第35話:壊されたのは、場所じゃない
パリの夜は、昼とは別の顔をしている。
石畳は昼の喧騒をすっかり飲み込み、街灯の光を柔らかく反射していた。
観光を一通り終えたあと、ダイキチたちは川沿いから少し離れた、小さなビストロに入った。派手さはないが、地元の人間が普通に食事をする、そんな店だ。
「ここ、いい匂いするね」
リクが鼻をくんと動かす。
サラは笑って、メニューを指差した。
「お肉料理が多いみたい。今日は……これにしようかしら」
ガンドは椅子に腰を下ろしながら、周囲を一度だけ見渡した。癖のような警戒だが、すぐに視線は家族へ戻る。
「無理はするな。量が多そうだ」
「大丈夫だよ、お父さん」
そのやり取りが、あまりにも自然で、あまりにも普通だった。
ダイキチは一歩引いた席で、ミリアとシーナと向かい合っていた。
ワインの代わりに、彼は炭酸水を頼んでいる。
「こういう店、嫌いじゃないです」
ミリアが、小さな声で言った。
灯りのせいか、いつもより表情が柔らかい。
「観光地っぽくないのがいい。何も考えなくて済む」
ダイキチは肩をすくめた。
「考えなくていい時間って、意外と貴重だからね」
料理が運ばれ、テーブルに湯気が立つ。
肉の焼ける音、パンの香り、誰かの笑い声。
リクは夢中で食べ、サラはそれを見て安心したように微笑む。
ガンドはフォークを置き、少し遅れて口をつけた。
(……平和だな)
ダイキチはそう思った。
派手な出来事も、世界を動かす何かもない。ただ、腹が満たされて、誰かが笑っているだけの時間。
それで十分だった。
店を出たあと、夜風に当たりながら歩く。
遠くで音楽が流れ、通りには人が多いが、騒がしくはない。
その時だった。
乾いた破裂音が、空気を裂いた。
一発。
続けて、もう一発。
一瞬、何の音かわからなかった。
次の瞬間、悲鳴が上がる。
人の流れが、形を失った。
走る。
転ぶ。
誰かが誰かを引きずる。
ダイキチは、思考より先に動いた。
“処理”は、ほんの一瞬だった。
だが――
「……っ」
リクが、動きを止めた。
目を見開き、音のした方を、じっと見ている。
倒れた人影。血。泣き叫ぶ声。
「リク!」
サラが抱き寄せるが、リクは反応しない。
泣かない。ただ、固まっている。
ダイキチは歯を食いしばった。
(……見せた)
助けた。
止めた。
それでも、“見せてしまった”。
「殿」
ガンドが、低い声で呼ぶ。
「許可を」
ダイキチは即座に頷いた。
「チートビル座標、リーベラ。サラさんとリク、最優先で戻して」
「御意」
忍術とチートビルの転移が重なり、空間が歪む。
次の瞬間、サラとリクの姿は消えた。
残された夜の街で、ダイキチはゆっくり息を吐いた。
怒りは、爆発しなかった。
代わりに、静かに沈んでいく。
「……場所じゃない」
シーナが、低く言う。
「壊されたのは、場所じゃないわ」
「うん」
ダイキチは、夜の通りを見つめた。
「何も起きないはずだった一日だ。
それを、子供に見せちまった」
拳を握る。
だが、前には出ない。
「ガンド」
「は」
「表はいい。俺はもう関わらない」
ダイキチは淡々と言った。
「静かに片付けて。
――全部だ」
ガンドの気配が、闇に溶ける。
パリの夜は、何事もなかったかのように続いている。
だが、確かに壊れたものがあった。
それを、ダイキチは忘れない。




