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スイート×トキシック  作者: 花乃衣 桃々
◆第2章 思惑
2/7

第2話


 また夜が明けて、日が暮れた。


 コンビニのサンドイッチではあるけれど、今日は久しぶりにご飯にありつくことができた。


 心の底から不本意で、いまだって割り切れたわけじゃないけれど、頭を下げて彼を受け入れたことで命が繋がった。


 ビニール袋と(から)になったペットボトルの回収に来た十和くんを、とっさに「ねぇ」と引き止める。


「お願いがあるんだけど……」


「ん? なーに?」


 彼は機嫌よさげに微笑みながら首を傾げる。

 わたしが大人しくしているから、油断しているにちがいない。


「お風呂、入っちゃだめ?」


 そろそろ不快感も限界に近かった。

 染みるだろうけれど、傷のためにも清潔にしていたい。


 それに、髪や身体を洗うには手錠をしたままでは無理だ。

 もしかすると、手足の拘束を両方とも解いてもらえるかもしれない────そんな淡い期待もあった。


「ん、いいよ」


「え……本当?」


 思いのほかあっさり許されて拍子抜けしてしまう。

 十和くんは楽しげに微笑んだ。


「うん、俺が洗ってあげるから」


 思わず眉根に力が込もる。


 開きかけた希望の扉が、一瞬にして閉まったような気がした。


「い、いい! 大丈夫」


「えー、そう? 残念だなぁ」


 強く拒むけれど、十和くんはくすくすと相変わらず楽しそうだ。


(見抜かれた、わけじゃないよね……?)


 本当は脱出を諦めていないことを。

 だからこそ、わたしが諦めるに足る提案をしたのかもしれない。


 ありえないと分かっていても、こうも何度も的確に機先(きせん)を制されては怖くなる。


「なんてね、冗談だよ。ゆっくり入っておいで」


「い、いいの?」


 何か耐えがたい交換条件でも続けられるのではないかと身構えたものの、十和くんはただ「うん」と頷いた。


「服はどうする? 洗っておこうか?」


 そう言われて、自分の身につけている制服を見下ろす。

 ところどころに滲んだ血が染みている。


 着替えたい気持ちもあったけれど、彼になんて安心して預けられない。


「う、ううん。大丈夫」


「そう? 遠慮しなくていいのにー」


 ぱちん、とはさみで結束バンドが断ち切られる。


「ついてきて。ちょうど沸いてるし、すぐ入れるよ」


 自分のために沸かしたのだろうけれど、わたしを優先してくれるとは思わなくて驚いてしまう。


 そろそろと立ち上がると、十和くんは何のためらいもなくドアを開けた。


「え……。目隠し、は?」


 思わず尋ねてから、はたと気がつく。

 いつの間にか、すっかりこの環境に慣れてしまっている。


 十和くんの押しつけてくる“不自由さ”が当たり前になりつつあった。


「いい子だね」


 ふ、と満足そうに微笑んだ彼に頭を撫でられる。

 戸惑って瞳が揺らいだ。


 その温もりにすら、最初ほどの抵抗感がなくなっていたから。




 お風呂から上がると、脱衣所で素早く元の服を身につけた。


 いまのところ精神攻撃や身体的に過酷(かこく)な仕打ちはあっても、性的な暴力がないことが救いだった。


 触れられたりキスされたりはあるけれど、戻れない一線は越えずに守ってくれている。


 ────そこまで及んだら、きっともう耐えられない。


 十和くんは、わたしの気持ちを()んでくれているのだろうか。


 あるいは、わたしに“自死(じし)”という選択肢が残っていることを察しているのかもしれない。


「芽依ちゃーん、上がった?」


「あ、うん……!」


 突然ノックされて、泡が弾けるように思考が散っていく。

 タオルで髪を拭いつつ、かちりと解錠した。


「よかった、顔色よくなってる。すっきりした?」


「うん……。ありがとう」


「じゃあ来て。乾かしてあげるから」


 彼に手を引かれながら廊下に出た。


 部屋を出るときもそうだったけれど、もう目隠しを強要(きょうよう)する気はないみたい。


 ────監禁部屋へ戻るなり、手首に再び手錠をはめられた。

 足首も拘束し直され、大人しく床に座る。


 肩にかけていたタオルを手に取り、十和くんはわたしの髪を優しくかきまぜ始めた。


 特に何も言わずその手に(ゆだ)ねていると、背後から呟く声が聞こえてくる。


「何か素直になったね」


 反抗しても意味がないことを、嫌というほど思い知らされたからだ。


  時間はかかっても、こうして従っている方がよっぽど安全だし、脱出への近道なのだと思う。


「……そうかな」


「うん、いまの芽依ちゃんすごくかわいくて好き」


(それは単に自分の言うことを聞くから、でしょ)


 従順でいる方が身のためだ、という脅迫かもしれない。

 ────けれど。


「ありがとう」


 どうにか微笑んでみせた。

 ここではそれが、それだけが武器なのだと悟ったから。


 ドライヤーの音だけが響く中、十和くんの指先が頭に触れる。

 何もしないで座っている間は無心になれた。


(何か……不思議)


 こんな瞬間、これまで通りの日常を生きていたら絶対に訪れなかった。


 こんなふうにふたりきりの空間で、ふたりきりの時間を、彼と過ごすなんて思いもしなかった。


 あたたかい風が流れてシャンプーの香りが漂う。

 わたしのじゃない、知らないにおい。


 少しずつ、十和くんの色に染められていく。


「────よし、でーきた」


 ぱち、とややあってドライヤーの音が止んだ。

 こんなに静かだったかと戸惑うほど、穏やかな空気感。


 両手で頭を包み込まれたかと思うと、ふいに十和くんが近づく。

 すん、と鼻を寄せたのだと一拍遅れて気がついた。


「うん、俺とお揃いのにおい」


 嬉しそうな彼は、ブラシで丁寧にわたしの髪を()かし始めた。


 以前、あんなふうに乱暴に掴んできたとは思えないほど、その手つきは優しい。


「傷は平気?」


「え?」


 ふと尋ねられて我に返る。


「染みたりとかしなかった?」


 思わず目を落とした。

 膝を抱える腕に力が込もる。


「……大丈夫だよ」


 もちろん、お湯も泡もじんじんと染みた。

 中にはまだ血が滲んでくるようなものもあって、生傷(なまきず)だらけの脚は痛々しいと言ったらない。


 それでも“強がる”以外の選択肢をとれば、彼を責めることになって、また傷が増えてしまうような気がした。


 そんなことを考えていると、ふいに十和くんの手が止まる。


(あ、あれ? わたし、何か間違えた……?)


 さっと青ざめた次の瞬間には、彼の腕に包まれていた。

 後ろから抱き締められている。


「ごめんね」


 言葉にも行動にも困惑してしまい、すぐには何も言えなかった。


「本当ごめん。俺、あんなこと……芽依ちゃんを傷つけたかったわけじゃないんだよ」


 とても信じられない。

 なのに、嘘をついているようにも聞こえない。


「もう芽依ちゃんと一緒にいられなくなるかもって思ったら、何か必死になっちゃって」


 ぎゅう、と強く抱きすくめられても、痛くなんてなかった。苦しくもなかった。

 振りほどいて拒絶する余地を、わたしに残してくれている。


「好きなんだよ。……それだけなの」


 わずかに掠れた声は、切なげに(くう)に溶けた。


 背中に預けられた温もりが、頬をくすぐる髪が、回された腕の強さが、意識の内側に嫌でも滑り込んでくる。


「十和、くん……」


「でも」


 するりと腕がほどけていく。


「好きになってごめん」


 落ちた余韻に引かれるように振り向いたけれど、彼は目も合わせないうちに立ち上がった。


 ドライヤーやブラシなんかを手にあっさりと部屋を出ていく。

 閉まったドアをじっと見つめた。


(……分からなくなってくる)


 ここへ来てから目の当たりにした、狂気的でサディスティックな姿が十和くんの本性だと思っていた。


 だけど、いまさっきの彼は様子がちがった。

 いったいどれが本当の顔で、どの言葉が本物なんだろう。


 ついそんなことを考えている自分に気づいて、はっとした。


 これじゃまるで、十和くんのことを信じようとしているみたい。


(ありえない)


 彼は“悪”だ。

 危うく取り込まれるところだった。


 どんな事情があったって、どんな態度を取ったって、わたしに対する仕打ちが消えてなくなるわけじゃない。




     ◇




 朝になると、十和くんは朝食を運んできた。

 いつものようにサンドイッチと水。食事にありつけるのは一日に2回。


「じゃあ行ってくるね、芽依ちゃん」


 制服姿の彼は愛しむようにわたしの頬を撫でる。

 身体が強張る中、どうにか頷いて返す。


「行ってくるね?」


 けれど、十和くんはそれじゃ足りなかったのか意味ありげに繰り返した。

 何かを期待しているような眼差しに首を傾げる。


「“行ってらっしゃい”でしょ。憧れてたんだよ、俺。一緒に住むってなったら、そういうもんじゃん」


 寒気がした。

 一緒に住む、なんて響きのいいものじゃない。


 彼の中でこの状況は、異常でも何でもないのかもしれない。


「ねぇ、芽依ちゃんってば。聞いてるー?」


「……うん、行ってらっしゃい」


 色々なものをこらえて小さく告げた。


 二度と帰ってこないで、とまで言えたら、少しは気が晴れたかもしれない。

 あんな痛みを知ったあとではとても無理だけれど。


 ともあれ望み通りの言葉を受けた十和くんは、ぱぁっと嬉しそうに笑顔を咲かせる。


「うん、行ってきまーす。今日もいい子で待っててね」


 部屋のドアが閉まり、ほどなくして玄関ドアと鍵をかける音が小さく聞こえてきた。


「はぁ……」


 つい、重く深いため息をつく。

 ひとりになってもなかなか気が休まらない。


 思うように手足を伸ばせないことも、かなりストレスだった。


(外……どうなってるんだろう)


 構造という意味でもそうだけれど、いまは状況の方が気になっていた。


 わたしの失踪(しっそう)はニュースになったりしているのだろうか。

 きっと両親や友だちが心配してくれているはず。


(先生だって……)


 最後に会った放課後のことを思い出す。

 “また明日”────そう言ってくれたのに、その“明日”は来なかった。


 “明日”が昨日になって、おとといになって、夜が明けるごとに過去になっていく。


「わたし、いつまでここにいるんだろう……?」


 じわ、と涙が滲んだ。

 朝の白い光と溶け合い、視界が揺らめく。


 もう二度と、先生にも会えないのかな。


 そんなの嫌だ。絶対に。

 早くここから出ないと────これ以上、今日が過去に変わる前に。


 指先で涙を拭った。

 泣いて打ちひしがれている場合じゃない。


(何とかしなきゃ)


 だけど、もうあんな目に遭わされないように、もっと確実な方法で十和くんを出し抜かないといけない。


 ひとまず無駄な抵抗はやめて延命しながら、冷静に隙を窺うしかない。


(でも……わたし、何も知らない)


 十和くんのことも、この家のことも。


 逃げるためにも間取りを知りたいものだけれど、その点はやっぱり彼も警戒している。


 だからこそ、この部屋から出るときは目隠しで視界を奪われるか、直接の監視下に置かれる。


 膝で這うようにドアへ近づくと、取っ手を掴んで引いた。

 当然のように手応えがあり、鍵をかけられていると分かる。


「え?」


 だけど、おかしなものだ。


 内側であるはずのこちらから、施錠状態を示す赤色の表示が見えている。


 廊下側からしか施錠も解錠もできないみたい。


(そんなこと、あるの……?)


 明らかに奇妙で不自然と言わざるを得ない。


 ぞっとした。

 “誰かを閉じ込めるため”という理由と目的であれば、説明がついてしまう事実に。


「…………」


 ドアに耳を押し当て、息を殺した。


 1分以上そうしていたけれど、何の音も聞こえてこなかった。


 閉じ込められてからいままで、わたしたち以外に人の気配はまったくないと感じていたけれど、やっぱり間違いないと思う。


 十和くんはここでひとり暮らしをしている。


 この洋室ひと間を取っても、お手洗いやお風呂を取っても、かなり新しく綺麗なものだった。


 とはいえ、わたしを閉じ込めるためにつけ焼き刃的に借りたわけでもないだろう。


 彼の使っている空間とは切り離されているせいで、生活感を感じられないというだけで。


(監禁に関しては、穴がないようにとことん手を回してる十和くんのことだし……)


 自宅とは別に監禁目的の家があったとして、そこへ出入りしているところを目撃される方が危険だと思う。


 涼しい顔で登校までしてのけているわけだし、十和くんの図太い神経を思えば、ここが彼の自宅だと結論づける方が()に落ちる。


 いずれにしても、抜け出すチャンスはある。


 ひとり暮らしなら、彼が学校へ行っている間は隙だらけ。

 十和くんにとって想定外の出来事が起きたとしても、すぐに対処できない。


 もう一度取っ手を掴むと、力を込めて思いきり引いた。


 鍵を壊す勢いで強く引っ張ったけれど、無情にもびくともしない。


「だめかぁ……」


 このドアを無理やり突破できるような道具もないし、その方法は現実的ではないような気がする。


 やっぱり、チャンスはこの部屋を出るタイミングだろう。

 それなら拘束も解いてもらえる。


 だけど、と一度失敗したことを思い返して苦い気持ちになる。

 あんな強硬手段じゃだめだ。


 確かな機会がいつか巡ってくるはず。

 いまはとにかく十和くんの機嫌を損ねないように、大人しく耐え続けるしかない。


 ────部屋の片隅で膝を抱える。


 いまが何時なのかさえ分からなくて、絶えず不安に苛まれた。


 人知れず攫われて、知らないところに閉じ込められて、世間から置き去りにされているような気がしてくる。


 わたしひとり消えたところで、何にも影響なんてない。

 世界は変わらず(まわ)っていく。


 そんな当たり前の事実が、深くひどく追い詰めてくる。

 “孤独”という奈落(ならく)へ突き落とされるみたいに。


(ひとりぼっちだ……)


 いくら叫んでもわたしの声は外へ聞こえないし、外の音もわたしには聞こえない。


 誰も気づいてなんてくれない。

 確かに、ここにいるのに────。




「……ん、芽依ちゃん」


 穏やかな声に名を呼ばれて、うっすらと目を開ける。


 いつの間にか眠ってしまっていたらしく、慌てて起き上がった。


「わ、たし……」


「ただいまー」


 目の前にいた十和くんが手を伸ばしてきて、そのままぎゅうっと抱き締められる。


 爽やかなシトラスが香る。柔らかくて優しい、いいにおい。


 触れる温もりが、のしかかる重みが、その存在を実感させてくれる。


 困惑した。

 どく、と心臓が沈み込むように鳴る。


(え? わたし、いま……ほっとしてる?)


 まさか。そんなわけがない。

 そう思うのに、十和くんという存在が心の隙間に滑り込んでくる。


 少し癖のついた彼のふわふわの髪が、わたしの頬や耳元をくすぐった。


「今日もいい子で待っててくれたんだね。よしよし」


 抱き締めたまま、頭の後ろの部分を撫でられる。


 回された腕の力は強くて、“好き”だと伝えているようでも、逃がさないという意思の表れのようでもあった。


 だけど、いまは不思議とかえって落ち着いた。


 わたしがここにいること、十和くんだけは知っている。

 わたしの時間を動かせるのは彼しかいない。


「ねぇ、退屈じゃない? ひとりで過ごすの」


「それは、まあ……」


 曖昧に言い淀んだのは彼の意図が分からなかったからだ。

 確かにこの部屋の中でできることなんて限られているし、決して居心地がいいとは言えない。


「そうだよね。気遣えなくてごめんね? こんな床じゃ身体も痛いだろうし、何か色々持ってくるよ」


「あ、ありがとう」


 それ自体は快挙(かいきょ)だ。

 けれど、そんなことを気にかけるくらいならもう解放して欲しい、というのが本音だった。


 口にした瞬間、きっと痣が増えるだけだから言わないけれど。


 いっそう笑みを深めた十和くんは、もう一度強く抱きすくめてきた。

 肩のあたりに顔をうずめられ、先ほど以上にくすぐったい。


「……幸せだなぁ。こんなふうに芽依ちゃんをひとりじめできるなんて」


 中途半端にもたげた腕を、彼に届く前に下ろした。

 いくら擦り寄るための“ふり”だとしても、先生のことがちらついて触れられなかった。


 ────十和くんが出ていくと、またひとりになる。

 床にはコンビニの袋のほかに、あのとき渡されたクッキーが転がっていた。


『許してくれる?』


 何となく手をつけられなかったのは、一緒に渡されたそんな言葉のせい。

 わたしには彼を許す気も受け入れるつもりもない。


 握り締めた右手を振り下ろすと、クッキーは包装の中で砕けた。


(……負けないから)


 割れたクッキーの欠片を口に放り込む。


 絶対にここから出てやるんだ。




     ◆




 放課後、教室から出たタイミングで十和に声がかけられた。


「朝倉」


「あ、なーに? 先生」


 顔を綻ばせつつ首を傾げるも、宇佐美は対照的に険しい表情をしていた。


「日下のこと……何か知らないか」


 ふいに十和の顔から笑みが消える。


 予想通りの問いかけではあったものの、どうしようもなく心がざわつく。


「……芽依ちゃんのこと?」


「ああ。日下が行方不明になった日の放課後、おまえと一緒にいたよな」


 それはそうだ。

 あのタイミングで彼に目撃されることは想定外だったが、あのとき芽依は既に薬を口にしていた。


 あとには引けなかった。

 あのチャンスを逃せば、もう機会は巡ってこなかっただろう。


 正直なところ、自信もあった。


 築き上げてきた“朝倉十和”という人物像からは、こんな行動をとるなんて誰も想像がつかないはずだ。


 それに、冷淡に見えて実のところ心優しい宇佐美には、自分を誘拐犯だと疑えるはずもない。


 十和自身が認めない限り、信じようとするはずだと高を括っていた。


「んー。確かに一緒にいたけど、学校出る前に別れちゃったんだよね」


「ふたりで帰ったんじゃないのか?」


「ううん、帰ってない。あ、何なら確かめてみてよ。校門前って防犯カメラあるんでしょ?」


 当然、そこには証拠など何も残していない。


 あの木の下は死角になっている上、カメラに音声を拾う機能は搭載(とうさい)されていないのだ。


 ────しばらく考え込むように口をつぐんでいた宇佐美は、ややあって重いため息をついた。


「……そうだな。日下は下校中に何かに巻き込まれたのかも」


 十和を疑っているというより、1週間近く経ってもなお手がかりのない芽依の失踪(しっそう)について、心を痛めているようだった。


 自分の受け持つクラスの生徒が突然消えたのだから、心配にならないはずもない。


「…………」


 十和は人知れず、したりげにほくそ笑んだ。

 すぐに眉を下げ、不安そうな表情を作ってみせる。


「芽依ちゃんが心配?」


「当たり前だろ。俺の生徒なんだぞ」


「……本当にそれだけ?」


 つい食い下がった。

 芽依が強く想う相手が彼であることは承知している。


 返答によっては今後の行動を考えなければならない、と慎重に待っていると、宇佐美は訝しげに見返した。


「それ以外に何かあるのか」


 ────それは、十和にとって完璧な答えだった。


 ふたりは“先生と生徒”という関係でしかなく、それ以上でも以下でもない。


 ほっとしたやら嬉しいやらで表情が緩んでしまいそうになるのをこらえ、神妙(しんみょう)な顔を保ち続けた。


「何でもないよ。……芽依ちゃん、無事だといいね」


「ああ……そうだな」




     ◇




 数日のうちに、十和くんの言っていた通り色々なものが部屋に運び込まれた。


 ふかふかの布団に小さなテーブル、クッションやブランケット、ぬいぐるみ。

 スキンケア用品なんかの日用品の類や、小説といった娯楽まで。


 硬い床にはラグも敷かれ、部屋の快適さはかなり増した。

 だけど、長居はしたくない。


 がちゃがちゃ、とふいに一瞬騒がしくなって、ぼんやりしていたわたしの意識は覚醒した。


 十和くんが帰ってきた。

 身体を起こし、部屋のドアを見つめる。


 この瞬間はいつも緊張で息が詰まった。

 彼の機嫌次第では、何をされるか分かったものではないから。


 否応なしにそんな不安がついて回る。

 “王さま”が絶対のこの場所には、理屈なんて通用しない。


「ただいまー」


 部屋のドアを開けた彼の表情も声色も穏やかで、かなり機嫌がよさそうだった。


「おかえり、十和くん」


 内心ほっとしながら、彼の望む言葉をかける。

 案の定、柔らかい微笑みが返ってきた。


「はい、芽依ちゃんにお土産だよ」


 がさ、と音を立てながらテーブルに置かれた袋を覗き込む。

 お菓子やスイーツ、紅茶のペットボトルが目に入った。


 見慣れたパッケージに安心してしまう。

 隔離(かくり)された世界にいても、現実と繋がっているような気がした。


「あと今日の夜ご飯はこれ食べていいよー」


 彼がそう言いながらお菓子やスイーツの袋をどけると、わたしの好きなクリームパスタが顔を覗かせる。


「本当に? いいの……?」


「もちろん」


 信じられないような待遇(たいぐう)の向上だった。

 何かいいことでもあったのかもしれない。


「ありがとう、十和くん」


  わたしは笑顔を向けた。

 最初の頃よりぎこちなさはないけれど、ちょっとわざとらしかったかもしれない。


 感情のこもっていない笑顔を作るのも、本心をひた隠しにするのも、いつの間にか慣れてしまうものなのだと悲しくなってくる。


「…………」


 十和くんは何も言わず、じっとわたしを見つめていた。


(な、なに……?)


 彼とまともに話せるようになっても、根づいた恐怖と嫌悪感から怯えてしまう。


 常に息を殺しながら、超えてはいけないラインを見極めるのに必死だった。


「芽依ちゃんって、そんなふうに笑うっけ」


 ややあってこぼされたひとことは、ますます読めないものだった。

 怒りや冷たさを含んでいるわけじゃないからこそ、わたしの反応を試していると分かる。


 彼の意に沿わない何かを企んでいること、笑顔が嘘だということ、見えないように閉じ込めたはずの本心を疑われている?


「……変、だった?」


 頷くのも白々しいような気がして、困ったように笑いながら聞き返す。


 一拍置いて、十和くんの唇が満足そうに()を描いた。


「全然。かわいいなぁって思っただけ」


 彼は彼で、やっぱり本心が見えない。


「嬉しいな。芽依ちゃん、最近よく笑ってくれるから」


 そう言って立ち上がった十和くんが背を向けたのを見て、思わず身体が前のめりになった。


「ま、待って」


 衝動的な行動ではあったけれど、考えなしに引き止めたわけじゃない。


(“ここから出る”って覚悟決めてから、何日経った……?)


 せめて事態が悪化しないように、と従順でいることは、確かに間違いじゃない。

 だけど、それはその場しのぎを上塗(うわぬ)りしているだけ。


 ずっと、拘束されたままわびしい食事をして、決められたタイミングでお手洗いに行って、日がな来もしない助けを待ち続ける日々を強いられる。


 自分で何かしないと、ここから逃げ出すという目的にはきっと根本的に近づけないんだ。


「ん? どしたの」


「あのね……少し、話さない?」


 不思議そうに首を傾げる十和くんを、じっと見上げる。


 わたしは彼のことを何も知らない。


 学校で話すことはよくあったけれど、彼は自分のことをあまり語らなかった。


 いつだってわたしのことを聞きたがったし、知りたがっていた。


 それは“このため”だったのかな。

 それとも、純粋な“好き”という気持ちからだったのかな。


(わたしだったら……)


 好きな人(先生)のこと、もっと知りたい。

 その分、わたしのことも知って欲しいと思う。


(十和くんはちがうのかな)


 ややあって、彼は「……へぇ」と再び歩み寄ってきた。

 正面に屈み込むとにっこり微笑む。


「何の話がしたいの?」


 警戒しているのだとひと目見て分かった。

 わたしがまた「ここから出して」なんて懇願するんじゃないか。きっとそう思っている。


「十和くんのこと、知りたい」


 怯まず答えると、彼は意外そうに目を見張ってから再び笑みをたたえた。

 今度はどこか嬉しそうな笑顔だった。


「積極的だね。嬉しいなぁ、芽依ちゃんも俺のこと意識してくれてるんだ」


 こんな状況で気に留めないでいられる方がおかしい。

 異性として、という意味なら、決してそういうわけじゃない。


「いいよ、話そ。何を聞きたいの?」


 十和くんは隣に並んで腰を下ろした。


「えっと……」


 聞きたいことは色々あるけれど、何が地雷になるか分からない。

 彼の警戒心を煽って不信感を買うのもごめんだ。


「……わたしのどこが好きなの?」


 慎重に言葉を探しているうち、どうしても気になったことが口をつく。


 最初から分からなかった。

 女の子なんて()り取りみどりのはずなのに、どうしてわたしなんだろう?


 わたしより美人な子だって、頭のいい子だって、スタイルのいい子だって、明るい子だって、優しい子だって、魅力的な子はきっとたくさんいるはずなのに。


 怪訝(けげん)な表情を浮かべていると、とろけるほど柔らかい笑顔を向けられる。


「ぜんぶ好き」


 さすがに動揺して、頬が熱を帯びた。

 こんなにもためらいなく、ストレートに想いを告げられたのは初めてだ。


「そのかわいい顔も、綺麗な髪も、背が低くて華奢(きゃしゃ)なところも、ふわふわして見えるのに芯があるところも、一途(いちず)で粘り強いところも、表情がころころ変わるところも……本当、かわいい」


 十和くんは心地よさげに目を細める。


「ぜーんぶ好きだよ。大好き」


 わたしなんかのことが本当に好きなのかな、誰でもよかったんじゃないのかな、なんてどこかで疑っていただけに、いっそう驚いてしまう。


 そんなふうに見ていてくれたんだ。

 あまりにも具体的な言葉が並んだから、これ以上疑う余地もない。


 十和くんの想いは本物なんだ。


「何でそんなこと聞いたの?」


「だって、信じられなくて。十和くんがわたしなんかを好きになるなんて……」


 思わずそう返すと、彼は少しむっとした。


「“なんか”ってやめてよ。俺が好きになった芽依ちゃんを、自分で勝手に否定しないで」


 まっすぐな眼差しも優しい言葉も、すんなりと心に浸透(しんとう)してきて戸惑う。


 ────わたしは、自分に自信なんてなかった。


 誰かを好きになっても、いつもうまくいかなかった。

 いつも否定されてきた。


 先生への気持ちに気づいたとき、今度こそは頑張ろう、と意気込んだ矢先にぶち壊してきたのは紛れもなく十和くんだ。


 それなのに、いまはそんな彼の言葉に救われている。


(おかしいよ……)


 彼は誘拐犯で、わたしから色々な自由を奪って、たくさん傷つけてきた。


 恨むべき存在なのに、どうしてこうも心を揺さぶられているのだろう。


「……俺さ、芽依ちゃんのことなら何でも知ってるんだよ。俺以外に好きな人がいることも」


 どきりと心臓が跳ねた。


 十和くんがわたしをこんなふうに閉じ込めてしまうほどの独占欲を持ち合わせているのなら、その“好きな人”が先生だとバレたら、逆恨みで先生まで危険な目に遭うかもしれない。


 とっさに恐ろしい考えがよぎり、血の気が引いた。

 けれど、彼は困ったような表情で続ける。


「誰かまでは知らないけどね。知りたくもないから」


「え……」


「だってそうでしょ。わざわざ嫌なもの見なくたって、そんな気持ち、俺が上書きしちゃえばいいだけ」


 十和くんのことだから、何もかもを完璧に把握していると思った。


 意外だったけれど、そのあとに続けられた言葉はこの上なく彼らしい。


 最初に言っていた通り、本当にわたしの心を得るつもりでいるんだ。

 得られると確信しているんだ。


 そんなこと絶対にありえない、と思う反面、少し怖くもあった。


 彼に対する嫌悪や拒絶の気持ちがだんだん丸くなりつつあるのも事実で、いつかそう言いきることもできなくなってしまいそう。


(……って、ばかなこと考えちゃだめ。しっかりしなきゃ)


 甘やかな“毒”に惑わされているだけだ。

 誰だって、自分を認めてもらえると嬉しいから。


「で、ほかには? 何か聞きたいことある?」


 十和くんはやっぱり機嫌がいいみたい。

 興味を持たれている、ということが嬉しいのかもしれない。


「……十和くんって、ひとり暮らしなんだね」


 確かめるように口にした。

 探っていると思われたかも、とひやりとしたものの、わたしを疑う素振りはない。


「そうだよ。親は離婚してて、俺は父親に引き取られたんだけど、ずっと海外にいるんだよねー」


「そう、なんだ」


「ちっちゃい頃からほとんどずっとひとりだし、母親の顔も父親の声もあんまり覚えてない。……最後に会ったのいつだろ」


 肩をすくめて笑う十和くんの横顔は、普段よりずっと寂しそうで脆く見えた。


 予想もしていなかった複雑な事情に、とっさに言葉が出てこない。


 眉根に力を込めたまま口をつぐんでいると、ふと彼がこちらを向いた。

 くす、と笑った表情はいつもと同じ雰囲気に戻っている。


「そんな泣きそうな顔しないでよ」


「……ごめん」


「いまさらもう辛いことでも何でもないって。本当だよ? 芽依ちゃんがいるんだし」


「…………」


 そんなふうに言うのはずるい。

 わたしが彼の孤独に寄り添うことが正しいみたい。


 そんな話を聞かされたあとじゃ、無下(むげ)に突き放せもしない。


 伸びてきた十和くんの手がわたしの手首を掴んだ。

 迷子の子どもみたいに、(すが)るように握り締められる。


「きみはさ……いなくならないでね。ずっと俺のそばにいて」


 普段は自信に満ちていて迷いのない瞳が、いまばかりは不安気な色に染まりきっていた。


 本気でわたしを必要としてくれているみたい。

 ほかの誰でもなく、わたしを。


「うん……。いるよ、そばに」


 そう答えたのは決して本心ではなく、彼が望んでいると分かったから。

 

 十和くんがどんな過去を背負っていて、どんな痛みや孤独を抱えているのかは知らない。


 どうでもいいことだと割り切らないと、ここから出るのに枷になってしまう。

 ちくりと胸が痛んだのはきっと気のせい。


「ありがと、芽依ちゃん。きみがいてくれてよかった」


 ふわ、と抱き締められる。

 どこか遠慮がちだけれど、寄りかかるような感じだった。


 ひっそりと噛み締めるように口端を結ぶ。


(……ばかな夢でも見てればいいんだ)


 彼が自分のエゴのためにわたしから自由を奪うなら、わたしは自分の目的のために彼の想いを利用する。

 ただ、それだけのこと。




 日が落ちて夜になると、再び十和くんが部屋にやってきた。

 あたためたパスタとプラスチックのフォークを持ってきてくれる。


(久しぶりに、あったかいご飯……)


 たったそれだけのことがこんなに嬉しいなんて思わなかった。


 感動すら覚えるわたしの前に屈んだ彼は、おもむろにはさみを取り出した。


「え……」


 息をのむと、一気に体温が下がる。

 やっぱり何か“対価”が必要なのだろうか。


「大丈夫、怖がらないで」


 十和くんの声は思いのほか優しくて、そのはさみがわたしに触れることもなかった。


 両足をまとめ上げていた結束バンドが断ち切られる。


「えっ? あの……」


「手、出して」


 困惑しながらもおずおずと従うと、持っていた小さな鍵を使って手錠まで外してくれた。


 微かな赤い痕と硬い感触の残った手首に思わず触れる。


「何で……」


 拘束が解かれたこと自体は望ましい展開のはずなのに。


 素直に喜べないのは、何かもっと恐ろしいことがこのあとに待ち構えているのではないかと勘繰(かんぐ)ってしまうからだ。


 十和くんを信用しきれない。

 今度は何を企んでいるのだろう……?


「ん? もっとつけてたかった? そういうのが好きならいくらでも拘束してあげるけど」


「そ、そうじゃなくて」


 足の方は移動という目的があったからともかく、手錠はこれまで頑なに外してくれなかったのに。

 どういう風の吹き回しなんだろう。


「食べづらいかなと思ってさ。足の方はまあ……最近の芽依ちゃん、いい子だからご褒美」


「本当に……? いいの?」


「いいよー。これだけ俺が尽くしてるのに、いまさらばかなことも考えないでしょ。ね?」


 優しい笑顔には鋭い色が滲んでいた。

 有無を言わせない圧は牽制(けんせい)に等しい。


「あ、ありがとう……! 十和くん」


 込み上げてこようとする不安をおさえ込むと、思考を止めて必死で鈍感になる。


 彼の背中に腕を回して抱きついた。


(こわい……こわい……)


 確かな恐怖心が胸の内にはびこって、心音が速まる。

 触れた彼の身体が針のむしろみたいに感じられた。


 それでも、こうすれば十和くんの抱く疑念を少しでも誤魔化せるのではないかと思った。

 体温に、感触に、惑わされてしまえばいいと願った。


「……びっくりした。大胆なとこあるんだね」


 その言葉通りよっぽど驚いたのか、反応が返ってくるまでに間があった。


「でも、そっか。手錠外したら芽依ちゃんからも抱き締めてもらえるんだ」


 十和くんはしみじみとそう言いながら、わたしの背中に手を添える。


(……あれ?)


 彼がそうすることを予想していなかったわけではなかった。

 けれど、覚悟していたような抵抗感は一向に訪れない。


 温もりに惑わされているのは、どっちなんだろう。




     ◇




 ノックの音で目を覚ます。

 布団とラグのお陰で、起きたときに身体が痛むことはなくなった。


「おはよ。よく眠れた?」


 ドアから顔を覗かせた十和くんの、清々しい笑顔が眩しい。


「おはよう……」


 そう返しながらゆっくりと起き上がる。


 何だかいつもより窮屈(きゅうくつ)な感じがしなくて、そういえば両足の拘束を解いてもらえたことを思い出した。


 手錠は食事のときだけ外してもらえるみたいだった。

 それでも十分な進歩と言える。


 お風呂も毎日許されたから、傷の治りも早くなっていた。


 あの日以来、彼から直接的な暴力は受けていないし、この待遇の向上といい、わたしの作戦は(こう)(そう)したのだと思う。




 顔を洗ってから部屋へ戻る。


 特定の範囲内とはいえ、目隠しも拘束もなしでわたしを歩き回らせるということは、かなり警戒を緩めているにちがいない。


 少しずつ、本当に少しずつだけれど、脱出に近づけているはず。


 ちょうど十和くんが朝食を運んできてくれていた。

 甘くて香ばしい、いいにおいがする。


「……はちみつ?」


「そう、はちみつトーストだよ。昼は用意できないから2枚焼いといた。冷めちゃうけど」


 十和くんが肩をすくめるのを見て、わたしは首を左右に振った。


「十分だよ、本当にありがとう。手間かけさせちゃってごめんね」


「ううん、俺が我慢させてただけ。……まあ、まださせちゃってるんだけどねー」


 伸びてきた手がわたしの手錠に触れた。

 ちゃり、と鎖が鳴る。


 “まだ”ということは、これも足首の拘束のように常時(じょうじ)外れる可能性があるのかもしれない。


「こうやってちゃんと捕まえておかないと不安になるんだ。芽依ちゃんを失いそうで。……なんて言ったら、俺のこと嫌いになる?」


「そんなこと……」


 口をついた言葉は、彼のためか自分のためか分からなかった。

 だから戸惑って最後まで言いきれなかった。


 ふ、と微笑んだ十和くんは「よかった」と呟く。


「じゃあ今日もいい子で留守番しててね、芽依。行ってきまーす」


 呼び方が変わったことに気づくと、驚いてとっさに反応できなかった。


 行ってらっしゃい、と返す前に、それを求めることもなく彼は部屋から出ていってしまう。

 ほどなくして玄関ドアの音がした。


「…………」


 ふ、と思わず小さく笑みがこぼれる。

 もしかすると、どこか照れていたのかもしれない。


(“芽依”って……)


 もともと名前で呼ばれてはいたものの、呼び捨てになった途端、何だかがらりと印象が変わった。


 以前よりも、近づいたような。

 十和くんも男の子なんだと、改めて認識させられたような。


 はっとした。

 無意識に(ほころ)んでいた頬を慌てて引き締める。


(しっかりして、わたし)


 あんな奴に健気(けなげ)さを見出すなんてどうかしている。


 雑念を振り払うようにかぶりを振ると、トーストにかじりついた。

 さくさくの食感に、じゅわ、と溶け出したはちみつとバターの香りが広がる。


「美味しい……」


 思わずこぼれた。

 手作りと言うには足らないけれど、思えば市販のもの以外が振る舞われたのは初めて。


 少しずつ、わたしたちの間に(かく)されていた壁が砕けて、低くなっていっているような気がした。


 十和くんの思惑か、わたしの思惑かは分からないけれど、ひとまず順調だと言える。

 この調子でいけば、逃げ出すことも十分現実的。


「よし……」


 足が自由になったことだし、これまで届かなかった窓の向こうを調べてみよう。




 厚手のカーテンに手をかけてみるも、硬い抵抗を受けた。

 どうやら真ん中の部分にマグネットが取りつけられているようだ。


(本当に余念(よねん)がないなぁ)


 とはいえ、開かないわけではなかった。

 少し力を入れれば、思った通りマグネットは簡単に離れる。


 磨りガラスから射し込んでくる光を眩しく感じながら、鍵に手をかける。

 窓を開けたらどんな景色が拝めるのだろう。


「……え?」


 けれど、鍵はびくともせず、開く気配がなかった。


 見た目は普通のクレセント(じょう)なのに、手応えが硬くて動かない。

 どんなに力を入れても結果は同じだった。


「どうして……」


 困惑しながらも、側面から見て納得した。

 クレセント錠自体に鍵穴がついている。


(鍵に鍵をかけてるの……?)


 玄関の補助錠(ほじょじょう)といい、直接外へと通じる部分にはひときわ入念な対策を施しているようだった。


 しかもこの鍵穴の部分には、垂れて固まったような透明な何かの跡がある。

 指先で触れると、わずかな凹凸を感じた。


(……接着剤?)


 どういうつもりなんだろう。

 これでは解錠できないし、鍵を挿し込めても折れてしまう可能性がある。


 まさか、金輪際(こんりんざい)この窓を開ける気はないということなのだろうか。


 ぞくりとした。

 心臓が凍えるような拍動(はくどう)を刻む。


 そこまでして、わたしを外界に触れさせたくないの?

 いったい、いつまでここに閉じ込めておくつもりなの?


 予想以上に強い彼の執念に気圧(けお)されてしまう。


 今朝のような優しくて純真な姿を目にしていると、ついその本性を忘れそうになる。


 痛みとともに身をもって思い知ったはずなのに、十和くんという人を信じかけていた。


 彼は悪だ。敵だ。

 そんな前提すら見失いそうになるほど、目的ばかりに気を取られて。


 わたしは深く息をついた。


(……外の空気、吸いたい)


 ここは息苦しくてたまらない。

 毒が充満しきっている。


 ────結局、窓を開けることは諦めざるを得なかった。


 無理やりにでもクレセントを動かしてこじ開けようとしたけれど、わたしの力じゃ全然足りない。


(この家は……間取りからして、マンションだよね)


 何階建ての何階なんだろう。

 高層階なら、飛び降りて逃げるのも無理だ。


 きっと下はコンクリートだろうし、幸い死なずに済んだとしても、骨折でもしたら逃げられない。

 ドアも窓も、鍵がないと開けられない。


「やっぱり、鍵を奪うしかない……?」


 だけど、いったいどこに置いているのだろう。

 絶対に彼の直接の監視下に決まっているけれど。


 それはつまり、奪うどころか手にすることさえ、わたしには不可能なのではないだろうか。


 順調だと思っていたのに、気づけば目の前は暗闇に覆われていた。


 あらゆる感情をおさえて、こらえて、壁を崩したのに、わたしは目的に近づけてもいないのかもしれない。


「もう、どうしたらいいの……」


 部屋にはものが増えたけれど、どれも鍵の代わりにはならない。


 だけど“鍵を奪う”なんて、やっぱり現実味がないような気がする。


(そのための作戦も、何ひとつ思い浮かばないし)


 脱出について考えを巡らせると、以前勢い任せに試みたときのことが自ずと脳裏をちらついた。


(あのときは失敗しちゃったけど……)


 それは“知らなかったから”だ。

 間取りも、玄関があんなふうにがんじがらめになっていることも。


 でも、いまはあのときより情報を持っている。


 ここから逃げ出すのに、あのやり方自体は正しかったと思う。


 わざわざ危険を(おか)して鍵を手に入れなくても、ドアが開くタイミングを利用すればいい────ということ。


 十和くんの監視は実際のところ、だんだん甘くなってきている。


(もう少し……)


 彼が登校して家を空けている間にも、この部屋から自由に出歩くことができるようになれば。


「出られるかも。本当に……」


 期待と希望の込もった呟きが(くう)に溶けていく。

 口にすると一気にリアリティが増して、鼓動が加速した。


 玄関やこの窓が固められていても、別の窓は開くかもしれない。


 たとえばここが高層階で飛び降りられないとしても、ベランダ伝いに助けを求められるかもしれない。


 それができなくても、スマホなり固定電話なり通信機器を探すことができる。


 この部屋から出るだけで、脱出の可能性は大いに高くなるんだ。


(このまま、十和くんの信頼を得られたら────)


 そこまで考え、はたと思い直す。


「そうじゃない」


 彼の信頼を得るときを、彼の許しを、待っている必要なんてない。


 わたしの足はもう自由だ。


 十和くんのいないタイミングを見計らって、勝手にこの部屋から出てしまえばいいんだ。


(これさえ開けば……)


 鍵をじっと見つめる。

 施錠(せじょう)状態を示す赤色。


 家の中のドアだからか、玄関や窓に比べて簡易的なものであるように感じた。


 開けるのにも閉めるのにも鍵のいらない、つまみを回すだけのもの。

 こちらからでも、硬貨やマイナスドライバーなんかがあれば開けられそうだ。


(でも……そんなことは十和くんだって百も承知だよね)


 だからそういうアイテムは、絶対に手にできないようにしているはず。

 彼に要求するのも不自然だし。


「何かいい方法ないかな」


 思考を巡らせながら、指先で鍵の凹凸に触れてみる。


(この隙間にはめ込んで回せそうなもの……)


 それでいて、この部屋に持ち込めそうなもの。

 彼に頼んでも怪しまれたりしないもの。


((なに)なら許してくれるだろう?)


 十和くんが持ってきてくれるのは、だいたいコンビニで買った食べものや飲みものだ。

 その中には、硬貨なんかの代わりになりそうなものはない。


「あ、でも!」


 はっとして顔を上げる。


 初めてサンドイッチ以外のご飯を買ってきてくれたとき、パスタを食べるのにフォークを使った。


「フォークなら開けられるかも」


 彼に願い出るのも自然だし、簡単だ。


 適当な理由をつけて要求してみよう。

 試してみる価値はある。




 日が暮れて夜になると、十和くんが夕食を運んできてくれた。


 今日はハンバーグみたいだ。

 しかも、いつものように買ってきたものというわけではなさそう。


 プラスチックの容器ではなくちゃんとプレートに載っているし、サラダまでよそってくれている。


「いいにおい。もしかして、十和くんが?」


「うん、そう。口に合うか分かんないけど」


 どことなく照れくさそうに言いながら、テーブルの上に置いた。


 こんがりと焼き目のついたハンバーグにデミグラスソースがかかかっている。

 立ち上る湯気まで香ばしいような気がした。


「美味しそう」


 ()びるためにお世辞を言ったわけではなく、純粋にこぼれたひとことだった。


(十和くん、料理できるんだ)


 ひとり暮らしだから仕方なく、という消極的な雰囲気はない。

 もしかすると、もともと料理が好きなのかも。


「はい、どうぞ。これ使って」


 そう言って渡されたのは割り箸だった。

 受け取ろうと反射的に伸ばしかけた手が止まる。


「……あの、お願いがあるんだけど」


 手を引っ込めつつ、控えめにそう切り出す。


「ん?」


「あのね、これからはフォークを使いたいなって。だめかな」


 十和くんが眉を寄せる。


「どうして?」


「えと、ずっと手錠つけてるからうまく力が入らなくて……」


 でたらめというか、適当な嘘をついた。


 通用するかどうかは賭けだったけれど、少なくともフォークと鍵をすぐさま結びつけはしないはずだ。

 わたしの言葉自体に不審な点はないはず。


 ややあって、十和くんが頷いた。


「そういうことね。じゃあ、俺が食べさせてあげる」


「えっ」


 予想外の展開になった。

 いや、この流れには覚えがあるし、想定しておくべきだったのだろうけれど。


「そんな、悪いよ」


「大丈夫だよ。俺には何の負担でもないし」


「でも……」


「遠慮なんかしないで。俺がしたくてするんだって」


 返す言葉が見つからなかった。

 どうしよう、完全に十和くんのペースだ。


 慌てたけれど、何を言っても彼に封じ込められてしまう。

 しかも、今回は冗談だと撤回するつもりもなさそう。


 食べさせてもらうなんて論外だし、何よりそれでは目的を果たせないのに。


「どうしたの、青ざめちゃって。もしかして嫌なの?」


 十和くんは挑発でもするかのような余裕のある笑みを浮かべていた。


 まるで、もう答えなど分かりきっているみたいな聞き方だ。

 そして、答えは確かに一択。


「そ、そうじゃないけど……」


 嫌に決まっているし、十和くんもそう見透かしているのだろうけれど、あくまで譲る気はないみたいだ。


 困った。困り果てた。


 だけどこれ以上、一触即発(いっしょくそくはつ)の押し問答(もんどう)を続けるのは危険な気がした。


 彼の機嫌を損ねるのも怖いし、わたしに何か狙いがあるんじゃないかと疑われるのも避けたい。


「じゃあ決まり。ね?」


「……うん」


 一旦、大人しく引き下がろう。

 考えが甘かったわたしの負けだと認めるしかない。


「やった。何かこういうのも憧れてたんだよね、俺。恋人っぽくてよくない?」


 十和くんは一見、無邪気な笑みをたたえて箸を持った。


 けれど、どれほど優しいふりをしたって、その影にはいつでも狂気が潜んでいることを知っている。


 彼と接する中で覚えた嫌悪感も怒りも恨めしさも親近感も、恐怖のあとには残らなかった。


  (かたわ)らでいつも怯えている。

 いまだって。




     ◇




 何日か経ったある日の昼下がり、十和くんが部屋のドアを開けた。


「芽依、ケーキ食べよ?」


 自分の分とわたしの分、同じロールケーキを手にしている。


(そっか、今日は休日?)


 曜日感覚なんてとっくに失ってしまった。

 彼が休んでいるだけで平日なのかもしれない。


 そんなことを考えていると、小皿に載ったフォークが目に入る。

 はっとしてしまった。


 それを手にする手段を、いまのわたしは完全に見失っている。


「あ、うん。ありがとう」


 誤魔化すように笑いつつ、両手を差し出す。


 十和くんは小さなテーブルにケーキを置くと、ポケットから鍵を取り出した。


 あの日から彼と一緒に夕食をとる羽目(はめ)になって、宣言通り、わたしはいつも彼に否応(いやおう)なく食べさせられていた。


 メニューによらず、何だかわざと箸を持ってきているような気がする。


 余計なことを言うんじゃなかった。

 結果的にフォークも遠のいたし、自分の嘘に苦しめられている。


 もどかしい思いとどうにか折り合いをつけながら、切り分けたケーキをひとくち頬張る。

 甘くて美味しい。


 ふと、彼にじっと見つめられていることに気がついた。

 何だか嬉しそうだ。


「……なに?」


「ううん。芽依ってさ、甘いもの好きだよね」


 なんてことのない言葉だけれど、無意識のうちに警戒心が込み上げる。

 まさか何か仕込まれている?


「それ、が……どうしたの?」


「もし芽依とデートしたら、カフェ巡りとかするのかなぁって想像しただけ。いろんなお店のスイーツ食べ比べるの楽しそう」


「……かもね」


 そういう想像はわたしもしたことがある。

 わたしの場合、一緒にいるのは彼ではなく先生なのだけれど。


「してみたいなぁ、そういうの」 


 気づいたら、ぽつりとこぼしていた。


 先生が、好きな人が隣で笑ってくれるのって、どんな感じなんだろう。


 好きな人がわたしだけを見てくれるって、どんな世界なんだろう。


「……したことないの? 芽依の好きな人と」


「ないよ、そんなことできる相手じゃないし。そもそもわたしなんて眼中にないって」


 先生にとっては、わたしは数多くいる生徒のうちのひとりに過ぎないだろう。


 言いながら、ずきんと胸が痛んだ。

 自嘲(じちょう)気味に笑った頬が強張る。


 先生を好きになった時点で、そんな痛みは百も承知のはずだったのに。

 最初から叶わぬ恋だって、分かっていたはずなのに。


「……そうなの?」


「そうだよ。でも、届かないって分かってても好きなの」


 “だめ”とか“やめよう”とか、そう決めて唱えるだけで想いがまるごと消えてなくなればいいのに。


 どんなに辛くても、痛くても、()まないんだ。

 現実を直視するほど、傷は広がっていくだけなのに。


(……あ、しまった)


 はたと我に返る。

 どうしてこんなこと、十和くんに吐き出したんだろう。


 恥ずかしい、と思うと同時に怖くなった。

 これじゃ彼の気持ちを頭ごなしに拒んでいるのと同じ。


 それで不興(ふきょう)を買ったら、ここまでの地道な努力や重ねてきた我慢がぜんぶ水の泡────。


「えっと、ちがくて……」


「分かるよ」


 慌てて取り(つくろ)おうとしたものの、彼の言葉に遮られた。


「え?」


「俺もおんなじ。こうやって現実見せられても、芽依が好きって気持ちは変わらない」


 心臓が切なげな音を立てる。

 瞳が揺れるのを自覚した。


「苦しいけど、でも笑った顔のひとつでも見られれば、それだけで報われた気がする」


 ぎゅう、と心が締めつけられるようだった。


 その苦しさは身をもって味わっているし、そんなふうに彼を苦しめているのは自分なんだと分かるだけに、余計に痛い。


「……ま、こんなふうに閉じ込めて、一方的に気持ち押しつけといてなに言ってんだって感じだけどねー」


 困ったように肩をすくめて笑う十和くんを、いまは怖いだなんて思えなかった。


 好きな人のことをもっと知りたい気持ちも、ひとりじめしたい気持ちも、自分を分かって欲しい気持ちも、よく分かる。


 同じ辛い想いを抱えているのだと改めて知ってしまうと、(つの)っていた彼への抵抗感が和らいでいった。


 代わりに芽生えたこの感情は何だろう。

 ……同情? 共感?


「本当、自分勝手なことしてごめん。芽依が好きなだけなのに、うまくできなくてごめんね」


 うつむいた彼の顔が(かげ)った。

 儚げな表情が、声色が、(くう)に吸い込まれていく。


 わたしの心を揺さぶって、惑わして、鈍らせる。


 テーブルの上に置かれていた彼の手に触れた。

 十和くんがはっとしてこちらを向く。


「大丈夫」


「芽依……?」


「謝らないで。正解なんてきっとないから」


 十和くんの愛の形が異常だということは分かる。

 だけど、間違っているのかな。


 もし、わたしも同じように彼を求めたら、お互いの心がぴったり重なるのかもしれない。


(そしたら、十和くんが間違ってるとは言えなくなるんじゃないかな……)


 どこか意表を突かれたように、見張った彼の瞳が揺らぐ。


「わたしね……正直、救われた。あんなふうに言ってもらえて、ちょっと嬉しかったんだ」


 誰にも受け入れてもらえたことなんてなくて、自信も何もなかったけれど、彼だけは認めてくれた。

 ずっと、ひたむきに想い続けてくれていた。


 当のわたしが彼やその気持ちを受け入れるのに積極的にはなれないけれど、向き合うことには少しだけ前向きになれた。


 紡いだ言葉は“王さま”のご機嫌を取るための贈りものじゃない。


 ふわりと十和くんの腕に包まれる。

 こうして抱き締められるのは何度目だろう。


 爽やかなシトラスの香りがほのかに漂った。

 以前より薄く感じるのは、わたしからも同じにおいがしているからかな。


 彼を抱きとめるように、その背中に手を添えた。


「このまま、好きでいていい?」


 そう尋ねられて、思わず小さく笑う。


「だめって……言わせてくれるの?」


 聞き返すと、彼がふるふると首を横に振った。


「やだ。……もう止められないし、やめらんない」


 わずかに掠れた声は普段より低かった。

 肩に顎を載せて体重を預けてくる。


 迷子の犬みたいでも、気まぐれな猫みたいでもあって、やっぱり掴みどころがない。


(もしかしたら────)


 わたしの心を得られるという自信は、不安の裏返しだったのかもしれない。


 “好き”が高じて誘拐や監禁なんていう特異な行動に出て、もうあとには引けなくなって。

 自分が間違っていないことを証明するには、わたしを好きにさせるしかなくて。


 ふと、十和くんがわたしを離した。

 ()しむような眼差しを残したまま、やんわりと笑う。


(あ……)


 何だか、似ていた。

 先生の優しい笑顔と。


(……そんなわけない)


 目を覚まさなきゃ。

 彼に対する感情なんて、ぜんぶまやかしなんだから。


 ほだされて騙されたら、甘い毒が回ってしまう。




 ────ケーキを食べ終わった頃、意を決して「ねぇ」と呼びかけた。


「あの、ね。お願いがあって」


「なに?」


 首を傾けた十和くんの笑顔は、何だかこれまでとはちがって感じられた。

 いままではいつもどこか隙のなさがあったのに。


「本とか色々持ってきてくれるのは嬉しいんだけど、もうぜんぶ読み終わっちゃって暇なの。だから、できればもっとほかに……何かないかなって」


「んー、たとえば?」


「……パソコン、とか。テレビ……とか?」


 さすがに“スマホ”とまでは言えなかったけれど、それでも口にするには勇気を要した。


 彼の意に反することは分かっていて、だめもとだから。

 反感を買ったらすべてが振り出しに戻る。


「悪いけど、それはだめ」


「でも……」


「だめ」


 きっぱりと言いきった十和くんに気圧されて口をつぐむ。

 すると、伸びてきた手が頭を撫でるように添えられた。


「ごめんね、俺も早く帰ってくるようにするからさ。ちょっとだけ我慢できる?」


「……分かった」


 少し意外に思いながらも頷くと、いっそう笑みを深める十和くん。


 以前までなら怖くて口にすることさえできなかったわがままだけれど、いまの彼は随分と寛容的だった。


 拒むにしても怒ったり手を上げたりすることなく、穏やかな態度を崩さない。


「いい子だね、芽依。ちゃんと俺の言うこと聞けるようになったんだ」


 十和くんが愛おしむようにわたしの頬を撫でると、指先の温もりがほどけるように消えていく。


「…………」


 触れられることに、近い距離に、だんだん慣れ始めている自分がいた。


 抵抗感や嫌悪感はすっかり息を潜めてしまって。

 役割を忘れた防衛本能のせいで、わたしは“正しさ”を見失いかけている。


(十和くんって……悪い人なんだよね?)


 いびつな愛と狂気を持ち合わせた、危険な誘拐犯。


 感情が暴走したら豹変(ひょうへん)して、わたしを徹底的に痛めつける、サディスティックなエゴイスト。


(わたし、殺されかけたんだよね……?)


 首を絞められた、あの苦痛は忘れられない。


 優しい言葉を囁かれても、柔らかい笑顔を向けられても、(いつく)しむように触れられても。


 都合よく上塗りしたって、すぐに()がれ落ちてくる。

 鮮明に焼きついたあの記憶は油みたいに、日々起こる出来事を弾いてしまう。


(それなのに────)


 あんなに“許せない”と思って恨んでいたはずなのに、憎めなくなってしまった。


 いまは十和くんの想いに応えられないことが心苦しくて、彼を見ていると胸が痛い。


 報われない恋の辛さは身に染みて分かっているから、せめてそれ以外では、傷つけたくなくて。


 それでも、いつまでもここに留まること自体が正しいとは思えない。

 自分を優先できるだけ、わたしはまだ冷静だ。


(だって、やっぱり間違ってる……よね)


 どんな想いや事情があったとしても、十和くんのしていることはおかしい。

 その感覚を失ったら終わりだ。


 それなら、わたしのやることはひとつだけ。


「ねぇ、十和くん。今日の夜ご飯なに?」


「んー? うーん、どうしようかなぁ」


 宙に目を向けた彼を見て、心臓が音を立てる。

 チャンスだ。


「じゃあ、パスタがいいな」


 フォークを使う料理がいい。パスタなら以前に一度、それで食べた。

 あのときはコンビニでもらったプラスチック製のものだったけれど。


「パスタ? こないだの?」


「じゃなくて、十和くんの作ったやつ」


 正直なところどっちだってよかったけれど、料理好きな彼に出来合いのものを要求するのは気が引けた。

 事実、十和くんの作るものは美味しい。


 ややあって、ふっと彼が笑った。


「……かわいいこと言ってくれるね。俺の手料理、気に入ったんだ。嬉しいなぁ」


 それは心の中でも否定できない。

 そういう作戦だったのかも。


「いいよ、じゃあパスタ作ってあげる」


「本当? やった、ありがとう!」


「そんなに好きだったの? さすがに知らなかったな」


 そういうわけじゃないけれど、わざわざ否定するまでもなかった。

 誤魔化すように笑いつつ、思考を巡らせる。


 あとはどうやってフォークを持ってきてもらうか。

 そして、それをどうやって手にするか。


 “彼に食べさせてもらう”といういつもの流れを、どうしたら断ち切れるだろう?


 普通に願い出れば、機嫌を損ねてしまうことは明白。


 そんなことを考えていると、おもむろに十和くんがもたれていた背を壁から起こした。


「じゃあ作ってくるから待っててね」


 ぽん、とあたたかい手が頭に載せられる。


「!」


 図らずもその行動は、わたしにヒントを与えてくれた。


 立ち上がろうとした十和くんを、服の裾を掴んで引き止める。


「芽依?」


 不思議そうな表情で振り向いた彼と目が合った。

 (おく)せず口を開く。いまなら大丈夫。


「わたしのこと、子ども扱いしないで」


 すねたように言ってみせると、驚いたような慌てたような調子で座り直した。

 困ったように覗き込んでくる。


「してないよ、どうしたの」


「してるよ! ご飯食べさせたりとか、すぐ頭撫でたりとか」


 そう言うと思い当たる(ふし)があったらしく、眉を下げて苦く笑う。


「あー、確かに言われてみれば……。ごめんね?」


 窺うような上目遣いで、こてんと顔を傾けた。


 何でも許してしまいたくなるようなあざとさ。

 わたしにもそんなことができたら、もう少し簡単に目的を果たせるのかも。


「でも、全然そんなつもりはなかったんだけどな。芽依がかわいいから、必要以上に構いたくなるだけだよ」


(また恥ずかしげもなく……)


 そう思ったけれど、そりゃそっか、と納得した。


 恥ずかしがる必要がないんだ。

 ここには、わたしと十和くんのふたりだけしかいないんだから。


 いまさら想いを隠す必要も、遠慮する必要もない。


「けど、分かった。気をつけるね。芽依に嫌な思いはさせたくないから」


 どの口が言っているんだろう。そう思ったものの、案外それが本心なのかもしれなかった。


 わたしが従順でいる限りは害が及ばないから。

 確かに、彼が最初に言っていた通り。


 そのスタンスは一貫していて揺らがない。

 自分の望みを叶えるためだけかもしれないけれど。




 完全に日が落ちた。

 あれからしばらくして、ドアをノックされる。


「芽依、ご飯できた。開けていい?」


 向こう側に「うん」と答えつつ、やけに優しい気遣いに気がつく。


 いままでは無遠慮に踏み込んできたのに。

 ノックしたって形だけで、わたしに選択権なんてなかったのに。


 かちゃりと鍵が開き、トレーを持った十和くんが入ってくる。

 目が合うと見とれるほど柔らかい微笑を向けられた。


(────鏡みたい)


 ふと、そんなことを思った。

 歩み寄ればその分だけ、彼も応じてくれるんだ。


 優しくすれば、優しくしてくれる。

 受け入れれば、大切に扱ってくれる。


(でも……“嘘”を映したらどうなるんだろう?)


 十和くんはわたしの狙いに気づいているのかな。


 テーブルに置かれたのは、ミートソースパスタだった。

 ごろっと入ったひき肉とトマトベースの甘いにおいに食欲をそそられる。


「わあ、ありがとう」


 そう告げる(かたわ)ら、そっと慎重に機会を窺う。


 トレーの上を見た。

 フォークが2本、端の方に載っている。


 目的を意識すると、緊張から鼓動が速くなった。


 失敗したら、前よりひどい目に遭う。

 首を絞められるだけでは、身体中を切り刻まれるだけでは、確実に済ませてくれない。


(でも……やるしかない)


 十和くんと馴れ合って“脅威”と共存していくことなんて、わたしにはやっぱりできない。


 ドアを閉めるために彼が振り返った隙に、油断なく目でその姿を追いながら、トレーへ手を伸ばした。


 硬く冷たい金属の感触を指先に感じた。

 それと同時に十和くんがこちらを向く。


 わたしは手にしたフォークを素早く(そで)の下に滑り込ませた。

 かちゃ、と手錠とぶつかって甲高い音が鳴ってしまう。


(やば……っ)


 ひやりとした。

 暴れる心臓の音が耳元で聞こえるみたい。


 とっさに持ち上げた両手を彼の方へ差し出す。


「これ、外して……」


 袖の中に確かな冷たさを感じながら、なるべく普段通りの調子で言った。

 冷静でいたいのに、呼吸が揺らいでしまう。


 それでも彼は何ら(いぶか)しむことなく、ふっと笑った。


「分かった分かった。お腹すいてるんだね」


 幸いにも先ほどの音には気づいていないようだった。

 あるいは聞こえていたものの、手錠の音だと思ったのかもしれない。


 十和くんが挿し込んだ鍵を回すと、輪が開いた。


(怪しまれてないよね?)


 腕に触れるフォークが冷たく肌を突き刺す。

 責めるみたいにわたしの体温を吸収していく。悪いことなんてしていないのに。


 それに()かされるように口を開いた。


「ねぇ、フォークが1本足りないかも」


「あれ? ……本当だ」


 皿を持ち上げたりしてトレーの上を確かめた十和くんが、不思議そうに首を傾げる。


「何でだろ? ちゃんと2本持ってきたはずなのになぁ」


 正直なところ気が気じゃなくて、心臓がばくばくと早鐘(はやがね)を打っていた。

 彼は立ち上がってドアに手をかける。


「持ってくるね、ちょっと待ってて。あ、先食べてていいから。冷めないうちに」


「う、うん。ありがと」


 十和くんが出ていくと、思わず深々とため息をついた。


(危なかった)


 張り詰めていた緊張の糸が切れた。


 だけど、心臓はまだ一向に落ち着かない。

 小さく震える指先を握り締めた。


(でも、やった……!)


 やり遂げた。手に入れた。

 やっと、目的を果たす端緒(たんしょ)を掴んだ。


 袖に隠し入れたフォークを取り出すと、布団の下に押し込んでおく。


 そのとき、足音が近づいてきて彼が部屋へ戻ってきた。


 わたしとテーブルの上を見比べて「あれ」とこぼす。


「お腹すいてたんじゃなかったの? 食べててよかったのに」


「十和くんと一緒に食べたくて待ってたの」


 強張る頬を持ち上げて笑うと、どこか嬉しそうな笑顔が返ってくる。


「何それ。かわいいなぁ、もう」


 嘘や取り繕った態度には、もう罪悪感なんて生まれない。

 自分の身を守る唯一の手段なのだから。


 ラグの上に腰を下ろした十和くんの手が、ふいにこちらへ伸びてきた。


 指先で右側の髪をすくい上げて耳にかけてくれる。

 はっとしている間に反対側もそうしてくれた。


「あ、ありがとう……」


 その仕草があまりに優しくて驚いてしまった。

 雪の結晶や小さな花びらに触れるみたいに、慈しむように丁寧で。


 いまになって、少しどきどきしてきた。

 “好き”という言葉の重みが増す。


 十和くんの目にはわたしが、わたしだけが映っているのかもしれない。

 わたしが先生だけを見ていても。


「この時間がずっと続けばいいのにな」


 ぽつりと彼が呟く。

 それは単にいまこの瞬間の話じゃなくて、ふたりきりの時間が、という意味だと思った。


 (しん)に願うような切なげな声色は、いつか終わりが来ることを悟っているようだ。


 本当はとっくに分かっているのかもしれない。

 自分の行動が間違っているということも、誘拐や監禁が犯罪だということも。


「……そうだね」


 気づけばわたしはそう返していた。

 ────そんなわけがないのに。




 いつものようにふたりで夕食をとりながら、他愛もない話をする。


「今日は学校どうだった?」


 何気なく聞いたつもりだったけれど、彼ははたと動きを止めた。


「……なに? 外のことが気になるの?」


「ち、ちがうよ! そういう意味じゃなくて」


 少し低められた声に焦って、慌てて首を横に振った。


 “そういう意味”では確かにないものの、言葉通りの意味でもない。

 明日が休日なのかどうかを探りたかった。


 逃げ出す作戦を実行するのは、できるだけ早い方がいい。


 ここからさっさと逃げ出したいという気持ちだけじゃなくて、フォークを手元に置いておくのは危険だから。


 時間をかけるほど1本足りないことに気づかれてしまうリスクが上がる。

 あるいはふいに見つかってしまうかもしれない。


 だけど、明日が休日なら実行できない。

 逃げ出すには、十和くんが家を空けることが前提だ。


「じゃあ、なに?」


「えっと……気になっただけ。十和くんのこと、もっと知りたいから」


「へぇ、俺に興味なんてあるんだ」


 彼の声色は冷めていて、どこか嘲るようでもあった。


(どうして……?)


 ついさっきまであんなに優しい顔をしていたくせに。

 焼きついて離れない苦痛や恐怖の記憶も忘れるほど。


 心臓がおののくようなリズムを刻んでいた。

 何かひとつでも選択を誤れば、命さえ保証されないような気がする。


「あ、あるよ。もちろん……」


 必死で頭を働かせた。


 どんな言葉を望んでいるの?

 何を求めているの……?

 

 痺れるように張り詰めた空気をそっと吸い込む。


「……昼にも言ったけど、退屈なんだもん。十和くんのしてくれる話が唯一の楽しみなの。それだけじゃだめ?」


 (よど)みなく言えたのは、緊張が恐怖に昇華(しょうか)したからかもしれない。


 怖くても逃げられないところまで追い詰められると、立ち向かっていくしかなくなる。


「……なんだ、そうだったの?」


 ふと十和くんの顔にあたたかみが戻る。

 思わずほっと息をついた。


 一触即発(いっしょくそくはつ)の状況から脱して、元通りに空気がほどけていく。


「だめじゃないよ、いくらでも聞かせてあげる。外なんて、それこそ退屈でつまんないけどね」


 やっぱり、彼の中ではここでの生活がすべてなんだ。


 今後は外のことや学校のことを不用意に口にしないようにしなきゃ。

 ただ十和くんの機嫌を損ねて警戒させるだけだ。


「今日はね、英単語の小テストがあったよ」


 すっかり普段の調子に戻った彼がおもむろに言う。


「……あ、いつも水曜日にあるやつ?」


「そうそう、点数低いと放課後再テストになるやつね。芽依と早く会いたいからさ、居残りになんないように俺めっちゃ頑張った」


 へへ、と笑う十和くんは健気(けなげ)で無邪気そのものだった。

 先ほどまでとは別人(なみ)に大ちがい。


 いまは大型犬みたいに見えた。

 褒めて欲しくて、耳を後ろに倒して尻尾を振っている感じ。


「そうだったんだ。英語苦手だったっけ?」


「英語っていうか勉強がね。大っ嫌いだよ」


 今度はしょぼんと耳が下に垂れた。

 わたしは彼の頭に触れて、ふわふわの髪を撫でる。


「そっか、でも頑張ってくれたんだね。ありがとう。……嬉しいよ、わたしのためなんて」


 “ありがとう”って魔法の言葉かもしれない。

 ここに来てつくづく思う。


 大抵のことは、それで誤魔化せるしやり過ごせる。


「当たり前じゃん。芽依と一緒にいるためなら何だってする」


 十和くんが笑った。

 こんなふうに彼の機嫌だって取り戻せる、便利な言葉だ。


 わたしも同じように笑顔を返しつつ、心の内で考える。


(今日は水曜日か……)


 ちょうどいい。

 明日が平日なら、作戦を実行できる。


(────明日)


 明日には、ここから逃げ出せるかもしれない。

 先生と会えるかもしれない。


 そう思うと期待が膨らんでどきどきした。


「……そういえば、先生にこの前聞かれたよ。芽依のこと」


 どくん、と心臓が一度大きく跳ねる。


 思わぬ言葉に驚いて「えっ?」と聞き返した声は上ずってしまった。


「な、何を?」


「芽依のこと何か知らないか、って。あの日一緒にいたじゃん、俺たち」


 十和くんに誘拐された日、確かにわたしたちは先生と話した。


 気づいてくれた。

 先生はわたしの失踪の糸口に、気づいてくれていたんだ。


「それで……?」


「知らないって答えたよ。俺と帰ったことはバレてなかったから、ひとりで帰った芽依がその途中で何かに巻き込まれたのかもー、って思ってるみたい」


 どうして、と聞き返しそうになって慌てて飲み込んだ。


 どうして一緒に帰ったことまでは掴めていないんだろう。

 警察もそうなのだろうか。


 校門前には防犯カメラがあって、十和くんといるわたしが映っているはずなのに。


 人通りだってあった。

 それなのに、誰の目にも記憶にも留まらなかったというの?


(でも……そっか)


 周囲の人が気づく可能性の方が低い。

 あのときは誰も、わたしたちのことなんて気にかけもしなかったはずだ。


 風景の一部だった。

 わたしも同じだ。あの場に誰がいたのかなんて覚えていないし、知らない。


 それこそ、誘拐の瞬間を目撃でもされない限りは────。

 そういえば、わたしはどうやってここまで連れてこられたのだろう。


 抱えたりしたらきっと人目につくはず。

 それ以前に、学校からどれくらい離れているのだろう。


(抱えたまま運べるほど近い……?)


 気になることは色々あるものの、彼にはひとつとして聞けない。


「先生、芽依のこと心配してたよ。かなり顔色悪かった」


「本当……?」


 こんな形ではあるけれど、先生が心配してくれているという事実を少なからず嬉しいと思ってしまった。


 わたしを気にかけてくれているんだ。

 先生の意識の内側に、わたしがいる。


 それだけで、何だかひどい目に遭ったことも痛い思いをしたことも、報われたような気がしてくる。

 そのためなら耐えられる。


「心配することなんて何にもないのに。ね?」


 十和くんが至極(しごく)当然のように言ってのけた。


「え……」


「だって俺たち、幸せに暮らしてるじゃん」


 とろけるような甘い笑顔を向けられたけれど、うまく返すことができなかった。


 さっきみたいに彼の望み通りのわたしを演じればいいのに。

 そうするべきだと頭では分かっているのに。


 先生の話を聞いてしまったからか、揺られた感情が落ち着かない。

 頬が強張ってうまく笑えなかった。




     ◇




 出られるかもしれない可能性が目の前にぶら下がってきて、なかなか寝つけない。


 布団の下に隠したフォークの存在を何度も確かめながらようやく眠りに落ちると、夢が終わらないうちに夜が明けた。


 朝の支度とご飯をつつがなく終えて、制服姿の十和くんと相対する。


「じゃあ、芽依。そろそろ行くけど」


「うん、行ってらっしゃい」


 気持ちが()いてそわそわしてしまう。


 十和くんが帰ってくる頃には、きっとわたしはもうここにはいない。


「行ってきまーす。今日もいい子にしててね」


 ふわ、と抱き寄せられた。

 そのまま後頭部を撫でられる、というおまけつきで。


 頭を撫でるという仕草は同じでも、確かに“子ども扱い”とは言えないようなやり方だ。

 先生を好きな気持ちがなかったら騙されていたかも。


 いくらでも近づいて触れればいい。

 どうせ、これで最後なのだから。


(そう思えば我慢できる……)


 早く、先生に会いたい。


 鼓動が速まった。

 それもただの願望じゃなくなるんだ。


 十和くんが部屋から出ていき、ドアが閉まった。

 かちゃ、と鍵がかけられる。


 その足音が離れていく中、ドアに張りついて耳を澄ませた。


 玄関のドアの音。鍵の音。

 十和くんが家から出ていった。


(よし……)


 この部屋を出たら、まず電話を探そう。

 わたしのスマホでも固定電話でも何でもいいから、すぐに警察に通報する。


 がんじがらめにされたあの玄関からは、自力じゃ出られないから。


(ん? でも)


 はたとひらめく。


(そういえば、あの補助錠……)


 鍵は内側にあって外からでは操作できない。

 家の中にいるのは、閉じ込められたわたしだけ。


(ということは、彼が家を出るときは補助錠もチェーンもかかってないんじゃ……?)


 そうじゃないと、十和くんも家に入れない。


 些細(ささい)な、それでいてこの上なく重要な気づきだった。

 それならこの部屋のドアが開けば、すぐにでも外へ出られるということ。


(でも、わたしの荷物……)


 回収したい。回収しておくべきだ。

 特にスマホは────。


 どうしたって捨てられない、大事な中身が詰まっている。

 彼に勝手に見られたりするのも我慢ならない。


 布団の下に手を入れると、隠しておいたフォークを掴んだ。

 ドアへ歩み寄って、その鍵の部分にフォークの柄尻を当てる。


 思った通り、隙間にぴったりはまった。

 ひねるように動かすと、かちゃんと音がする。


「開いた……!」


 表示が赤から青へと変わった。


 はやる気持ちで取っ手に手をかけて引くと、何の抵抗もなくすんなりと開く。


「…………」


 家の中は静まり返っていた。

 自分の鼓動と呼吸の音がすぐ耳元で聞こえる。


 万が一にでも彼が戻ってくる可能性を考慮して、そっと慎重に動いた。


 こんな機会、最初で最後だと思う。

 慎重に慎重を重ねるくらいでちょうどいい。


(やっぱり電話を探そう)


 もし本当に十和くんが戻ってくるようなことがあっても、通報しておけばわたしは助かる。

 自力での脱出に失敗したときの保険が必要だ。


(どこにあるだろう……?)


 彷徨(さまよ)うように歩いていく。


 一度ほとんど家中を歩き回ったとはいえ、あのときは暗かったし必死だったから、間取りを完璧に把握できているわけじゃない。


 わたしが知っているのはあの監禁部屋とお手洗い、洗面所の位置関係くらいだ。


 廊下を進んで、突き当たったドアを適当に開けた。


(リビング?)


 ソファーやローテーブル、テレビなんかが置いてある。

 きちんと整頓(せいとん)されている上に掃除が行き届いていて、洗練された印象を受けた。


 この家は全体的にそんな感じだ。

 十和くんは意外と几帳面(きちょうめん)な性格みたい。


 ローテーブルの上には今日の新聞が置いてあった。

 普段から読んでいるのか、わたしの件が報道されているかどうかをチェックしているのか。


 手に取ってざっと目を通してみると“女子高校生が行方不明”というそれらしい見出しを見つけた。


 記された“日下芽依”という名前は間違いなく自分のものなのに、どこか他人事みたいに感じられる。


 それでも、わたしの居場所はまだちゃんと外にある。捜してくれている人がいる。

 そのことにほっとしてしまった。


(え……?)


 だけど、記事には不可解なことも書いてあった。

 わたしが姿を消した学校付近で、不審な乗用車の目撃情報があったという。


(この車って、先生のと同じ……?)


 車種はポピュラーなコンパクトカーだから、偶然という可能性の方が高い。

 だけど、何だか胸騒ぎがした。


(ありえない。先生は無関係に決まってる)


 新聞を素早くテーブルの上に戻しておく。

 ナンバーも不明らしく、特定は難しいだろう。


 けれど、わたしが逃げ出すことさえできればそれでいい。


「!」


 立ち上がって、はっとする。

 ソファーの影になっていたところに、鞄が置かれているのが見えた。


 焦げ茶色の革製。

 チャームにも見覚えがある。


(わたしの!)


 思わず駆け寄ると、確かめるように触れてみる。

 外側のポケットには何も入っていない。


 素早くファスナーを開けて中を見た。

 教科書やノートがあの日と変わらないままそこで眠っている。


 ペンケースやポーチをどけてみると、目当てのものが姿を現した。


「あった……」


 そっとスマホを手に取ってみる。

 久しぶりに触れたけれど、すぐに手に馴染んだ。


 バッテリーは残っているかな、なんて考えながら、とりあえず電源ボタンを長押ししてみる。

  起動するまでの時間が永遠のように感じられた。


(でも、これでもう……こんな場所ともお別れ)


 怖くて痛い、色()せた非日常の異空間。

 十和くんの狂愛から、やっと解放される。


 真っ暗だったスマホの画面がぱっと白く光った。

 ────その瞬間。


「何してるの?」


 どく、と心臓が()られて止まったような気がした。


 そこから飛び出した波動(はどう)が全身を駆け巡り、指先に到達すると力が抜ける。

 手の中からスマホが滑り落ちていった。


「芽依」


 背後から先ほどと同じ優しい声が響いてくるけれど、とても振り向けなかった。


 そこに本物の優しさなんてない。

 隙のない、鋭い視線が背中に突き刺さる。


(いつから……? 何で……)


 学校へ行ったんじゃなかったのだろうか。


 血の気が引いていく。

 すっかり忘れていた痛みが蘇って、()えたはずの傷が(うず)いた。


「ねぇ、何してるって聞いてるんだけど」


「十和、く……っ」


 ぐい、と後ろから髪を引っ張られた。

 あえなく床に崩れ落ちると、屈み込んだ彼に顎をすくわれる。


「やっぱりね。おかしいと思った」


「え……」


「おかしいじゃん、急に態度変えてさ。分かりやすく俺に()びてたんでしょ」


 うまくいっていると思っていたのに。

 順調に目的に近づけている、と。


(そんなこと、全然なかった)


 勘違いだった。過信(かしん)していた。

 騙されていたのは、わたしの方。


「気づいてたの……?」


「うん、当然。言ったよね? 俺、芽依のことなら何でも分かるから」


 陶酔するような彼の笑顔が歪む。


「いい加減、諦めてくれないかなぁ。きみは俺に敵わないんだって」


「……っ」


「ただ、俺に溺れて堕ちてけばいいんだよ。早くここまでおいで?」


 両手を広げて微笑む十和くんからあとずさった。

 怯んで詰まった声が、意思とは関係なく勝手にこぼれ落ちる。


「と、十和くんも……嘘ついてたの?」


 歩み寄ってくる彼の足が止まった。

 不思議そうにきょとんと瞬く。


「嘘?」


「わたしに話してくれたこと、ぜんぶ。わたしを油断させるための嘘だったの……?」


 辛い片想いに共感してくれたりとか、切ない笑顔とか、眼差しとか、優しい手とか。

 つい(すが)るように見つめてから、我に返った。


(わたし……ショック、なの?)


 何に対してショックを受けているんだろう。

 脱出に失敗したことそのものよりも、ずっと動揺している。


「……ちがうよ。俺はいつでも本気だった」


 ふと、彼から怒りが消える。

 だけど、次の瞬間にはいっそう強く憤りを滾らせていた。


「裏切ったのはきみでしょ」


 手錠ごと手首を引っ張られる。


(痛い……!)


 金属が肌に食い込んで悲鳴を上げていた。


 監禁部屋に連れ戻されたら、今度こそ殺されるかもしれない。

 以前のことが思い出される。


『警、告……?』


『うん。言っとくけど、本気でお仕置きしようと思ったらこんなもんじゃ済まさないから。脚の骨折ってでも、腱を切ってでも、きみに分からせてあげる』


 ぞっと全身が粟立って、どうにかその場に踏みとどまろうと足に力を込める。

 冷たい涙が滲んで呼吸が震えた。


「ま、待って。待ってよ……! ごめん、十和くん。ごめんなさい。謝るから許して……!」


「やだ。2回目だし、口で言ったってどうせ分かってくれないじゃん」


「そんなこと……っ」


 ぴた、と彼が足を止める。

 振り向いたその瞳はひどく冷ややかだった。


「あるでしょ。俺が大人しくしてたら、つけ上がって逃げ出そうとした。痛い目見ないと分かんないってことじゃん」


「ちがう!」


「じゃあ、俺の気持ちなんてどうでもいいんだね。自分のためだけに出ていって、俺を悪者にしようとしてたんだ?」


 怒りと失望と悲しみと、色々な激情が混ざって溶け合ったみたいな光の(とぼ)しい目をしていた。


 心に流れ込んできたその暗色に、瞬く間に染め上げられていく。


(わたしが悪いの……?)


 責めるような眼差しは、めちゃくちゃな言い分を正当化しているみたい。


「それは、だって……」


「俺は芽依のこと信じてたよ。だから先生のこと話したし、フォークのことも気づかないふりしたのに」


「え」


 思考が止まった。

 十和くんは悲しそうに眉を下げて、わたしの頬に触れる。


「芽依も俺のこと信じてくれるかなって、期待してたんだけどなぁ」


 わたしの好きな人が先生だってこと、本当は知っていたんだ。

 だから昨日、あえて彼の話題を持ち出して(あお)った。


 フォークを奪ったことにもとっくに気づいていたのに、このために見逃したんだ。


 そうやって泳がせて、わたしの従順さが本物かどうか試していた。


 衝撃がやがて怒りに変わってわななく。


「何それ。そんな勝手な────」


 頬が痺れて、言葉が途切れる。


「うるさい」


「な……」


「いまの芽依はかわいくないから嫌い」


 とっさに言葉が出なかった。

 都合が悪くなると感情が優先されるらしい。


 わたしが反抗的だと自分の思い通りにならないから、気に食わなくて機嫌を損ねるんだ。


「だったらもうここから出してよ! 嫌いなら一緒にいる理由もないでしょ!」


 かっとなって言い返した途端、十和くんに首を掴まれた。

 片手なのに、締め上げる力は簡単に逃れられないほど強い。


「……っ」


「勝手に決めないでくれる? きみに選ぶ権利なんかないから」


 痛い。苦しい。もう嫌だ。

 泣きたくなんてないのに、じわりと涙が滲む。


「かわいくない芽依は嫌いだけど、でも、それも含めてぜんぶ愛しいんだよ。やっと捕まえたのに……手放すわけないじゃん」


 恍惚(こうこつ)と微笑む十和くんはまさしく狂っていた。


 彼の愛には、わたしがいない。

 いつだって大事なのは自分の想いと感情で。


「う……」


 目眩を覚え、意識が朦朧(もうろう)とした。


 ふらりと力が抜けてよろめいたわたしを抱きとめた十和くんに、そのまま軽々と横抱きにされる。


「ふふ……そう、そうやってぜんぶ俺に委ねてなよ」


 白昼夢みたいに目の前がふわふわ白く霞んでいた。

 とさ、とややあって響いてきた小さな衝撃で我に返る。


 いつの間にか監禁部屋に連れ戻されていて、布団の上に横たわっている。


「……!」


 見上げた先に鋭い光が見えて、とっさに顔を背けた。

 はら、と舞い降りてきた何かが頬をくすぐる。羽根だ。


 引き裂かれた枕から白い羽根が舞っている。

 突き刺さっていた包丁を引き抜いた十和くんは、うっとり頬を染めて笑った。


「その怯えた感じ……すっごいかわいいよ。もっと見せて」


 正気の沙汰じゃない。

 甘ったるくて熱いその眼差しも、向けられる包丁の切っ先も。


 冷えきった彼の両手が再びわたしの首に触れた。

 必死で掴んでも、爪を立てても剥がせない。


「離して……っ!」


「しー。抵抗するならまた痛くするよ?」


 す、と彼が顔を寄せる。


「もう1回絞めてあげようか。それとも、前に言ったように脚の骨折って欲しい? 腱も切ってあげられるよ。そしたら、俺から逃げようなんてばかなこと考えなくなるのかな」


「いや……。お願い、やめて! ごめんなさい、ごめんなさい……っ」


 恐怖で涙があふれていく。

 逃げられない。逃げ場なんてない。


「……泣かないでよ。ぜんぶ芽依のためなのに」


 濡れた頬を拭う十和くんの指先は優しくて、ひどく心を揺さぶられる。


(だから騙されちゃうんだよ……)


 優しい一面と残酷な一面と、その大きすぎるコントラストに翻弄されてしまう。

 どちらかしか見られない。どちらかしか信じられない。


(わたしのせいなの……?)


 ごめんなさい、と口にするほど分からなくなってきた。


 本当はその温もりが正しいのに、わたしが失望させたせいで豹変(ひょうへん)してしまったのかもしれない。


 本当は暴力なんて不本意なのに、わたしが言う通りにしないから仕方なく手を上げているのかもしれない。


(先に裏切ったのは、確かにわたし)


 十和くんはわたしを信じて試していただけだったのに、その信頼に応えられていなかった。


「……っ」


 ぽろ、とまた涙がひと粒こぼれ落ちたとき、ふいに視界が(かげ)って唇が触れる。

 こんなふうに強引に奪われるのも何度目だろう。


「キスより先のこと、教え込んであげようか? そうやって動けなくして逃がさない、って手もあるけど」


 絶対に嫌、と恐ろしい気持ちも忘れて拒絶しようと口を開いた瞬間、再び塞がれてしまう。

 息をする隙もないほど、角度を変えて何度も何度も。


 入らない力をどうにか込めて、ぐい、と押し返した。


「十和、くん……っ」


「……やば。そんなふうに呼ぶのは反則だって。かわいすぎて止まんなくなりそう」


 ぺろりと軽く舌なめずりした彼に慌てたけれど、そっと身体を起こすと離れてくれた。

 そのまま転がっていた包丁を掴む。


「でも、芽依に嫌われたくないから我慢する。別の方法でお仕置きしてあげるね」


 どく、と重たげに心臓が跳ねる。

 恐る恐るあとずさると、すぐに壁まで追い詰められた。


「や……」


「殺される、なーんて思ってるの? そんなに怯えちゃって」


 くすくすと笑った彼はわたしの前に屈んで、寝かせた包丁の刃で顎をすくった。


「確かに殺したいくらい好きだけど……。ばかだなぁ。殺さなくたってもう、きみは俺から離れられないよ」


 熱っぽい眼差しや甘い言葉が、(とげ)を持った(つた)のように絡みついてくる。


「そんな、わけない……」


「どうかな。とりあえず、芽依には分からせてあげないとね」


 ぐ、と突きつけられた刃の先がわずかに肌に沈み込んだ。

 喉のあたりにちくりと痛みが走って息をのむ。


「待って……! そんなのいらない!」


「どうして? 痛い目に遭わなきゃ、いいことと悪いことの区別もつかないんでしょ」


「そんなことない、ちゃんと分かるから……!」


「……へぇ」


 十和くんが目を細めた。


「じゃあ分かってて逃げ出そうとしたんだ?」


「それ、は……」


「ちがう? なら、やっぱ分かんないってことだね」


 言葉に詰まって、それ以上何も言い返せない。

 勝ち誇ったように笑った彼が顔を傾ける。


「ほらね。お仕置き、必要でしょ? ふたりで仲良くやってくためには、だめなことはだめって分かんないとさ」


 ────すべてが彼のてのひらの上だった。


 こうなった以上、もう失うものなんて何もない。

 分かってしまえば、(いさぎよ)く割り切ることができた。


 睨むように視線を突き刺す。


「……いい加減にしてよ。十和くんに傷つけられる筋合いなんてない」


 一度、おさえ込んでいた感情や鬱憤(うっぷん)を吐き出してしまうと、止められなくなった。


「もうこれ以上、十和くんのわがままになんか付き合ってられない。こんなとこいたくない。一緒にいたくない!」


 彼が何を言おうと、所詮(しょせん)は犯罪者のたわごと。


 そんなものに真剣に耳を傾けるなんて、きっとどうかしていた。


「わたしが好きなのは先生だから。何を言われようとこれだけは変わらない。あんたなんか好きになるわけな────」


 言い終わらないうちに頬に衝撃が走り、再び床に倒れ込んだ。

 唇の端がひりひりと熱い。切れたかもしれない。


 それでも怯むことなく見上げた。

 彼は心底不愉快そうに苛立ちをあらわにしていた。


「……そうやって、気に入らないことはぜんぶ拒絶するんだね。いつもいつも、わたしの言葉は最後まで聞かないで」


 自分にとって都合が悪いことは、強制的にシャットアウトするんだ。


 見たくないものから目を背け、聞きたくなければ耳を塞ぎ、相手を恐怖で支配して思い通りにしようとする。


「そんなの、ただ自分勝手で幼稚(ようち)なだけ……。あんたなんて何も怖くない!」


 十和くんの眉頭(びとう)に力が込もったのが分かった。

 乱暴にわたしの髪を掴む。


「う……っ」


「あーあ、ほんと生意気」


 怒気の込もった低い声に気圧(けお)されそうになる。

 いままでで一番、怒っていた。


「怖いもの知らずなのかな。それとも、ただ頭が悪いだけ?」


 髪を引っ張る力は容赦なくて、剥がれるように痛い。

 泣きたくないのに涙が滲んだ。


(悔しい……)


 痛みのせいだとしても、涙を見せれば彼を(よろこ)ばせるだけだと分かっているのに。


 わたしは無力で、抗うことさえまともにできない。

 十和くんを責めたって、結局はその倒錯(とうさく)的な愛の犠牲になるだけ。


「まあいいや、どっちでも。強引に分からせればいいだけだもんね」


 ささやかな抵抗なんて、きっと痛くも痒くもないのだろう。

 非難するような言葉も、ちっとも響いていない。


 すっかり調子を取り戻した十和くんが、嬉しそうに微笑む。


「……ってことで。お仕置き、しよっか?」




 ────身体の至るところに浮かび上がった(あざ)や切り傷を、彼は愛おしそうに眺めていた。


「芽依、肌が白いから傷が映えるね。綺麗だよ」


 空気に触れているだけで火傷しそう。

 あちこちから生ぬるい血が流れて肌を伝っていった。


「……っ」


 十和くんはとことん容赦がなかった。

 殴ったり蹴ったりつねったり、浅くとはいえ包丁で切ったり刺したり────。


 嫌になるほど悲鳴を上げた。

 “やめて”と懇願(こんがん)した。


 それでも彼の気が済むまで、一方的な暴力は()まなかった。


(もう嫌だ……)


 痛みはわたしから気力と体力を奪った。

 いまも床に倒れ込んだまま、少しも動けない。


 何だかひどく疲れた。疲れ果てた。

 呆然として何も考えられない。


(痛いよ……)


 空っぽの身体に残った感覚はただそれだけ。


「ちゃんと反省してね?」


 十和くんの手が、唇の傷を撫でる。

 指先についた血を彼はぺろりと舐めた。


「俺がいないときも、痛みで俺のこと思い出して。俺のことだけ考えて」


 意識が朦朧(もうろう)として、視界が揺れた。


 いっそのこと気を失ってしまえれば楽なのに、全身をついばむような痛みがそうさせてくれない。


「芽依には俺しかいないんだから」


 そう残して、彼は部屋から出ていった。




 ひとりになっても金縛りが解けない。

 水底(みなそこ)に沈んだみたいに、身体が重くて息が苦しい。


 だけど、脚を折られたり腱を切られたりせずに済んだのは不幸中の幸いだ。

 さすがに気が引けたか怯んだのかもしれない。


「う、ぅ……」


 いまになってやっと、逃げ出すのに失敗したことの意味が分かってきた。


 結果的に十和くんを(あざむ)き裏切ってしまったことで、せっかく手に入れた平穏が消え去った。


 ふかふかの布団もあたたかいご飯も、取り上げられるかもしれない。

 多少の快適さも自由もなくなる。


 そうしたら、手足を拘束されたまま硬く冷たい床で眠る日々に逆戻り。


 それは紛れもなく、わたしが自ら手放した。


「う、あぁっ!」


 麻痺(まひ)していた心が我を取り戻し、一気に激情がなだれ込んでくる。


 悔しい。本当に悔しい。

 希望の光に手が届きそうだっただけに、なおさら。


 ぽろぽろとあふれた熱い雫が傷に染みる。


(ばかだ、わたし……)


 正しさも何もかも見失っていた。

 十和くんを正当化しないと、耐えられそうになかったから。


(でも、ちがう)


 こうなったのは、わたしのせいなんかじゃない。

 わたしが悪いわけがない。


 彼の(たぎ)るような瞳を思い出すと、理不尽な状況に怒りが込み上げてきた。

 ぜんぶぜんぶ、十和くんの身勝手でいびつな恋心のせいだ。


(何で、わたしがこんな目に遭わなきゃいけないの……)


 すべてが振り出しに戻った。

 いや、十和くんの怒りを買っているという点でマイナスだ。


 フォークも取り上げられたし、脱出に関しては今後ますます警戒を深めるにちがいない。

 監視の目はいっそう鋭くなり、これまで以上に隙がなくなる。


(あと少しで、先生に会えるはずだったのに……)


 唇を噛み締めながら目を閉じると、力が抜けた。

 何だかもう、何も考えたくない。


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