“忍び”のやり方だ。
残った指揮官だけが、ようやく状況を理解した。
目を見開き、口を開く。声を出そうとする。
その前に、ガンドが背後に立っていた。
「静かにしろ。生きたければ」
肩に手を置く。
それだけで、男の全身が固まる。筋肉は動くのに、動かし方を忘れる。そういう角度がある。
ガンドはスマホを見せた。翻訳の文字が走る。
『質問に答えろ。答えれば苦しまない。嘘なら――次は苦しむ』
男は震えながら言った。
この倉庫は第二拠点。第一拠点は市内の地下。
資金の流れは別口座。連絡役は別系統。
護衛としてギャングがついている。ここは加工場。次の段取りがある。
ガンドは頷き、男の意識を落とした。
生かす。吐かせた。もう用はない。
ガンドは次の目標に転移で飛ぶ。




