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スイート×トキシック  作者: 花乃衣 桃々
◆エピローグ
6/7

『初恋』


 心に穴が空いていた。

 空洞を冷たい風が吹き抜ける。


 いつしか染みついて離れなくなった感覚。

 寂しい、という言葉じゃ足りないくらいの孤独感。


『また泣いてたのか』


『お兄ちゃん……』


 階段に座り込んでいると、歩み寄ってきた兄が隣に腰を下ろす。


『大丈夫だ。俺がそばにいるから、もう泣くな』


 ぐい、と伸ばした袖で涙を拭ってくれると、肩を回してそのまま抱き締めてくれた。


(あったかい……)


 ほっとして、空いていた心の穴が満たされていく。


『もう寂しくないだろ』




 ────うっすらと目を開けると、いつの間にか滲んだ涙で光が散っていた。


 血の染みたラグの上で眠ってしまっていたみたいだ。

 落ちた花びらは日に日に()せる一方なのに、血の色は濃くなっていく。


(そっか。またひとりぼっちになったんだった)


 息をついて顔を覆うと、微かに手が震えていることに気がついた。


 あの甘ったるい生活も、人を殺すことも、初めてじゃないのに何をこんなに動揺しているんだろう。

 自分で手放したくせに。


 スマホで時刻を確かめると、まだ朝の5時前だった。


 重くてだるい身体を起こしてキッチンへ向かう。

 グラスに水を注ぎ、一気に飲み干した。


「何か疲れちゃったなぁ……」


 当たり前と言えば当たり前だ。

 ここ数日、()()()(いそ)しんでいたのだから。


 けれど、肉体的な疲労より精神的な疲労の方が強いように感じた。


(色々、やなこと思い出した)


 ────両親のことはほとんど記憶にない。


 小さい頃から俺は、広くて綺麗な家でほとんど兄貴とふたり暮らしのようなものだった。

 俺の面倒はずっと颯真が見てくれていた。


 両親が愛しているのは仕事と金で、子ども(俺たち)には無関心。


 離婚後、俺は父親に引き取られたものの、その性分(しょうぶん)はいまも変わっていない。


 金が愛だと思っているのか、いつも大金が送られてくる。

 それで我が子を(いつく)しんでいるつもりなのだろう。


 俺が高校生の分際(ぶんざい)で、これほど立派な家でひとり暮らしできているのは紛れもなく父親の金のお陰。


 だけど、感謝なんてする気はない。

 お金があったって、心の空洞は満たされない。




 朝の支度と朝食を終えると、()ちばさみとハンガーを手に監禁部屋へ向かう。

 ものはそのまま残っているけれど、いまはもぬけの殻だ。


 花びらの散らかるラグに腰を下ろすと、そこに置きっぱなしになっていた芽依の制服を手に取る。


「あー、汚しちゃってごめんね」


 ブラウスもスカートもリボンも、彼女の血で染まっている。

 既に変色して茶色っぽくなっていた。


 はさみを開いて、じょき、じょき、とずたずたに切り刻んでいく。


 原型を留めないくらいに制服を切り裂くと、ゴミ袋に突っ込んだ。

 そこには血まみれのブルーシートも入っている。


「……でも、これは無事でよかった」


 布団の上に置いてあったカーディガンを手に取る。

 最後の日、彼女はこれを着ていなかったから汚さずに済んだ。

 持ってきたハンガーにかけておく。


 クローゼットの前には、大事な戦利品(コレクション)たちが連なったまま。


『捨てて欲しいの、これぜんぶ』


 そんなふうに言っていた彼女を思い出し、つい困ったように笑った。


「……もー、芽依ってば本当に嫉妬深いんだから」


 ひとつひとつ拾い上げ、抱えたまま部屋を出る。


 もともとこれらを保管していた部屋のクローゼットにかけ直した。

 芽依のカーディガンも一緒に並べておいて、再び監禁部屋へ戻る。


「さーて、片付けよう」


 広げたゴミ袋にクッションやぬいぐるみ、本、雑貨、ラグ────芽依のために買ってきたものを次々放り込んでいく。

 血を浴びて傷んだ薔薇の花束も、落ちた花弁も余さず。


 最後にうさぎのぬいぐるみを拾い上げた。

 裁ちばさみで背中を裂いて、仕込んだ盗聴器を回収してから捨てる。


 洗面所に残された、歯ブラシやら化粧水やらの日用品も一掃した。


 どうにかひと袋におさまって、小さく息をつく。


 それを眺めていると、ふっと思わず冷たい笑いがこぼれた。


 父親もまさか、送った金がこんなふうに使われているなんて思いもしないだろうな。


(……これで本当に終わりか)


 きゅ、と袋の口をきつく縛る。

 何となくもの寂しい気分になって、自ずと記憶が蘇ってきた。




     ◇




 ────4月。

 芽依と出会ったのは2年生に進級した始業式の日。


 彼女とは隣の席だった。


「俺、朝倉十和。よろしくー、芽依ちゃん」


「えっ? あ、よろしく……」


 見るからに怪訝(けげん)そうな顔をされた。

 “はじめまして”なのにいきなり馴れ馴れしすぎたか、と苦笑する。


「ごめんね。座席表見たんだけど、苗字の読み方分かんなくてさ」


「あ……そういうこと」


 腑に落ちたように頷いた芽依は言葉を繋ぐ。


「くさかって読むの。日下芽依。改めてよろしくね、朝倉くん」


 すっかり警戒を解いたように、ふわりと笑いかけてくれる。


 かわいらしい子だった。

 背が低くて華奢(きゃしゃ)で、髪が綺麗で、仕草も雰囲気も女の子らしい。


 それをきっかけに、他愛もないことを話したりノートを借りたりと関わるようになった。




 ある朝、教室に入ると女の子たちが輪を作って固まっていて、その中心に芽依の姿があるのに気がついた。

 どうやら手作りのお菓子を配っているみたいだ。


 席へ戻ってきた彼女は俺を認めると「あ」と声を上げる。


「朝倉くんにもあげる」


「え」


 差し出されたのはチョコレートケーキっぽいお菓子。

 綺麗にラッピングされていてかなり本格的に見えた。


「ブラウニー、作りすぎちゃったから」


「いいの? 本当に?」


「もらってくれたら嬉しいな。口に合うといいんだけど……」


 はにかむように笑った芽依につい目を奪われる。


 もしかして、これをもらったのは男子だと俺だけなんじゃないか、なんてちょっと舞い上がってくすぐったい気持ちになった。


「ありがと。……嬉しい」


 


 ────そんな中、俺が“疑惑”を持ち始めたのは中間テストが返されたときのこと。


 颯真の担当だから特に数学を頑張ったけれど、あまり点数が振るわなかった。

 やっぱり勉強は嫌いだ。


「よく頑張ったな、日下」


 すねたように自分のテストを眺めていたとき、聞こえてきた颯真の声にはっとした。

 彼の顔には珍しく優しい微笑が浮かんでいる。


(いいなぁ)


 いい点とったらあんなふうに褒めてもらえるんだ。


 羨みつつもふてくされ、席へ戻ってくる芽依を見やる。

 何やら相当嬉しそうにしていた。


「そんなに点数よかったの?」


「えっ!? う、ううん、別に」


 そう言う割に何だかそわそわしている。

 白い頬を桜色に染め、照れくさそうに口元まで緩めて。


 テストの結果を喜んでいるだけには見えない。


 この感じは知っている。何度も目にしたことがある。

 恋をしている、幸せそうな顔。


(まさか、颯真に……?)




     ◇




「え、手紙?」


 ある日、颯真と一緒に夕食を取っていると、切り出された話に衝撃を受ける。


「ああ……。最近、俺のシューズロッカーに入れられてるんだ。差出人不明の手紙が」


「へー、どんなの?」


 渡されたのはかわいらしい封筒。

 便箋(びんせん)いっぱいに丸っこい文字で、颯真への想いが(つづ)られている。


「……ラブレターだね」


 肩をすくめて苦く言った。

 差出人の名前はないが、文面的に生徒からだと読み取れる。


 心の中のざわめきとはびこる黒い(もや)が濃くなっていくのを自覚しながら、あえておどけるように続けた。


「しかも生徒から? 禁断の恋じゃん」


「……茶化すな。俺も困ってるんだ」


 よかった、と内心思う。

 この手紙の主に颯真をとられるようなことは、ひとまずなさそうだ。


 思わず笑いながら、折り畳んだ便箋を封筒へ戻す。


「じゃあ俺が解決してあげるよ。これ以上エスカレートする前にさ」


「できるのか?」


「任せといて。……ちょっとやることあるから、それが終わってからになるけど」


 颯真にまとわりつく“邪魔者”の存在を思い返す。

 大学時代の友人だか何だか知らないけれど、ひどく目障(めざわ)りだ。


 ひとりは既に片付けられたものの、もうひとりは────。


 思考を影が覆い始めたとき、テーブルの上に置いてあった颯真のスマホが鳴った。

 はっと我に返る。


(あいつか?)


 彼のもうひとりの友人。

 この間消した女を執拗(しつよう)に心配しているようだし、そういう意味でも急がないといけない。


「悪い、ちょっと」


 スマホを手に廊下へ出ていく颯真を見送ると、浮かべていた笑みを消した。


(めんどくさいけど、さっさとやっちゃお)


 手紙のことも気になるし、颯真も迷惑しているみたいだから早く何とかしてあげなきゃ。


(色々とね)




     ◇




 早めに学校へ行き、職員玄関を張っていた。


 出勤した颯真が靴を履き替え、ほかの先生たちの姿もなくなったのを確かめると、シューズロッカーへ歩み寄る。


(あの手紙の、丸っこくてかわいい文字……なーんか見覚えあるんだよね)


 そんなことを考えながら、颯真のシューズロッカーを開けた。


 隠し持っていた小型カメラを裏返す。

 両面テープの剥離(はくり)紙を剥がし、ロッカーの奥に貼りつけておいた。


(ま、これではっきりするか)




 教室に入ったとき、ちょうど予鈴が鳴った。

 席について鞄を下ろす。


「はよ、十和」


「おはよー」


 何人かの友だちと挨拶を交わしつつ、芽依にも声をかけたとき、彼女が英単語帳を眺めていることに気づいてはっとする。


「待って、今日って水曜日?」


「そうだよ、小テストの日」


 毎週水曜日に実施される英単語の小テストは10点満点で、5点未満だと放課後に再テストを受けなければならない。


(やっば)


 すっかり忘れていた。

 けれど、再テストなんて受けている場合じゃない。


「ねぇ、芽依ちゃん。そのノートって使ってる?」


 机の上に置いてあった“単語ノート”と書かれたものを指す。


「ううん、いまは」


「お願い! 見せてくれない?」


「いいよー。ふふ、単語帳忘れたの?」


「ありがと。単語帳っていうか小テストのことすら忘れてた。それどころじゃなくてさ」


 快く差し出してくれたノートを受け取りつつ苦笑する。


「何かあったの?」


「いや、ううん。ちょっとねー……」


 生返事をしつつ、ぱらぱらとページをめくってみた。

 英単語とその意味が、分かりやすく丁寧にまとめられている。


 それを見て、ぴんと来た。


(これか)


 手紙の字体に対する既視感の正体は、芽依の字だったのだ。

 以前、ノートを借りたときに見たんだ。


(芽依ちゃん、本当に颯真のこと好きなんだね)


 ノートに記された彼女の文字を指先でなぞる。


「……残念だな」


 小さく呟くと、芽依が顔を上げた。


「え?」


「何でもない」


 くす、といつものように笑っておく。


 とりあえず差出人を突き止められただけで十分だ。

 焦らず、慎重に、やるべきことを進めていこう。




 再テストを免れ、さっさと帰宅した。


 リビングに荷物を置いてから監禁部屋に顔を出す。

 俺の姿を見るなり、女はおののいたように身を縮めた。


「そんな怯えなくて大丈夫だよ? 穂乃香さん」


 颯真の大学時代からの友だちである彼女は、だけど颯真のことが好きらしい。


「ごめんなさい……ごめんなさい……。お願い、殺さないで……」


 目を覚ましてからというもの、蒼白(そうはく)な顔でそんなことを呪文のように唱え続けている。


 笑みをたたえながら歩み寄ると正面に屈んだ。

 冷えた頬にそっと手を添えてやる。


「殺さないよ。俺はただ、ふたりで仲良く暮らしたいだけ。そのためにここへ来てもらったんだから」


「え……」


 揺れる瞳を捉えつつ、優しく笑いかけた。


「そんな顔しないで。俺、きみのこと好きなんだよ。街で見かけてひと目惚れしちゃった」




 ────リビングのソファーで横になっていると、いつの間にか眠りに落ちていた。

 かなり疲れているみたいだ。


 無理もないと思う。

 “前回”からほとんど間を置くことなく今回の犯行に及んだ。


 それが終わったら、たぶんまたすぐ行動に出なきゃならない。

 これ以上、颯真の安穏を(おびや)かされないうちに。


「はぁー……」


 疲弊(ひへい)してはいるものの、下手なミスをしないように細心の注意を払わなければ。


 そのとき、インターホンが鳴った。


「誰ー……?」


 こんなときに厄介だな。

 そう思いながら重たい身体を起こし、ガムテープ片手にひとまず監禁部屋へ向かう。


「ごめんね、穂乃香さん。ちょっとだけ我慢して」


 彼女の口元に、ちぎったテープを貼っておく。

 ここぞとばかりに叫ばれたら困る。


 それから玄関へ向かうとドアを開けた。


「あれ……」


 驚いてしまう。

 そこに立っていたのは、スーパーの袋を()げた颯真だった。


「連絡もなしに悪いな」


 いつものように家へ上がろうと一歩踏み込んできたのを見て、俺は慌てて戸枠に腕を伸ばした。

 彼の行く手を阻む。


「ごめん、今日はちょっと」


 いま入られたら色々とまずい。

 心臓が早鐘(はやがね)を打った。


 何かうまいこと言い訳できればよかったのに、とっさに思いつかなくて黙り込んでしまう。


「……そうか。そういうこともあるよな」


 納得してくれたのかは分からないけれど、特別(いぶか)しんでいる様子もない。


「ごめんね、せっかく来てくれたのに」


「いや、突然来た俺が悪かった。これだけでも渡しておく」


 差し出された買いもの袋を受け取る。


「ありがと」


 それで帰ってくれるかと思ったものの、颯真は動こうとしない。

 どこか真剣な様子で口を開く。


「……おまえ、俺の車使ったか?」


 予想だにしない内容に、どきりとして勢いよく顔を上げる。


 疑問形ではあるものの、既に確信しているようだ。

 誤魔化せない反応をしてしまったし、正直に認めるしかない。


「……バレたかぁ。ちゃんと元通りにしたつもりだったのにな」


 肩をすくめて苦く笑う。


 確かに俺は、気を失った相手を運ぶのに颯真の車を借りていた。

 まさかそんな用途だとは思いもしないだろうけれど。


 彼は(とが)めるように眉を寄せる。


「おい、分かってるのか? 無免許なんだし事故でも起こしたら────」


「分かってるって。ごめんごめん」


 言わんとすることは承知している。

 俺を心配してくれていることも。


 だけど、だからってやめるわけにはいかない。


 颯真はため息をつくと、てのひらを差し出してきた。


「スペアキー返せ」


 ……それもバレていたのか。

 でも、返すことはできない。車をスムーズに使えなくなったら困る。


「あー……ごめん、なくした」


「はぁ?」


「ごめん! 本当にごめんなさい」


 合理的に納得させられないなら、感情に訴えるしかない。

 俺は眉を下げて両手を合わせた。


 きっと許してくれる。

 颯真は俺に甘いから。


「一生懸命探すから! あ、手紙のこともちゃんと調べてるよ」


 だめ押しでそう続ければ、颯真ははっとしたような顔をした。


「その件なんだが……」


 今度は封筒に手紙ではなく写真が入れられていたことを打ち明けられる。


「盗撮? ……それってもうストーカーじゃない?」


 返した声色は非難気味になった。

 もちろん、その対象は送り主だ。


「いっそのこと警察に……」


「ちょっと待って。それは得策(とくさく)じゃないと思うなぁ」


 慌てて制すると、颯真が怪訝(けげん)な顔をする。


「何でだ?」


「だって、そんなことしたら逃げられちゃうよ」


 俺がどうにかしなきゃいけないんだ。


 送り主の正体もほぼほぼ見当がついている。

 あとは設置した小型カメラの映像を確認すれば確定させられるのに、ここでみすみす逃すわけにはいかない。


「ストーカーさんだってそんなんで引き下がるほど単純じゃないだろうし、そしたら今度は直接アプローチしてくるかもよ」


「え?」


「逆上して逆恨みとかされたら、よっぽどめんどくさいと思わない?」


 警察の介入を避けたい、という意図もあった。


 俺のしていることがふいに明るみに出るかもしれないし、警察とはなるべく関わり合いになりたくない。


「じゃあ、俺はどうすれば……」


「大丈夫! 俺が何とかするからさ、兄貴は何も心配しないで」


 これしき、そう深刻になるほどのことじゃない。

 俺に任せておいて欲しい。


 颯真の笑顔を奪うストーカーさんには、ちゃんと痛い目に遭わせてあげるから。


「あ、ああ……。頼む」


「うん! じゃあまたね」


 にこやかに手を振って見送った。


 颯真が俺を頼ってくれている。

 その事実が嬉しくてたまらない。




 包丁を手に廊下を歩いていく。


 事情が変わった。

 あまり長々と穂乃香(この女)に構っている余裕はない。


 がちゃ、と監禁部屋のドアを開ける。

 彼女は相変わらず怯えた様子で縮こまっていた。


 つかつかと歩み寄り、乱暴にテープを剥がす。


「……っ」


「ごめん、気が変わっちゃった」


 包丁を逆手(さかて)に持ち、切っ先を向けて構える。

 浮かべていた笑みを消した。


「あのさ、聞かれたことに正直に答えてくれる?」


「な、何……ですか……?」


「宇佐美颯真────当然だけど知ってるよね。お姉さんさぁ、颯真のこと好き?」




 刃先から血が滴る。

 彼女はすぐに動かなくなった。


 俺の質問に頷けば暴力でねじ伏せてやり、それに耐えかねて否定した瞬間に用なしとなった。


 最後には、突き飛ばしたときに窓の下枠の出っ張りに後頭部を打ちつけて息絶えた。


 いままでよりかなり強引なやり方で終わらせたけれど、色々と立て込んでいるから仕方がない。


「今日は寝れないなぁ」


 さっさと後始末をしなければならない。

 ()(てっ)してやらないと、学校へ行けない。


 カメラの回収や映像の確認をしたり、ストーカーから颯真を守ったり、やらなきゃいけないことがたくさんあるのだ。


 無用な疑いをかけられないためにも、休む選択肢はない。


 ────小花柄のワンピースをハンガーにかけ、クローゼットにしまう。

 少し血が飛んでしまっていたけれど、きっと柄に溶け込んで分からない。


「疲れたぁ……」


 ばたん、と床に倒れ込んだ。

 とんでもない疲労感に襲われる。


 普段なら数日に分けて行う作業を十数時間で終えたのだから当たり前だ。


 しかも、これで終わりじゃないのだから本当に骨が折れる。

 実は殺すことそのものより、事後処理の方が大変だったりする。


 とはいえ、ひとまず区切りはついた。


 時刻は朝の7時を回っている。


「もー、準備しなきゃ」




 登校後、人目を警戒しながら職員玄関へ向かった。

 颯真のシューズロッカーから小型カメラを回収する。


(さて、誰が映ってるかな)


 大方の予想はついているけれど。

 くす、と笑いつつポケットにしまう。


 教室へ向かう前にお手洗いに寄り、個室に入った。

 カメラをスマホと繋げてさっそく映像を確認する。


 早送りしたりしながら、シューズロッカーが開くシーンを確かめた。

 そこには颯真と俺のほかにもうひとり映っていた。


(芽依ちゃん)


 やっぱりね、とほくそ笑む。


 颯真のこと、本気で好きなんだ。

 こんなことしちゃうくらい。


(へぇ……)


 ふわふわして見えるのに、意外と芯があるみたいだ。


(健気(けなげ)にアピールしちゃってかわいいなぁ。意味ないのに)




 寝不足なせいで1、2限目はほとんど寝落ちしてしまったけれど、3限目の数学だけは頑張って起きていた。


 思う存分、颯真のことを見つめていられる至福の時間だから。


 チャイムが鳴って授業が終わると、崩れるように突っ伏した。


(眠い……)


「……大丈夫? 朝倉くん」


 ふいに芽依から声をかけられる。


「んー、だいじょぶ」


 伏せた腕に頭を載せ、顔だけ彼女の方を向く。


「何か疲れてるみたいだね」


「うーん、まあね……」


 誤魔化すように苦笑しておく。

 芽依はその間も机に目を落としたまま何かを書いていた。


「何してるの?」


「今日の分の宿題だよー。数学の問題集」


 ああ、と思った。


(颯真が担当だから頑張れるのは、きみも一緒なわけね)


 ふと芽依が顔を上げ、教卓の方を見る。

 俺もつられてそちらに目をやった。


 颯真の元へ、委員長が何やら授業の質問をしにいっているみたいだ。


 1冊の教科書を覗き込んでいるわけだから仕方ないとはいえ、距離が近い。

 彼女にも颯真にも他意なんてないだろうけれど。


(でも……)


 ちら、と芽依に視線を戻した。


 強い眼差しで委員長を捉えている。

 シャーペンを握る手が小さく震えたかと思うと、ばき、とその芯が折れた。


(こわー)


 どうやら芽依は嫉妬心がかなり強いらしい。

 あるいは独占欲も。


 つい、(しら)けたように目を細める。


(きみのものじゃないのにさ)


 ややあって、委員長への対応を終えた颯真がふと芽依の方を見た。


「日下」


 はっとした芽依の顔に色が戻る。


「はい……!」


 颯真に手招きされ、勢いよく立ち上がると教卓の方へ駆けていく。


「今日、日直だよな。悪い、朝渡すの忘れてた」


 そう言って、颯真は学級日誌を差し出した。


「頼む」


「……はい」


 颯真の微笑を受けた芽依が嬉しそうにはにかむ。

 さっきまでの形相(ぎょうそう)が嘘みたい。


(……分かりやす)


 ころころ変わる感情をまったく隠せないようだ。

 学級日誌を大事そうに抱えて戻ってきた彼女に声をかける。


「ねぇ、芽依ちゃん。ノート貸して」


「また? 何の?」


 すっかりご機嫌らしく、無駄ににこにこしている。


「現代文と日本史」


「えっと、ちょっと待ってね」


 机の中を漁り、2冊のノートを渡してくれる。


「寝てたもんね。返すの今日じゃなくてもいいよ」


「本当?」


「うん、無理しないで」


 労るように微笑まれる。

 その優しさに嘘はないのだろう────“敵”じゃなければ。




 その日から、情報収集と颯真を守るという目的のもと、俺は彼女をマークするようになった。


 放課後、教室のある3階廊下の窓から中庭を見下ろす。

 芽依が出ていったのが分かったからだ。


(何するんだろ)


 隠れるみたいにして木の傍らに立っている。

 こちら側からは丸見えだけれど。


 視線の先にあるのは、職員室前の廊下だろうか。

 窓越しに颯真の姿が見えた。


(え、まさか……)


 取り出したスマホを一瞬だけ器用に構える。

 すぐにしまい、満足したように校舎内へ戻っていった。


(へぇ、ああやって撮ってたんだ)


 かなり手馴れているように見える。


 あのスマホ、いますぐ叩き割ってやりたい。

 そんな衝動をこらえつつ、彼女を追って俺も移動した。


 ────職員玄関の前で柱の影に隠れる。

 芽依の姿はやっぱりそこにあった。


 きょろきょろと周囲を見回してから颯真のシューズロッカーを開け、何かを入れる。

 その一連の動作に迷いはなかった。


 見つかることを避けたいらしく、そそくさと退散していく。


(今日はどんなプレゼントかな)


 人目を(はばか)りつつ、俺も颯真のシューズロッカーを開ける。

 入っていたものを見てはっとした。


 綺麗にラッピングされた手作りのお菓子。


『もらってくれたら嬉しいな。口に合うといいんだけど……』


 いつかの芽依の言葉が頭の中に響いて、一瞬固まってしまった。


 遠くから聞こえてきた誰かの話し声で我に返り、ブラウニーを引っ掴む。

 その下にあった封筒も一緒に回収して帰路についた。


 道中、封を破って中身を見てみる。


 また手紙か写真だろうと思っていたけれど、そこには予想を大きく裏切るものが入っていた。


「爪……?」


 三日月型の細々(こまごま)とした白い破片の数々。

 ぞっと背筋が寒くなる。


(……まさか)


 ラッピングのリボンをほどいてブラウニーを取り出した。

 割ってみると、中には幾本もの髪が絡んでいる。


 とっさに口元を押さえた。

 俺にくれたものはこんなふうじゃなくて、普通だったのに。


(颯真のこと、好きなんだよね……?)


 何でこんなに気味の悪いことをするんだろう。


 異常だと言わざるを得ず、ひとまず颯真が見る前に回収できてよかったと息をつく。


 理解はできないけれど、一途ではあるのだろうと分かる。

 粘り強いというか、すごい執着だ。執念が深すぎる。


 ぐしゃ、と封筒を握り潰す。

 ブラウニーは公園のゴミ箱に捨てた。


 それから本格的につきまとい、彼女の自宅や行動パターンを把握した。


 平日はまっすぐ帰宅することが多いけれど、たまに寄り道することもある。

 休みの日にはひとりでカフェなんかに出かけたりもするみたいだ。


 颯真のことが好きなのだから当たり前だけれど、彼氏はいない。


 学校では購買で買ったワッフルなんかをよく友だちと食べている。

 甘いものが好きみたい。


 それから、最近は自販機の苺ミルクがお気に入りのようだ。

 睡眠薬を盛るならそれだろうか。


(俺のことは警戒してないし、難しくなさそう)


 ストーカーより陰湿(いんしつ)なストーカー行為を続けつつ、颯真が見る前にシューズロッカーの中身を回収する日々。


 芽依を(さら)う隙を、虎視眈々(こしたんたん)と窺っていた。




     ◇




 ある日の放課後、ついにチャンスが訪れた。


 教室にひとりきりの彼女。

 颯真のシューズロッカーに忍ばせるつもりでいるのだろう手紙を見つめてぼんやりしている。


(……やれる)


 ひっそりとほくそ笑み、たったいま偶然気がついたみたいに歩み寄った。


「あれ、芽依ちゃん」


「あ、朝倉くん……!」


「まだ残ってたんだ。大変だね、日直」


「ううん、そんなこと……」


 慌てて隠された手紙には気づいていないふりをしながら、隣の席に腰を下ろす。


「朝倉くんは帰らないの?」


「……あー、えっと」


 後ろ手に隠していた、苺ミルクのペットボトルを2本掲げてみせる。


「ごめん。実は芽依ちゃんが残ってること知ってて戻ってきた。労いってことで、1本あげる」


 差し出した方には、砕いて粉状にした睡眠薬を溶かしてある。


 ジップつきの小さな袋に入れて、いつ機会が訪れてもいいようにここのところずっと持ち歩いていた。


 きゅ、となるべくきつくキャップを締め直しておいたけれど、別に緩いことがバレても開けてあげたことにすればいい。


「いいの?」


「うん。好きでしょ、これ」


「ありがとう。でも、どうして知ってるの?」


「人づてに聞いただけ。好きな人のことは何でも知りたいと思うじゃん」


 実際には俺のストーキングの賜物(たまもの)

 けれど、そんなこととは夢にも思わないはずだ。


「本気?」


 少し呆れたように笑いながら、芽依はキャップに手をかけた。


(思った通り、ちょろーい)


 キャップが緩いことに気づきもしない。

 いや、気づいたかもしれないけれど、まったく無警戒だった。


 彼女が苺ミルクに口をつけたのを見て、ひっそりと笑う。


 まだ気は抜けないけれど、もう半分は成功したも同然だ。

 スマホで時刻を確かめておく。


 久しぶりに口にした苺ミルクはかなり甘かった。

 芽依くらい甘い。


 なんて毒を持った言葉を押しやって、彼女の心ごと奪う土台を整えていく。


「俺はいつでも本気だよ。いまだって、芽依ちゃんとふたりで話せてすげー嬉しいと思ってる」


「そういうことは本当に好きな人に言いなよ」


「……だから、言ってんじゃん」


 真剣な表情と声で告げるも、冗談で済ませようと芽依は笑う。


「……えー? もう。朝倉くん、わたしのこと好きすぎ」


「そうだよ。俺、本当に芽依ちゃんのことが好き」


 さすがに彼女の顔から笑みが消える。

 動揺したみたいに瞳が揺らいだのを見て畳みかけた。


「友だちだなんて思ってない。そんなふうに諦められない」


「朝倉、くん……」


「……分かってる。困らせてるよね」


 眉を下げて儚く笑ってみせる。

 息をするように嘘を重ねていく。


「でも、迷って欲しいって言ったら……怒る?」


 完全に揺らいだのが分かった。

 それでも、断ったり流したりする隙を与えないように言葉を繋ぐ。


「ねぇ、一緒に帰ろ。もっと芽依ちゃんのこと知りたい」


 はにかむように笑いかけた。


 その“秘密”、いつか自分から打ち明けてくれるのかな。

 それともバレなきゃいいと思ってる?


 ふたりきりの世界で俺に心から大事にされて、好かれて、愛されたら、芽依はどんな反応をするんだろう。


 いまは颯真に対して異常なほどの想いを抱いているかもしれないけれど────。


(大丈夫、俺がぜーんぶ上書きしてあげるからね)


 そのとき、ふいに颯真が現れたのは完全に想定外だった。


「日下……って、おまえもいたのか」


「先生」


 芽依の声が硬くなり、表情が強張る。


 俺といるとこ、見られたくないんだ。

 俺も一緒にいるとこ、いまは見られたくなかった。


「やっほー。あ、先生も飲む?」


 内心の動揺をひた隠しに、普段通りを装って首を傾げる。


 大丈夫。

 このあと芽依が消えたって、颯真には俺を疑えない。


 何ならいっそ、バレたっていい。彼になら。

 颯真のためにしていることなんだから、喜んでくれるはず。


「遠慮しとく。俺は甘いの苦手だから」


「そっかー」


 知ってる、と心の中でつけ足す。

 昔からそうだ。


「そもそもおまえの飲みかけだろ、それ」


「えー、何か問題ある?」


 くす、と思わず笑ってしまった。

 兄弟なんだから別にいいだろうに。


 なんて、普段はその関係性を呪っているくせに都合がいい。




 昇降口のあたりで、俺は「あ」と立ち止まる。


「ごめん、忘れものしちゃった。先行ってて」


 一緒に学校を出る瞬間を防犯カメラの映像に残さないため、そして車を動かす時間を稼ぐために嘘をついた。


「忘れもの? わたしも一緒に取りに戻るよ」


「ううん、大丈夫。校門出たとこの木の下で待っててくれる? すぐ追いつくから」


 カメラの死角部分へ誘導してから、きびすを返したふりをしてすぐに足を止める。

 彼女が校門へ向かうのを見届けると、俺も昇降口を出て反対方向へ向かった。


 道すがら、鞄の中からパーカーを取り出して羽織る。

 職員駐車場へ出るタイミングでフードを被った。


 ここは校舎内からの視認性は低いものの、カメラによる死角はほとんどない。


 芽依が行方不明になったら、事件性を疑った警察が防犯カメラ映像を確認しにくる可能性がある。

 俺が映っていても、俺だと分からないようにしなくちゃならない。


 不審なフード男が颯真の車に乗る姿が映ってしまうけれど、それが颯真だとは思われないだろう。

 校舎内にいる彼には目撃情報もアリバイもある。


 俺は勝手に持ち出したスペアキーを使って、颯真の車を動かした。


(芽依ちゃんが薬飲んでから……もうすぐ15分)


 きっと既に何らかの効果が現れ始めているはずだ。

 近場に車を停め、急いで学校へと戻った。




 俺の言う通り、芽依は律儀(りちぎ)に木の下で待ってくれていた。

 睡眠薬のお陰か、何やら屈み込んでいた彼女に手を差し伸べる。


「大丈夫?」


「大丈夫、ちょっと疲れてるみたい……」


「そっか、無理しないでね。待たせちゃってごめん」


「あ、ううん」


 歩き出してもパーカーは脱がないでおいた。

 彼女を車に乗せて運ぶとき、どうせまた着ることになる。


 聞かれたらこれが“忘れもの”だと言えばいい。

 そう思ったけれど、芽依が口を開く様子はない。


 口数も少ないし、もう意識がぼんやりしてあまり頭が回っていないのだろう。

 気づいてすらいないかも。


「そうだ。駅までの道、工事してるらしいからさ、遠回りしてこうよ」


 車を停めておいた人通りの少ない道に誘導しつつ、彼女を顧みる。


「そういえば、前髪切った? 後ろもちょっとだけ短くなってるよね」


「……え、すごい。よく分かったね」


 昨日、シューズロッカーから回収した封筒に入っていたからだ。


(……本当、颯真が見なくてよかった)


 そう思うと同時に、何だかいまになって腹が立ってきた。

 自身の前髪に触れた彼女の手を勢いよく掴む。


「爪も切ったんだ」


「な……」


 その顔に驚愕だけでなく、怯えたような色がさした。

 それを見て、ぞく、と身や心が痺れる。


「何で知ってるの……?」


「こないだ芽依ちゃんにノート借りたでしょ? そのとき見たより短くなってるもん」


 正直なところ、どちらかと言えばそれは確信を得る材料の方だった。

 この前、封筒に爪が入っていたから知っていただけ。


「芽依ちゃんのこと、ずーっと見てたから」


 にっこり微笑んでみせる。


 さっと青ざめてうろたえる彼女はいい(ざま)だった。


 散々颯真をつけ回しておいて、いざ自分がその立場に置かれたら怖がるなんて。


(でも……芽依ちゃんの怯えた顔、かわいい)


 もっと困らせてみたい。苦しめたい。

 そんな衝動が湧いてくる。


 何だか少しだけ、好きな人を追い詰めていた彼女の感覚が理解できた気がした。


 けれど、この愉悦(ゆえつ)にも似た感情は持ち合わせていないのだろう。

 芽依はただ単に、純真な恋心をこじらせている。


 俺の場合は“仕返し”という気持ちもどこかにあった。

 颯真を困らせた分だけ、いじめてあげたい。


「好きな人のことは何でも知りたい。でも、知ってるのは俺だけでいい。だから────」


「……っ」


 焦ったようにあとずさった芽依が、ふいにたたらを踏んだ。

 ふっと力が抜けたのを見て、一歩踏み込む。


「おっと」


 とさ、と伸ばした腕で受け止めた。

 もう逃がさない。


「あさくら、く……」


 その声は音にならず、腕の中で芽依が目を閉じる。


 完全に薬が効いたらしく、全体重を預けて寄りかかってきた。


「大丈夫。いい夢見せてあげるから、ちょっとだけ眠っててね」


 最後にはすべて奪うけれど、それまでは。

 芽依のすべてを受け入れて、肯定して、愛して、望むままにしてあげるから。


 ────意識を失った芽依を横抱きにして車まで運んだ。

 後部座席に寝かせ、彼女の荷物を足元に置く。


 ころん、と鞄から苺ミルクのペットボトルが転がり落ちた。


(あとで回収すればいっか)


 自分の鞄を助手席へ載せて運転席に乗り込む。

 パーカーのファスナーを上まで上げておいた。


 制服姿は何かと目立つ。

 運転していて不審に思われたり、たまたま警察に声をかけられたりしたんじゃたまらない。


 免許だってないんだし、そんなことをきっかけにこれまでの余罪(よざい)が明るみに出たら困る。


 “万が一”があってはいけないんだ。

 いままでそうしてうまくやってきた。




 芽依を監禁部屋へ運び入れると、手錠と結束バンドで拘束した。

 さらにガムテープで口元を覆っておく。


「さてと……」


 部屋と玄関に鍵をかけて再び家を出る。

 早く車を返しにいかなきゃ。


 しばらくは芽依も目覚めない。

 鍵もかかっていることだし、起きたとしてもあの拘束じゃ逃げられない。


 難なく車を元に戻すと、再び徒歩で帰路についた。

 スペアキーを眺める。


『……おまえ、俺の車使ったか?』


 前に一度、颯真にバレた。

 また何かの拍子に疑われるかもしれない。


 しばらく車も必要ないし、スペアキーの扱いには気をつけないと。

 見つからないよう、家の中に隠しておこう。


 玄関を開けると、羽織っていたパーカーを脱いだ。


(芽依ちゃん、早く起きないかなぁ)


 もう起きてるかも、そうだといいな、なんて期待しながら監禁部屋へ向かう。


 ドアを開けると、意識を取り戻した芽依が拘束されたまま座り込んでいた。


 俺を捉える瞳は混乱と恐怖に染まりきっていて、指先がぞくりと興奮で痺れる。


 人を純粋な好意で追い詰めていた彼女に分からせてあげたい。

 たとえ無自覚でも、愛や恋心は時として“鎖”になるんだって。


 これはすべて、きみが招いたことだから。


「おはよう、芽依ちゃん」


 明るく微笑みかける。

 ────そうして、芽依との生活が始まった。




     ◇




 ソファーに倒れ込んだまま目を閉じた。


(色々あったけど、芽依との生活が一番長く続いたなぁ)


 最後まで飽きなかった。

 終わらせるのが惜しいくらい。


(あんなふうに死んでいったの……芽依が初めて)


 俺の本性や本当の目的を目の当たりにしたのに、逃げも恐れもしないで。

 あんなに、幸せそうな顔で────。


「最初の頃は、必死で抵抗したり逃げようとしたりしてたのにね」


 (あざけ)るように呟いたつもりが、声は思いのほか寂しげに滞空(たいくう)して消える。


 そういう反抗的な態度はほかの女と変わり映えしなかったけれど、途中から行動が予測不能になって面白かった。


 目を開けると、弾みをつけて起き上がる。


 そうでもしないと何だか身体が重たくて、どんどん沈んでいくような気がした。


「…………」


 俺が人殺しだって気づいても、それでも好きだと、そばにいると言ってくれたのも、芽依が初めてだった。


(ちゃんと俺のことを好きになってくれたか何度も試したけど……必要なかったかもね)


 そんなことを考えながら、再び監禁部屋へ戻る。

 いまは布団が横たわっているだけ。


 洗濯するために外したカバーには、まだ香りが残っている気がする。


 俺のか、彼女のか、もう分からないけれど。


「あんなふうにさ、一緒に眠ったのも初めてだったんだよ。……芽依って大胆なとこあったんだね」


 あの夜は、確かに何の思惑もなくただの俺として接せられたような気がする。

 等身大の自分でいられた。


 手を繋いだまま眠りに落ちたからか、目覚めるまで一時(いっとき)も寂しくなかった。

 優しい温もりが、心の空洞を満たしてくれたのだ。


 芽依のペースに飲まれて悔しくも思ったけれど、嫌じゃなかった。

 正直、悪くなかった。


(……変だね)


 これは俺が見せる夢なのに。

 俺が与える感情のはずなのに。


 気づかないうちに手に力が込もって、布団に渦のようなしわが寄った。


 ────俺の颯真に対する感情は確かに愛にほかならないし、そもそも恋心なんて愛情の紛いものだと思っていたのに。


 ()まない喪失感に、ずき、と心が痛む。


 震える手を見下ろした。


 包丁を突き刺した瞬間が忘れられない。

 頭から離れない。


 思い出すと、未だに苦しくなる。


(こんなのも、初めてだよ……)


 颯真に近づく“邪魔者”を消すのは、俺の使命だと思っていた。


 彼のためなら何でもできる。


 罪を犯すのは、彼への愛情を確かめるための行為でもあった。


 どんな悪いことでも、人殺しでさえも、平然とやってこられた。

 それは颯真への愛があってこそ。


 後悔はないし、繰り返すたびに安心した。

 颯真のためにここまでできる、ああ、俺はちゃんと彼を愛しているんだ────そんなふうに。


 殺してしまえば、もう相手を思い出すことなんてほとんどなかった。


「なのにさ、何で……」


 ぎゅう、と手に残る感触を必死で握り潰すとかぶりを振った。


(……こんなの恋なわけないじゃん。ばかなの、俺?)


 もしそうだったら、颯真への愛が偽物だったと、生半可(なまはんか)な覚悟しかなかったと認めることになってしまう気がする。


 これまでにやってきたことすべてを否定することになる。

 無意味なものにしてしまう。


 芽依は颯真を困らせた元凶。

 颯真に近づいた“邪魔者”。


 俺が許すはずない。

 ましてや好きになるわけもない。




     ◇




 あれからもう、ひと月近く経った。

 “新しい生活”が始まろうとしている。


 俺はコンビニに寄って、サンドイッチと水を手に取った。


 そのとき、ふいにちらついた記憶に嫌気がさす。


 どこにいても、何をしていても、未だに芽依との思い出が俺の足を止める。


『ちょっとだけ、一緒に外出ない?』


 そんなふうに連れ出して、コンビニへ行ったりなんかして。

 普段の俺なら考えられない行動だ。


 どうかしていたかもしれないけれど、後悔はしていない。


『俺もきみも逃げられない。それとも、このまま警察でも行く?』


 あのときだけは本気で、もうすべてを終わらせてしまってもいいような気になっていたのかもしれない。

 終わらせられるなら、もう────。


(……ちがう)


 芽依が逃げないことは分かっていたんだ。通報されない確信もあった。

 あの段階まで来て、俺を裏切れるわけがないんだから。


 ひっそりと息をつく。

 集中しないと。


 芽依の時間は俺が止めたし、ふたりの時間も決して戻らない。


 これからも俺は颯真のために、彼への愛に生きるのだ。

 彼がいなかったら、いまの自分はきっとないのだから。


 それなのに、ふとしたときに芽依の存在が心の隙間に割り込んできて、そのたび俺は前へ進めなくなる。


『わたし、十和くんに攫われてよかった』


『────嬉しい』


 記憶の中で彼女が笑う。


 (あざむ)いて、苦しめて、殺したのに。

 俺のことが憎くないの……?


(ほんっと、ばか)


 頭が痛い。心が痛い。

 まともに息も吸えないほど。


 慣れたはずなのに、どうしていまさらこんなに動揺しているんだろう。




 ────ばたん、と玄関のドアを閉めて鍵をかける。


 力が抜けて取り落としたコンビニの袋を放ったまま、ふらりと洋室へ向かった。

 クローゼットを開けると、服が整然(せいぜん)と並んでいる。


 (すが)るように、カーディガンを掴んで握り締めた。


『わたしはどこにも行かないよ。十和くんのそばにいるって約束した』


 本当だったのかな。

 俺がそれを信じていたら、何かが変わっていた?


『ぜんぶ分かってるのに、どうしようもないくらい好き』


 受け入れてくれたのは芽依だけだった。

 俺という人間も、人殺しだって事実も、殺意も。


 本当の意味で芽依に心を開いていたなら。

 俺も、自分の“変化”を受け入れることができていたなら。


 過去の罪が消えるわけじゃないけれど、何もかもを終わらせられていたのだろうか。


「芽依……」


 ────本当に、これでよかったのかな。


「ずるいね。……もういないのに」


 もういないのに、惑わしてくるきみも。

 もういないのに、いまさら求めてる俺も。


 後悔しても遅い。

 残ったのは、痛みと思い出と空虚(くうきょ)な日々だけ。


 後戻りなんてできない。


 俺はこんなことを繰り返しながら、“愛”のために生きていくしかないのだろう。




 監禁部屋のドアを開けると、怯えた眼差しが俺を捉えた。


「おはよう」


 また、甘ったるくて退屈な日々を始める。


 俺の愛が本物だと証明するために。

 後悔や彼女が見せてくれた可能性を忘れ去るために。


 ────俺は、間違ってない。




【完】

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