第3話
椅子に座ったまま項垂れる。
両手首は背もたれの後ろで手錠をかけられ、足首はそれぞれ椅子の脚と繋がれていた。
その上、常に目隠しまでされるようになって、待遇は逆戻りどころか悪化した。
こんなの、まるで囚人みたい。
どうやったって逃げられないし、不自由を与える罰なのだろう。
だけど、食事は取り上げられなかった。
一日にコンビニのサンドイッチひとつというわびしいものではあるけれど。
(何でなんだろ……)
わたしが自暴自棄になって自ら死を選ぶのを危ぶんでいるのかな。
あるいは、痩せて拘束を抜け出すことを警戒しているのかもしれない。
(もう、どっちでもいいや)
少なくともいま、そんな力はない。
精神的にも身体的にも燃え尽きてしまっている。
あのときのことが何度も何度も蘇ってきた。
冷静に考えれば、あんなところに鞄なんて置いておくはずがない。
紛れもなく罠だ。
『……ちがうよ。俺はいつでも本気だった』
『芽依も俺のこと信じてくれるかなって、期待してたんだけどなぁ』
ぎゅう、と拳を握り締める。
(よく言うよ……)
わたしを痛めつけて黙らせる口実にしたかっただけのくせに。
いまさら彼に道理を説いて訴えても無意味だし、蔑んだところで気休めにしかならない。
最初から大人しく従っておくのが正解だったのかな。
それなら、少なくとも痛い思いや苦しい思いはせずに済んだし、そこそこの快適さは保証されていた。
いずれにしても、部屋の鍵を開ける手段がなくなったいま、自力での脱出は諦めて待つしかない。
誰かが見つけてくれることを。助けにきてくれることを。
(先生……)
目のふちに滲んだ涙が、真っ暗闇の中でも光ったような気がした。
────遠くで鍵とドアの音がした。
十和くんが帰ってきたんだ。
泥棒だったらよかったのに。
どんな形であれ、わたしを見つけてくれるなら。
そんな期待はあえなく砕け散った。
近づいてくる足音がいつもと同じだったから。
「ただいま、芽依」
「…………」
口をつぐんだまま無視した。
わざわざ彼と馴れ合う必要もないし、もう媚びる意味もない。
「寂しかった?」
す、と耳元に顔を寄せて囁かれた。
突然のことにびくりと肩が跳ねると、くす、と小さく彼が笑う。
「……かわいい。見えないと怖いよね。俺に何されるか分かんないもんね?」
反応を楽しんでいるようだった。
思わずうつむくと、きつく口を結んで耐える。
十和くんの態度は不気味なほど柔らかかった。
いまだけでなく、ここのところずっと。
わたしが反抗的な態度をとっても気を悪くする様子はまったくない。
“お仕置き”が済んだから、気分がいいのかもしれない。
単に逃げ出す素振りを見せないからかもしれないけれど。
(何でもいいや。わたしに害がなければ……)
毒にも薬にもならない無為な時間が続くと、投げやりにもなってしまう。
────だけど、外では確実に捜索が進んでいるはず。
警察も動いているのなら、こんな生活はそう遠くないうちにきっと終わりを迎える。
ふいに、十和くんが「そうだ」と声を上げた。
「芽依にプレゼントがあるんだ」
耳元に指先が触れたかと思うと目隠しを外される。
夕方の色が眩しくて、思わず一瞬目を細めてから、その手にあるものを認めた。
「それ、は……」
「どう? 着てくれる?」
淡い色合いの小花柄ワンピース。
丈が長めでティアードになっているから、まるでドレスみたい。
「ドア閉めて待ってるからさ、終わったら声かけてよ」
そう言いながら拘束を解いてくれる。
ワンピースを渡すとあっさりと部屋を出ていった。
何か企んでいるんじゃ、と不安になったけれど、確かにそろそろ着替えた方がいい。
ここへ連れてこられてからずっと拒んできたから、未だにあの日と同じ制服姿だった。
たび重なる暴力のせいで染みた血が変色し、掴まれたブラウスはしわになっている。
傷のためにも清潔な服に着替えるべきだろう。
だけど、十和くんの用意したものだ。
何となく不信感が拭えなくて気が進まない。
そんなことを考えながら、ふわりとワンピースを広げてみた。
(あれ? これって……)
以前、どこかで見た気がする。
(……そうだ、思い出した)
前に逃げ出そうとした夜、駆け込んだ部屋のクローゼットで見たんだ。
どうしてこんなものがあるんだろう、と思ったのに、それどころじゃなくてすっかり忘れていた。
「わたしに着せるためだったってこと……?」
そんな気がしてきた。
わたしの着替えとして用意していたのかもしれない。
薄気味悪さを覚えるものの、いまは着替えがあって助かった。
おずおずと袖を通すと、ボタンを留めて胸元のリボンを結ぶ。
鏡がないから確かめられないけれど、十和くんの前で着飾る必要もないし、不格好だって別に構わない。
「終わったよ」
言いつけに素直に応じ、ドアの方へ声をかけた。
「じゃあ開けるよ」
そんな声が返ってきたかと思うと、ゆっくりドアが開く。
十和くんはわたしを見るなり、目を見張ったまま動かなくなってしまった。
そんなふうに見つめられると居心地が悪い。
「……期待はずれ?」
「ううん、その逆。かわいすぎてびっくりしてる」
沈黙に耐えかねて尋ねると、ストレートに褒められてしまった。
何だかますます居心地が悪くなる。
「よかった、思った通り似合う。芽依のために用意しといたんだよ」
「……そうなの」
やっぱり、と思った。
だからって別に嬉しくもないけれど。
「ねぇ、せっかくだからもっとかわいくしていい?」
「え……何するの?」
「きみは何にもしなくていいよ。ただ“お人形”になって、俺に任せといて」
それから夕食の前まで、十和くんは楽しそうにわたしの髪を巻いたり編んだりしていた。
その手つきにおぼつかなさは感じられなくて、器用にまとめられた結び目にリボンのバレッタがはめ込まれる。
用意したのは服だけじゃなかったのだろう。
わたしは彼の気が済むまで大人しく従っていた。
面倒ではあったけれど、害はなかったから。
それに、もう分かっていた。
抵抗してもどうせ敵わないし、そうするほど環境や状況が厳しくなっていくことを。
「芽依……すっごいかわいいよ。お姫さまみたいだね」
ふんわりとゆるくウェーブした髪をひと房手に取り、うっとり愛しそうに言う。
花柄のワンピースもリボンの髪飾りもパールのアクセサリーも、この場所に不似合いなほど輝いて見える。
彼だけのお城で、彼のために生かされていることがひどく虚しい。
本当に“お姫さま”なら、地面へ降りられるほどの長い髪が欲しかった。
「制服は洗っておくね。しばらくはその格好でいてよ。ひとりじめしたいからさ」
姿見を残したまま、十和くんが部屋から出ていく。
「……っ」
ぎゅう、と強く両手を握り締めた。
悔しさとか腹立たしさとか、いまはそういうものより嫌悪感の方が強い。
髪から、服から、十和くんと同じ香りがする。
すぐそばにいるみたい。
抱き締められたときと同じ。
(……もう無理)
リボンのバレッタを外すと、勢いよく床に投げつけた。
触れられた髪をかき混ぜる。少しでも感触を紛らわせるように。
(もう見ないで。触らないで。呼ばないで……!)
必要以上に構われたくない。
ここにいるしかないのなら、ただそう思う。
勝手に想われて、騙されて、散々な目に遭った。
“好き”という気持ちが人を地獄に突き落とすこともあるなんて知らなかった。
もうこれ以上、傷つきたくない。
「ほっといてよ……」
何もしないから、十和くんも何もしないで。
わたしに期待しないで。
◇
ここのところ、彼は上機嫌だった。
わたしも椅子から解放され、足をまとめ上げていた結束バンドまで断ち切ってくれたけれど、結局それだけではできることなんてない。
────朝、制服姿の十和くんが姿を現す。
布団の上に倒れ込むわたしと、傍らに放られたリボンのバレッタを見て、困ったように苦笑した。
「今日もふて寝してるの? あと、せっかく似合ってるんだからこれ外さないでよ」
バレッタを拾い上げつつ「ほら起きて」と手を差し伸べてくる。
ふい、と顔を背けた。
「……そんなのいいから、わたしの制服返してよ」
きっと、それもこのワンピースと同じにおいに染まってしまっただろうけれど、気持ち的にはいくらかましだ。
嫌悪感も多少は和らぐはず。
「えー、着替えちゃうの? こんなにかわいいのにもったいない」
惜しむように彼が言う。
だったら、なおさら着替えたい。
「もちろん制服姿も好きだけどね。どんな芽依もかわいいから」
「…………」
二の句を継げず、ため息すら出なかった。
ここまで冷たくあしらっていたら、そのうち恋心も冷めるかと期待していた部分もあったのに、どうしてこうもめげないんだろう。
その折れない心だけは尊敬に値するかもしれない。
「じゃあさ、制服返してあげるからそろそろ機嫌直してよ」
「……機嫌の問題じゃないでしょ」
「そうなの? 何か怒ってるってこと?」
「分かんないの?」
「全然。だって俺、悪いことなんて何もしてないし」
こともなげに言われたその瞬間、わたしの中で箍が外れた。
理性が感情に押し負ける。
「正気……?」
床に手をついて身体を起こした。
ぐい、と襟元を下げて見せる。
そこにはくっきりと、わたしを苦しめた痕跡が残っている。
「見える!? わたし、十和くんに何度も殺されそうになったんだよ!」
彼の視線がわたしの目から首へ移った。
「それだけじゃない。身体中、傷だらけ」
ばっ、と裾を腿のあたりまでめくって見せると、痛々しい痣や切り傷があらわになる。
袖の下だって、顔だって、お腹や背中だってそうだ。
「誰のせいでこうなったか分かってるよね!?」
彼の眼差しがやがてわたしの双眸に戻ってきた。
その表情は冷ややかに消えている。
「芽依のせいでしょ」
愕然と呆れて、とっさに言葉が出なかった。
力が抜けて床にへたり込む。
「……もういい。出てって」
あまりの身勝手さに腹が立つのと、理解できない恐怖とが混在していた。
彼とは分かり合えない。
改めてそう思う。
「ちょっと待って。本気で自分は悪くないと思ってるの?」
「……え?」
「何でこうなったかまったく分かってないんだね。自分のことは棚に上げてさ」
困惑したまま、半ば気圧されたようにふるふると首を横に振る。
「だって……わたし、悪くない」
そのはずなのに、どうしてか言っていて不安になってくる。
「ううん、そんなことないよね? じゃなきゃ俺が手上げるわけないじゃん」
「でも……」
反論しようとしたのにできなかった。
そうかもしれない、と思った。
だって、いまの彼の言葉は間違っていない。
実際にわたしが何か仕出かさない限り、彼が暴力を振るうことはなかった。
憂さ晴らしとか快楽とか、そんなもののために傷つけられたことは確かにない。
(……忘れてた)
笑顔には笑顔が、優しさには優しさが返ってくる。
わたしたちは“鏡”なんだった。
嘘には嘘が、痛みには痛みが返ってきたに過ぎないんだ。
「そっ、か……」
「そう、芽依が悪いんだよ。傷が痛いのもご飯が冷たいのも不自由なのも、ぜーんぶ芽依が招いた結果。分かってくれた?」
柔らかく微笑んだ十和くんに優しい眼差しを注がれる。
「……確かに、そうだね」
傷が疼くたび、可能性を考えた。
あのとき部屋から出たりしなければ、もっとましな生活になっていたはず。
人権も失わずに済んだし、きっと手錠も外れていただろう。
(……わたしが十和くんの信用を裏切った)
我慢を重ねて築き上げてきたものが、砂上の楼閣だったと自ら証明してしまった。
────ぜんぶ、彼の言う通り。
「だったら、何か言うことあるんじゃない?」
優しく促され、そっと顔を上げる。
「……ごめん、なさい」
小さいながらしっかり告げると、十和くんは満足そうに笑みを深めた。
わたしの頭に手が伸ばされる。
つい怯んで身を縮めたものの、痛みなんて訪れなかった。
「よくできました」
ほっとするほどあたたかい手に撫でられる。
あんなにまとわりついてきていた嫌悪感は、不思議と湧いてこない。
「……だからって俺もちょっとやりすぎたね。ごめん」
そうかもしれないけれど、わたしに咎める権利はそもそもなかった。
これで許してくれた、ということだろうか。
「十和くんが謝る必要ないよ」
「そう? でも痛かったでしょ」
「それは……うん」
痛かったし、苦しかった。
ということは、十和くんも同じ思いをしたということ。
(そうだよね)
信じていた好きな人に嘘をつかれて裏切られたら────。
先生にそんなことをされたら、わたしだったら耐えられないかもしれない。
「……怒って当然だと思う。わたしが悪いんだもん。本当にごめんね」
「芽依……」
意外そうに揺らいだ彼の瞳が煌めいた。
肩をすくめたわたしの手を取ったかと思うと、おもむろにポケットから何かを取り出す。
小さな鍵だった。
「え……」
戸惑っているうちに手錠が外される。
自由になった手首を十和くんは愛しそうに撫でた。
「こんなこと言ったら誤解されるかもしんないけど、芽依がそう言ってくれて嬉しい。分かってくれたんだね、本当の意味で」
彼の思いの丈も、ここでの生活のあり方も、土台にあるのは“我慢”じゃない。
十和くんの求めているものが、ようやく分かったような気がした。
「……時間、大丈夫?」
「あ、そうだね。そろそろ行かなきゃ」
はたと立ち上がった彼が「ちょっと待ってね」と一度部屋から出ていく。
戻ってきたとき、その手には綺麗に畳まれた制服があった。
「これ、一応返しとく。それじゃ、行ってきまーす」
────部屋と家に鍵をかけて十和くんが出ていくと、手渡された自分の制服を眺める。
ブラウスにもスカートにもしわひとつない。
カーディガンは以前よりも手触りが柔らかくなっているような気がする。
すん、と鼻を寄せた。
ついさっきまでそこにいた彼の存在感が、香りを通して強くなる。
それなのに、抵抗感や嫌悪感は息を潜めたまま。
(……どうして)
別に、打算のもと友好的に接しようと思ったわけじゃない。
十和くんを受け入れたわけでももちろんない。
けれど、尖っていた敵意が何だか嘘みたいに丸くなってしまった。
異常だと思っていた彼の行動には理由があると分かって、筋が通っていると納得して、本当の意味で初めて理解が及んだ。
裏切られたショックを想像して、その気持ちに共感できてしまった。
絶対に分かり合えないと、ついさっき思ったところだったのに。
日が傾いた頃、十和くんが帰ってきた。
読んでいた本を閉じ、部屋のドアが開くより先に立ち上がる。
「おかえり」
フラットな態度で声をかけると、一瞬目を見張った彼がふんわりと微笑む。
「ただいまー、芽依」
その場に荷物を落として駆け寄ってくると、その勢いのまま抱きつかれた。
頬をすり寄せるように動くから、ゆるく癖のついた髪の先が時折触れてくすぐったい。
「……あんまりくっつかないで」
「照れなくていいよ。俺と芽依しかいないんだし」
微かに笑った彼はそっと離れると首を傾げた。
「結局、着替えなかったんだ?」
「まあ……何となく」
「俺のため、って受け取っとくね。素直じゃないんだから」
人差し指で頬をつつかれ、むっとしているうちに腕がほどかれた。
手を引かれるがまま、並んで布団の上に腰を下ろす。
じっと注がれる熱っぽい眼差しや繋がれたままの手に耐えかねて、つい口を開いた。
「十和くんって、どうしてここまでできるの?」
「────好きだから」
何度も聞いたその答えには説得力があった。
誘拐も監禁も、わたしにしたどんなことも同じで、彼の原動力は一貫している。
「ねぇ、十和くんの初恋ってどんなだった? その人にもこんなことしてたの?」
一瞬、意表を突かれたように笑みが消えて、それからまた笑った。
「まさか」
思い返すようにして言葉を繋ぐ。
「うーん、そうだな……。よくある感じだと思うよ。そのときは小さかったから恋かどうかもよく分かんないで、あとになって気づいた。結局、伝えられないまま」
思いのほか甘酸っぱくてほろ苦い。
その切なげな表情は、どうしても嘘には見えなかった。
「……そうなんだ。ちょっと意外」
「そう?」
「うん、十和くんなら迷わず告白しそうだもん」
数えきれないほど伝えられてきた“好き”という想いや甘い言葉たち。
遠慮や臆病さなんて知らないみたいに、ただ気持ちをぶつけてきた。
「それはね、知ったからだよ」
「知った?」
「そう。その人のこと好きだったけど、伝えられなかった。言いたくても言えなかった。そういう恋もあるんだって初めて知った」
やわく笑む横顔につい目を奪われていると、ふいに真剣な瞳に捕まる。
「だから、伝えられるなら……その機会があるなら迷いたくない」
どき、と図らずも心臓が跳ねた。
「芽依、好きだよ」
触れ合った手の温度が高くなる。
毒だと分かっていても、逸らせなかった。
「……っ」
ゆっくりと、十和くんの顔が近づく。
────けれど、それは、わたしから理性を奪うほどではなくて。
唇が届く前に、とん、と彼の肩のあたりに触れる。
押し返さなくてもそれだけで止まってくれた。
(拒ん、じゃった……)
よかったのかな。
自分を優先して。
まとまらない感情が渦を巻いて、心の中をかき乱す。
どろどろに溶けたチョコレートみたい。
あまりに重たい沈黙のあと、ややあって十和くんが離れた。
するりと手をほどいて立ち上がる。
「……ごめん」
たったひとこと、いまにも消えてなくなりそうな声色でこぼした。
寂しくて切なげな余韻を残して部屋から出ていく彼を、何も言えずに見送る。
(わざと……?)
わざと、ゆっくり顔を近づけたんだ。
受け入れるか、拒否するか。
わたしに委ね、選ぶ余地を残すために。
『勝手に決めないでくれる? きみに選ぶ権利なんかないから』
そんなふうに言っていたのに、どうして?
(どうして……そんなに優しいの?)
わたしは傷つけてばかりだというのに。
彼がくれる愛情を一身に受けながら、その想いを知りながら、結局は自分の気持ちを優先してしまった。
十和くんなら許してくれると、心のどこかで甘えていた。
(だって……)
本気でわたしを得ようと思ったら、最初からそうやって脅せばいいだけなんだ。
何度かそうしたみたいに、強引に奪ってしまえばいい。
恋心の対価として“応じなければ殺す”と言えばいい。
彼は“王さま”なのだから。
それなのに、十和くんは決してそうしない。
ほかのことならいざ知らず、この一線ばかりは律儀に守り続けてくれている。
わたしの気持ちを尊重してくれている。
『……ごめん』
去り際の切ない声色が耳から離れなかった。
高鳴って止まない鼓動が苦しい。
(わたしが傷つけた。また……)
ずきずき、割れたように心が痛む。
痛みは鏡になるのに、想いは────。
窓の外には夜の帳が下りていた。
ふいに遠慮がちなノックが響いて、びくりと肩が跳ねる。
「芽依……」
どき、と心臓が射られた。
やっと落ち着いたはずの拍動がまた激しくなる。
「入ってもいい?」
「……うん」
どういう顔をすればいいのか分からなかったけれど、頷くほかにない。
ノックと同じく遠慮がちにドアが開き、十和くんが足を踏み入れた。
無意識にその顔を見上げれば、目が合ってしまう。
「!」
ぱっと慌てて逸らした。
十和くんもたぶん同じようにして、落ち着かない沈黙が落ちる。
(気まずい……)
キスは拒んだのに、なぜかよっぽど気まずい。
ただでさえここは居心地が悪いというのに。
「これ、置いとくね。……またあとで」
わたしを気遣ってか、彼は近づいてこなかった。
ドアの近くにコンビニの袋を置いて、すぐに背を向ける。
「ま、待って」
とっさに引き止めると、取っ手に手をかけていた彼が振り向く。
何か言おうとしたわけじゃなかったのに、思わず呼び止めてしまった。
(……どうしよう、何も考えてない)
────そのうち、この気まずさも忘れて、何ごともなかったみたいに戻るのかもしれない。
だけど、このまま放っておくなんて無責任だ。
彼にあんな顔をさせておいて。あんな声色にさせておいて。
どのみち、もうあとには引けない。
「その、わたしこそごめん」
「……え」
「自分のことしか考えてなかった。ここに来てからずっとそう」
自分さえよければそれでよかった。
十和くんは悪者で、わたしは被害者なのだとばかり思っていた。
そんな前提がそもそも間違いだったのかもしれない。
だって、わたしも彼を振り回してしまっている。
「十和くんの気持ちも分かった気になってた」
勝手に想像して、期待して、失望して。
恋心だけじゃない。
彼という人物に対する認識そのものが、虚像でしかなかった。
(知らなかったから)
わたしの気持ちを優先してくれた、その一途さも誠実さも、彼が持ち合わせているなんて。
聞いてみて、触れてみて、初めて分かるのかもしれない。
本当の十和くんがどんな人なのか。
だから────。
「いまからでも、遅くないかな」
彼をまっすぐ見つめると、同じような眼差しが返ってくる。
「知りたいの、もっと。十和くんのこと。これから知っていきたい」
前にそう言ったとき、警戒心をあらわに彼は笑った。
「……うん」
彼はまた、笑った。
今度はどこか純粋に嬉しそうに。花が開いたみたいに。
「俺も知って欲しいって思う」
────ひとりになると、しゅる、と胸元のリボンをほどいた。
着慣れたブラウスに袖を通したとき、シトラスがふわりと漂う。十和くんのにおいがする。
スカートを履くとカーディガンを羽織り、胸元に制服のリボンをつける。
寝る前にそうして元の格好に戻ると、着ていたワンピースを手に取った。
ハンガーにかけた方がいいのだろうけれど、この部屋にはない。
ひとまず畳んでおこうと床に置いたとき、ふと違和感を覚える。
「ん……?」
その襟元をじっと見つめた。
「これ、血……?」
首の後ろ側にあたる部分に、赤茶色っぽい染みが浮かんでいた。
慌てて後頭部から首にかけて触れてみる。
これが血なのだとしたら、そこから垂れて染みたのだと思った。
けれど、そこに怪我をした覚えはないし当然ながら傷もない。
(何の血なの……?)
どく、と心臓が跳ねた。
不穏な予感しかしなくて、おののいてしまう。
ほかについていないか、くまなく探した。
小花柄に溶け込んでいたものの、背中部分の内側にも変色した小さな血の染みがあることに気づく。
わたしの傷が開いて、流れた血がついたのだろうか。
(……こんなところに?)
十和くんが血のついた手で触った?
だけど、服を持ってきたのは、暴力を受けた日とは別だった。
「誰の血なの……?」
そう呟くと、背筋が冷たくなった。
染みてからかなり時間が経っているように思える。
ワンピースからは洗剤のにおいがしていたし、洗濯しても落ちなかったのだろう。
わたしのものでも十和くんのものでもないとしたら。
その意味を考えて、目眩を覚えた。
恐怖で満たされた身体が小刻みに震える。
「まさか……」
十和くんの笑顔が記憶の中で歪んでいく。
狂った恋心、危険なまでの独占欲────甘い毒がじわじわと溶け出す。
(わたしが連れてこられる前にも、誰かいたの……?)
彼の異常な愛に飲み込まれた人が。
連れ去られて監禁されたのは、わたしが初めてじゃなかったのかもしれない。
『よかった、思った通り似合う。芽依のために用意しといたんだよ』
嘘つき、と思った。
このワンピースはきっと、わたしより前にここにいた人のものだ。
(どうなったの……?)
この血は後頭部から垂れてきたか、首の後ろ側から染みたか。
どちらにしたって位置的に致命傷となりうる。
「殺、された……?」
消え入りそうな声が震えた。
もし本当に殺されてしまったのだとしたら、次はわたしの番だ。
もう秒読みは始まっているかもしれない。
(どうしよう)
ぼんやりとしている場合じゃなかった。
彼を理解している余裕もなかった。
理解なんてできるはずもなかったんだ。
誘拐犯どころか、殺人犯だったのだから。
ぞっとした。
こんな服をわたしに着せるなんて、彼はどういう神経をしているのだろう。
いますぐにでも血のことを問いただしたい。
けれど、それが得策だとは思えない。
もしワンピースの彼女が本当に殺されていたとして、その理由は十和くんの偏愛や狂愛の果てとは限らない。
もしかすると、こんなふうに彼の重大な“秘密”を知って迫ったのかも。
あるいはこの前のわたしみたいに、彼から逃れようとして失敗した。
そうやって、十和くんの思惑を潰したり機嫌を損ねたりした結果なのかもしれない。
(もう、これ以上は本当に失敗できない)
◇
「おはよ、芽依」
翌朝、十和くんが朝食のはちみつトーストを運んできたとき、とっさにどんな顔をすればいいのか分からなかった。
(どんなふうに話してたっけ……?)
殺人犯かもしれない、と思うと全身が粟立つほどの寒気がした。
それなのに、今日に限って全然ひとりにしてくれない。
小さなテーブルの上にトーストを置いた彼は、悠々とラグの上に腰を下ろし、居座る気でいるみたいだ。
「……時間、いいの?」
「いいの、今日は休みだから。いっぱい一緒にいられるよ」
警戒して動こうとしないわたしの隣へ座り直した十和くんは、ゆったりと表情を和らげる。
どきりとした。
いつでも殺せる間合いに入られた。
(……だめ、怯んでる場合じゃない)
どうにか自分を奮い立たせると、畳んでおいた例のワンピースを手に取る。
「あの。これ、さ……どこで買ったの?」
何気ないふうを装いながら、実際には意を決して尋ねた。
一刻も早くここから出たい。逃げ出したい。
けれど、同じ手はもう通用しないし、彼が休みじゃどのみち身動きが取れない。
だから、少しでも情報を得るために探りを入れる。
いまのわたしにできることはこれしかない。
本当に十和くんが殺人犯なんだとしたら、脱出の隙を窺いながら、その罪を立証するための証拠を探さなきゃ。
「ん? 何でそんなこと気になるの?」
「わ、わたしのために用意してくれたって言ってたでしょ。本当にかわいくてわたし好みだったから気になって」
「あー……」
彼は視線を流し、ややあって答える。
「……ごめん、覚えてないや」
それにしては、答えるまでに時間がかかっていたような気がする。
「……そっか」
「うん。たまたまショーウィンドウで見かけて、芽依に似合いそうって思ってさ。適当なお店で買ったんだよね」
今度は澱みない口調だったものの、どこか取ってつけたようで言い訳がましい。
それなら「覚えていない」じゃなくて「店名を見ていなかった」と言う方が自然だ。
最初からそう答えればよかったのに。
(知らない……?)
自分じゃなくて、殺した彼女の持ちものだったから?
いずれにしても十和くんは何か嘘をついている。
それだけは分かる。
本当に、彼は殺人犯なのだろうか。
好きになった相手を最終的には殺してしまうような。
(でも、確かに少しもためらってなかった)
少なくとも暴力に関しては、何の迷いもないように見えた。
だからって殺しもそうなのかと言えば、それはまた別な気もするけれど。
「────ねぇ、芽依の初恋ってどんなだったの?」
「えっ」
突然の問いかけに驚くと、彼はくすくす笑った。
「そう聞いたのは芽依でしょ。俺だけなんてずるいじゃん。芽依のことも知りたいのに、昨日聞きそびれちゃったし」
「……わたしのことは何でも知ってるんじゃなかったの?」
「そんな意地悪言わないで教えてよー」
すねたように言われて、何だか力が抜けてしまう。
殺人犯なんじゃないか、なんて突飛な疑惑への緊張感を忘れてしまうほど。
「うーん、どんなだったかなぁ」
「恥ずかしがらなくていいよ」
「そういうわけじゃないんだけど……あんまり覚えてないや。小さい頃の“好き”って、どこからが恋か分かんないし」
肩をすくめるものの、彼は不満そうだった。
気に留めることなく「十和くんは?」と尋ね返す。
「“伝えられなかった”って言ってたけど、それって……」
言い終わらないうちにはたとひらめく。
もしかしたら、相手はもうこの世にいないのかもしれない。
十和くんが手にかけたという可能性もあるけれど、だとしたら「伝えられなかった」というのは不自然に思える。
伝えることも叶わないうちに、彼女が何らかの理由で亡くなってしまったのだとしたら。
(わたし、また傷を……)
「ごめん、こんなこと聞いちゃって! 十和くんに悲しいお別れを思い出させるだけなのに」
自分の浅はかさとデリカシーのなさが嫌になる。
また、何にも見えなくなっていた。
「……ん? 芽依、なに言ってるの?」
十和くんが不思議そうな顔になる。
「えっ。だって、亡くなってるんじゃ……」
「ないない!」
びっくりしたように手を振って否定すると、彼はおかしそうに笑った。
「何でそうなったの」
「……生きてるの?」
「もちろん。勝手に殺さないであげてよ」
色々な意味で驚いて呆気に取られてしまう。
それなら逆に失礼な勘違いをしていたかもしれないけれど、それを謝ることすら失念していた。
(生きてる……)
それが本当だとすると、十和くんが好きになった相手を最終的には殺してしまうような、サイコな狂愛主義者である可能性は低い?
はっとして、弾かれたように顔を上げた。
「わたしとその人以外には!?」
「え?」
「好きになったことある? どんな人? いまどうしてるの?」
立て続けに尋ねる。
すべて余すことなく聞きたいのに、答えを待っていられないほど気が急いていた。
「ちょっと待って、落ち着いてよ。芽依が興味持ってくれるのは嬉しいけど……急にどうしたの?」
「いいから……! いいから教えて」
この先のこと、何よりわたしの命に関わる大事なことなんだ。
彼と彼が好きになった人の結末は、そのままわたしたちの末路を表しているかもしれないから。
困惑したように目を瞬かせた十和くんは、だけどわたしの勢いに気圧されたようだった。
観念したように静かに口を開く。
「……俺が好きになったのは、その人だけ」
その声音に重厚感が増して、きっと深い思い入れがあるのだと思わされた。
それでいて羽根みたいに儚げで、いまにもどこかへ飛んでいってしまいそう。
────ちく、と心の表面の部分に何かが触れた。
薔薇の棘が刺さったような、ほんの小さな衝撃。
けれど、気づかないふりをするには少し鈍感さが足りなかった。
(なに、この痛み)
本気で分からなかったわけじゃない。
先生を想う中で散々味わった感覚だから。
ただ、どうして十和くんに────顔も知らない初恋の彼女相手にこんな感情が湧いたのか、分からなかった。
「安心してよ」
わたしの心情を知ってか知らずか、彼は甘く微笑む。
「いまは芽依しか見えない。俺が好きなのは芽依だけだから」
「あ……そう」
そっけないふりをして、顔を逸らした。
そうでもしないと、自分の変化に耐えられなかった。
受け入れられなかった。
────悔しい。
何でわたし、いまほっとしちゃったんだろう。
「冷たいなぁ。聞いといてそれはひどくない?」
「……わたしが好きとか、そんなのは聞いてないし」
「はは、確かに。でも聞かれなくても言いたいんだよ、何度でも。分かってて欲しいからさ」
「もう分かってるよ。痛いほど伝わってる」
文字通り、痛いほど。
彼の“好き”は一途で、甘くて、凶暴で、自分勝手で、痛くて、とてつもなく危険。
だけど、ほんの少しだけあたたかくて優しい。
理性を失っているわけではないと分かった。
「……ってことは、芽依も俺のこと好きなの?」
「そんなわけないでしょ! ばかなこと言わないで」
わたしの答えなんて分かりきっていたかのように、十和くんはただ肩をすくめて笑った。
今度また同じことを聞かれたら、そのときは何て答えるだろう。
空になった皿を彼が片付けに向かうと、ようやくひとりになった。
壁に背中を預けるようにして膝を抱える。
『……俺が好きになったのは、その人だけ』
十和くんの言葉が何度も頭の中を巡った。
伝えられなかったのは、叶わぬ恋だったから。
(かなり、思い入れがありそうだったな)
いまはわたしだけだと言っていたけれど、彼女を忘れてはいないように見えた。
(わたしは初恋なんて覚えてないのに)
わたしの“好き”は上書き保存されていくけれど、十和くんはちがうんだ。
そういうものなのだろうか。
もやもやと黒い煙のようなものが胸の内に立ち込めていく気がした。
「……わたし、何をそんなに気にしてるんだろう」
彼の恋愛事情を聞いたのは、その本性を探って、わたしが殺される可能性を見極めるためだったはず。
いつの間にか道を逸れていた。
あくまで彼女が生きているなら、この話はもうおしまいでいい。
それなのに、そればかりが気にかかって仕方ない。
(わたしにそんな価値があるのかな)
それほどに好きだった初恋相手を上回るような価値が、わたしなんかにあるのか分からない。
わたしのどこがいいんだろう。
前にも聞いたけれど、考えるほど不思議だった。
「……あれ?」
ふいに萌芽した違和感が、すり抜ける前に引っかかった。
────そうだ、大事なことを忘れていた。
床の上に横たわる、畳んだワンピース。
手を伸ばして広げてみる。
(これは結局、誰のものなの?)
十和くんが過去に好きになった人のものだと思っていた。
そして、彼女は殺されてしまったのではないか、と。
だけど十和くんは、これまで好きになったのは初恋相手とわたしだけだと言っていた。
彼女は生きている、とも。
(わたしの推測が間違ってる?)
それとも、彼がまた嘘をついている?
何かを隠していることは間違いない。
そうでなければ、嘘をつく理由もない。
(もし、かして)
絡まった糸をほどくように違和感に向き合うと、はたとある可能性にたどり着いた。
十和くんが、好きになった人を殺してしまうような狂った人物だという推測────もしかすると“好きになった人”なんて括りはないのかも。
相手は誰だっていい。
偶然選ばれた人がターゲットになるのだとしたら?
どうでもいい人。嫌いな人。
時には好きな人でさえ、その餌食になってきたのかもしれない。
ワンピースの持ち主が、彼の初恋相手とはまた別の人なのだとしたら。
彼女は十和くんにとってどうでもいいか嫌いな人で、たまたま標的にされてしまっただけなのかもしれない。
そう思ったときには立ち上がっていた。
握り締めた手でドアを叩く。
「十和くん!」
こんなふうに呼びつけるなんて、ここへ来てから初めてのことだ。
最初は彼が来るたび憂鬱になっていたのに、自分から呼ぶ日が来るなんて思いもしなかった。
「どうしたの? 何かあった?」
飛んできてくれた彼は、驚いたように言いながら鍵とドアを開ける。
「ううん、ごめん……。ちょっとお願いがあるんだけど」
「お願い? なに?」
「服ってこれ以外にはもうない? もしあるなら見せて欲しいなって思って」
クローゼットにあった女性ものの服。
この家にある分だけ、同じ目に遭った子がいるということかもしれない。
あのワンピースと同じように血がついていたりしたら、十和くんの罪を明かす証拠になりうる。
ややあって、彼は微笑んだ。
「あるよ。また着せ替え人形になってくれるの?」
「あ……うん」
不本意ながら割り切って頷くと、十和くんの表情が晴れる。
「本当? じゃあ、あるだけ持ってきてあげる。ちょっと待ってて」
再びドアが閉まって、ひとりになる。
(やっぱりおかしい……)
こと服に関しては、何だか詰めが甘い。
わたしが疑っていることを知らないから、油断しているのかもしれないけれど。
この家にある女性ものの服はわたしのために用意した、というのが彼の言い分のはず。
それならわたしから言い出さなくても、あのワンピースみたいに自ら進んで持ってくるのが自然ではないだろうか。
ほかにもあるなら、わたしが制服に着替えた時点でほかの服を勧めるはず。
本当にわたしのために用意したのなら。
(それとも、それもわたしへの気遣いだった?)
当初、頑として制服から着替えようとしなかったから。
ワンピースに着替えさせたこと自体も無理強いだった、と負い目を感じていたのかも。
(分かんないなぁ……)
彼のどんな選択も合理的に思えてくる。
わたしが理由を探してあてはめてしまっているだけかもしれないけれど、納得できるほどの理由があるのもまた事実で。
切り崩せると思ったのに、どうしてあんなに余裕なんだろう。
ぞっとする。
何にしても最終的に殺してしまえばいい、と考えているからだとしたら。
十和くんは両手に服を抱えて戻ってきた。
とはいえ、その量はクローゼットで見た分と相違ない。
あのときは暗かったから、ものまですべて同じかと聞かれれば自信はないけれど。
「どれにする? どれも似合いそうだなぁ」
十和くんは空っぽのクローゼットを開けた。
ハンガーごと持ってきた服を1着ずつパイプにかけていく。
(何か……ばらばらだ)
服に統一感がない。
誰かひとりのことを思って選んだとしたら、テイストなり色なりある程度のまとまりがあるはず。
けれど、ここにある服にはそれがない。
系統も色味も入り交じっていて、寄せ集めといった感じ。
(これぜんぶ……持ち主が殺されていたら)
10着を超えるか超えないか、といったところだ。
そんなに殺していたら、さすがに事件が表沙汰になっているだろう。
(じゃあ、間違ってるのはその推測?)
分からない。
彼を前にすると、うまく考えがまとまらなくなる。
だけど、慎重に見極めなきゃいけない。
閉ざされたこの狭い世界で、何を、そして誰を信じるべきか。
秒読みは止まってくれないから。
────十和くんが選んだものを大人しく着ることにした。
シフォン素材のブラウスにリボンのついたジャンパースカート。
クラシックでガーリーな格好だけれど、この服の持ち主がどうなったのかが気がかりで、正直袖を通すのにも抵抗があった。
けれど、心を無にして耐えるほかにない。
わたしの目的は着せ替え人形になることじゃない。
「芽依、かわいい。やっぱそういう格好が似合うね」
ドアを開けて、着替えたわたしを見るなり彼は嬉しそうに言った。
「……いいよ、お世辞は」
「お世辞なんか言わないって。普段からそういう格好してたじゃん。好きなんでしょ?」
「えっ」
どうして知っているのか、なんて疑問に思うのはもはや野暮だ。
当然ながら一緒に出かけたことはないけれど、私服を知っているということは、休日のわたしをどこかから見ていたのだろう。
誘拐に至る前から、つきまとっていたにちがいない。
「いつから、わたしのこと……?」
見ていたのか。好きだったのか。
十和くんは思い返すように宙を見上げた。
「……始業式の日かな。隣の席だったでしょ」
初めて会ったその日から、ということだ。
2年生に進級する前は関わりなんてなかった。
「最初は“かわいいな”って、ただちょっと気になってただけだったんだけど」
ラグの上に座って優しく髪を梳かしてくれながら、滔々と語る。
表情は見えないものの照れくさそうな声色だった。
「色々話すようになってさ、その内面にもだんだん惹かれてって……。気づいたら好きになってた。あーもう、止まんないやつだこれ、って。いまも、どうしようもないくらい」
十和くんの手が止まり、一拍置いて後ろから抱き締められる。
『そのかわいい顔も、綺麗な髪も、背が低くて華奢なところも、ふわふわして見えるのに芯があるところも、一途で粘り強いところも、表情がころころ変わるところも……本当、かわいい』
ぜんぶ好きだと言ってくれた、あのときの言葉を自然と思い出した。
わたしを腕で閉じ込めている彼の温もりが、凍てついた心を溶かし出す。
「俺なら、芽依に辛い思いなんかさせない。こんな強引な真似してでも手に入れたくて。……ばかだよね」
自嘲気味にこぼされた笑みは儚げで、心が震えた。
十和くんの腕に力が込もる。
「そんな、に……?」
「……うん、本気で好き。諦めきれない」
わずかに顔を傾けた彼が窺うようにわたしを見やる。
それでいて、隙もないくらい真剣な眼差しに捕まった。
「ねぇ、芽依。俺じゃだめ?」
ふいに喉が詰まって、呼吸が震えた。
きゅっと締めつけられて視界が滲む。
「……っ」
何で、と泣きそうになったことに自分でもびっくりしているうちに、ぽろぽろと涙がこぼれていく。
「……芽依?」
戸惑ったように十和くんが腕をほどいた。
大丈夫、という意味で首を横に振ったけれど、彼は心配そうな面持ちで正面に回り込んでくる。
「どうしたの? ごめん、何か嫌だった? 痛かった?」
「ち、がう……」
彼の指先が、伝い落ちていく雫を拭ってくれた。
そのあまりに優しい温もりに余計涙があふれたけれど、お陰でやっと息ができるようになった。
「ちがうの。ごめん……」
震える声で告げると、彼はただ黙って待ってくれていた。
「そんなふうに言われたこと、なかった。いままで」
誰かを好きになることはあった。
けれど、近づくほどに相手は遠ざかっていった。
“好き”が深まっても、いつもどこかで失敗してしまって。
わたしは不器用すぎて、恋が下手で、空回りしては傷ついてばかりいた。
うまく伝わらないもどかしさが辛かった。
最後にはいつもわたしが彼らを不幸にしているみたいで、責められている気がして苦しかった。
誰にも必要とされたことなんてない。
分かってもらえなかった。
十和くんが初めてだ。
こんなにもわたしを想って、愛してくれたのは。
あんなに怖くて気味が悪かったはずの狂気的な恋心に、まさか救われるなんて。
「────嬉しい」
素直にそう思えて、やわく笑った。
わたししか映らない瞳、甘い言葉を囁く唇、慈しむように触れる手。
身に余るほどの十和くんの想いが、わたしを包み込んでくれた。
春の陽射しみたいに、柔らかくてあたたかい。
『芽依には俺しかいないんだから』
いつかの言葉が蘇る。
理解してくれるのも、受け入れてくれるのも、ここまで大切に想ってくれるのも、確かに十和くんしかいない。
わたしの存在意義と価値を、彼が与えてくれた。
「芽依……」
染み入るように呼んだ彼が再び手を伸ばすと、そっとわたしの頬に添えられる。
ちゃんと、気づいていた。
その眼差しがあのときみたいに、熱っぽくも慎重なことに。
気持ちがあふれて止まないけれど、わたしを優先してくれている、その思いやりに。
そっと目を閉じる。
彼の想いを受け入れてみたくなった。
近づく気配に、衣擦れの音に、鼓動が痛いほど加速する。
────唇が重なった。
以前のような、ただ強引なだけの一方的なキスとは全然ちがう。
そこに、ちゃんとわたしがいる。
「……っ」
何だかまた、泣きそうになってしまう。
気遣うようにすぐに離れた彼と至近距離で目が合う。
照れ隠しのように笑えば、十和くんもそうした。
「……かわいい」
「は、俺が? それこっちのセリフだから」
わたしの頭を撫でて笑う。
こうやって彼に触れられると、何だか心地いい。
────夕方頃、わたしはキッチンに立っていた。
ボウルの中のクッキーの生地を混ぜるわたしを、カウンター越しに十和くんが眺めている。
「芽依ってお菓子作るの好きだよね。教室でもよく友だちに配ってたし」
「うん、甘いものが好きだからその延長で……。十和くんにもあげたことあったっけ?」
作りすぎたものを適当に配っていたから、誰に渡したか定かじゃない。
「1回だけもらったよ。ブラウニー、っていうんだっけ、あれ」
「あ……思い出した。そういえばそうだったね」
「なんだ、深い意味なかったんだ。俺だけ特別なのかなって期待したのに」
特別、という言葉に思わず手が止まる。
誤魔化すように笑った。
「十和くんなら、バレンタインに毎年たくさんもらってるんじゃないの?」
「まあね。でも、好きな人からじゃなきゃ意味ないし」
こともなげに肯定されたものの、自慢や嫌味といった言い方ではなかった。
キッチンの方へ回り込んでくると、わたしを囲うように台に手をつく。
「……十和くん?」
「好きな人にもあげてたの?」
すぐ耳元で聞こえた声は普段より低くて、どことなくつまらなそうだった。
「う、ん。……特別なやつ」
それでも直接渡す勇気はなくて、先生のシューズロッカーにこっそり忍ばせていただけ。
もしかすると、食べてもらえずに捨てられていたかもしれない。
そんなことを考えていると、十和くんが「はぁ」と大げさにため息をついた。
「……ねぇ、わざと?」
「えっ」
「何でそんな正直に答えるかな……。俺をからかってるつもり?」
するりと腰のあたりに回された腕に驚いたものの、剥がそうにも動かない。
「ちょ……」
「我慢の限界超えたら、俺なにするか分かんないよ」
恨みがましいような目線を寄越されて、思わず小さく笑った。
「それって、やきもち?」
「……言わないでよ、俺が小さい奴みたいじゃん。恥ずかしい」
肩口に顔を伏せた彼にますます笑ってしまう。
何だか愛くるしいような憎めない気持ちが募って、心が満たされていった。
ぽんぽん、ともたげた手で頭を撫でてみる。
新鮮さを感じていると、ふいにその手を掴まれた。
身体を起こした十和くんが正面で向き直る。
いつもみたいに抱き締められるか、今朝みたいにキスされるかと思った。
けれど、彼は口をつぐんだまま。
その瞳が惑うように揺れて、わたしの手を掴んでいた力が緩んでいく。
「……ごめんね」
弱気な声と痛ましげな表情に戸惑った。
「俺、取り返しのつかないことした」
彼の手がわたしの頬を撫でる。
壊れものにでも触れるみたいな、繊細で優しい指先。
「え?」
「芽依のことが好きで、大事で。だからきみがよそ見してるのも、分かってくれないのも許せなくて」
目を伏せた十和くんが言葉を繋ぐ。
「でもさ、ちゃんと分かってるんだよ。俺のやってること……犯罪だって」
どきりと心臓が重たげな音を刻む。
わたしたちの事情なんて関係ない。
確かに彼のしたことは、客観的に見れば犯罪にほかならない。
このふたりきりの生活はそもそも異常で、脆く危うい土台の上に成り立っている。
「いつか終わるんだよね。……夢みたいに」
当初、彼には罪の意識や後悔なんて欠片もないように見えた。
誘拐や監禁という行動自体にも、わたしを苦しめることにも。
(ちがったんだ)
十和くんもずっと苦しんでいたのだと驚いてしまう。
良心の呵責や葛藤に。
『この時間がずっと続けばいいのにな』
それが叶わぬ願いであることも、とっくに知っていたんだ。
「……そんなことない」
とっさに口をついた言葉に、彼の瞳が揺らぐ。
「現実なんだから、わたしたち次第でしょ? 夢なんかで終わらせたくない」
眠りから覚めたら、すべて泡みたいに消えてしまう。
それなら、もう一生目を覚ましたくない。覚めなくていい。
「……俺、ひどいことしたんだよ? たくさん芽依を怖がらせたし傷つけた」
「うん」
「許して、くれるの?」
彷徨うように不確かな眼差しを、まっすぐ受け止めた。
わたしは小さく笑ってみせる。
「責任……とってくれるなら」
一拍、彼が止まった。
その意味を考えて、理解して、驚いたように目を見張る。
「責任って……え? え、まさか────」
「そばにいて。これからもずっと」
わたしは十和くんに抱きついた。
ぎゅっと回した腕に力を込める。
「ふたりで暮らそう」
触れた部分から温もりが溶けて混ざり合う。
鼓動はずっと速いまま。だけど、それが心地いい。
「芽依……」
わずかに掠れた彼の声がすぐそばで聞こえる。
ぎゅう、と抱き締め返してくれた。
「好きだよ。ずっと」
「……うん、知ってるよ」
わたしはまた、小さく笑う。
彼の腕の力は強くて、もうそこに遠慮なんてなくなっていた。
“離したくない”という気持ちが全面に滲み出ている。
それでも、ややあって離れると不安そうな表情を向けてきた。
「芽依は?」
「えっ」
「俺のこと好き?」
どき、と心臓が跳ねる。
核心に迫るような質問だ。
本気で分からずに聞いているのか、単に確かめたいだけなのか、いずれにしてもはっきり答えるまで引き下がるつもりはなさそう。
「わたし、は────」
認めたら負けな気がする。
「ど、どうかなぁ?」
誤魔化すように笑いつつ、背を向けてクッキー作りに戻ろうとした。
けれど、肩を掴まれてくるりと身体が反転する。
「逃げるの禁止」
先ほどみたく囲うように手を置かれ、あまりの近さに身を逸らした。
どきどきして、頬が熱を帯びるのを自覚する。
「答えて」
十和くんは逆に乗り出して迫ってくる。
どこまでも純真でまっすぐな瞳は逸らされることがない。
彼の甘い恋心と深い愛情は、きっと地の果てまで追ってくる。
観念して、口を開いた。
「……分かんない?」
わたしはもう一度、そっと抱きついた。
今度は隙間がぜんぶなくなるくらい、強く抱きすくめる。
「め、芽依……」
「しー」
そう制すると、しん、と静まり返った部屋の中に、どき、どき、とわたしの速い心音が響き渡っていた。
自分で恥ずかしくなってくるけれど、これなら証明できるかな。
「……すごい、どきどきしてる」
わざわざ言葉にされると余計に恥ずかしい。
かぁ、とますます顔が熱くなった。
「ねぇ、こっち向いて。顔見せて?」
「……やだ」
絶対に無理だ。
からかわれるに決まっている。
首を横に振ったとき、ふと気になった。
(十和くんの心臓の音、聞きたい)
そう思って胸に耳を当てようとしたものの、いち早く察した彼が先に動いた。
「何やってんの」
ぐい、とあえなく引き剥がされる。
「何で。ずるい」
そう言いながら思わず見上げた顔は、わたしと同じくらい赤くなっていた。
「……許して。恥ずかしすぎて耐えらんない……」
十和くんは手の甲で口元を覆ってあとずさる。
染まった頬を隠すように、さっきのわたしみたいに背を向ける。
潤んだようなその瞳を見て、つい笑みがこぼれた。
心がくすぐったい。
彼の前に回り込むと、じと、と恨めしそうに睨まれた。
「……なに笑ってんの」
「何か、嬉しくて」
独りよがりな想いじゃなくて、一緒の気持ちなんだ。
好きな人が自分を好きでいてくれる世界を、初めて知った。
すべてが鮮やかに色づき、煌めいているように感じられる。
こんなにも世界の見え方がちがうんだ。
こんなにも、満ち足りて幸せなんだ。
すっかり日が落ちた頃、部屋でひとりクローゼットを開けた。
運び込まれた服は残されたまま。
(きっと何もない)
半ばそう願うような気持ちで、1着ずつ丁寧に改めていく。
(十和くんに限って……)
彼が狂った殺人犯だとか、そんなわけがないのだから。
そんなの、極限状態に追い込まれていたせいで生まれた突飛な恐ろしい妄想だ。
どうかしていた。
服を調べているのは、彼を信じていないからじゃない。
信じたいからこそ、何もないことを確かめたいだけ。
(でも、やっぱり……どれも新品じゃない)
洗濯をして丁寧に扱っていても、使用感や小さなほつれは元に戻らない。
少なくともほかの服に血の染みがないことは確認できたけれど、これはいったいどういうことなんだろう。
新品ではない女性ものの服がどうしてあるのか。
それも、こんなに。
「…………」
聞いてみたい。
だけど、こんなこと聞けない。
下手なことを口にして、彼の愛情を失うのが怖い。
わたしだけにくれる優しさを手放したくない。
彼の心と引き換えにはできない。
────こんこんこん、とノックされる。
きっと夕食の時間だ。
「芽依……」
ドアが開いた瞬間、寄りかかるようにして抱きつく。
「どうしたの。今日はほんと積極的だね」
彼は小さく笑いつつ、当たり前のように抱きとめてくれた。
回された腕の温もりと感触がじわじわと染みてきて、胸がいっぱいになる。
「……分からなくなっちゃった」
「ん?」
「わたし、何を信じればいい……?」
色々な可能性をひとりで考えるしかなかった。
ここには確かなことなんてひとつもないから。
何も信じられない。
嘘や毒の充満した、ふたりきりの甘いお城。
彼に取り込まれないように必死だったけれど、それはただの、曲がったわたしの意地だったのかな。
「大丈夫だよ」
なだめるように優しく背を撫でてくれる。
「芽依が信じたいものを信じればいい。……それが俺だったら嬉しいけど」
「信じていいの? 十和くんのこと」
縋るように見上げると、屈託のない笑顔が返ってくる。
「当たり前でしょ」
じん、と心が痺れた。
『好きだよ、芽依ちゃん』
確かなものも信じられるものも何もないと思っていた。
けれど、その言葉だけは最初から揺るぎない真実だったのかもしれない。
(……決めた)
十和くんを信じよう。
────信じたい。
もう、わたしには彼しかいないから。