第1話
学級日誌を書いていた手を止める。
放課後の喧騒が耳につくけれど、教室にはわたしひとりしか残っていない。
日誌の下から一枚の封筒を取り出した。
淡いピンク色にレースの柄でふちどられたそれは、思いの丈をしたためた手紙とちょっとした贈りものを入れて封をしてある。
(宇佐美先生……)
胸元で抱くようにして、彼に思いを馳せる。
ふと、始業式のことが蘇ってきた。
『今日からきみたちの担任になった宇佐美颯真だ。1年間よろしく』
最初は硬派でクールというか、ただ冷たい印象を受けた。
それほど年は離れていないようなのに、必要最低限のことを淡々と事務的に話すだけ、といった具合。
どこか高圧的で、近寄りがたい雰囲気をまとっているように感じられて、わたしは怖い先生だと思っていた。
だけど、そのルックスからか女の子たちの間で人気が出始めた。
宇佐美先生ってかっこいいよね、なんて話を聞かない日はないくらい。
────きっかけは、テスト返しの行われたある日のこと。
先生の担当である数学のテストで、94点を取ったことがあった。
苦手だったけれど、一生懸命勉強した結果が出たのだと嬉しくて、つい顔を綻ばせるわたしに先生が声をかけてくれた。
『よく頑張ったな、日下』
いつもは何の色もない顔に、優しい微笑みが浮かんでいた。
初めて見る先生の笑顔だった。
びっくりした。
まさか、褒めてくれるなんて思わなくて。
それからわたしは先生を特別意識するようになって、気がついたら心を奪われていた。
けれど、分かっている。
生徒であるわたしが、先生を好きになっちゃいけないってことくらい。
(分かってる、けど……)
伝えたい。気づいて欲しい。
名前は書けないけれど、せめて想いだけは────。
「あれ、芽依ちゃん」
「あ、朝倉くん……!」
つい封筒を持つ手に力を込めたとき、ふいに戸枠のところからクラスメートの朝倉くんが顔を覗かせた。
突然のことに慌てて封筒を隠すと、鞄の中に突っ込んでおく。
幸い気づいていないのか、彼は普段通り親しげな笑顔をたたえて隣の席に腰を下ろした。
「まだ残ってたんだ。大変だね、日直」
「ううん、そんなこと……」
学級日誌というものも、先生との間接的な手紙みたいだから少しも苦にならない。
とても口にできないけれど。
「朝倉くんは帰らないの?」
「……あー、えっと」
歯切れの悪さに顔を上げると、背に隠していた何かを差し出してきた。
自販機に売っている、苺ミルクのペットボトルが2本。
「ごめん。実は芽依ちゃんが残ってること知ってて戻ってきた。労いってことで、1本あげる」
どこか照れくさそうな笑みは、これまでに見たどれとも色を異にしていた。
「いいの?」
「うん。好きでしょ、これ」
「ありがとう。でも、どうして知ってるの?」
その通りだし嬉しいのだけれど、彼とそんな話をした覚えはない。
「人づてに聞いただけ。好きな人のことは何でも知りたいと思うじゃん」
そう言って自分のペットボトルを呷った彼の表情に、いつもの親しみやすさと人懐こさが戻った。
その整った顔立ちと明るい性格が人目を引く、クラスの人気者。
「本気?」
思わず小さく笑いながらキャップに手をかける。
少し緩いような気がした。
気を遣って彼が開けてくれたのかもしれない。
苺ミルクに口をつけると、まろやかな甘い風味と味が広がって自然と心がほどけていく。
彼が思わせぶりなことを言うのはいつものことで、いちいち取り合っていられない。
どうしてわたしに構うんだろう。
「俺はいつでも本気だよ。いまだって、芽依ちゃんとふたりで話せてすげー嬉しいと思ってる」
「そういうことは本当に好きな人に言いなよ」
「……だから、言ってんじゃん」
思わず、日誌に落とした視線を再びもたげる。
真剣味を帯びた声色を受け、さすがに苦笑が消えた。
朝倉くんは少しも揺らがない眼差しでわたしを捉えていた。
「……えー? もう。朝倉くん、わたしのこと好きすぎ」
つい動揺してしまったのを誤魔化すように、その瞳から逃れるように、もう一度苦く笑って冗談にしてしまおうと思った。
それなのに、彼は否定してくれなかった。
「そうだよ。俺、本当に芽依ちゃんのことが好き」
真剣な眼差しと熱の込もったトーンは、その本気さを訴えていた。
どき、と図らずも心臓が跳ねる。
「友だちだなんて思ってない。そんなふうに諦められない」
「朝倉、くん……」
「……分かってる。困らせてるよね」
ひたすらに戸惑っていると、ふと彼が儚げに表情を緩めた。
お陰で空気ごと和らぐけれど、心音はおさまらないまま。
「でも、迷って欲しいって言ったら……怒る?」
瞳が揺らいだ自覚があった。
とっさに流せないほど飲み込まれていた。
「ねぇ、一緒に帰ろ。もっと芽依ちゃんのこと知りたい」
何も言えないまま、1分にも1時間にも思える静寂に包まれて、やがて唐突にそれは破られた。
「日下……って、おまえもいたのか」
戸枠のところで足を止めた先生は、驚いたようにわたしと朝倉くんそれぞれに目をやる。
「先生」
さっき以上に心臓が大きく跳ねた。
舌の上に残った甘い味がざらつく。
「やっほー。あ、先生も飲む?」
先ほどまでのやり取りなんてまるで気にも留めていないように、朝倉くんが自身のペットボトルを掲げて首を傾げる。
「遠慮しとく。俺は甘いの苦手だから」
「そっかー」
「そもそもおまえの飲みかけだろ、それ」
「えー、何か問題ある?」
彼はくすくすと楽しそうに笑った。
繰り広げられる軽快なやり取りを耳にそっと息をつき、無意識に止めていた呼吸を再開する。
(朝倉くん、先生とも仲いいんだ)
本当に誰とでも親しいフレンドリーな人なんだな、と改めて思う。
「そんなことより日下、日誌は書けたか?」
「え……。あ、はい!」
唐突に彼の目が自分に向いてどぎまぎした。
ぱたん、と閉じた日誌を差し出したとき、手が触れそうになってどきどきした。
「お疲れ。日下はいつも真面目に取り組んでくれるから俺も助かる」
ふ、と淡く笑った先生に見とれかけて、それからあまりの嬉しさに頬が緩む。
同時に少しほっとした。
最近は何かに悩んでいるのか険しい顔をしていることの多かった先生が、笑顔を浮かべていることに。
そのとき、がたん、と音を立てて朝倉くんが立ち上がった。
「先生、じゃーね」
「気をつけて帰れよ。それと、言葉遣いな」
つい窺うように見ると、朝倉くんと目が合う。
呼ばれているような気がして、わたしも鞄を手に取った。
先生に会釈して歩き出そうとしたものの、思い直してくるりと振り向く。
「ばいばい、先生」
彼は少し意外そうな表情を浮かべたあと、ふっと緩めた。
「日下も言葉遣いな。また明日」
何だか胸がいっぱいで、満たされて、つい顔が綻んでいく。
先生と別れて廊下を歩きながら、彼はどこか力を抜いたように息をつく。
「……よかった」
「え?」
「俺と来てくれたってことは一緒に帰れるよね」
いつもみたいな思わせぶりな態度だけれど、わたしをからかうための冗談で済ませる気はきっとない。
何となく流れでそうなったものの、いまさら断る理由もないし頷いておく。
くす、と意味ありげな笑みが返ってきた。
昇降口から出る間際、朝倉くんが「あ」と足を止める。
「ごめん、忘れものしちゃった。先行ってて」
「忘れもの? わたしも一緒に取りに戻るよ」
「ううん、大丈夫。校門出たとこの木の下で待っててくれる? すぐ追いつくから」
きびすを返した彼を見送り、ひとまずひとりで校門を潜る。
すぐ横に植えられた大きな広葉樹の下に立った。
生い茂った葉で木陰になっている。
そよぐ優しい風に吹かれながら、苺ミルクを含んで彼を待った。
あたたかいからか、ふいに眠気を感じてあくびをする。
何だかぼんやりしてきた。
(まだかなぁ)
そのまま5分くらい経ったけれど、朝倉くんの気配はない。
時間を持て余してスマホを取り出す。
写真でも眺めようとアルバムを開いたとき、ふいに取り落とした。
「あ……」
スマホを拾おうとしたとき、バランスを崩して身体が傾く。
とっさに地面に手をついたものの、そのまま屈み込む形になった。
(あれ……?)
一瞬ふらついて力が入らなくなった。
戸惑っていると、すっと目の前に手を差し伸べられる。
「大丈夫?」
小さく首を傾げる朝倉くんを見上げ、その手を借りて立ち上がる。
いつの間に来ていたんだろう。
「大丈夫、ちょっと疲れてるみたい……」
「そっか、無理しないでね。待たせちゃってごめん」
「あ、ううん」
頭にかかる靄を払うようにかぶりを振って、彼と一緒に歩き出す。
そういえば、帰り道の方向同じだったんだ。
「そうだ。駅までの道、工事してるらしいからさ、遠回りしてこうよ」
ぼんやりしながらも頷くと、ふと彼が覗き込むようにしてこちらを見やった。
「そういえば、前髪切った? 後ろもちょっとだけ短くなってるよね」
「……え、すごい。よく分かったね」
前髪に関しては、ほんの数ミリ程度切って揃えただけなのに。
思わず触れると、勢いよくその手を掴まれた。
「爪も切ったんだ」
「な……」
喉元で息が詰まった。
さすがにそこまで気づくのは、普通じゃない。
「何で知ってるの……?」
掴まれた手首を引き、慌てて逃れる。
わずかに残った温もりでさえ、わたしの動揺を煽った。
おののいてしまうわたしとは裏腹に、彼はにっこりといつもの人懐こい笑顔をたたえる。
「こないだ芽依ちゃんにノート借りたでしょ? そのとき見たより短くなってるもん」
そんな一瞬のやりとりで……?
気味の悪さと怪訝さで眉を寄せる。
その反応すら面白がるように、朝倉くんは笑みを深める。
「芽依ちゃんのこと、ずーっと見てたから」
ぞくりと背筋が冷えた。
(何か、怖い……)
肌が粟立つのを感じてあとずさる。
「好きな人のことは何でも知りたい。でも、知ってるのは俺だけでいい。だから────」
教室でそう言っていたときとは明らかにまとう雰囲気がちがう。
反射的にもう一歩あとずさったとき、たたらを踏んだ。
「……っ」
「おっと」
倒れる前に朝倉くんが支えてくれて、その腕の中におさまる。
身体から力が抜けてしまい、もたれかかった。
ふっと瞼が落ちてきて、耐えきれずに目を閉じる。
何だか猛烈に眠たい。
「あさくら、く……」
「大丈夫。いい夢見せてあげるから、ちょっとだけ眠っててね」
完全に意識を失う寸前、そんな言葉が耳に届いた────。
◇
はっと目を覚ますと、その瞬間に全身が感覚を取り戻した。
とっさに口元に違和感を覚える。
粘着性の何かが貼られている?
触れようと手を伸ばしかけたものの、なぜか思うように動かせない。
(何、これ)
訝しみながらもたげた両手首には、手錠がかけられていた。
ちゃり、という金属音を聞き、一拍遅れて恐怖が込み上げてくる。
「……っ」
慌てて起き上がろうとしたとき、両方の足首も結束バンドで拘束されていることに気がついた。
動くと擦れて、靴下越しでも痛みが走る。
(何なの……!?)
────誘拐。拉致。監禁。
そんな不穏な単語が浮かんでは弾けた。
動悸と呼吸が速まる中、混乱しながらあたりを見回す。
6畳ほどの洋室には、窓がひとつある以外に何もない。
わたしは殺風景な部屋の中央に寝かされていたようだ。
窓には厚手のカーテンが引かれており、外からの光はほとんど遮断されていた。
(ここ、どこ……?)
急速に不安が湧き上がったそのとき、部屋のドアが開かれた。
戸枠の部分に悠々と朝倉くんが立っている。
「おはよう、芽依ちゃん」
息をのむものの、彼はあくまで態度を変えなかった。
微笑んだまま顔を傾ける。
「きみってば案外ガード緩いんだねー。あんなに簡単に薬盛れるとは思わなかったよ。俺のこと信用してくれてるんだね。嬉しいなぁ」
渡された苺ミルクのキャップが緩かったのは、そういうことだったんだ。
睡眠薬か何かを仕込まれていた。
部屋へ踏み込んできた朝倉くんが、機嫌よく歩み寄ってくる。
とっさにあとずさろうとしたのに、拘束のせいでうまくいかない。
囚われたままの両手で自分を庇うようにしながら、必死で顔を背けた。
「大丈夫、怖がらないで。叫ばないって約束できる?」
こてん、と首を傾げる彼を恐る恐る見上げていると、そっと傍らに屈み込んできた。
「いい? 言うこと聞かなかったら────」
「……っ!」
後ろ手に隠していた包丁を突きつけられた。
向けられた鋭い切っ先が光を弾く。
粟立った身体が震え、おののいて涙が滲んだ。
こくこくと必死で頷く。
叫ぶどころか、声なんて喉に張りついて出てこない。
「よしよし、いい子。安心してね。抵抗しなければ何にもしないから」
満足気に微笑んだ朝倉くんがわたしの頭を撫でる。
びくりと身体が強張ったけれど、彼は気に留めないまま口元のガムテープをそっと剥がした。
「あさくら、くん……! ねぇ、どういうこと? 何、これ……。何なの……?」
縋るように言うと、彼に「しー」と人差し指を向けられる。
滲んだ視界の中、その笑顔が歪んだ。
「分かんない? 俺が攫って捕まえたんだよ」
「何で。なんで……!?」
「好きだから」
朝倉くんがうっとりととろけるような表情で告げる。
冷えたわたしの手に指先を滑らせ、包み込むように握った。
「え……?」
「これからはふたりで仲良く暮らそうね。ここなら誰にも邪魔されないし……」
愛おしげに指を絡ませる彼の体温が溶け出すと、反対にわたしの身体からは血の気が引いていく。
震えながらどうにか首を横に振る。
その拍子に浮かんでいた涙がこぼれ落ちた。
朝倉くんは甘く微笑んだまま、わたしの頬に手を添える。
「一緒に堕ちよっか」
◇
どのくらいの時間が経ったんだろう。
部屋にひとり残されたわたしは、隅で蹲るようにして震えていた。
(どうすれば……)
怖くてたまらない。
このままじゃ殺される────突きつけられた包丁と、朝倉くんの常軌を逸した笑顔を思い返すたび涙が滲んだ。
まさか、彼があんな人だったとは思わなかった。
わたしへの想いも、あれほど本気だったなんて思いもしなかった。
(……逃げなきゃ。何とかしてここから出なくちゃ)
こんなところで死にたくない。
拘束されたままの両手でスカートのポケットに触れた。
けれど、いつもならあるはずの硬いスマホの感触が返ってこない。
スマホはもちろん、鞄やほかの荷物もすべて取り上げられてしまったみたいだ。
窓に寄って、カーテンを少しずらしてみる。
磨りガラス加工が施されており、外の景色は見えない。
立ち上がれないせいでまず視点が届かなかった。
ただ、薄明るい光が白っぽく漂っていることは分かる。
どれほど意識を失っていたのかは分からないけれど、まだ日は完全に落ちていないみたいだ。
────そのとき、こんこんこん、とドアがノックされる。
どきりとした。
朝倉くんが戻ってきた、と悟って慌てて窓から離れる。
「芽依ちゃーん。お腹すいた?」
「だ、大丈夫。すいてない……!」
余裕のない声でそう答えるけれど、無情にもドアが開かれてしまう。
「寂しいから俺に遠慮しないで。我慢なんてしなくていいよ?」
そう言って踏み込んできた彼は、わたしの傍らにビニール袋を置いた。
きっとコンビニのものだ。
「はい、どうぞ召し上がれ。あ、もう薬とか入れてないから安心してよ」
「…………」
食欲なんてあるわけがないし、彼に出される食べものも飲みものももう信用できない。
「本当は俺が食べさせてあげたいくらいなんだけど……。とりあえず、きみも警戒してるみたいだし、好きなときに食べてくれたらいいから。ね?」
ここまで大胆なことを仕出かした割には控えめに、そう言い残して出ていった。
彼なりに気遣ってくれているのかも。
(その優しさがあるのに、どうしてこんな……監禁なんて)
緊張で冷たい拍動を繰り返す心臓が痛い。
先の見えない現実に追い詰められる。
何を持ってきたんだろう。
膝で這うように進み、袋の中を覗いてみる。
ミックスサンドとペットボトルの水。
手錠をされたままでもどうにか食べられるし、飲めるものではある。
(……って、ちがう)
ああ言われたからって、本当に何も入っていないとは限らない。
今度は睡眠薬ではなく、毒薬を仕込まれているかもしれない。
彼から出されるものには、絶対に手をつけないようにしないと。
窓の下に座り込んだまま、カーテンの下から覗いてみる。
磨りガラスはいつの間にか真っ黒に色づいていた。
「どうしよう……」
まずい状況になってきた。
膝を立ててつま先を重ね合わせたそのとき、再びドアがノックされる。
朝倉くんは返事を待たずして開けた。
「元気ー? お手洗い行く?」
「え……っ」
なぜか正確に察せられて、つい素っ頓狂な声がこぼれる。
まさしくそれがわたしの“困ったこと”だったのだけれど、どうして分かったんだろう。
「何で、って顔してる。ただの勘だよ」
歩み寄ってきた彼はわたしの前に屈み、おもむろにはさみを取り出す。
思わず怯んでしまうけれど、その刃が直接届くことはなかった。
足首をまとめ上げていた結束バンドが断ち切られる。
外されたいまになって、その感触が染み込んできた。
いつの間にか身体の一部となっていたみたいだ。
その事実にいっそう恐ろしさを覚える。
意思とは無関係に、この状況に順応し始めていたんだ。
両手も差し出すけれど、彼はゆるりと首を横に振る。
「そっちはだーめ」
「でも……」
「ん?」
ふと朝倉くんが鋭く目を細めて、仕方なく口をつぐむ。
下手な抵抗はきっと命取りだ。
「ほら、芽依ちゃん。こっち向いて」
反射的に顔を上げると、視界が黒くなった。
「わ、なに……?」
「目隠しだよ。悪いけど我慢してね」
耳のあたりに温もりが触れた。彼の指先?
びくりと肩が跳ねて身を縮める。
朝倉くんの手も温度も怖くてたまらない。
「ふ、かわいい。そんな怯えられるともっと意地悪したくなっちゃうなぁ」
さら、と髪を撫で下ろされる。
視界を奪われたせいでいっそう恐怖が増して、心臓がばくばく打っていた。
もし、いま彼があの包丁を振りかざしていたら。
その刃先を心臓に向けられていたら……?
震えてしまうわたしの両肩に、そっと朝倉くんの手が載せられる。
「冗談だよ、ごめんね。怖がらないで。言ったでしょ、俺は芽依ちゃんのことが好きなんだって。ただふたりで暮らしていきたいだけ」
「そんなの……!」
「信じられない? じゃあ、証明してあげよっか」
戸惑っているうちに、す、と優しく顎先をすくわれた。
衣擦れの音がする。
彼の気配が近づいてくるような気がして、見えなくても何となく意図を察した。
「やだ……っ」
とっさに突き飛ばすと、身を縮めるようにしてあとずさる。
正確にそんな手応えがあったことからして、直感はきっと正しかったんだ。
朝倉くんはいま、わたしに────。
「……残念」
ややあって、低めた声が聞こえた。
それでもまだ余裕が残っていて、半分興がるような声色。
「じゃあ、まだお預けってことで」
くす、と笑ったかと思うと、ふいに手を握られる。
反射的によじったけれど、彼に引く気はないようでいっそう力が強まった。
「転ぶと危ないから、ね? 俺の手離さないで」
「……っ」
不本意だけれど、何も見えない以上は一旦従わざるを得ない。
思いのほか朝倉くんの手はあたたかくて優しかった。
この手を掴んでいる限りは、もしかしたら刃を遠ざけられるのかもしれない。
ふいに思い至って、ぎゅっと力が込もった。
「ん、積極的だね」
「そんなんじゃない……」
その感触も温度も相変わらず恐ろしいはずなのに、彼に縋ってしまう矛盾。
足の裏に冷えたフローリングの質感が伝わってくる。
触れ合った手が温もりを増していく。
街ですれ違った誰かの柔軟剤みたいな、妙に気の抜けない香りが鼻先をくすぐっていた。
わたし、知らない家にいる。
そんな事実を改めて実感させられて不安になる。
「はい、着いたよ」
手を離した朝倉くんに、そのまま背中を押された。
かちゃん、と背後でドアの閉まる音がする。
「目隠し取って、鍵閉めていいよ。終わったら声かけてね。今度はまた目隠しして、鍵開けてから」
淡々と抜かりなく指示されて、恐る恐るゴム紐に指を引っかけた。
目隠しを外すと、確かにお手洗いの中にいた。
素早く振り返って鍵をかけておく。
壁面を見やったものの、窓はなかった。
額や花なんかの装飾もなくて、埃や汚れも見当たらない。
率直に言うと、生活感がなかった。
わたしが閉じ込められていた部屋が殺風景だったのは、監禁目的の空間だからだと思っていた。
けれど、もしかしたらこの家全体がそうなのかもしれない。
(手錠は外してくれなかったけど……)
足の拘束からは抜け出せた。
それを利用して、いまのうちに逃げ出せないだろうか。
「────ねぇ、芽依ちゃん。ばかなこと考えちゃだめだよ? 俺を怒らせないでね」
「わ、分かってるよ」
ぎくりとしたのをひた隠しに、ドア越しに返した声は強張ってしまった。
わたしの思考は透けているように何でもお見通しみたいだ。
ぞっとする。
朝倉くんはドアの前で、いまも油断なく包丁を構えているのかもしれない。
◇
一睡もできないまま朝を迎えると、ドアがノックされた。
硬い床に寝転んでいたせいで身体中が痛んだけれど、はっと危機感が舞い戻ってきて慌てて起き上がる。
壁際まであとずさると、開いたドアから朝倉くんが顔を覗かせた。
「おはよー」
制服をまとって、爽やかな笑顔をたたえている。
ふと、彼がビニール袋に目を留めた。
そこにはまだ手つかずのサンドイッチと水が入っている。
「あれ、食べてないの? 遠慮しなくていいって言ったのに」
「……お腹すいてない」
「本当に? でも、いつまで我慢できるかなぁ」
悠々と歩み寄ってきて、わたしの前に屈み込む。
「俺を信用しないと辛いだけだよ。ここではね」
「……っ」
「俺だっていじめたいわけじゃないしさ、大人しく信じてくれてもよくない? ねぇ、芽依ちゃん。俺はきみの一番の理解者なんだよ」
恍惚とした眼差しを目の当たりにして、恐怖より思わず呆れてしまう。
非難じみた視線を突き返した。
「なに言ってるの……? こんなことまでしたくせに、信じられるはずない」
彼は、だけど少しも怯んだり悪びれたりすることなく、ゆったりと微笑んでいる。
「ううん。いまに見てなよ、俺なしじゃ生きていけないって分かるから」
「ばか言わないで!」
「どうかな。ま、とりあえず疑い深い芽依ちゃんにもう一度教えてあげる。これには毒も薬も何も入ってないよ」
朝倉くんはビニール袋を示して言った。
悔しいけれど、信じた方が確かに楽だ。
そうじゃないと、まともに食事をとることも、眠りにつくこともできない。
そんな最低限の生命線すら彼に左右されている。
「さて、それじゃお手洗い行っとこっか。俺がいない間、きみはここから一歩も動けないからね」
ぱちん、とはさみで結束バンドが断ち切られた。
唇を噛み締める。
ここではあまりに無力だと、改めて思い知らされた。
「……朝倉くん、学校行くの?」
お手洗いから部屋へと戻る途中、目隠しをされたまま廊下を歩きながら、はたと口をついた。
見えないけれど、前を歩く彼が振り向いた気配があった。
「うん。なに、寂しい?」
「そんなわけないでしょ。ちょっと、意外だっただけ」
というか、驚いた。
わたしを監禁しておきながら、何食わぬ顔でいつも通り登校しようとしている事実に。
それほど余裕に満ちているのだろうか。
バレない自信がある?
それとも、わたしに逃げ出されない自信?
(でも、確かに……)
考えてみればそれほど不自然な判断でもないように思えてきた。
わたしが“誘拐”という異常な形で姿を消したことが明るみに出て、朝倉くんまで学校に行かなくなったら、関連を疑われてもおかしくない。
だからこそ彼はあくまで普段通りを装い、それを貫くつもりでいるんだ。
(……好都合だ)
彼が家を空けるなら、脱出のチャンスが増える。
そう思ったとき、ふいに首筋にひんやりと冷たい何かが触れた。
「芽依ちゃん、分かってるよね」
低めた声のお陰で察しがつく。
首にあてがわれているのは、結束バンドを断ち切ったはさみの刃だ。
ぞく、と背筋が冷えた。
「面倒なことしないでね。俺から逃げられるわけがないんだからさ」
彼への嫌悪感や抵抗感の陰に潜んでいた恐怖心が蘇って、すぐに心が折れてしまった。
どうしてこうも考えていることが筒抜けなんだろう。
部屋に戻って目隠しが外されると、再び足首をまとめ上げられた。
「じゃあ、そろそろ行かなきゃ」
「ねぇ、待って……!」
立ち上がった朝倉くんを思わず呼び止める。
速まる拍動がわたしの呼吸を浅くしていく。
「お願い、助けて」
「ん?」
「ここから出して。誰にも言わないから! お願い、こんなのわたしは嫌……!」
縋るようにその脚を掴んだものの、わたしを見下ろす彼の表情は冷ややかだった。
す、と脚を引くと悠々と屈む。
「……!」
唐突に頬が痺れて、一拍遅れて打たれたのだと気がついた。
信じられない思いで見つめると、不機嫌そうな彼に強く髪を掴まれる。
「痛……っ」
「なに言ってんの?」
これまでに聞いたことがない、冷たくて低い声。
ひどく怒っているようだった。
「ここは俺ときみだけの世界だよ。誰にも邪魔させない。そう言ったよね」
温度をなくしていた顔に表情が戻ると、恍惚としてうっとり頬を染める。
「諦めて。どうせ、きみは俺を好きになるから」
「や、だ。離して……!」
必死でその腕を引き剥がそうとするけれど、まるで敵わない。
そんなわけない、ありえない、と突き返したい言葉は声にならず、わたしの心の内で恨めしい気持ちとして蓄積していく。
「……仕方ないなぁ、もう」
そう呟いたかと思うと、乱暴に手を離した。
床に倒れ込んだわたしは憎々しげに彼を睨みつける。
おもむろにポケットに手を入れた彼は何か、小さな小瓶のようなものを取り出した。
青色に透き通った液体で満たされている。
「え……?」
「芽依ちゃんのせいだからね。暴れないでよ?」
蓋を開けて口に含むと、そのままわたしに覆いかぶさってきた。
「なに……!? やめ……っ」
手錠のかけられた両手首は頭上で押さえ込まれ、もう一方の手に頬を掴まれる。
抵抗しようにも余地がなくて、ただただ涙がこぼれ落ちていった。
強引に塞がれた唇の隙間から流れ込んできた何かを、反射的に飲み込んでしまう。
息が苦しくて、また涙があふれた。
溺れてしまいそう────。
「……けほっ」
「あーあ。お預けって言ったけど、まさかこんな形になるなんてね」
ようやく解放してくれたかと思うと、再び立ち上がった朝倉くんがそう呟いた。
わたしはむせてしまいながら必死で呼吸を整える。
いったい、何を飲まされたんだろう。
「それとも、芽依ちゃんはこういうの好き?」
「……ふざけないでよ。最悪」
濡れた唇を手の甲で拭う。
腹が立つのに、泣きそうになってしまう。
「ふふ、強がっちゃってかわいいなぁ。拒むからそうなるんだよ。思い知った?」
「…………」
「じゃあ、今度こそ行ってくるから。またあとでね」
ひらひらと手を振って出ていった彼の足音が遠ざかり、やがて玄関ドアの音がした。
ぎゅう、と強く握り締めた両手に、また涙が落ちて弾ける。
彼の甘さは毒で、ここは地獄でしかない。
◇
「……か。大丈夫か、日下。しっかりしろ」
わずかに揺られて、うっすらと目を開ける。
焦点が定まると、そこにいたのは信じがたいことに先生だった。
「せ、先生……!?」
「立てるか? 早く逃げないと」
驚いて勢いよく起き上がったわたしの手を引っ張ってくれる。
足首の拘束は既に切ってくれたみたいだ。
「どうして……。何でここが?」
「日下のスマホのGPS。警察が居場所を割り出して特定してくれたんだ」
それなら、朝倉くんももう身柄を拘束されているのかもしれない。
(よかった……。わたし、助かったんだ)
ほっとしたら一気に力が抜けた。
ふらりとたたらを踏んだわたしを、とっさに先生が支えてくれる。
「大丈夫か?」
その優しい声に頷きながら、滲んだ涙を拭った。
「でも、どうして先生が?」
「心配だからに決まってるだろ。とにかく、無事でよかった」
先生がそう言ってくれた瞬間、戸枠のところから人影が駆け込んできた。
慌てた様子の朝倉くんだ。
「芽依ちゃん……」
まだ、捕まっていなかったんだ。
息をのんだわたしを庇うように、先生が前に立ってくれる。
「朝倉。ばかな真似はやめて自首しろ」
「やだ」
即答した朝倉くんは、背に隠し持っていた包丁を構えた。
迷いのない足取りで先生に歩み寄って、躊躇なく刃を突き立てる。
「……っ」
「うそ……」
目の前で先生が崩れ落ち、愕然としてしまう。
朝倉くんはゆったりとわたしに微笑みかけた。
「邪魔者には消えてもらわないとね。これでまた、芽依ちゃんとふたりきりの世界だ」
血の気が引いて呼吸が震えた。
彼を、目の前の光景を、拒むように力なく首を横に振る。
「いや……!」
上げた悲鳴は掠れて喉がひりついた。
その拍子にはっと目を覚ます────。
わたしはひとり、独房のような例の部屋に横たわっていた。
(夢……?)
カーテンの隙間からは明るい光がこぼれている。
涙で光の粒が散って眩しかった。
「先生……」
夢でよかった、と思う反面、落胆してもいる。
朝倉くんに監禁されたのは現実そのもので、助けが来る気配もなかった。
何だか喉がからからで、ほとんど無意識のうちにビニール袋に手を伸ばしていた。
喉も渇いたし、お腹もすいた。
疑い続ける余裕も、いつまでも突っぱねていられる意地も、すっかり喪失していた。
取り出したペットボトルのキャップを捻る。
やりづらくはあるけれど、かちっと手応えを経て開けることができた。
ぐい、と一気に水を呷る。
すぐに死に至るような薬も毒も入っていないはずだ。
少なくともいまの段階では。
わたしへの殺意があるのなら、こんなところへ誘拐して監禁する、なんて回りくどいことはしない。
包装を破ると、無心でサンドイッチを頬張った。
そのうち、だんだんと頭の中の霧が晴れていく。
今朝、無理やり飲まされたのはきっと睡眠薬だったのだろう。
唇にまだ感触が残っているような気がして、思い出すたび息が詰まった。
────食べ終えると、空になったビニール袋に包装を入れて結んでおく。
何となく重たい身体を引きずるようにして窓際に寄った。
壁に添えた手を握り締め、拳で叩く。
「誰か……」
深く息を吸い込んだ。
「誰か助けて!」
出しうる限りの大声で必死に叫ぶ。
静寂しか返ってこなくても、手の側面が真っ赤に染まっても、喉が枯れるまで何度も何度も叫び続けた。
こぼれる光が暖色に変わった頃、遠くから鍵を回す音が聞こえてきた。
足音が近づいてきたかと思うと、すぐにドアが開かれる。
「ただいま、芽依ちゃん。会いたかったよ」
力なく壁にもたれかかって座り込んでいたわたしの元へ、朝倉くんは一直線に歩み寄ってきた。
そっと屈むと首を傾げる。
「ちゃんといい子にしてた? ……あれ、また泣いたの?」
充血した双眸を覗き込まれて、ふいと顔を逸らす。
「関係ないでしょ……」
「あーあ、声も掠れてる。そんなに叫んでたの? 防音だし意味ないよ」
思わず唇を噛み締めると、ふと彼の手が伸びてくる。
慈しむように優しく頭を撫でられるものの、わたしの身体は強張った。
それを見た朝倉くんは、どこか寂しげに目を伏せる。
「……ねぇ。ごめんね、今朝は強引なことしちゃって」
予想外にしおらしく謝られて、戸惑ってしまう。
そのままリュックを探ると、取り出した何かを差し出してきた。
わたしの好きな、いちご味のクッキーだ。
「お詫びのしるし、あげる」
「…………」
それを見つめたまま、手を伸ばせないでいた。
受け取ってしまったら、今朝のすべてを許すという意味になりそうで。
今後、彼にされるどんなことでも受け入れるという意思表示になってしまいそうで。
「クッキー、好きでしょ」
「それは、そうだけど……」
「よかった。じゃあ受け取ってよ。仲直りしよ?」
わたしの手を取ると仰向けて、てのひらにクッキーを載せる。
眉を下げる彼は、申し訳なさそうにこちらを見つめていた。
それでいてその眼差しも温もりも、有無を言わせない鋭さを秘めている。
「許してくれる?」
最初から選択肢なんてない。
拒んだら今朝みたいにわたしを否定して、無理やりにでも想いを押しつけてくるつもりだ。
ただ何も言わずに包装ごとクッキーを握り締めた。
そんなささやかな抵抗も、わたしの本心も、ぜんぶ見透かした上で朝倉くんはくすりと笑う。
「ありがと。優しいね、芽依ちゃん。これからも仲良くやってこうね」
ふわりとまた頭を撫でられる。
包丁の存在を思い出すと、不用意に払い除けることもできなかった。
悔しいけれど、ここでは、わたしの命はクッキーよりも軽いのかもしれない。
────日が暮れた。
視界を奪われた代わりに足の自由を得て、朝倉くんに手を引かれながら廊下を歩いていく。
触れられた指先が熱を帯びると、それだけで肌が粟立った。
「はい、どうぞ。慌てなくていいからね」
とん、と軽く背中を押されたかと思うと、背後でドアの閉まる音がした。
素早く目隠しを外し、鍵をかけてから用を済ませる。
こんな異常な一連の流れに慣れ始めている自分がいることに気がついて、ぞっとする。
戸惑いや抵抗がなくなっていくことが不安だった。
「…………」
目隠しを見つめたまま、ドアの前に立った。
これをつけてドアを開ければ、またあの虚無の空間へ戻ることになる。
そこにあるのは、朝倉くんの豹変に怯えながら、命の危機に晒されながら、記憶や想像の中の先生を思って泣くしかない日々だ。
『心配だからに決まってるだろ。とにかく、無事でよかった』
夢で見た先生の言葉を思い出すと、心が揺れた。
こんな場所になんてもういられない。
これ以上、朝倉くんといたくない。
いつあるとも知れない、あるとも限らない脱出の機会を待って、みすみす殺されたらたまらない。
誰かが見つけてくれる、なんて悠長に構えている余裕もない。
(こんなの、もう耐えられない)
充足感も幸せも置き去りにしたまま、朝倉くんのために生きるなんて。
それを奪う権利は、彼にはないのに。
(会いたい……)
先生に会いたい。
そんな強い思いに突き動かされ、鍵を開けるなり勢いよくドアを開けた。
壁に背を預けながらスマホをいじっていた朝倉くんが、驚いたように顔をもたげる。
「芽依────」
目隠しをしていないことに気がついた彼が言い終わらないうちに、握り締めていたそれを思いきり投げつけた。
「わ」
その隙に駆け出すと、真っ暗な家の中を探り探りで進んだ。
壁にぶつかったりしながら、勘を頼りに玄関を目指す。
「ちょっと、芽依ちゃん……!」
いつもより余裕を失った声には苛立ちが混じっていた。
捕まったら終わりだ。きっと、ただでは済まない。
(どこ、に……)
生まれたての小鹿より頼りない足取りで、適当な部屋へ一旦転がり込んだ。
いざ動き出してから、浅はかだったかもしれない、と後悔が込み上げてくる。
間取りも分からないのに飛び出したって仕方がない。
朝倉くんから遠ざかることを優先してしまった。
わたしがいま玄関側に来られていないということは、朝倉くんは玄関前で待ち構えていればいいだけ────袋小路だ。
このまま見つからずにやり過ごせても、彼を動かさないことには外へ出られない。
暗室に隠れたまま、焦りと緊張を募らせる。
もうあとには引けない。
どうにか逃げ出して、先生に会いにいかなくちゃ。
(どうしよう? どうしたら……)
張り詰めた空気の中、息を殺すと自分の速い心音が響いた。
そのときだった。
ふいに眩しい光が部屋に浮かび上がる。
びくりとしながらそちらを向くと、そこには一台のパソコン。
吸い寄せられるように近づいて息をのむ。
「な、に……これ……」
画面の光で照らし出されたのは、壁の一角を埋め尽くすほど大量の写真。
どれもわたしを盗撮したもののようだった。
デスクの上に置かれたメモには、わたしのSNSのアカウント名やIDが書き殴られている。
(ずっと監視されてた……?)
ぞっと肌が粟立ち、寒気がした。
思わずあとずさると、おののいたまま周囲を見回す。
わたしが閉じ込められていた部屋よりいくらか狭い洋室。
備えつけのクローゼットを開けてみた。
「え?」
ハンガーパイプにかけられているのはどれも女性ものの服ばかり。
ふわ、と甘いのに隙のない柔軟剤の香りが漂っている。
(どうしてこんなもの……)
朝倉くんの家族のものだろうか。
そう思ったけれど、あんな異常なパソコン周りを目にしたあとでは腑に落ちない。
生活感のない部屋だし、とにかく気味が悪くて恐ろしい。
「芽依ちゃーん、どこ?」
ふいに聞こえてきた彼の声に、心臓を鷲掴みにされる。
とっさにクローゼットを閉めた。
(どうしたらいいの)
きっと玄関前で待ち構えているのだろう彼の態度は暢気なものだった。
どうすれば、そこから動いてくれるだろう。
ふとパソコンに目をやる。
それを使って誰かに助けを求めようかとも思ったけれど、パスワードが分からなくて開けない。
(スマホがあれば連絡できるのに)
そう思ったと同時にひらめいて顔を上げる。
そうだ、それだ。
恐怖と緊張で高鳴る鼓動を落ち着けるように息をつき、意を決して口を開く。
「もう、通報したから……!」
一拍置いて、不可解そうな「え?」という声が返ってくる。
「スマホ見つけたの。それで警察に連絡した」
一世一代のはったりが通じるように、半ば祈りながらそう続ける。
しん、と肌を刺すような静寂に包まれた。
「……は?」
ややあって、思いもよらないような低めた声が返ってきた。
確かな苛立ちが感じられる。
「ねぇ、冗談でしょ。さすがに笑えないんだけど」
続けざまに声とともに微かな足音が響く。
やった、と内心ほっとした。
焦って冷静さを欠けば、慌ててわたしを捜しに動くだろうと踏んだのは正しかったみたい。
「どこにいるの? 俺が悪かったよ。怖がらせちゃって……本当ごめん」
どうやら、わたしの居場所を正確に把握できているわけじゃないようだった。
足音も気配も一直線じゃない。
(あとはうまくすれ違って玄関に向かうだけ)
暗闇の中、ドアの前を彼が通り過ぎたのが分かった。
暴れる心臓の音が聞こえてしまわないかひやひやしながら、入れ違うようにそっと部屋を出る。
朝倉くんが来た方向へ向かうと、玄関ホールへと突き当たった。
「!」
暗くてはっきり見えないけれど、確かにドアがあることが分かる。
思わず駆け寄ると取っ手を掴んだ。
だけど、がちゃがちゃと手応えに阻まれて動かない。
(鍵……!)
気が急いてしまうのをおさえられないまま、慌ただしくサムターンを回す。
再び取っ手に手をかけたものの、なぜかドアは開かなかった。
「何で……!?」
その瞬間、背後から現れた気配にふわりと包み込まれる。
爽やかなシトラスみたいな香りがほのかに漂って、心臓が止まったような気がした。
「なんてね。見ーつけた。かくれんぼはもうおしまい?」
「あ、朝倉く……」
消え入りそうな声がこぼれ落ちる。
身体が硬直して振り向くこともできない。
「俺から逃げられるとでも思った?」
勝ち誇ったように笑われ、動揺を隠せなかった。
囁く声が、耳に触れる吐息が、危機感を煽って止まない。
「ほら」
ぱち、と電気がつけられる。
そこで初めて、ドアの全貌を目の当たりにした。
「な……」
玄関のドアにはいくつものチェーンが取りつけられていた。
上から下まで、つけられるだけぜんぶつけたといった具合でがんじがらめにされている。
鋭い銀色の光が異様で、常軌を逸した彼の不気味さを物語っているようだった。
(狂ってる……)
気圧されて目眩を覚える。
そうまでして、わたしをここに閉じ込めていたいなんて。
「あとはね、これ」
回した腕を片方ほどくと、その手に持った何かを掲げる。
小さな鍵だった。
「補助錠だよ。これがなければ、いくらサムターンを回したところでドアは開かないの」
「そんな……」
愕然とすると同時に、一瞬にして何もかもを理解した。
朝倉くんは別に、わたしのはったりに騙されたわけじゃなかったんだ。
わざと玄関ホールから離れて、この逃げ道のない現実を突きつけて、分からせようとしたのだろう。
考えてみればここまで用意周到で鋭い彼が、わたしの行き当たりばったりな嘘ひとつに惑わされるわけがなかった。
スマホの管理だって徹底しているはず。
(だから、そんなに余裕なんだ……)
朝倉くんの温もりが離れていった。
「悲しいなぁ。まさか芽依ちゃんに裏切られるなんて」
「裏切ったっていうか……!」
つい振り返って反論しかけたけれど、 がっ、と勢いよく髪を掴まれて言葉が続かない。
「痛、い……っ」
「この期に及んで言い訳するの? 悪い子だね」
「待っ、て。やめて、痛い!」
そのまま強く引っ張られて、半ば引きずられるようにして廊下を進んでいく。
その手を剥がそうとしてもまったく力が敵わないし、どんな言葉も届かない。
あえなく監禁部屋へ戻されると、乱暴に放り投げるような形で解放された。
どさりと床に倒れ込む。
「う……」
身体のあちこちをまともに打ちつけた。
次々と襲ってくる痛みを嘆く間もないまま、馬乗りになった朝倉くんの手が首へ伸びてくる。
「分かってくれたと思ったんだけどなぁ」
「やだ! 離して!」
「泣きたいのは俺の方だよ。本当、悲しい。それにさ、俺を怒らせないでって言ったよね?」
ぐっと両手に力が込められ、首が絞まる。
逃れようと必死にもがいてもびくともしない。
ちゃり、と虚しく鎖の音が鳴るだけ。
痛い。嫌だ。怖い。
死にたくない。
誰か助けて────。
無意識に縋ってしまう“誰か”の幻影は、いつだって先生だ。
(先生……たすけて)
彼のことが浮かぶと、それをかき消して上書きするようにいっそう強く圧迫された。
痛みと苦しさで、それ以外の何かを考える余裕を失う。
朝倉くんの顔が涙でぼやけて見えなくなる。
「俺はただ、芽依ちゃんと幸せになりたいだけなのに……」
「う……、あ」
息ができない。
耳鳴りがして音が遠のいていく。
涙で何も見えない視野が狭まってきて、押さえつけられた身体は動かなくて、酸素を吸い込みたいのに口を開けても嗚咽が漏れるだけ────。
(……死、ぬ……)
朦朧とした頭に“死”という概念がなだれ込んできた。
本当に殺されそうなときって、右往左往する暇もないんだ。
あまりの苦しさに力が抜けて────。
そのとき、ふいに喉の奥に空気が通った。
ひんやりと冷たい風が過ぎたかと思うと、一気にむせ返る。
「……っ、けほ!」
顔が熱くて、じんじんする。
身体を丸めて咳き込むわたしを見下ろす朝倉くんは、はたと我に返った様子だった。
「あっぶなー。危うく殺しちゃうとこだった」
「は……」
反射的に怒ったものの、それをぶつけるだけの余力は残っていなかった。
呆然と放心状態で、激しい心臓の音を聞きながら呼吸を整える。
床に倒れたまま、まだ力が入らない。
(生きてる、わたし……)
ただその認識だけが自分の中で繰り返された。
実際、それくらい死の瀬戸際に立たされていたと思う。
「そんなに苦しかった? ごめんね、つい」
朝倉くんは指先についた血をぺろりと舐めた。
きっと、食い込んだ爪に肌を破られたのだ。
「でも、芽依ちゃんが悪いんだよ? 俺の気持ち全然分かってくれないから。いまだって、真っ先に誰のこと考えたの?」
「そっちだって……」
そう言い返しながら起き上がった瞬間、頬に衝撃が走った。
再び床に崩れ落ちる。
「……っ」
「まだ分かんない? きみのかわいい顔に傷つけたくないからさ、あんま殴らせないでよー」
打たれた頬がひりひり痺れるのを感じながら、唇を噛み締めて彼を見上げた。
非難するように睨めつける。
へら、と軽薄な笑みを浮かべたかと思うと、先ほどみたいに髪を掴まれて強引に起こされた。
「だからさ、そういうの」
不機嫌そうに声を低めた朝倉くんの手が、再びわたしの頬を強く打った。
「痛い! もう、やだ……っ。誰か、助けて!」
届かないと分かっていながら、窓の方に向かって叫んだ。
もう誰でもいいから、この地獄から救って。
「たすけ……っ」
ぐい、と頬を掴んで向き合わされると、その唇で口を塞がれる。
叫んでも言葉にならない。
「や、め……」
また殴られることも覚悟していただけに、予想外の行動だった。
押し返そうとした手は、今朝のように頭上で捕まってしまう。
「諦めが悪いね。まだ叫ぶ? そのたびキスで塞いであげるけど」
ふるふると慌てて首を横に振った。
わたしの気を挫くには十分すぎる脅迫だ。
「ふふ、そう……大人しくしてて」
満足気に笑った朝倉くんは立ち上がると、一度部屋を出ていった。
戻ってきた彼の手には包丁が握られている。
「……え」
おののいて声が引きつる。
彼はにっこりと微笑んで顔を傾けた。
「好きだよ、芽依ちゃん。ずーっと一緒にいたいくらい」
突きつけられた鋭利な刃とはちぐはぐな甘い言葉。
心臓が嫌な音を立てる。
「……なのに、きみは逃げ出そうとしたんだよね。このふたりきりのお城から。俺から」
ゆっくりと歩み寄ってきたのを見て、危機感が息を吹き返した。
座り込んだままとっさにあとずさる。
「ち、ちがう。ちがうの! お願い、許して! もうしないから……!」
「いまさら遅いよ。悪い子にはちゃんとお仕置きしないとね」
────ぽた、ぽた、と包丁の先から血が滴り落ちる。
「あーあ……可哀想に。痛いよね、辛いよね」
悲鳴という悲鳴を上げすぎて、もう声なんて出せない。
床にうずくまったまま、傷だらけの脚を抱えた。
少し動かしただけで、血の跡が轍のように残る。
自分で容赦なくわたしの身体中を切りつけておいて、殴っておいて、蹴っておいて、どうして憐れまれなきゃならないのだろう。
「でも、どうしよう。痛がる芽依ちゃんもかわいい。苦しそうな顔も涙も声も……俺、ぜんぶツボみたい」
うっとり頬を染める朝倉くんへの恐怖と、この状況や痛みへの理不尽さで目眩がした。
「ひ、どい……。ひどすぎる。どうして、何でわたしがこんな……」
「“ひどすぎる”? それは俺のセリフだし、罰だとしたら全然足りない。これは警告だよ」
微笑みを絶やさない彼の瞳に、狂気を滲ませた色が宿る。
「警、告……?」
「うん。言っとくけど、本気でお仕置きしようと思ったらこんなもんじゃ済まさないから。脚の骨折ってでも、腱を切ってでも、きみに分からせてあげる」
逃げられない、ということを────。
その様を想像してぞっと血の気が引いた。
冗談でも脅しでもなく、彼ならきっと本気でやってのけるだろう。
「大丈夫、俺たちなら幸せになれるよ。ね? 芽依ちゃん」
優しく頭を撫でた朝倉くんは、血まみれの包丁を手に立ち上がった。
「おやすみ。また明日ね」
ばたん、とドアが閉まって、またひとり部屋に取り残される。
頬を伝い落ちた熱い涙が腫れた頬に染みた。
怖くて、悔しくて、腹が立つのにどうしようもない。
この小さく狭い“お城”で、彼に真っ向から抗うことがいかに愚かな選択か、身をもって思い知った。
ここは朝倉くんの独壇場。
彼は王さまなんだ。
『あっぶなー。危うく殺しちゃうとこだった』
感情的になったら、つい殺されるかもしれない。
よく考えて行動しないと、彼の衝動が理性を超えない保証はない。
◇
それから数日が経った。
当てつけなのか、食事はおろか水一滴すら口にさせてもらえなくて、わたしは完全に無気力状態だった。
血の染み込んだ床に倒れて、ぼんやりと虚空を見つめる。
もう、心も身体もすり減ってぼろぼろだ。
だけど、憔悴しきっていても喉は渇くしお腹もすく。
辛い。もう嫌だ。
傷が疼くたび、不自由を嘆くたび、そんな感情が湧いては弾けた。
(でも、諦めたくない)
自分の命も、逃げ出すことも、もう一度先生に会うことも。
そのために、もっとしたたかにならなくちゃ。
────ドアの向こうから足音が近づいてきた。
渾身の力を込めて、重くだるい身体を起こすと床に座った。
脚の傷が痛んだけれど、構わず正座する。
ドアを開けた朝倉くんは意外そうに目を見張った。
「お? どうしたの」
「……ごめんなさい」
ちゃり、と手錠が鳴る。
床に手をつき、頭を下げた。
「んー……何の“ごめん”?」
彼は興がるような口調で小首を傾げた。
完全にわたしを弄んでいる。試している。
「あ、朝倉くんの気持ちを……分かろうとしなくて」
震える声で答えた。
不安で満たされた心に恐怖が巣食う。
彼の望む言葉を口にしないと、与えられた機会が無駄になってしまう。
込み上げた焦りに突き動かされた。
弾かれたように彼に寄ると、縋って見上げる。
「本当にごめんなさい……! わたしが悪かったの。これからは言うことぜんぶ聞くから……。言う通りにするから!」
懸命に言葉を紡ぐたび、わずかにでも動くたび、開いた傷から赤い血が散る。
「だから、ふたりで一緒に暮らそう……? と、十和、くん」
声が、両手が震えた。
ぎこちないながら、精一杯笑ってみせた。
わたしの揺れる双眸の中に、ゆったりと頬を緩める彼が映った。
満足気に微笑んで屈み込む。
「────やっと分かってくれたんだね」
その手が伸びてきて思わず怯んだけれど、それはわたしの頭を優しく撫でるに留まった。
「嬉しいなぁ、芽依ちゃんがそう言ってくれて」
怖くてたまらない。受け入れられるはずがない。
それでも、その眼差しから目を逸らさないようにした。
彼の求めるわたしを演じる。
それだけが唯一、助かる道だと思うから。
信用を得られれば、監視の目だって甘くなるかもしれない。
そうすれば、脱出に一歩近づける。
「幸せになろうね、ふたりで。ずっと、永遠に」
甘い言葉も笑顔も想いも、わたしを脅かす毒。
それに侵される前に、絶対に生きてここから出てやるんだ。
(……思い通りになんてさせない)
そう強く心に決めると、差し伸べられた手を取った。