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スイート×トキシック  作者: 花乃衣 桃々
◆エピローグ
5/7

『溺愛』


 シューズロッカーを開けると、今日もまた“謎の封筒”が入っていた。


 周囲を見回すも、特に怪しい人影はない。


 取り出した封筒は淡いピンク地にリボンやレースの柄が入った、いかにもかわいらしいデザインだ。

 裏返してみても差出人の名前は書いていない。


「またか……」


 これで何度目だろう。

 中身は大抵(たいてい)、手紙だった。


 丸っこい文字でつらつらと想いの(つづ)られた、いわゆるラブレター。


 職員用のシューズロッカーは生徒たちのものと同様に錠のないタイプで、誰でも容易に開け閉めできる。


 そのせいで誰が入れたのか、その現場を目撃でもしない限り特定するのは難しかった。


 誰からの告白かも分からない以上、返事のしようもないのにどういうつもりでここに入れているのだろう。


 以前見たとき「宇佐美先生の授業がいつも楽しみです」とあったことから、相手は俺の受け持っている生徒だろうことは分かる。


 最初はいたずらだと思い、無視するつもりだった。

 しかし、だんだんと手紙の頻度が増えてそうもいかなくなった。


 国語の教師だったら、ノートやテストの筆跡と照合すれば特定できるかもしれない。


 担当の教員に聞いてみようかとも考えたが、断りもなく人の手紙(しかもラブレター)を見せるのは気が引けた。

 誤解されて不祥事(ふしょうじ)扱いされても困る。


 ため息をついたとき、はたと予定を思い出す。


(……そうだ、時間)


 今夜は大学時代の友人たちと会う約束をしていたのだった。


 一応、手紙をしまうと、職員玄関を出て駐車場へ向かう。

 腕時計を確かめつつ車を発進させた。




「あ、来た来た」


 指定された居酒屋の前にはふたりの人影があった。

 どちらも同じ大学出身の気心知れた友人だ。


「遅ぇよ、颯真。どんだけ待たせんだよ」


「そうよー。しかも車で来たの?」


「悪い。家戻ってる時間なかったんだ」


 合流しつつ、あたりを見回す。

 4人で集まる予定だったはずだが、もうひとりの姿がない。


「……紗奈(さな)は?」


「昨日まで乗り気だったんだけどね。今日はなぜかずっと連絡つかないの」


 妙だとは思ったものの、深くは気に()めなかった。

 そのうち来るだろう、と軽く考えながら3人で店へ入る。


 しかし、その日、彼女が現れることはなかった。




     ◇




 すっかり日が落ちた頃、片手にスーパーの袋を()げてインターホンを鳴らした。


「はーい、待ってたよ」


 慌ただしい足音がしてすぐにドアが開くと、十和が爽やかな笑顔で出迎えてくれる。

 その言葉通り、どこか嬉しそうに見えた。


 俺たちは兄弟だが互いにひとり暮らしだ。

 住んでいる家こそちがうものの、たびたびこうして一緒に夕食をとることがあった。


 大抵、俺が適当に材料を買っていって十和が作る。

 こいつは案外、料理がうまかったりする。


「んー……じゃあ今日は生姜(しょうが)焼きと唐揚げにしよ。腹減ったし」


 買いもの袋の中を覗いた十和がひとりごちた。


「手伝うか?」


「いい、疲れてるでしょ? リビングで待っててよ」


 そう言われ、労わってくれた十和の厚意に大人しく甘えさせてもらうことにする。




「え、手紙?」


 ダイニングでテーブルを囲むと、箸を止めた十和が困惑したように聞き返してきた。


「ああ……。最近、俺のシューズロッカーに入れられてるんだ。差出人不明の手紙が」


「へー、どんなの?」


 少しためらったものの、結局立ち上がった。

 脱いだ上着のポケットから今日受け取ったものを取り出して渡す。


 生徒という立場にある十和なら、もしかしたら何か知っているかもしれない。


「……ラブレターだね」


 封を剥がし、ざっと目を通した彼は苦く言う。


「しかも生徒から? 禁断の恋じゃん」


「……茶化すな。俺も困ってるんだ」


 くす、と笑った十和は便箋(びんせん)を折り畳んで封筒へ戻した。


「じゃあ、俺が何とかしてあげるよ。これ以上エスカレートする前にさ」


「できるのか?」


「任せといて。……ちょっとやることあるから、それが終わってからになるけど」


 十和がそう答えたとき、ふいにテーブルの上に置いていた俺のスマホが震える。


 穂乃香(ほのか)からの着信だった。


 彼女とはこの間、居酒屋で会ったのが最後だが、音信不通の友人を案ずるようなメッセージがそのあとも何度か届いていた。


「悪い、ちょっと」


 ────断ってから廊下に出ると、“応答”の表示をタップする。


「もしもし」


『紗奈から連絡あった?』


 焦燥(しょうそう)を隠しきれていない、不安に満ちた声色だった。


「いや」


『そっか、わたしにもまだ。……大丈夫かな』


「そうだな……」


 生返事に(いきどお)ったのか、一瞬電話口の向こうが静かになる。


『何それ、心配じゃないの? もう1週間も音沙汰ないんだよ』


「心配だけど……」


 急に連絡を絶つなんて確かに不自然ではあるし、その身を案じる気持ちも分かる。

 しかし、彼女は別に子どもじゃない。


 それに、俺たちは確かに友人関係にあるものの、毎日顔を合わせているわけではないのだ。


 本人にしか分からない事情があっても何らおかしくはない。

 無闇に踏み込んでいいものか、簡単には判断できない。


『だったら一緒に捜そうよ』


「え? 何でそうなるんだよ」


 戸惑って反論したものの、彼女は聞く耳を持たなかった。


『とりあえず紗奈の家行こう。迎えにいくね』


「おい────」


 一方的に通話を切られた。


 そう言われた以上、一旦家に帰るしかない。

 穂乃香を放って、それこそその身に何かあったら俺のせいだ。


 ダイニングへ戻ると、素早く上着を羽織った。


「あれ、もう帰っちゃうの?」


「悪い、十和。ちょっと急用が入った」


「えー、でもまだ全然食べてないのに……」


 彼は眉を寄せ、不満気な顔をする。


 せっかく作ってくれたものを、俺としても申し訳なくて心苦しい。


「本当にごめんな。また来るから」


 なだめるようにその頭を撫でる。

 つい、幼い頃のくせでやってしまった。


 怒るかと思ったが、予想に反して十和はほんのり嬉しそうに「分かった」と頷いてくれた。




 家へ帰り着くと、既に穂乃香の姿があった。


 心なしかこの前よりやつれているように見える。

 顔色は悪いし、小花柄のワンピースから伸びる手足も青白いような気がした。


 車から降りた俺に「颯真」と呼びかけながら歩み寄ってくる。


海斗(かいと)は?」


 この間会った、もうひとりの友人について尋ねる。

 てっきり彼にも声をかけているかと思っていたが。


「残業だって。わたしたちだけでも行こう」


 強く手を引かれ、その冷たさに驚いてしまう。


「待て、そう先走るなよ。紗奈は自分の意思で連絡を絶ってるかもしれないだろ」


「ちがう」


 硬い声色で、はっきりと言いきった彼女はそれからうつむく。


「……本当は喧嘩したの、わたしたち。みんなで集まった日の前日」


「何で?」


 そう聞き返すと、彼女は勢いよく顔を上げたものの、またすぐに目を落とした。

 言いづらそうに答える。


「紗奈が“明日、好きな人に告白する”って言うから……。わたしもその人のこと好きなのに」


「え?」


「分かってる、子どもっぽいよね。でもついカッとなってひどいこと色々言っちゃった。あの子、気が弱いから、たぶんそのせいで……」


 穂乃香が彼女の安否を誰より気にしていた理由が分かった。

 だが、それこそ幼稚と言わざるを得ない結論だろう。


「落ち着け。そんなことで1週間以上も連絡を絶つのは不自然だ」


「そんなことって、元はと言えば颯真のせいで……!」


「なに言って────」


「好きなんだよ。わたしも紗奈も、颯真のこと。“好きな人”ってあんたのことなの!」


 そう言うと、彼女は顔を(そむ)ける。


 勢い任せに告げられた内容に、しばらく理解が追いつかなかった。

 その気持ちには、いままでまったく気づかなかった。


「……もういいよ。颯真が行かないなら、わたしひとりで探しにいくから」


 きびすを返した彼女を呆然(ぼうぜん)と見送りかけて、はたと我に返る。


「待てって」


 慌てて引き止めるも、相当強い決意を固めているらしく一切振り返らなかった。

 夜の闇の中にその後ろ姿が消えていく。


 ────俺が彼女を見たのは、それが最後だった。




     ◇




 シューズロッカーを眺め、ため息をつく。

 今日も封筒が入っていた。ここのところ毎日だ。


 また手紙だろうか。

 車でひっそり確かめるようにしていたが、それも億劫(おっくう)になってきて、その場で開封した。


「は……?」


 中身は手紙ではなく、写真だった。


 束になった1枚1枚を素早く確かめる。

 そのどれもが俺を盗撮したもののようだった。


(何だよ、これ)


 ぞっとした。

 恐怖心と嫌悪感が込み上げ、思わず顔をしかめる。


 意図がまったく分からなくて気味が悪い。

 俺を困らせて、その様を眺めて楽しんでいるのだろうか。


 頭を抱えてしまう。


 友人の音信不通、不気味な手紙と盗撮写真────妙なことが立て続けに起きて、何から手をつければいいのか分からなくなる。


(十和……)


 手紙については任せてくれ、と頼もしいことを言ってくれたが、進捗(しんちょく)はどうなっているのだろう。


(この間の埋め合わせをするか)


 帰りに材料を買って彼の家へ寄ろう。

 少し、頭の整理もしたい。




 あたりはすっかり暗くなっていた。


 職員玄関を出ると、駐車場へ向かう。

 いつも通り車に乗り込んだとき、ふと違和感を覚える。


「ん?」


 自分で動かした覚えはないのに、座席位置が変わっているような気がする。

 わずかなものだが、普段と感覚がちがう。


(まさか、手紙の送り主が……?)


 とっさによぎると、不快感と嫌悪感が肌をなぞって粟立(あわだ)った。


(いや、待て。さすがにないだろ)


 キーは鞄の中に入れていたし、その鞄はずっと職員室に置いてあった。


 生徒が容易に持ち出せるわけがない。

 絶対にほかの教員の目に触れる。


 それ以外で俺の荷物に触れる隙があったのは、友人か十和くらいだ。


 そんなことを考えつつ、ダッシュボードを開けてみる。

 入れっぱなしにしていたスペアキーがなくなっていた。


 訝しく思いながらスマホを取り出し、友人に電話をかけてみる。


 彼を疑っているわけではないが、確かめておけば可能性を(しぼ)り込める。


『もしもしー』


「もしもし、海斗。聞きたいことがあるんだが……」


『おお、どうした? いまから彼女とデートだから手短に頼むな』


 声のほかにごそごそと物音がしている。

 どうやら通話をスピーカーに切り替えて準備しているらしい。


「ああ、悪い。この前飲んだ日、俺の車乗ったりしたか?」


『え、してないけど。酒飲んでたし』


「……そうだよな」


『おう。でも、何で? 何かあったか?』


 普段通りの明るい声を聞き、俺もいくらか平静を取り戻すことができた。


「いや、気にするな。それより変わったことはないか」


『変わったことー?』


 うーん、と考え込む。


『特にないと思うけど。あ、もしかしてあいつらのことか?』


 未だに連絡のつかない友人ふたりのこと。


 紗奈を捜そうと躍起(やっき)になっていた穂乃香ともコンタクトが取れなくなった。

 さすがに不自然と言わざるを得ない。


『何だよ、おまえまで深刻ぶって。大丈夫だって! 仲直りしてふたりで旅行でも行ってんじゃね?』


「そうか……?」


 確かにこれまでも毎日頻繁に連絡を取り合っていたわけではないし、行動を逐一(ちくいち)報告し合う義理もない。


 気にしすぎだと言われればそうかもしれないが、何ともなかったのならひとことくらいあってもいいのに。


『とりあえず切るぞ。もう行かねぇとだから』


「ああ、悪かったな。また」


 通話を終え、ひっそりと息をつく。


 こうなった以上、車を動かしたのは────。




 いつものようにスーパーに寄ってから十和の家を訪ねた。

 インターホンを鳴らす。


 気だるげにドアを開けた彼は、驚いたような顔をした。


「あれ……」


「連絡もなしに悪いな」


 いつも通り上がろうとしたものの、なぜか(はば)まれる。

 伸ばした手を戸枠に置き、進路を塞いできた。


「ごめん、今日はちょっと」


 困ったように苦笑するも、その先に言葉が続けられる気配はない。


「……そうか。そういうこともあるよな」


「ごめんね、せっかく来てくれたのに」


「いや、突然来た俺が悪かった。これだけでも渡しておく」


「ありがと」


 買いもの袋を受け取った十和は、いつものように笑った。

 それをじっと見据えつつ単刀直入に切り出す。


「……おまえ、俺の車使ったか?」


 弾かれたように顔を上げる。

 はっとしたその表情は、心当たりがあることを物語っていた。


「……バレたかぁ。ちゃんと元通りにしたつもりだったのにな」


 肩をすくめつつも悪びれない十和に眉をひそめる。


「おい、分かってるのか? 無免許なんだし事故でも起こしたら────」


「分かってるって。ごめんごめん」


 俺はため息をつき、てのひらを差し出した。


「スペアキー返せ」


「あー……ごめん、なくした」


「はぁ?」


「ごめん! 本当にごめんなさい」


 そんなばかな、と思ったものの、十和は神妙な様子で(ひら)謝りしている。


 そういう顔をされると俺は弱い。

 分かっていても怒れなくなる。


「一生懸命探すから! あ、手紙のこともちゃんと調べてるよ」


 “手紙”という単語に、図らずも身体が強張った。


「その件なんだが……」


 手紙のみならず、写真までもが入れられていたことを伝える。


「盗撮? ……それってもうストーカーじゃない?」


 眉を寄せつつ、怪訝(けげん)そうに十和が言う。


 ストーカー。

 何だか一気に不穏さが増す響きだ。


「いっそのこと警察に……」


「ちょっと待って。それは得策(とくさく)じゃないと思うなぁ」


「何でだ?」


「だって、そんなことしたら逃げられちゃうよ」


 何を懸念(けねん)しているのかいまいち分からなかった。


 逃げられる、ということは手紙や写真を送りつけられることがなくなるのだろうが、それならその方がいいに決まっている。

 そのために警察を頼るのではないか。


「ストーカーさんだってそんなんで引き下がるほど単純じゃないだろうし、そしたら今度は直接アプローチしてくるかもよ」


「え?」


「逆上して逆恨みとかされたら、よっぽどめんどくさいと思わない?」


(確かに……)


 十和の言い分には一理あるように思えた。


 得体の知れないストーカーが直接接触してくると考えたら、その方がよっぽど恐ろしい。


「じゃあ、俺はどうすれば……」


「大丈夫! 俺が何とかするからさ、兄貴は何も心配しないで」


 向けられた笑顔は自信に満ちていて、この上なく心強い。


 だが、どこか圧を感じるような強い感情が秘められている気がする。


「あ、ああ……。頼む」


「うん! じゃあまたね」


 やや気圧(けお)されながら頷くと、にこやかに見送られた。

 ばたん、と目の前でドアが閉まる。


 兄としては情けないものの、この件に関しては十和を信じて頼るほかない。




     ◇




 放課後になると、校舎内の空気が一気に緩んだ。


 はつらつと部活に向かったり帰路についたりする生徒たちの間を()って廊下を歩いていく。


「はぁ……」


 深々とため息をついてしまう。


 ストーカーはいまこの瞬間も、俺を見ているのだろうか。


 常にそんな思考が湧いて、どこにいても気を抜けなくなった。

 精神的にかなり参ってしまい、神経が摩耗(まもう)する。


「宇佐美先生、さよならー」


「……ああ、気をつけて」


 生徒たちに返す声も表情も硬くなる。

 目の前にいる生徒こそがストーカー本人かもしれないのだ。


(先生失格だな……)


 生徒を信じられなくなったら終わりだろうに。

 不甲斐なさと不安とがせめぎ合っていた。


 何気なく吹き抜けから階下を見下ろしたとき、十和の姿があった。

 誰かと楽しげに話し込んでいる。


(あれは……日下か)


 周囲の喧騒(けんそう)に溶けて、会話までは聞こえない。

 しかし、かなり仲睦まじいように見える。


(いつの間に……)


 まったく気づかなかった。

 ここのところ十和の態度が妙だったのは、恋(わずら)いだったのだろうか。


 何となく微笑ましくなり、久しぶりに心安らいだ気がする。


 ────それからというもの、十和が日下に構う姿をよく目にするようになった。


(うまくいくといいな)


 そのたびに俺は、密かにそんなことを願っていた。




     ◇




 日下が行方不明になった。


 何かに悩んだり家庭に問題を抱えたりしている素振(そぶ)りはなかったため、家出ではなく何らかの事件に巻き込まれたのではないかと思えてならない。


『ばいばい、先生』


 最後に見たときも何ら変わった様子はなかったのに、友人たちに続いて彼女までもが消息を絶ってしまった。


 いずれも切迫した状況に置かれている可能性を無視できなくなってきた。


 俺でさえこれほど心落ち着かないのに、突如として好きな子が失踪するというとんでもない事態に見舞われた十和は、いったいどれほど不安だろう。


 ────チャイムが鳴る。

 朝のホームルームの時間だ。


 日下の安否と十和の心情を案じながら教室へ入った。


「欠席している日下だが、昨日から自宅に帰ってないそうだ。いまも連絡がつかない」


 挨拶もそこそこに本題を切り出すと、途端に教室内がざわめき出す。


 家出などの可能性もないわけではないし、余計な不安感を(あお)るかもしれないため、生徒に伝えるのは早計(そうけい)だとの意見を持つ教員もいた。


 だが、親御さんたっての申し出で事情を打ち明けることになったのだ。

 少しでも手がかりを得られるなら、と。


「誘拐……ってことですか?」


「まだ分からない」


「えー、怖い。生きてるのかな」


「静かに」


 飛び交う憶測や不安を制して続ける。


「どんな些細なことでもいい。何か知っていることがあれば迷わず先生に教えてくれ」


 再びざわめきが波紋のように広がり大きくなる中、俺は心配になって十和を見やった。


「…………」


 しかし、予想に反して意外にも平然としている。

 頬杖をついたまま退屈そうに宙を眺めていた。


(十和……?)




 日が落ちた頃、警察や日下の両親とともに学校周辺の捜索に当たる。

 退勤時間は過ぎているが、教員も駆り出されていた。


 当然だ。

 安否も行方も分からない生徒を放ってはおけない。


 しかし、数日経っても成果はまるで上がらず、時間と体力だけが削られていく。


 十和とまともに話すタイミングもないまま、無情にも1週間近くが経ってしまった。




     ◇




 朝、職員用の駐車場に車を停めたとき、かたん、と微かな物音がした。


 後部座席の方からだろうか。

 (いぶか)しく思いながら車を降り、ドアを開ける。


「これは……」


 足元に苺ミルクのペットボトルが転がっていた。

 中身はまだ8割以上残っている。


 甘いものが苦手な俺が飲むはずもなく、そもそもこんなものを買った記憶もない。


 自然と、日下を最後に見かけた放課後のことが思い出された。


 あの日、彼女は十和と一緒にいた。

 ふたりでこの苺ミルクを飲みながら。


(……どういうことだ?)


 それが、なぜこんなところにあるのだろう。


 十和のものだろうか。

 あいつがまた勝手に車を使って置き忘れたのかもしれない。


(後部座席の足元に?)


 わざわざそんなところに置くだろうか。


 不自然と言わざるを得ず、妙な胸騒ぎを覚える。


 帰ったら処分するとして、ひとまずペットボトルをドリンクホルダーに入れておいた。




 放課後、久しぶりに手が空いた。


 職員室へ寄ってから教室に戻ると、十和が友人に手を振りつつ扉から出ていくところだった。


「朝倉」


 すかさず引き止める。

 ようやく話ができそうだ。


「あ、なーに? 先生」


 振り向いた十和は緩やかに微笑み、首を傾げている。


 想像していたよりずっと元気だ。

 てっきり日下のことが心配で消沈していると思っていたが。


 だとしても、これほど暢気(のんき)に構えていられるものなのだろうか。


「日下のこと……何か知らないか」


 大丈夫か、と案じるつもりが、気づけばそう尋ねていた。

 車内で見かけた苺ミルクのペットボトルが脳裏(のうり)をちらつく。


 十和の顔から笑顔が消える。


「……芽依ちゃんのこと?」


「ああ。日下が行方不明になった日の放課後、おまえと一緒にいたよな」


 もしかすると、俺の知らない“その後”を知っているかもしれない。


(いや……)


 知っているなら、真っ先に言うだろう。

 手がかりを惜しむはずがない。


 十和が日下を心配していないわけがないのだから。


「んー。確かに一緒にいたけど、学校出る前に別れちゃったんだよね」


「ふたりで帰ったんじゃないのか?」


「ううん、帰ってない。あ、何なら確かめてみてよ。校門前って防犯カメラあるんでしょ?」


 確かに、一緒に帰ったのだとしたら記録に残っているはずだ。


 防犯カメラなら警察も確認しているはずだが、特に何の糸口も掴めていないようだった。

 十和は嘘をついていないのだろう。


(……当たり前か)


 日下に関して手がかりを得られなかったことには落胆してしまうが、十和の関与が決定的にならずに済んだことに安堵(あんど)する。


「……そうだな。日下は下校中に何かに巻き込まれたのかも」




 シューズロッカーを開けた。

 ここを開けることに抵抗や恐怖がなくなっていることに気がつく。


 そういえば、封筒が入っていることがなくなった。


(いつの間に……?)


 それどころではない状況に見舞われ、すっかり忘れ去っていた。


 ストーカーの気配は気づかないうちにどこかへ遠ざかったようだ。


 本当に、十和が宣言通り何とかしてくれたということなのだろうか。


 いずれにしても、これで日下の捜索に集中できる。

 友人たちのことも気がかりだし、それも確かめたいところだが────。


 車に乗り込むと、ドリンクホルダーのペットボトルが目に入った。


 そうだった。

 これや車のことも十和に聞くべきだった。


 その疑念を解消しない限り、覚えた違和感はきっと消えない。


「…………」


 自宅へ帰り着くと、キッチンでペットボトルを眺める。


 これほど気にかかるなら、いまからでも聞けばいい。


 普段なら迷わずそうするだろうが、事が事だけに踏ん切りがつかない。


 十和の態度は不自然なものだし、看過(かんか)できない痕跡まで残っている始末。

 信じるためには、疑ってかかるしかないのかもしれない。


 表情の強張りを自覚しながら、中身を流しに捨てた。




     ◇




 授業の入っていない時間、雑務(ざつむ)もそこそこに職員室を出た。


 音を立てないよう教室へ忍び込む。

 いまは体育の授業中で誰もいないとはいえ、見つかったらただでは済まない。


 十和の席に歩み寄り、荷物を机の上に載せる。


(もしこの中にスペアキーがあったら……)


 そんなことを考えながら、鞄の中を漁ってくまなく探した。


 財布を開けたとき、思わぬものを見つけた。

 錠剤のシートだ。


 そこに書かれた名前で検索をかけてみると、睡眠薬であることが分かった。

 しかも、かなり強力なものだ。


「何でこんなもの……」


 そう呟き、はたと思い至る。


 気丈に振る舞っているが、本当は満足に眠ることもできないほど、日下が心配なのかもしれない。


 無理をしていないか気にかけながら、シートを元に戻しておく。


 結局、十和の鞄からスペアキーは見つからなかった。




 放課後になり、教室内の人影が(まば)らになる。

 十和がひとりになったのを見計らい、その机の方へ向かった。


「あ、先生ー」


 鞄を手に立ち上がりかけた彼は、俺に気づくとゆったりと座り直す。

 俺は前の席に腰を下ろした。


「何か話あった?」


「……おまえ、眠れてないのか?」


 何でもないことのように尋ねたかったのに、図らずも声が硬くなる。

 十和が不思議そうに瞬いた。


「日下が心配で?」


「え? んー、確かに心配だけど……眠れないってほどじゃないかな」


 浮かべた笑みは弱々しい。

 わざわざそんなこと、嘘をつく必要もない。


 日下の件に無頓着(むとんちゃく)なのではなく、現実逃避的な心理が働いているのかもしれない。

 防衛本能として。


(だが、それならあの睡眠薬は?)


 もや、と胸の内に(かすみ)がかかる。

 腑に落ちない気持ちをどうにかおさえ込み、立ち上がった。


「……そうか。ならよかった」


 少なくともちゃんと眠れているのであれば、それに越したことはない。


「気をつけて帰れよ」


「うん、ありがと。じゃあねー」




 職員室へ戻るなり、先輩の教員に「宇佐美先生」と呼びかけられた。


 そのそばには、日下の件で動いてくれている刑事と警察官の姿がある。

 彼らに会釈すると、先輩がさっと寄ってきた。


「どうしたんですか?」


「何か、刑事さんから話があるって。宇佐美先生、日下さんの担任でしょ。これからは宇佐美先生が積極的に対応してくれる?」


「ああ……分かりました」


 それは担任として当然の責務だろう。

 毅然(きぜん)として頷き返すと、刑事のもとへ歩み寄る。


「お疲れさまです」


「お疲れさまです、先生。お忙しいところ申し訳ないんですが、ちょっと一緒に見てもらいたいものがありまして」


 初老の男性刑事に促され、彼らとともに1台のパソコンを囲む。


 モニターに映し出されているのは校門前の監視カメラ映像だった。

 右下に表示されているのは、日下がいなくなった日の日付。


「再生しますね」


 映像が動き出した。

 生徒たちが門を潜り、それぞれ帰路についていく。


 しばらくして日下がひとりで歩いてきた。

 門を潜ると、生い茂る木が邪魔になってその姿が見えなくなる。


「改めての確認ですが、この子が日下芽依さんで間違いないですよね」


「……はい、そうです」


 心臓が緊張したような音を刻んでいる。

 正直、ひやひやしていた。


 もしかしたら、日下と一緒に歩く十和の姿が映っているのではないか、と無意識に考えていた。


 それから数人の生徒が(まば)らに門を潜ったあと、間を置いて十和が歩いてくる。

 確かに彼もひとりで、嘘をついていなかったことに内心ほっとしてしまう。


 映像が終わると、刑事は困苦(こんく)を滲ませつつ腕を組んだ。


「これが彼女の最後の足跡なんですが……これだけじゃやっぱり厳しいな」


 その足取りを知る唯一の手がかりなのだろうが、手がかりとすら呼べないほど何の情報も得られない。


 そのとき、はたとひらめいた。

 この木の下は死角だ。


(そこで合流している可能性は大いにあるわけか)


 その唐突な思いつきを口にする気にはなれなかった。


 警察が誘拐事件として生徒まで疑っているのかは知らない。

 しかし、十和を犯人候補のひとりにしてしまうように思えて。


「すみません、宇佐美先生」


 刑事に声をかけられ、はっと我に返る。


「何でしょうか」


「先生方を疑ってるようで恐縮なんですが、念のため職員駐車場の映像も見せてもらえますか?」


 胸の内のざわめきが増す。

 どく、と重々しい心音が鳴る。


 無断で俺の車を使っていた十和。

 後部座席に残されていたペットボトル。

 隠し持っていた睡眠薬。


 そのほかにも彼の不自然な態度や行動が引っかかっており、とっさに頷くことができなかった。


 ありえない、と思いたかった。


 しかし、日下の失踪に十和が無関係であると言うには、あまりに“残り香”が強すぎる。

 至るところに痕跡が見え隠れしている。


「……すみません。そこのカメラはダミー状態なんです」


「ダミー?」


「故障中でして。1か月近く放置されてます」


 ────嘘をついてしまった。


 平静を装うが、先ほどの比じゃないくらいに心臓が早鐘(はやがね)を打っている。


 バレたらどうなるのだろう。

 犯人隠避(いんぴ)の罪になったりするのだろうか。


 隙のない刑事の眼差しにさすがに怯みそうになるも、ややあって彼は落胆気味に視線を外した。


「……そうですか。こりゃ難航するな」


 懐疑(かいぎ)を免れたようで、思わず息をつく。

 何だか酸素が薄かった。


「ちなみに、不審車両の目撃情報があることはご存知ですか?」


「……あ、はい。新聞やネット上にも記事として出てますよね」


 何とかそう返すものの、頬が強張ってしまう。


 車種が俺のものと同じということに加え、十和が動かした形跡もある以上、疑惑は確信へと変わっていた。


「ええ、先生も同じ車に乗られてるそうで」


「それは……わたしが疑われてるということでしょうか」


「いえいえ、一応参考にはしてますがそれだけで容疑者にはできませんよ。ナンバーも分からないし、よくある車種ですからね」


 その言葉が本当ならば、さほど疑われてはいないようで少しだけ力が抜けた。




 ────警察への対応と雑務を終えた頃には、すっかり夜になっていた。


 駐車場に停めた車の中で、項垂(うなだ)れるようにハンドルに突っ伏す。


(十和は、なぜ日下を……?)


 好きだったんじゃないのだろうか。

 それが高じて異常な愛情表現に走ってしまったのか?


(そうだとしたら、俺の友人たちが音信不通になった件とは、さすがに無関係だよな……?)


 十和の荷物の中にあった錠剤のシートのことを思い出す。


 日下を(さら)うのにあの睡眠薬を使ったはずだ。

 あの苺ミルクに混ぜて飲ませ、俺の車を使ってどこかへ運んだということだろうか。


(そんなにうまくいくか?)


 いずれにしても睡眠薬を使ったのであれば、手出しするにしてもどこかへ連れ去ってから、と考えていたはずだ。


「急がないと……」


 警察より誰より早く、日下を捜し出すしかない。

 これまで以上に本腰を入れて捜索しなければ。


 十和が殺人犯になってしまう前に。

 誘拐犯として捕まってしまう前に。


 急いで車を発進させると、夜の闇を割って走る。


 焦燥感に身を削られる思いだった。

 その狭間(はざま)で切に願う。


(どうか無事でいてくれ、日下)


 十和の────俺の大事な弟のために。


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