第4話
「ただいま、芽依」
ドアから顔を覗かせた十和くんに駆け寄る。
「おかえり」
そう言って出迎えると、彼は後ろ手に隠していた何かを差し出した。
ラッピングされた一輪の薔薇。
ピンクだったり白だったり、ここのところ帰ってくるたびにわたしにくれる。
「ありがとう。綺麗だね」
「芽依に似合ってる。あ、ちょっと待って」
一度部屋から出た十和くんは、花瓶を持って戻ってきた。
そこにはあふれるほどの薔薇が活けられていた。
「芽依がここに来てから毎日1本ずつ増えていって、もうこんなに」
ざっと数えて20本を超えるくらい。
もうそんなに経ったんだ、という気持ちと、まだそのくらいだったんだ、という気持ちとが率直に半々だった。
リボンをほどいて一輪足す彼を眺めていると、小さく笑みがこぼれる。
「十和くんって、意外とロマンチストだよね」
「そうかな。俺はただ、好きな人を幸せにしてあげたいだけだよ。そのためだったら何でもする」
そう言った十和くんの瞳はどこか陶酔気味に見えて、その言葉は溶けない雪のように心に降って落ちた。
ひとりになると、テーブルの上に飾られた薔薇を眺めた。
だめになった分は買い直したのだろうけれど、綺麗に咲いていて目を奪われる。
十和くんの言うような、ふたりだけの世界を彩る“幸せ”の象徴。
はら、とふいに花びらがひとひら落ちた。
わけもなく心がざわめいたとき、ドアをノックされる。
「芽依、開けるよ」
「あ、うん!」
同じ屋根の下で暮らしているだけでも十分だけれど、こうして彼が部屋に来てくれることが何よりの楽しみになった。
ほかの部屋を行き来することも一応できるものの、一度この部屋へ戻って鍵を閉められてしまうと、自由な出入りはできない。
十和くんが学校へ行っている間は仕方ないとして、それ以外はなるべく一緒にいたいのだけれど、用もないのに頻繁に呼びつけてうっとうしがられたくない。
寂しくても我慢しなきゃいけない。
この幸せを守るために。
この部屋でなら、ひとりぼっちでも平気だと思えた。
至るところに十和くんの気配があるから。
────ドアを開けた彼は、なぜか帽子を手にしていた。
黒色のキャップだ。
何だろう、と首を傾げているとゆるく微笑まれる。
「おいで」
言われるがままに立ち上がって歩み寄った。
「ちょっとだけ、一緒に外出ない?」
「えっ!?」
想定外の言葉に、呼吸も思考も止まった。
(そんなことしていいの……?)
世間的には、彼は誘拐犯でわたしは失踪中。
もし警察やわたしの家族、知り合いに見られたらどうするつもりなんだろう。
「一応、これは被っといて欲しいんだけど」
十和くんはキャップを掲げ、わたしの頭にそっと被せた。
「俺のだからちょっとでかいね。でも、いまはちょうどいいか」
確かにキャップはゆるくて、少しでも動けば鍔の部分がずり落ちてくる。
きっと目元は影になって、周囲からは見えない。
「行こっか」
十和くんは何のためらいもなく、当たり前のようにわたしの手を引いた。
「え……っ。ま、待って」
思わず、その場に留まるようにして足を止める。
どうしてそんなに迷いがないの?
どこか吹っ切れたみたいな表情で。
平然としている彼とは裏腹に、わたしの心臓は不安気な音を立てていた。
「いい、の?」
そんなふうにわたしを連れ出して、本当にいいの?
外へ出てしまったら、わたしは十和くんから逃げるかもしれないのに。
がんじがらめのドアも、自由を奪う拘束もないのだから。
本気で走ったら、きっと簡単に振り切れてしまう。
大声で叫んだら、きっと誰かが助けに来る。
平穏なお城の中とはちがって、そんな不確かで危険な場所なのに。
くす、と十和くんは小さく笑った。
「いいよ? 俺に芽依の自由を奪う権利なんてないんだし」
何それ、ととっさに思った。
いままでずっと不自由が当たり前だったくせに。
そうやってわたしを縛りつけてきたくせに。
(どうして、いまさら突き放すの……?)
十和くんはこの生活が終わってもいいのだろうか。
それを、受け入れたというの?
「……あれ、どうしたの。外出られるの嬉しくない?」
わたしが泣きそうな顔をしていることに気づいたのか、彼は不思議そうに首を傾げた。
きゅ、ときつく口の端を結ぶ。
(……わたしは嫌だ)
終わらせたくない。
何も答えないで廊下に出た。
リビングのドアを開けると、テーブルの上に置いてあったものを掴む。
「ちょっと、芽依?」
困惑気味に追いかけてきた十和くんを振り返って、手にした手錠を掲げてみせた。
「それ……」
「つけて。そしたら行く」
玄関のドアが開かれる。
最初にわたしを絶望させたそれは、いとも簡単に外の世界へと繋げてくれた。
もうすっかり夜だったけれど、備えつけの照明のお陰で共用廊下は明るい。
(こんな感じだったんだ)
想像通りといえば想像通り、綺麗で新しそうなレンガやコンクリートのおしゃれな外観。
意外だったのは、マンションはマンションでも低層マンションだったということ。
手すりから見下ろせば、ここは最上階の3階であることが分かった。
目の前に広がった景色は案外、地面と近い。
「…………」
久しぶりに外の世界を目にして、その空気を味わったものの、思ったよりも感動はなかった。
こんな感じ、だったっけ。
部屋の中よりもよっぽど澱んでいるような気がする。
「行こ」
玄関に鍵をかけた十和くんが笑いかける。
何となく、わたしはキャップを目深に被った。
はめた手錠を見下ろす。
金属の輪でわたしの右手首と彼の左手首を繋ぎ、上から袖を被せた。
顔を覗かせる鎖が、ちゃり、と小さく音を立てる。
暗いからよく見えないだろうけれど、誰かに気づかれないか何となく心配になった。
自分から言い出したのに。
「!」
くん、と手を引っ張られる。
何かと思えば十和くんに握られた。
「こうすれば見えないよ」
そう言って、繋いだ手がポケットに入れられる。
彼の服の中は体温であたたかかくて、何だかどきどきした。
ふたりで階段を下りる中、誰かほかの住人に会わないかひやひやしていたものの、幸いにもそんなことはなかった。
やっぱり、ここはかなり閑静な場所みたい。
「芽依、どうしたの? 何か静かだね」
「……ちょっと、緊張してる。怖いのかも」
諸々の事情がバレて困るのは十和くんなのに、どうしてわたしの方が不安になっているんだろう。
(でも……バレたら終わりなんだ)
この生活も十和くんとの日々も関係も、ぜんぶが崩れ去ってしまう。
「大丈夫だよ」
彼は優しく言うと、ポケットの中でひときわ強くわたしの手を握り締めてくれた。
「……いまだから、少し教えてあげよっか」
何を、だろう。
尋ねるように見上げれば、こちらを向かないまま続けられる。
「芽依のこと、ほとんど報道されてないんだよ。行方不明って程度の情報しか出てないの」
「え……?」
「事件性があるって思われてるからだとしたら、犯人を刺激しないためかな。そうじゃないなら、ただの家出って思われてるかも」
わたしたちのことなのに、十和くんはどこか他人事みたいな言い方だった。
「いなくなってからもうすぐ1か月……。普通に考えてもう見つかんないよ」
手がかりはきっと、校門前の防犯カメラ映像だけ。
気を失った後の足跡は何も残っていないはずだ。
十和くんが記録に残らないように動いただろうから。
ふと、以前目にした記事のことが頭をよぎる。
不審車両の目撃情報────自ずと先生のことがちらついたとき、十和くんがいっそう手に力を込めたのが分かった。
「でもさ……警察より熱心にきみを捜してる人がいるんだよね」
「だ、誰?」
両親だろうか。
真っ先にそう思ったけれど、彼の表情を見ればちがうことは明白だった。
「先生だよ」
どく、と心臓が大きく鳴る。
瞳が揺らいでしまうのを自覚した。
(どうして?)
先生は確かに生徒思いで優しい。
だけど、わたしを捜しているのは本当にそれだけが理由?
「意味分かんないよね。……俺も本当ムカついてる」
十和くんの表情に苛立ちが宿った。
低めた声は冷たいのに、確かな怒りが滾っている。
「芽依を攫って閉じ込めたのは、ほかの誰にも渡さないため……。守るためなのに」
心の内で煙のようにたなびいていた違和感というものが、その言葉で形になった気がした。
(“守るため”?)
目撃された不審車両が本当に先生の車だったら────そんな考えが浮かぶ。
ざわざわと言い知れない胸騒ぎがした。
(怪しいのは……先生だったってこと?)
わけが分からなくなってきた。
全然、考えがまとまらない。
(でも、たとえば“先生から守るため”って意味なら)
先生の何らかの狙いがわたしに向いていることに気がついたから、攫って閉じ込めたのかもしれない。
わたしを隠して、手出しできないように。
そうすれば先生の手は届かなくなるから。
誘拐や監禁なんてやり方は強引だし、正当性も何もないけれど。
もしかしたらそれは建前で、本当は彼が最初から言っている通りなのかも。
独占欲と歪んだ愛情から監禁に至った。
いずれにしても、わたしは十和くんに救われた。
それだけはきっと確かな事実。
「だ、大丈夫なの? もし先生に見つかったら……」
彼が独自にわたしを捜索しているというのなら、外のどこも危険な気がする。
こんなふうに出歩いていていいのだろうか。
「大丈夫、この時間ならまだ学校にいるでしょ。万が一見られたとしても、これじゃ気づかないって」
ぽん、と彼はキャップごとわたしの頭を撫でた。
その顔にはすっかり余裕の笑みが戻っている。
「そっか。……それならよかった」
けれど、胸の内に広がったもやもやは色と濃度を増していく。
(何か……。何かがずっと引っかかってる)
鮮烈に焼きついて離れないのは、あのワンピースや服の存在と染みた血。
先生が悪者だという結論では、その謎をまるまる無視していることになる。
だから、腑に落ちないまま。
だけど、その結論をひっくり返すには、十和くんを信じるという前提ごと崩さなきゃいけない。
「…………」
彼の手を強く握り締める。
縋るように。確かめるように。
間を置かずして返ってきた温もりに包まれた。
「ん、怖い? 心配しないで。何も不安がることなんかないよ」
いつも通り、優しい声と笑顔が返ってくる。
暗がりでも眩しいくらいだった。
(……疑いたくない)
だからもう、何も考えたくない。
惑わされたくない。
「こっちに行くと公園があって、学校はあっちの方」
夜道を歩きながら、十和くんはそんなふうに指をさして色々と教えてくれた。
「駅はそっち。だから芽依の家に帰るならこの道だね」
「へぇ……」
何だかぴんと来ない。
学校の近くのようだけれど、このあたりのことは詳しく知らないし、だからかイメージも湧かない。
「何でそんなこと教えてくれるの?」
最初に逃げようとした夜、わたしは家の間取りが分からなくて失敗した。
それと同じように、土地勘がなければ外でもきっとうまく逃げられない。
十和くんにとってはその方がいいはずなのに、どうしてあれこれ教えてくれるのだろう。
「……何でかな」
街灯に照らされ、彼の表情がぼんやりと見える。
困ったような、曖昧な笑い方をしていた。
(変なの……)
また不安が込み上げてくる。
“外へ出よう”と言ったことも、こんなふうに道を教えてくれることも。
いつもの彼なら絶対しないのに。
(何か、わたしに逃げて欲しいみたい)
手錠がなかったら、きっと手すら繋いでいない。
これがなければ、また突き放されていたかもしれない。
ひとりぼっちにされていたかもしれない。
外へ出てからずっと、無性に不安で気が抜けなかった。
何だか、わたしじゃなくて十和くんの方がいなくなってしまいそうで。
────あてもなく歩き続けた。
ひとけがないお陰か、外であってもあの部屋の延長みたい。
「あー、夢みたい」
「何が?」
「芽依とデートできるなんて」
しみじみと照れくさそうに十和くんが言う。
「……これがデート?」
「なに、不満なの?」
すねたように聞くと、同じ調子で返された。
わたしはむっとしてしまう。
「そりゃね! デートって言うならやっぱりかわいい格好したいし、楽しいところに行ったり美味しいもの食べたりしたいよ。堂々と手繋ぎたいし、顔上げて歩きたい」
思わず口走ると、落ちた沈黙は予想以上に重たかった。
「……なんて、冗談」
取り繕うようにとっさ笑う。
そんなの無理だと分かっているし、これじゃまるで十和くんを責めているみたいだ。
一緒にいられるだけで、手を繋いでいるだけで、十分幸せなのに。
「ごめん、わたし────」
「分かった。じゃあ行こ」
戸惑っていると、くるりと方向転換した彼が歩き出す。
そのうち、だんだん人の姿がまばらに見えるところまで出てきていた。
大きな車道、信号、立ち並ぶお店や家の明かり。
隔離状態にあったわたしたちの生活とは対になるような賑やかさ。
「と、十和くん……?」
ますます不安が込み上げてくる。
繋いだ手をポケットに押し込んだまま、何だか怖くなってうつむいた。
誰かとすれ違うたび、寿命が縮むような思いをした。
臆することなく進んでいく彼は、やがてたどり着いたコンビニへ入っていく。
白い光が眩しい。
「いらっしゃいませー」
ドアを潜ると、店員さんの気の抜けたような声に出迎えられる。
心臓が早鐘を打っていた。
破裂してしまうのではないかと思うくらい緊張している。
どうやらその目には、幸いにも“普通の客”として映ったみたいだ。
店内にはほかにも数人の客の姿がある。
当たり前かもしれないけれど、わたしたちを特別訝しむ様子は誰にもない。
(大丈夫、だよね)
スイーツの並ぶ陳列棚の前で、十和くんはやっと足を止めた。
普段通りの落ち着いた様子を見て、わたしにも少しずつ平常心が戻ってくる。
「行こ、って……コンビニのこと?」
「そうだよー」
あっさり頷かれたものの、首を傾げてしまう。
(あの流れでどうしてコンビニ?)
尋ねる前に彼が答えた。
「いまの俺にはさ、芽依の理想のデートのうち1個くらいしか叶えてあげられないけど」
手に取ったスイーツをひとつ差し出される。
いちご味のクリームケーキ。
「甘くて美味しいもの食べようよ、一緒に」
穏やかな笑顔にほっとして、冷えきった心があたたかくなる。
(一緒に────)
いられるだけで十分なのに。
そうやって甘やかすから、つい欲張りになってしまう。
「うん……!」
けれど、少しくらいなら甘えてもいいのかな。
いまはその一途な恋心と優しい愛情に溺れていたい。
────スイーツやフルーツティーを手にレジへ向かった。
緊張から、おさまったはずの心臓の音が速くなる。
「…………」
何となく、じっと店員さんを見つめてしまう。
眼鏡をかけた白髪混じりの彼は、わたしたちの方はほとんど見ないで淡々と商品をスキャンしていく。
(よかった、怪しまれてない)
普通の客、その中でも何に見えているだろう。
恋人同士? もしくは兄妹とか?
(誘拐犯とその被害者だなんて、夢にも思わないんだろうなぁ)
ずっと、諦めきれなかった。
あの家から逃げ出したいと思っていた。
生きて外へ出て、もう一度先生に会いたいと願っていた。
(……たぶん、いまなら)
わたしが騒いだり店員さんに助けを求めたりすれば、まず間違いなく通報してもらえる。
そうすれば解放される。元の日常に戻れる。
以前までなら、迷いなくそうしていたと思う。
「…………」
だけど、わたしは何も言わなかった。
ぎゅ、とただひたすら彼の手にしがみついたまま。
「ありがとうございましたー」
店の外へ出ると、ふっと十和くんは笑う。
「そんなに怖かった? かわいいなぁ、もう」
ふてぶてしいほどまったく平然としている。
このスリルさえ楽しんでいるかのように。
言いたいことはたくさんあったけれど、怯みきっていたわたしは何も言えなかった。
再び歩き出してからしばらくすると、あたりが閑散としてくる。
彼のマンションの方へ近づいているのだと分かって、少しだけ肩から力が抜けた。
深々と息をついてしまう。
「……どういうつもりだったの?」
「どう、って?」
「わたしが叫んだりしたらどうする気だったの」
自分が十和くんの立場だったら、怖くてコンビニへなんて連れていけない。
外へ連れ出すだけでも不安になると思う。
けれど、彼は何てことないように笑っていた。
「叫びたいなら叫んでいいよ」
「……逃げたり、したら」
「それができないようにしたのは芽依の方でしょ」
手錠で繋がったわたしたちの手をポケットから取り出して言う。
「俺もきみも逃げられない。それとも、このまま警察でも行く?」
挑発でもするかのような言い方。
余裕のある表情。
いつものずるい十和くんだ。
わたしがそうできないことを知っている上で聞いている。
「…………」
ふい、と思わずそっぽを向いた。
いつも通りの彼なのに、どこか別の雰囲気がある。
最初にも思ったけれど、まるでわたしに裏切って欲しいみたいな。
(ちがうよね?)
そんなわけない、よね?
さっき買ったスイーツを一緒に食べる約束だってした。
『きみはさ……いなくならないでね。ずっと俺のそばにいて』
そう言ったのは十和くんの方だ。
いまも、この先も、わたしを必要としてくれているはず。
「芽依は────」
おもむろに彼が口を開く。
ざわざわ、と胸の奥で不安感が渦巻いていた。
「あれでよかったの?」
何のことを言っているのか、分からないわけがなかった。
コンビニで助けを求めなかったこと。
逃げ出せる、すべてを終わらせられる、最大の機会を棒に振ったこと。
「……っ」
反射的に怒ろうとした。
けれど、強く息を吸ったのに言葉にならなかった。
うつむいて唇を噛み締める。
「……ひどいよ、いまさら……」
わたしが離れられなくなってから、そんなふうに突き放すなんて。
自分でそう仕向けておきながら。
優しさで惑わしておきながら。
ひたむきな恋心で捉えて、根深い愛を植えつけて────こうなることを望んでいたくせに。
それとも、また試しているのだろうか。
「ごめん、冗談だよ」
十和くんはわたしの顔を覗き込むようにして言った。
「本当はさ、ただ芽依を信じてるから平気だっただけ。前にも言ったでしょ?」
「……じゃあ、やっぱりわたしには無理だって分かってて試したんだ」
「ふふ、ごめんね。芽依があんまりかわいいからついつい意地悪したくなんの」
もう、と怒ったけれど、内心ほっとしてもいた。
十和くんにはやっぱりわたしが必要なんだ。
それと同じくらい、わたしにも十和くんが必要だ。
離れたくない。離れられない。
彼だけがわたしの存在意義だから。
傍から見れば奇妙で異常なものかもしれないこの生活が、いまのわたしにとってはすべてだ。
(もし、バレたら。捕まったりなんかしたら……)
その“すべて”を否定されることになる。
彼がいなくなってしまったら、わたしはきっと生きていけない。
ばたん、と玄関のドアが閉まる。
家の中、十和くんのにおい……何だかすごくほっとした。
手錠は外さないまま、手を繋いだまま、リビングのソファーにふたり並んで腰を下ろした。
十和くんはがさがさと袋を漁って、買ってきたものをテーブルの上に並べていく。
「これ、押さえててね」
引き寄せたクリームケーキの容器の底を左手で押さえると、蓋を開けてくれた。
ふわっと苺の甘い香りが漂う。
包装を破ってフォークを取り出した彼は、ケーキをひとくち分切り分けた。
「はい、あー……」
促されて口を開けると、なめらかなクリームと軽いスポンジが舌に載る。
まろやかで甘酸っぱい苺の風味が広がった。
「……美味しい」
「でしょー。何でか分かる?」
「えっ? 何で、って」
「俺が食べさせてあげてるからだよ」
くす、とつい笑ってしまう。
「どうりで甘いと思った」
「本当? じゃあ俺にも食べさせてよ」
嬉しそうに言う彼からフォークを受け取ると、わたしもひとくち分のケーキを切り分ける。
利き手ではない左手でフォークを動かすことに慣れていないせいか、あるいはどこか緊張しているせいか、少しぎこちなくなってしまった。
ぱく、とそれを口にした彼がほどけるように笑う。
「ん、確かに甘い」
その一連の動作を、クリームを拭う指先を、睫毛の落とす影を、思わず目で追った。
「なに? そんな見られると照れるんだけど」
言葉通りどこか居心地悪そうに目を細めた十和くんに、心臓が甘く痺れて焦がれていく。
えへ、と誤魔化しきれずに笑うと、彼は一瞬たじろいでから空いた方の手で顔を覆った。
「……完全に不意打ち。油断してた」
「えっ?」
「かわいすぎてずるいよ」
彼はわたしの手からフォークを取って、再び切り分けたケーキを口まで運んでくれる。
ふいにその顔が近づいてきたかと思うと、唇の端についたクリームをぺろりと舐め取られた。
「……ごちそうさま」
募る想いに心を許すと、いっそう鼓動が速まっていく。
照れくさくて、火傷しそうなほど顔が熱い。
「ま、前にもあったよね。こんなふうに食べさせてくれたこと」
ぱっと前を向いて話題を逸らすと、十和くんは思い返すように「あー」と苦く笑って頷く。
「あのときね、本当はすごく嫌だった」
「はは、正直だね」
「だって怖かったんだもん。言うこと聞かなかったら痛い思いするだけだし」
そう言いつつ首を撫でた。
そこにはもう赤い痕なんて残っていない。
ふと、そんなわたしの手を取ってやわく握った彼は顔を傾ける。
「……いまも怖い?」
怖い、のかな。
けれど、それは最初に抱いていたような、十和くん自身に対する恐怖心とはちがう。
恐怖心というより不安だった。
それがずっとつきまとって離れない。
これから先のことに対する不安。
終わりが来ることへの不安。
こんなに近くにいるのに、大事なことは何ひとつとして知れていないような不安。
ずきずき、ひりひり、じくじく、身体中に刻まれた、癒えたはずの傷が疼き始める。
(どうして)
閉じ込めて消し去った警戒心と怯える気持ちを、痛みが連れ戻してくる。
忘れるべきじゃない、とわたしに警告しているみたい。
見て見ぬふりをしようとすればするほど、胸騒ぎが膨らんでいく。
残ったままの謎と拭いきれない不信感を無視できずに、理性と感情がずっと葛藤していた。
十和くんを信じたい。その想いで蓋をしてしまいたいのに。
彼自身とこの生活に、心の底から酔いしれることができたら楽なのに。
「……ねぇ、なに迷ってんの? 答えなんて決まってるでしょ」
ふいに不機嫌そうな眼差しを寄越される。
責めるような声はいつもより低くて、ぞくりと恐怖心が背中を滑り落ちていった。
恐怖心、消えてなくなったわけじゃなかったんだ。
そのことにも驚いてしまう。
じゃあ、やっぱりわたしの理性は正しかったのかな。
「楽しい? そうやって俺のこと不安にさせてさ。俺の気持ち、何回言えば分かるの」
「と、十和くん……」
「ひどいね。そんなに信用してないんだ」
「ちが……!」
どうしてそうなるんだろう。
わたしたち、分かり合えたんじゃなかったの?
「ちがう? だったら言うことあるよね」
彼の求めている言葉が、態度が、分からないわけじゃなかった。
だけど、わたしはそうしなかった。
ぎゅう、と繋いだ手にいっそう力を込めると、彼ははっとしたようだった。
「……十和くんこそ、わたしを信じてよ」
責めるようにその目を見たつもりが、泣きそうになってしまう。
思いきり非難してやろうと思ったのに、強く言えなかった。
それでも彼は気圧されたようにうろたえる。
「俺はずっと信じて……」
「だったら分かって」
怖くないかと聞かれれば、正直自分でも分からない。
彼を信じているつもりだけれど、本当に信じることができているかも自信がない。
だけど、十和くんといたい、と思った気持ちは嘘でも勘違いでもない。
「……っ、ごめん」
呼吸を震わせ、戸惑うような眼差しをしていた。
わたしを捕まえて、おずおずと抱き締める。
「好きだよ、芽依」
「……うん」
「好き。本当に好き。だから……不安になる」
抱きすくめるように腕に力が込もった。
痛くはないけれど、何だか苦しい。
(ちょっと、分かった気がする)
彼はずっと片想いを続けていて、わたしはそれを拒み続けてきた。
だからこそ、心が通じ合ったところで自信を持てないでいる。
わたしから想われるはずがない、と十和くんは心のどこかで諦めているのかもしれない。
まともな罪の意識を持ち合わせていると分かったいま、なおさらありそうな可能性だった。
だったら、そう不安になるのも当然だ。
自信は不安の裏返し。
だから、きっと何度もわたしを試していた。
「……よかった」
そう呟くと、彼が意外そうに顔を上げる。
「え?」
「十和くんも不安だったんだね。わたしだけじゃなかったんだ」
繋いだ手を見つめた。
強く握り締められるほど、必要とされているみたいで嬉しくなる。
「あのね。わたし怖くないよ、十和くんのこと」
────怖くない。もう大丈夫。
“怖い”と感じてしまうのは、分からないからだと思う。
「だから何でも話して。わたしもそうするから。不安は抱え込まなくていいんだよ」
彼だってきっと同じで、分からないから怖くなる。
気持ちも恋心も愛情も、目に見えないから想像するしかなくて。
答え合わせはできないけれど、言葉を交わすことだけが手がかりなんだ。
「芽依……」
一度手をほどくと、指を絡ませるようにして握られる。
「大好き」
惜しみない告白が染みて、頬が緩んでしまった。
「わたしも────」
ついそう言いかけて、慌ててつぐんだ。
けれど、もう手遅れだった。
はっとした彼が勢いよく身体を起こして、じっと見つめてくる。
期待の込もった眼差しを煌めかせながら。
「わたしも、何?」
そう聞かれて鼓動が加速していく。
絶対に確信犯だ。
「な、何でもない……!」
火照る頬を隠したくて、動揺を誤魔化したくて、少し離れようと身体を背けた。
けれど、できなかった。
右手は彼と繋いだままだし、それが離れても手錠が逃がしてくれない。
「捕まえちゃった。残念だったね」
いたずらっぽくにやりと笑われる。
「や、離して」
「どうして? 芽依が自分で“つけて”って言ったんでしょ」
「それは……」
「それに、さっき言ってくれたじゃん、何でも話してくれるって。俺、芽依の気持ちが分かんないことが不安なんだけどなぁ」
なんてずるいんだろう。
そう言われてしまうと何も言い返せない。
「ねぇ、教えてよ」
高鳴る心臓が苦しいし、きっと真っ赤になっているだろう頬が熱い。
触れた部分が痺れているみたい。
「……そのうち、ちゃんと言うから……」
「そのうち? それまで俺を不安にさせておくの?」
苺より甘酸っぱくて切なげな、それでいてクリームより甘ったるい声で尋ねられる。
わたしは息をついて、半分だけ観念した。
「もう、分かった。じゃあ────」
部屋の電気が消えたのは初めてのことだった。
すっかり慣れたはずの監禁部屋が、それだけで新鮮に思える。
それぞれお風呂から上がると、ふたりでわたしの布団に入っていた。
(どうしても不安だって言うから一緒に寝ることになったけど……)
鼓動の音、衣擦れの音、息遣い。
さすがにもう手錠は外したけれど、一段と彼を近くに感じる。
暗いのに目が慣れてきて、輪郭以上を捉えられるようになってきた。
向かい合って横になったまま、十和くんは目を閉じている。
「…………」
その整った顔をじっと見つめた。
(睫毛長いなぁ。鼻筋も綺麗。唇も……)
阻むものは何もなくて、簡単に触れられる。
無防備って罪だと思う。
ふいに、彼がゆっくりと目を開ける。
「……なに見てるの?」
いつもより落ち着いた声色から、すっかり心安らいでいるのが伝わってきた。
困惑したようにわたしを追い詰め、うろたえていた様子が戻ってくる気配はない。
わたしの隣が安心できる居場所だといいな。
「寝てるかと思った」
「さすがに早すぎ。まだ横になったばっかだよ」
彼の声が、存在が、何だか無性に心地いい。
募っていく想いに胸が焦がれていく。
(ずっと、この時間が続けばいいのに)
いつか彼が唱えていた儚い願望は、わたしの唯一の願いになった。
十和くんを好きになるはずなんてないと思っていたのに。
「……芽依、かわいい」
まっすぐ見つめていると、十和くんがいつものように甘く微笑んだ。
そのままこちらに手が伸びてくる。
頭を撫でられるか、頬に触れられるか、そんなことを想像しながらただ委ねていた。
────けれど。
「…………」
十和くんの手は届く前にぴたりと止まった。
不思議に思っていると、彼の瞳が戸惑うように揺れているのに気がつく。
「十和くん?」
引っ込めた手をそのまま自身の胸に当て、逃げるように寝返りをうった。
(急にどうしたんだろう……)
何も言わずに背を向けられ、ただただ困惑してしまう。
(わたし、何かした? 怒らせた?)
少し怖くなってきて、推し量るように距離を詰めた。
そっと背中に触れてみる。
指先の感触から、彼がわずかに身を強張らせたのが分かった。
「め、芽依……」
聞こえてきたのは、予想に反して惑うように不安定な弱々しい声だった。
つい、もう少し近づく。
今度は手ではなく耳を添えて押し当てると、どき、どき、速い心音が直接伝わってくる。
「ちょ……っ」
焦った彼が動くのを押し止めるべく、腕を掴んだ。
「……ふふ」
十和くんの鼓動はわたしと同じかそれ以上に激しくて、それが分かると嬉しくなった。
「離してよ……」
「やだ、十和くんだって離してくれなかったじゃん」
「うわ、意地悪……」
すっかり余裕を失った彼が困り果てたように嘆く。
何だか愛らしくて笑ってしまう。
(だって、ずるいよ。わたしばっかりどきどきさせられて)
実は案外そんなことはなかったのかもしれない。
彼の速い鼓動を聞いて思った。
「……降参するから許して」
「じゃあ、こっち向いて」
そう言って腕を下ろすと、十和くんは少しの間黙り込んだ。
「……あー、もう……」
深々と息をつき、観念したように身体をこちらへ向ける。
「これで満足?」
むす、とすねたような表情を浮かべる顔が赤くなっているのだろうことは、暗くても分かる。
カーテンの隙間からこぼれる月明かりを受け、潤んだような瞳が微かに光っていた。
知らず知らずのうちに頬が緩んでいく。
想いが深まっていく。
「……ねぇ、いつもみたいに触れないの?」
さっき、そうしようとしていたはずだ。
頭を撫でてくれたり、頬を包み込んでくれたり、手を握ってくれたり────。
そうやって彼の手から伝わるあたたかい温もりは、わたしに安心感をくれる。
くす、と十和くんは笑った。
「どこに触れて欲しいの?」
「もう……」
余裕を取り戻したのか、からかうような言い方だ。
結局いつもこうなって、彼には敵わない。
「冗談だよ」
むっとしたわたしをなだめるように言い、優しく頭を撫でられる。
いつもの温もり。甘い体温。
「手、貸して」
言われるがままにそうすると、指を絡めるようにぎゅっと握られた。
「今日はこのまま寝よう」
「え……っ」
「だめ?」
不安気に聞かれて、慌てて首を横に振る。
「だめじゃないよ! わたしもそうしたい」
「……よかった」
てのひらからお互いの温度が溶けて混ざり合う。
心まであたたかくなって、先行きやあらゆることへの不安がほどけていった。
「おやすみ」
「おやすみ、十和くん」
こんなに穏やかな気持ちで眠りにつくのは初めてだ。
満ち足りて、幸せに包まれる。
ぎゅ、といっそう強く彼の手を握った。
(明日もこうしていたいな)
◇
目を覚ましたとき、あたりは明るくなっていた。
ふと横を見ると枕が見えて、そういえば十和くんと一緒に眠ったことを思い出す。
けれど、彼の姿はない。
「起きた?」
ふいに声が降ってきた。
既に制服に着替えていた十和くんが、布団の傍らに腰を下ろしている。
「おはよう、芽依」
ゆったりとした微笑みを向けられ、思わず顔を隠すように布団を引き上げた。
「何で隠すの?」
「だって……起きたばっかだし。あんまり見ないで」
身支度も心の準備も全然整っていない。
「そんなの気にしなくていいよ。芽依はいつでもかわいいんだからさ」
くすくすと笑いながらわたしの髪に触れた。
嘘でもお世辞でも、十和くんに“かわいい”と褒められると心がくすぐったくなる。
布団をどけて起き上がると、ちょっと照れくさく思いながら座る。
「朝ご飯食べた?」
「あ、うん。ごめんね、本当は一緒に食べたかったんだけど」
「ううん、わたしがもっと早く起きればよかっただけだから……」
もう着替えているところを見ても、そろそろ家を出る時間なのだろう。
「トースト焼いといた。ダイニングのテーブルに置いてあるから」
十和くんはわたしの手を取りつつ、なんてことないように言った。
「え」
「あ、はちみつとかジャムとか好きに使っていいからね。あと、昨日買ったスイーツの残りと飲みものは冷蔵庫に入ってるから、それも────」
「ま、待って。いいの? そんなこと」
彼がいない間にこの部屋から出ることは、これまで一度も許されなかった。
監禁を続けようと思ったら、当然と言える。
(また、罠じゃないよね……?)
つい探るように見つめてしまうと、こともなげに頷かれた。
「うん」
「でも……」
一歩部屋を出れば、通報も脱出も簡単にできてしまう。
彼の監視もない、という前提ならばなおさら。
わたしの憂いをよそに、十和くんは吹っ切れたような表情で言う。
「昨日、芽依に言われて気づいたんだよ。俺、口では“信じてる”とか言ってたけど、本当はびびってたみたい。覚悟が足りなかったのかも」
「……覚悟?」
「そう。自分のしたことに対する、ね」
わたしの手を握ったまま彼は目を伏せる。
「俺には最初から、きみの日常を壊す資格なんてなかった。芽依の自由を奪った代償を払わないと。だからさ────」
うつむきながら唇を噛み締め、彼はそこで言葉を切った。
(わたしに結末を委ねたいの?)
通報して助けを求めるも、この家から逃げ出すも、このままここに留まるも、もうわたしの自由。
誘拐に監禁。暴力。殺人未遂。
自分のしたことを罪だと感じているのなら、わたしに選択させることがせめてもの償いだと思っているのかもしれない。
「本当の意味で信じてみたい」
彼の眼差しを真正面から受け止める。
「いまの俺にできることってそれしかないよね」
「十和くん……」
「どんなものでも、芽依の選択に従うから」
澄みきった瞳に迷いや不安はなくなっていた。
苦しげに眉を下げる。
「……いままでごめん。俺のわがままに付き合わせて」
する、と手が離れていく。
わたしは何も言えないまま、立ち上がった彼を見上げた。
(向き合うことにしたんだ)
以前、彼と衝突して投げかけた言葉を思い出す。
『……そうやって、気に入らないことはぜんぶ拒絶するんだね。いつもいつも、わたしの言葉は最後まで聞かないで』
この誘拐に始まって、最初からずっと十和くんは現実から逃げようとしていた。
わたしと、この小さな“お城”に閉じこもることで。
けれど、それが間違っていると、悪いことだという自覚があるから、自分を責める言葉のすべてを拒絶していた。
そのときの彼にとって、そういう都合の悪い言葉を受け入れるのは、この生活を壊してわたしを手放すことを意味していたのだ。
(……でも、十和くんは変わった)
目を背けないで、現実と向き合って、認めることにしたのだろう。
この日々に終わりがあることを。
わたしたちの立場や関係性を。
『この時間がずっと続けばいいのにな』
夢は所詮、夢だから。
いつか覚めたら、幻みたいに消えてなくなる。
できることなら、見ないふりを続けていたかった。
先延ばしにして考えたくなかった。
だけど十和くんが決めた以上、わたしも選ばなきゃいけない。
同じように、現実と向き合う覚悟を決めなくちゃならない。
「……じゃあ行ってくるね、芽依」
戸枠のところに立ち、彼はいつものように微笑む。
さっきの言葉に返すようなことを何か言いたかったのだけれど、うまくまとまらなかった。
「行ってらっしゃい」
ただそれだけを告げて、曖昧に笑って見送ることしかできない。
それでも十和くんは嬉しそうに、満足気に笑みを深めた。
その姿が見えなくなるとすぐに玄関の音が聞こえてくる。
開け放たれた部屋のドアを眺めながら、わたしはしばらく呆然としていた。
いまさら罠だなんて疑う余地もない。
なのに、何だかそれが逆に悲しくもある。
(何なの、この気持ち)
矛盾だらけで、ちぐはぐで、自分でも追いつかない。
あれほど切望した“自由”にようやく手が届くというのに、どうしてこんなに虚しいんだろう。
顔を洗ったり、髪を梳かしたり、朝の支度を淡々と済ませた。
制服に着替えてからダイニングへ行けば、確かに彼の言っていた通り、テーブルの上にトーストが置いてある。
ふと周囲を見回してみる。
ここへは初めて入った。
(広いなぁ……)
この部屋も、十和くんの家自体も。
こんなに広いところでずっとひとり暮らししているのかな。
モダンで綺麗な雰囲気なのだけれど、どこか寒々しくて寂しい。
ひとりでは広すぎる。
(わたしが出ていったら、ひとりぼっち?)
学校では、彼の周囲には常に人がいたから、そんな言葉とは無縁だと思っていた。
けれど、実際には見えないところで孤独を抱えていたのかもしれない。
家族の話を聞いたとき、垣間見えた。
『そんな泣きそうな顔しないでよ」』
『……ごめん』
『いまさらもう辛いことでも何でもないって。本当だよ? 芽依ちゃんがいるんだし』
平気そうに笑っていたけれど、わたしを見つめる眼差しには縋るような必死さが滲み出ていた。
『きみはさ……いなくならないでね。ずっと俺のそばにいて』
彼の心の隙間を埋められるのは、わたししかいないかもしれない。
そうと分かっていながら、置いていっていいのかな。
(わたしは十和くんが好き)
一緒にいたい。
ここへ留まることを選べば、その望みは叶う。
────だけど。
『……これがデート?』
『なに、不満なの?』
『そりゃね! デートって言うならやっぱりかわいい格好したいし、楽しいところに行ったり美味しいもの食べたりしたいよ。堂々と手繋ぎたいし、顔上げて歩きたい』
そういう普通の幸せは、一生手にできない。
この先わたしに待っていたであろう未来も、当たり前にあったはずの日常も。
十和くんとの生活を選ぶには、ぜんぶ諦めて引き換えにしなくちゃならない。
先生のこと、ワンピースの彼女のこと、服に残された血やあらゆる疑惑も忘れ去って、理性を押し殺して。
十和くんの抱える“秘密”のすべてを知れなくても、あるいは知っても、許さなくちゃ。
たとえそれがどんなに残酷なものだとしても。
彼のすべてを受け入れて、寄り添っていくしかない。
十和くんを選ぶということは、そういうこと。
(……わたしにできるのかな)
────そんなことを悶々と考えながら朝食を済ませると、食器を洗って片づけた。
なるべく頭の中を空っぽにしながら、家の中を歩き回ってみる。
「わたしの荷物、どこにあるんだろう」
ふと思い立って呟いた。
部屋のドアだけじゃなく、クローゼットや収納スペースまで開けて探索してみる。
「あった……」
最初に脱走を図った夜、駆け込んだ部屋のクローゼットの中に。
そこにあったはずの服は、いまは監禁部屋に運び込まれている。
わたしの鞄だけがぽつんと取り残されていた。
じー、とファスナーを開ける。
中身をどけてスマホを手に取った。
硬く冷たい質感。やけに重たく感じる。
真っ黒な画面に自分が反射していた。
さすがにバッテリーは切れているだろうけれど、いまなら難なく充電できる。
そうすれば、通報するなり助けを呼ぶなりできる。
(でも……十和くんと離れたくない)
それは確かにわたしの本心だけれど、そのためにすべてを犠牲にできるかな。していいのかな。
(ああ、もう……)
いっそのことばかになってしまいたい。
“いま”しか考えられないくらい、彼に夢中になれたら。
彼を選ぶことの意味さえ分からないくらい、鈍感だったなら。
『芽依、好きだよ』
ふいに頭の中で響いた彼の声が思考を割る。
ここへ来てから、何度わたしに“好き”だと伝えてくれただろう。
ありったけの想いを、惜しみなく。
「……っ」
はっと息が詰まる。
覚悟が足りないのはわたしの方だった。
『本当の意味で信じてみたい』
────迷うことなんてなかった。
鞄の中にスマホを戻すと、ファスナーを閉めておく。
『芽依には俺しかいないんだから』
きっと、外へ出たってほかにはいない。
これほどにわたしを想って、愛して、大切にしてくれる人は。
『諦めて。どうせ、きみは俺を好きになるから』
もしかしたら、彼は最初からこうなることを見越していたのかもしれない。
これまでずっとそうだったように、いまも彼のてのひらの上にいて、念を押したに過ぎないのかもしれない。
けれど、構わない。
それならそれで騙されていたいだけ。
それ以前にもう、想像がつかない。
この家を出たあとのことも、彼との生活が終わることも。
わたしに与えられた選択肢は、最初からひとつだけだった。
「十和くん、早く帰ってこないかなぁ」
鞄をクローゼットに戻すと、ドアを閉めて部屋をあとにした。
────玄関前の廊下に座って、彼の帰りを待っていた。
膝を抱えながら壁に背中を預ける。
ふいに足音が近づいてきて、はっと立ち上がった。
鍵が回ってドアが開くと、眩しいほどの光が射し込んでくる。
ばたん、と彼の背後で閉まる。
わたしの姿に気づいた十和くんは、はっと息をのんだ。
「……っ、芽依」
どさ、とその場に荷物を取り落とし、泣きそうな顔で一歩踏み込む。
強く抱き寄せられて、わたしは彼の腕の中におさまった。
いつもの温もり、いつものにおいに安心する。
「いなくなっちゃうかと思った……」
「もうこんなふうに試さなくても大丈夫だよ」
ぎゅう、と強く抱きすくめてくる腕の力に何だかほっとしつつ、小さく笑って続ける。
「言ったでしょ、わたしを信じてって」
「信じてた。信じてるよ……。でもやっぱ、すっごい怖かった」
彼は一度わたしを離し、存在を確かめるように頬に触れた。
指先はいつになく冷えきっていて、その不安感を表しているみたい。
「帰ってきて芽依がいなくなってたらどうしよう、ってもう一日中気が気じゃなかった」
頬に添えられたその手に、自分のてのひらを上から重ねる。
体温が混ざり合った。
このまま彼の不安もぜんぶ溶かしてしまいたい。
「わたしはどこにも行かないよ。十和くんのそばにいるって約束した」
「……ありがとう」
噛み締めるように言った彼を見つめて、そっと腕をほどく。
「────でもね、ひとつだけ。どうしても十和くんの言葉で聞いておかなきゃならないことがある」
つい怖気づいて飲み込んでしまいそうになるのを、無理にでも押し出した。
彼は「ん?」と首を傾げる。
「十和くんは……人を、殺したの?」
どうしても捨てきれなかった疑惑をぶつけた。
すぐにでも否定して欲しい、と願いながら。
(……そんなわけないよね?)
殺すわけがない。殺せるわけがない。
十和くんはそんな人じゃない。
誰より優しくて、一途で、わたしだけを見てくれて。
わたしに触れる手はいつも、壊れものを扱うみたいに丁寧で。
その手が血で汚れているとは思えない。
彼がそんな手でわたしに触れるなんて────。
「…………」
けれど、十和くんは否定してくれなかった。
その代わり肯定もしないで、表情を強張らせたまま視線を外す。
「ねぇ……答えてよ。どう考えてるの? これからのこと、とか」
「…………」
「自首、する?」
不安感を増しながら恐る恐る尋ねると、それまで沈黙を貫いていた彼がゆっくりと顔を上げた。
「何の罪で?」
惑っているようにも開き直っているようにも見える。
その答えは誰より彼自身がよく分かっているはずなのに。
(本当に殺したんだ……)
彼の犯した罪は誘拐や監禁だけじゃない。
ワンピースの彼女もほかにあった服の持ち主たちもみんな、彼が攫って、閉じ込めて、殺した。
残酷な認識が鉛みたいに重くのしかかってくる。
けれど、その結論に辿り着いても、恐怖心が真っ先に湧いてくることはなかった。
不思議と心は落ち着いている。
思ったよりも冷静に受け止められた。
「────大丈夫だよ」
余裕なさげな彼を見ていると、自然とそんな言葉がこぼれた。
それを聞いて十和くんの金縛りが解けたのが分かる。
「芽依……?」
それ以上は何も言わないまま、わたしは部屋へ戻った。
クローゼットを開けてみる。
コレクションのように並んだ服たちがいっそう凄然として見えた。
もしかすると、彼がこれまで好きになったのは、初恋の彼女とわたしだけじゃなかったのかも。
好きになった人を心の底から想って、自分だけのものにしようとして、愛して、愛し尽くしては殺してきたのかもしれない。
誰かに奪われるくらいなら自分の手で終わらせたかった、とか、こんなに愛しているのだから相手も本望だろう、なんて正当化したりして。
独占欲と支配欲、嫉妬心が強いから。
純粋な恋心や愛情と“殺意”は、彼の中では表裏一体なのかも。
こうなった以上、初恋の彼女だって生きているかどうか分からない。
だけど、どうして最後には殺してしまうんだろう。
(うまくいかなかった……?)
誘拐して閉じ込めたはいいけれど、想いが伝わらなかった。
そのことに怒ったり絶望したりして手にかけた?
『でも、芽依ちゃんが悪いんだよ? 俺の気持ち全然分かってくれないから。いまだって、真っ先に誰のこと考えたの?』
いびつな愛情ゆえに殺したわけではなく、受け入れてもらえないことに逆上した。
そうやって、衝動が理性を超えた結果なのかもしれない。
いずれにしても、彼女たちはみんな被害者だ。
十和くんの独りよがりで凶暴な恋心の犠牲になった。
そんなことを考えながら、ハンガーのまま、かけられている服を床に落としていく。
瞬く間に小さな山ができあがった。
「……何してるの?」
開けっ放しになっていたドアの戸枠部分から、追ってきたのだろう十和くんが声をかけてきた。
「捨てて欲しいの、これぜんぶ」
「え、でも芽依のために────」
「いいの、もう。そんな嘘つかないで」
はっきりそう言ってのけると、彼は驚いたような顔をした。
すぐに力を抜き、やわく笑う。
「……そっか、もう分かってるか」
分かっている。
これらは彼の罪の証。
だけど、わたしにはもはやその罪を立証する気なんてなかった。
捕まって欲しくない、と切に思う。
何より過去の恋を早く忘れて欲しかった。
自分以外の女の子の気配と共存するなんて耐えられない。
これからはわたしがいる。
そばにいるのは、わたしだけでいい。
彼を傷つける負の連鎖は、わたしが断ち切ってあげるから。
すべてを受け入れるから。
何があっても、どんな真実でも、どんな結末でも受け止めるから。
わたしも一緒に十字架を背負っていく。
「ねぇ、十和くん。わたしのこと好き?」
「……好きだよ」
そう答えると、そっと部屋へ踏み込んでくる。
カーテンの隙間から夕方の光がこぼれ落ちていた。
「芽依は?」
「わたしは……」
一瞬迷ってから、その肩に手を添えると背伸びをする。
顔を寄せて一瞬だけ口づけた。
「……えっ」
よっぽど予想外の行動だったのか、十和くんは目を見張ったままうろたえる。
その反応を見て、照れくささがあとからやってきた。
思い出したように鼓動が速くなっていく。
「芽依、いまのは……」
「わたしの気持ち」
小さく答えつつ目を伏せてしまうものの、十和くんの熱っぽい眼差しは逸れない。
「つまり?」
「……分かってるくせに」
意地悪、と思いながら離れようとした瞬間、すかさず手首を掴まれる。
「聞きたいなぁ、芽依の言葉でさ」
優しく頭を撫でて髪をすき下ろす、その仕草にさえどきどきする。
彼の指の隙間から、さらさらと髪がこぼれ落ちていく。
もうすっかり十和くんと同じにおいに染まっていた。
「そ、そのうちね」
「……焦らすね、迷うことなんて何もないのに」
いたずらっぽく笑ったかと思うと、するりと腕を回された。
腰のあたりを抱きすくめられ、動けなくなる。
「ちゃんと言ってくれるまで逃がさないから」
触れた部分が熱を帯びて、心音があまりに速くて、壊れてしまうんじゃないかと思った。
「ま、待って」
「だーめ、もう待てない」
彼の腕におさまったまま、いっそう強く自覚する。
もう逃げられない。
わたしの心はすっかり十和くんのものだ。
────はじめはあんなに怖くて、憎かったのに。
わたしは先生のことが好きだったし、一方的な感情でわたしを傷つけて自由を奪った、身勝手極まりない彼が嫌いだった。
だけど、それはわたしが心を閉ざしていただけに過ぎなかったんだ。
彼の言葉を聞いて、彼に触れて、初めて分かった。
十和くんの想いやその深さ、優しさ、覚悟。
どんなに愛してくれているかということ。
彼しかいない。
わたしのすべてを認めて、受け入れ、必要としてくれるのは。
意を決して口を開く。
「……わたしね、十和くんのことが好きだよ」
彼からどれほどの愛情を受けても、自信なんて持てなかった。
いままで、こんなふうに誰かと心を通わせたことがなかったから。
いつも失敗してきた。
拒絶されて、否定されてきた。
「前は……確かに先生のことが好きで、ただ遠くから見てるだけで満足だった。それだけで幸せだって思ってたんだけど」
あのときは知らなかった。
好きな人に想われる喜びも幸せも。
それはぜんぶ、十和くんが教えてくれたこと。
「十和くんが好きだって言ってくれて、十和くんと過ごすうちに、“幸せ”ってこういうことなんだって初めて知ったの」
だから、これからも彼と一緒にいたい。
想い想われる、この幸せに浸っていたい。
自由も日常もなくたっていい。
彼が望むなら、一生閉じ込められたままの生活でも構わない。
拘束されたままでも、着せ替え人形でも。
「わたし、十和くんに攫われてよかった」
愛しさがあふれて止まない。
わたしに触れるとき、十和くんもきっとこんな感情だったんだ。
そんなことを考えながら、背中に手を回そうとしたときだった。
突然、するりと腕をほどかれる。
「────嘘つき」
彼が冷たくせせら笑う。
一瞬、何を言われたのか分からなくて「え」と音にならない声がこぼれた。
「遠くから見てるだけで満足? よく言うよ、つきまとってたくせに」
「な……」
思わぬ言葉に心臓が嫌な音を立てていた。
体温を失った指先が震えてしまう。
「なに言ってるの……? 意味分かんない」
気丈に振る舞おうとしたのに、動揺を隠しきれなかった。
困惑したように笑った頬がひきつってしまう。
十和くんはそれすら嘲笑って、一度部屋から出ていった。
すぐに戻ってくると、手にしていた何かを床にばらまく。
封筒だった。
淡い色合いとリボンやレースのかわいらしいデザイン。
封をしていたシールは乱暴に剥がされていて、紙の部分が破れてしまっていた。
「見覚えあるよね? ストーカーさん」
「なん、で……これ……」
わななく膝から力が抜けて、その場にへたり込む。
顔面蒼白のわたしを眺め、悠然と屈んだ十和くんは封筒のひとつを手に取った。
ずい、と取り出した中身を目の前に突きつけてくる。
数十枚と束になった写真だった。
そこに写っているのはどれも宇佐美先生。
職員室でデスクに向かう姿。廊下を歩く姿。車に乗り込む姿。生徒と談笑する姿────。
ほかにも様々な彼が写真におさまっている。
「これぜーんぶ、芽依が撮ったんでしょ?」
心臓が早鐘を打っていた。
喉がからからに渇いて苦しい。
「ほかにもお手紙とか送ってたよね。あ、手作りのお菓子も。切った髪とか爪とかの入った特別なやつ」
責めるでも咎めるでもなく、にこにこと柔和な笑みをたたえながら、ただ淡々と事実を並べ立てる。
「好きな人にこんなの送るなんてどういう神経? きみの愛情表現、変わってるね」
「……っ」
「ねぇ、聞いてる? 黙ってないで何とか言えよ」
ばさ、と封筒の上に写真が放られる。
彼の顔から笑みが消えたのが分かった。
苛立って低められた声に心臓が縮む。
こんなの、現実じゃない。悪夢だ。
目の前にいるのは十和くんじゃない。彼はこんなことしない。
「……何が悪いの」
まともに思考するほどの冷静さを失い、勝手に言葉がこぼれていく。
「十和くんだって同類でしょ? 好きな人につきまとってた。そんな十和くんにどうこう言われる筋合いなんてない!」
「確かにね。でも俺の場合は動機がちがうから。すべてはきみを攫うための下準備……。俺はね、好きな人を困らせることなんか絶対しないよ」
あまりに混乱して、言っている意味をうまく理解できなかった。
(そんな言い方……。まるで、わたし以外に好きな人がいるみたいな────)
「ていうかさ」
ふと、彼は冷たく笑う。
「きみの言う“好きな人”って誰のこと? もしかして自分? ここまで来たら分かんないかなぁ」
「まさか……」
「そうだよ。俺が愛してるのは、あとにも先にも兄貴だけ」
「あ、兄……?」
「うん。先生はね、俺の実の兄貴なんだよ」
唖然としてしまいながら、驚愕と衝撃に打ちひしがれる。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「どういうこと? そんなこと、って……」
ありうるのだろうか。
苗字もちがうし、担任として弟のクラスを受け持つなんて。
「親が離婚してる話はしたよね。“宇佐美”は母親の旧姓なの。兄貴って昔から過保護でさ、留守がちな親に代わって俺の面倒見てくれてんだよね」
どこか嬉しそうに彼は滔々と語る。
「小さいときから俺が頼れるのは兄貴だけだった。たぶん兄貴もそのこと分かってて、ずっとそばにいてくれたんだ」
つ、とその指先が写真の中の先生の輪郭をなぞった。
「兄弟だってバレると学校では一緒にいられなくなるかもしれない。担任じゃなくなるかも。だからみんなには隠そう、ってことになってさ」
彼はこちらを向いて、いたずらっぽく笑う。
「どう? 気づかなかったでしょ」
頭が真っ白になって、落ち着かない呼吸が震えた。
────十和くんが本当に愛していたのは、先生だったんだ。
兄弟愛なのか、関係性を超えた禁断の愛なのかは分からないけれど、いずれにしてもわたしへの気持ちなんて最初からなかった。
「……ぜんぶ、嘘だったの?」
身に余るほどの想い、満ち足りた幸せ、優しい笑顔、甘い体温。
“好き”という言葉。
ふたりで紡いできた日々。
そのすべてがまやかしだったなんて、とても信じられない。
「うん、嘘だよ。忘れちゃった? 初恋の話」
『……俺が好きになったのは、その人だけ』
あのとき、確かにそう言っていた。
わたしのほかには、じゃなくて、言葉通りの意味だったわけだ。
(それが先生なんだ……)
先生の話を持ち出すと、不機嫌になっていたことを思い出す。
それは先生ではなく、わたしに妬いていたからだったんだ。
愛ゆえの独占欲と嫉妬心が強いことは確かで。
「さてと、それじゃそろそろお別れしよっか」
言いながら、十和くんが包丁を取り出した。
ぎらりと刃が鈍色に光る。
逆手に握られた包丁の切っ先を向けられたけれど、恐れたりおののいたりするより先に口をついてこぼれる。
「ねぇ……」
「ん?」
「十和くんが先生を……お兄さんを愛してることは分かったよ。でも、どうして人を誘拐して殺すの?」
わたしの場合はまだ何となく想像できる気がする。
彼にとって誰より大切な先生を困らせていたことが許せなくて、直接制裁したかったのかもしれない。
いまになって、無自覚のうちに先生を追い詰めていたことに気がついた。
「そんなの決まってるじゃん。俺には兄貴さえいればいい。兄貴にも俺さえいればいい。だから……邪魔者を消してるだけ」
十和くんは恍惚として答える。
彼にとって、先生を想う彼以外の人物は“邪魔者”でしかないんだ。
ふたりの愛を守るため、そんな邪魔者を人知れず徹底的に排除しているわけだ。
ふと、クローゼットの前に連なった服に目をやる。
(そういうこと……)
先生を好きになった彼女たちは、十和くんによって消されてきた。
きっと、彼は何度も何度もこんなことを繰り返しているのだろう。
(だから、か)
最初の頃、わたしの思考が筒抜けで、手に取るように見透かされていたのは、そういう過去の“例”があったから。
わたしは最初から最後まで、十和くんのてのひらの上だったんだ。
狂愛の果てに相手を殺してしまうとか、拒絶された怒りとショックで殺してしまうとか、彼の思惑はそんな程度じゃなかった。
「じゃあ……何であんな態度とってたの? 勘違いさせるような、あんな思わせぶりな」
ずきずき、割れた心が痛んだ。
わたしの好きになった彼は幻だったのだと分かっても、癒えない深い傷を負わされる。
「邪魔者を殺すのが目的なら必要なかったでしょ。わざわざそんなふうに裏切る意味なんて……!」
「兄貴を好きな気持ちを持ったまま死なれたくないんだよ。だから上書きするの」
そう言った十和くんの手が伸びてきて、優しく顎をすくわれる。
甘くて穏やかな眼差しに思わず息をのむ。
「約束通り、いい夢見せてあげたでしょ」
「……っ」
ばっ、とその手を払った。
それさえ予想通りだったのか、特に驚くことなく軽薄な笑みをたたえている。
「……最低」
あれほど鮮やかに見えていた世界は色褪せ、幸せだったはずの記憶は粉々に砕け散っていく。
じわ、と涙が滲んだ。
泣きたくなんてないのに、悔しくてたまらない。
「何とでも言えば? 兄貴を好きになって、しかも俺に騙されたきみが悪いんだよ」
ちぎれるほど心が痛い。本当に悔しい。
苦しくてたまらない。
なんて自分本位で身勝手なんだろう。
彼の愛はやっぱり異常で、狂っている。
(それなのに……)
夢から覚めたはずなのに、魔法が一向に解けない。
わたしはまだ、どこかで期待している。
彼のすべてが嘘だったとは思えなくて。
「ていうか、意外。悪いことしてる自覚あったんだ」
「え……?」
「兄貴につきまとってたこと」
わたしは唇を噛み締めた。
「あるよ……。だって、そのせいでいままでずっと────」
失敗してきた。
恋がうまくいかなかったのは、自分の行きすぎた愛情のせいだという自覚はあった。
愛される自信がなかったから。
嫌われるのが怖かったから。
ひとりにされるのが不安だったから。
だから、いつでもわたしだけを見ていて欲しかった。
わたしと同じだけの愛を返して欲しかった。
だけど、そんなわたしの気持ちや行動はいつも疎まれてしまう。
(でも、十和くんだけはちがうと思ってたのに……)
いつか“このこと”を打ち明けられるようなときが来たら、そのときは。
彼だけは愛を以てすべてを受け入れてくれるんじゃないかと、淡く期待していた。
ぽろ、とこぼれた涙が落ちていく。
とめどなくあふれ出す。
「泣かないでよ。……めんどくさい」
「……っ、止まらないんだもん」
肩を震わせながら、わたしは泣き続けた。
彼がいつもみたいに抱き締めてくれることも涙を拭ってくれることもなかったけれど、刃が届くこともまたなかった。
「好きなの……」
────もう戻ることも進むこともできないのに。
「うん」
「ぜんぶ分かってるのに、どうしようもないくらい好き」
「……知ってる」
自分でそう仕向けて、まんまと思惑通りの結果を得られた彼はさぞかし満足だろう。
けれど、思いのほかその声に愉悦の色は乗っていなかった。
「……でもさ、もっかい言うけどぜんぶ嘘だから。兄貴が迷惑してたから、邪魔なきみを消そうと思っただけ。兄貴はストーカーがきみだって気づいてなかったけど」
「わたしは嬉しかったよ……。偽物だったかもしれないけど、初めて愛が返ってきた」
そう告げると、彼は一度口をつぐんだ。
ややあって立ち上がり、散らばった封筒をぐしゃりと踏みつける。
「────“愛”って、無償で注ぐものなんだよ。気づいたらあふれてんの」
見上げたその眼差しは、包丁の切っ先よりも鋭い。
「見返りを求めた瞬間、それは愛じゃなくなる。ただの独りよがりな束縛」
冷水を浴びせられた気分だった。
瞬いた隙に、彼が目の前に現れる。
「十和、く……」
「ありがとね、芽依。俺も結構楽しかったよ」
振り上げられた包丁の先端が軌道を描く。
目で追いきれないうちに、胸のあたりに激痛が走った。
「……っ!」
逃げなきゃ、ととっさに思ったものの、既に身体が言うことを聞かなくなっていた。
力が抜けて動けないわたしに、十和くんが馬乗りになる。
(そっか……)
わたしの彼への気持ちは、愛じゃなかったんだ。
結局、どれも自己満足でしかなかったのかな。
刺されたところから、どくどくと血があふれ出てきてラグに染み込んだ。
彼はまた罪を重ねる。
わたしは十和くんに殺される。
それなのに、彼のすべてが愛しい。
たとえ偽物だったとしても、この奇妙な生活は確かに幸せだった。そう思わせてくれた。
霞んだ視界に彼を捉えながら、わたしは自然と微笑んでいた。
(十和くん……)
これは、甘やかな毒に侵されてしまったわたしの負け。
『俺はただ、好きな人を幸せにしてあげたいだけだよ。そのためだったら何でもする』
その言葉はわたしではなく、本当は先生に向けたものだったのだろう。
だけど、わたしも同じ。
彼の幸せのためなら何も怖くない────死ぬことさえ。
(それでも……)
わたしのこの感情は、愛とはちがっていたのかな。
彼が花瓶から花束を引き抜いたのがぼんやりと見えた。
血まみれのわたしの胸元にそっと置く。
「さよなら、芽依」
再び包丁を振りかざした十和くんを、虚ろな瞳で捉える。
最期の瞬間に目にした表情は、どこか切なくて苦しげだった。
◆
────季節はすっかり梅雨になっていた。
窓の外はどんよりと薄暗く、いまにも雨が降り出しそうな気配がある。
放課後の教室にひとり残っていた十和に気がつくと、宇佐美はそっと足を向けた。
「朝倉」
どこか物憂げに遠くを眺めていた彼が、ぱっと弾かれたように顔を上げる。
「なにー? ふたりなんだし、十和って呼んでよ」
屈託のない笑顔は幼い頃から変わらず、無邪気そのものだった。
宇佐美は取り合うことなく、神妙な面持ちで切り出す。
「日下のことだが……」
捜索の規模はどんどん縮小している。
あと1か月もすれば打ち切られるかもしれない。
「あー、まだ見つからないんでしょ。心配だよね」
眉を下げながら目を伏せる。
「……さすがにもう、殺されてるんじゃないのかな」
思わずそう言ったあと、はっと失言に気がついた。
死んでいる、ではなく、殺されている、と言ったのは完全に無意識だった。
けれど、きっと宇佐美は気づかない。
気づいたとして、自分を疑うことなんてできないだろう。
「……そういえば、おまえまた俺の車使っただろ」
「えっ」
思わぬ言葉に心臓が跳ねた。
確かに無断で使ったが、それはもうひと月近く前のことだ。
「無免許運転は犯罪だぞ。俺が何でも甘やかすと思うなよ。いつでも庇えるわけじゃない」
「うわー……何で分かったの?」
使ったのは一瞬だったし、車も元に戻したのに、どうして分かったのだろう。
「苺ミルクのペットボトル。後部座席の足元に転がってた」
十和は一瞬呼吸を忘れた。
それは間違いなく、芽依に渡した睡眠薬入りのものだ。
うっかりしていた。回収することをすっかり失念していた。
「……飲んだの?」
「いや、捨てた。あのときも言っただろ、甘いのは苦手だって」
「はは、そうだったね。ていうか、それは昔からだし知ってるよ」
探られているのだろうか。
余裕ぶってみるものの、声が硬くなった。
平気だ、と思い直す。
何だかんだで甘い彼に、自分を本気で疑うことはできない。
「まったく……」
「ごめんごめん。もう迷惑かけないから許してよ、颯真」
「何が“颯真”だ。弟のくせに生意気だな」
────自分たちの関係を忘れたわけではなかった。
彼にとっての自分が何なのかも知っている。
けれど、ふいに突きつけられた現実に、さすがに心を挫かれそうになる。
「……そうだね。ごめん、兄貴」
十和は儚げに笑った。
この痛みは何度味わっても慣れない。
「あ、宇佐美先生!」
そのとき、ひとりの女子生徒が教室に飛び込んできた。
「今日の授業で分かんないところがあって……」
ノートを広げて宇佐美と距離を詰める彼女の、浮ついた態度とほんのり色づいた頬を見て、十和はいち早く察した。
ひっそりと目を細める。
────次は、彼女だ。