湖上のイラマチオ
湖を覆う朝靄が、まるで厚手のベールのように視界を遮っていた。
九月の末、山深い神津湖は、例年よりも冷え込んでいた。
濃霧の中に浮かぶ古びたボートハウスから、ボートの船首がわずかに突き出ている。その光景は、まるで水面から何かが這い出してくる瞬間のようでもあった。
午前六時二十三分。遺体が発見されたのはその時間だった。
「口の中に……何かが詰められていたそうです」
刑事の梶尾が、小声で言った。
神津署の若手刑事で、現場経験はまだ浅い。
しかし彼の声には、尋常でないものを見た者にしか出せない、重さがあった。
「イラマチオ……ですか」
榊圭一は、唇を引き結びながら応じた。
五十に差しかかる元刑事。
今は探偵として、警察と一定の距離を保ちながら協力する立場にある。
彼はボートの縁にしゃがみ、水面に映る己の影を見つめた。
「いや……これはただの倒錯ではない。むしろ“口を封じる”という意志が感じられる」
「被害者は、神尾礼司。県議の一人息子で二十七歳。地元では有名な遊び人だったようです。女性関係のトラブルが複数……。それと……」
「それと?」
「二年前、地元の女子高生が首を吊って自殺しています。彼女、神尾のスマホに“隠し撮り”画像が残っていた」
「だが立件されなかったんだな」
「証拠不十分という建前で。実際は、圧力がかかったとも……」
榊はボートから立ち上がり、もう一隻のボートへ目を向けた。
そこには、神尾と同乗していたとされる女性の名が残されていた。
“友枝美月”。
「この女、行方は?」
「不明です。ただし、化粧ポーチが現場に残されていました。中身は濡れておらず、かなり念入りに乾いた場所に置かれていた」
「意図的な置き忘れ、か。演出か、メッセージか……」
榊は静かに唇を噛んだ。
司法解剖の結果、神尾礼司の死因は“気道閉塞による窒息死”。
喉奥から喉頭にかけて、バイブレーターが押し込まれていた。
それは工業用のもので、電源が入ったまま作動していたという。
内部には微細な傷、内出血。
そして、抵抗の形跡はなく、被害者の体内から微量のスコポラミンが検出された。
「これは、ただの性癖殺人じゃないな……」
榊はその夜、古い事件ファイルをひっくり返していた。
そして、一枚の死亡診断書に目が留まる。
外村佐和子。十年前、神尾家の別荘で“事故死”とされた家政婦。
その娘が外村莉緒。
だが、彼女も事故の数年後に消息を絶った。
だが、翌日。
「榊さん、来ましたよ」
梶尾が手にしていたのは、変死体発見の報だった。
場所は都内のビジネスホテル。
身元は“友枝美月”とされていた女。
死亡推定時刻は三日前──すなわち、神尾が殺された前日だった。
「じゃあ、神尾といた女は誰だ?」
「わかりません。だが……現場から、DNA付きの口紅が押収されました」
検査の結果、口紅に付着したDNAと、十年前に行方不明になった外村莉緒のものが一致した。
「成り代わったんだな、美月に」
「ええ。そして、神尾を誘い出し、殺した」
榊は黙って、神津湖の水面を見つめた。
「だが……なぜ“あれ”を使った?」
動機は復讐。
だが、なぜバイブを口に詰めて殺す必要があったのか。
それは、単なる嫌悪ではない、もっと深い屈辱の記憶ではないか?
数日後、榊は古い供述記録の中に、一つの一文を見つけた。
《母は“あいつに命令されて、舐めさせられた”と泣いていました》
それは、当時十七歳だった神尾礼司の行為。
まだ少年法に守られた時代。
告発はなされず、母は“階段から落ちた”。
黙っていたのではない。黙らされていたのだ。
「母の口を封じられたから、彼の口を封じた」
バイブレーターは、象徴だった。
あまりにも露骨な形をした“暴力”の代弁者。
湖上での殺人。
それは、十年越しの復讐であり、母への弔いだった。
その夜、榊のもとに一通の封筒が届いた。
差出人不明。中には一枚のSDカード。
動画だった。
神尾が、ボートの上で眠っている。
女が、静かに彼の口元にバイブを押し当てる。
電源が入る音。神尾が目を覚まし、恐怖に顔をゆがめる。
その口に、無理やり異物が差し込まれていく──やがて、動かなくなる。
画面が切り替わる。
霧の中、ボートを降りた女が一言だけ、カメラに向かって呟く。
「あなたも、黙っていてね」
そして、湖へ消えた。
榊は、その映像を梶尾にも見せず、静かに火にくべた。
「真実は、時に人を殺す」
榊はひとり言のように呟き、静かに席を立った。
湖では、今も霧が舞っている。
そしてその底には、語られなかった声が、いくつも眠っている。