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夜の繁華街。
深夜を回り、店の明かりが徐々に消えていく路のなか、仕事終わりの黒服の男は「あ゙あ゙あ゙あ゙」と、嘆きの声を漏らしながら歩いていた。
男はひと気の無い駐車場に停めてある車に乗り込むと、日課のようにハンドルに頭をもたれ掛けた。
そして、しばらくしてようやく決心したのか、スマホを取り出すと雇い主に電話をかける。
黒服の男――戸當は密偵だった。
雇い主である唯人にキャバクラ店に潜入するよう指示された戸當は、陰ながら桜子のサポートを命じられた。
他にも唯人がキャバクラ店に来られない場合、密かに桜子の状況を報告しなければならなかったのだが、これが戸當を悩ませている原因であった。
実はこの男――フレアにも雇われた二重密偵でもあった。
フレアは唐突に戸當の前に現れ、こう言い放った。
『唯人に雇われているということは、私に雇われている、ということでもあるの。優先される指示はこの私。――わかった?』
フレアは唯人の上司であり、彼女に対して忠実な部下であるのは知っている。
そのうえ、彼女の持つ圧を前にし、戸當の拒否権はもはや無いに等しかった。
『それから私が訪れていることは唯人に言う必要はないわ、お店にも言ってあるし。――そうね、私が桜子ちゃんの客として来ている時は、私のことは40代男性が相手していると報告すればいいわ』
そう言って人の悪い笑みを浮かべるフレアであった。
――唯人様……すみません。
「――今回も例の太客男性が桜子にたくさんの貢物をされました。それ以外は恙なく――。以上がご報告でございます」
『ご苦労様です』
通話が切れると、脱力したように戸當はシートに深くもたれ掛かった。
フレアが身の保証はすると約束してくれたとはいえ、いつもながら手に異常な程の汗が滲み出る。
「ああ……まずいことになったな」
戸當はいつになったらこの二重密偵の日々から解放されるのだろう――と、ため息をついた。
一方、その頃の唯人は――。
会社の自室にて戸當から報告を聞き終えると、その内容に嫉妬と苛立ちを感じていた。
万が一の為、お店に黒服に扮した見張りをつけていた。
桜子は昏睡状態の後遺症のせいで眠りにつくのが異常に早く、一度眠りに入ってしまったらなかなか目を覚まさない。
短時間勤務とはいえ危険である。
それに――桜子には太客がついているようだった。
40代の渋い男性――桜子好みの異性である。
引き続き周囲の監視を怠らないようにして下さい、と電話を切ると、
「くそ……!」
思わず口汚い言葉が出た。
桜子の私物は増えていった。
例の40代男性からのプレゼントだ。
中には下着類までプレゼントされているのを不本意に目撃してしまい、唯人の胸中は穏やかではいられなかった。
桜子が誰を好きになっても唯人が口出しする権利はない。
それでも実際そんな気配がすれば居ても立っても居られず、腑が煮えかえる思いであった。
一体相手の男はどんな人物だ――と、密偵に調べさせようかと思い、スマホに触れようとしたが、思い直して伸ばした手を引っ込めた。
「かりそめ夫婦だぞ……」
そう自嘲気味に自分に言い聞かせると、再び仕事に専念したのだった。
*
――SOFAコーポレーション。
元DIUコーポレーションだった会社は、事件後、ダイレクト型仮想世界のハードウェアベンダーであるSOFAコーポレーションに買収された。
フレアがまず買収してすぐに行ったのは内装を徹底的に改装することであった。
その理由が――
『この私のいる空間は常に美しく洗練されていなければならない』
である。
彼女の言葉通り、以前の金メッキで装飾された悪趣味な趣きが見当たらないほど、SOFAコーポレーションは近未来的な作りに生まれ変わった。
その会長であるフレアが歩いているところを九条は呼び止めた。
「会長」
「何かしら?」
フレアは微笑をたたえて振り向く。
九条が予想通り来ることを見越していたかのようだ。
「今日の商談に来られる吾妻社長の件についてなのですが、もう一度考え直して頂きませんか?」
九条が乗り気でないのはフレアにも分かっていた。
成り上がりの父親の強引な手法と同じく、娘の方も強引な手法で上りつめている若き社長で、特に父親の方は悪い噂が絶えない会社だ。
本来交渉相手になりはしないのだが、フレアの諸事情で商談の場を設けることになった。
しかも相手をするのは九条なのだがら本人が不服に思うのは当然だろう。
そのうえ――
「名指しで唯人にも同席させてほしいだなんて……。しかも、それをお受けになるとは……」
相手側の吾妻が唯人と知り合いらしく、ぜひ彼にも会いたいと申し出た。
唯人の黒歴史時代に知り合った女性だということは、すでにフレアや九条の耳に入っている。
唯人にとっては消し去りたい過去でしょうね、とフレアは同情の欠片など見せず、
「いいじゃない、積もる話もあるでしょうし。唯人にも同席してもらいましょ」
「……会長、わざわざ唯人を同席させる理由はないでしょう。それに――」
九条はどこか咎めるよう口調になると、
「桜子さんの件に関してもお遊びが過ぎるのでは?もう彼女に厄介なことに巻き込まれるような状況を作らないで下さい」
フレアは意外そうに片眉を上げる。
「あら?私は親切心でやっているのよ、桜子ちゃんの望みでもあったんだし」
九条は釘を打っても無駄だと知りため息をつくと、
「――そうですか。今回の商談、仕事ですので私情は一切持ち込みませんよ」
「当然よ。後は任せたわ」
その後、会議室にて商談が始まった。
相手の吾妻は20代半ばの美しい女性だった。
起業家の父親の元でノウハウを磨いていたのか、自社と契約を結ぶメリットの多さを提示し、九条でも魅入られる営業トークを展開させた。
すぐに断るには惜しい内容だった。
九条は仕事に私情を持ち込まないと言っただけに、その場で断る理由がないため、後日また話し合って決める事となった。
商談が終わり、皆が会議室から出ようとするなか、吾妻は唯人に親しみを込めて呼び止めた。
「奇遇ね、唯人。まさかこうして再会できるなんて」
九条もその様子を尻目にその場を後にした。
「あなたたちは先に戻っていて」
吾妻は部下にそう指示すると、会議室には吾妻と唯人の2人だけとなった。
「急にいなくなったから心配したわ。でも、こうしてまた出会えたんだもの……ふふ、運命みたいだわね。まさかあなたがあの医療機器メーカー『Sterne』社の御曹司だったなんて驚いちゃったわ」
吾妻はペラペラ浮かれて話している最中、当の唯人は吾妻という人間の記憶がなかったが、若き日の一夜限りで遊んだ女だと察し、素知らぬ顔でシラを切った。
「……申し訳ありません。どこかでお会いしましたか?」
しかし吾妻は気を悪くするどころか、唯人にすり寄って囁くように、
「忘れたっていうんならベットで思い出させてあげるわ。今晩また一緒に――」
「次も仕事が控えてありますので、私はこれで――」
「唯人!」
呼び止める女を無視して唯人は部屋から出ていった。
吾妻の香水の匂いが鼻腔にまだ残っていることに不快感を感じ、それを払うように足の運びが自然と早くなる。
――フレアの差し金か!相変わらず嗜虐的な女だ……。
次から次へと唯人の急所を突くかの如く問題を吹っかけてくるフレアに、唯人の怒りゲージはMAXを越えようとしていた。
いつの間にかエレベーター前に着くと九条が待っていた。
そのままお互い黙ったまま一緒に乗り、九条は扉の正面を向いたまま口を開く。
「……次回の商談なんだが、もし立ち会いたくなければ俺から会長に……」
「気遣いは無用です。仕事に私情を持ち込むことはしませんので」
淡々と答える唯人に九条は苦笑した。
これで周囲に人が居れば唯人はまだ抑制できたのだろうが、九条と2人きりだとどうしても張り詰めた空気を纏う。
未だ唯人は九条との間に一線を引いていた。
唯人にとっては仇のような会社に勤め、もう二度と会う事はないと思っていた人物と一緒に仕事することになったのだから、彼からしたらたまったものじゃないだろう。
先に唯人が降りるフロアにエレベーターが止まり、無言で降りる唯人。
全ては桜子のためか――と、唯人の背中を見つめながら九条は思った。
一方――部屋に取り残された吾妻は震えていた。
彼女はいつだって欲しいものは手に入れてきた。
物でも男でも手に入れられないものなどないと思っていた。
昔、信じられないほど美しい少年がいた。
一夜の火遊びだったが吾妻は少年を手に入れようと思った――だが、少年は急に消息不明になってしまった。
一度は諦めた吾妻だったが、突如、少年だった男は起業界に現れた。
大企業の重鎮となり、美しい魅力的な大人の男性となって――。
商談もそうだが、彼を物にしたい――!と、吾妻の野心に再び火がついた。
コン、コン。
ノック音がした。
視線を向けると、唯人の義理の姉、会長のフレアが扉にもたれ掛かるように立っていた。
「今回の商談はうまくいきそうかしら?ミス・アズマ」
吾妻はにこりと笑う。
「これから実りあるものにするつもりです。お姉様。今回はこのような場を設けさせて頂きありがとうございます」
「それはあなたの無茶振りを遂行してくれた秘書に言うのね。文字通り体を張って交渉の場を得てきたんだから」
フレアはどこか含みのある言葉で言うが、吾妻はおくびにも出さず、
「彼女のやる気が出るよう誠心誠意厳しく指導した甲斐がありました。上の人間が下の人間を育てるには必要なことですから」
「その誠心誠意も度が過ぎれば脅しと捉える者もいるでしょうね」
「ふふ、手厳しいですね。お姉様とは今後とも仲良く出来たら嬉しい限りです」
「ええ、もちろん。けど――唯人の事は諦めた方がいいわね」
「え?」
「彼、もう結婚しているの」
「……それは、おめでとうございます」
にこりと笑う吾妻だっがが、瞳には不気味な光を宿らせていた。
フレアはやっぱりね――と思う。
彼女にとって唯人が結婚していようがしてまいが、欲しいものは略奪してでも手に入れる人種なのだろうから。
「今日はお話できて光栄でした。また近々お会いできることを楽しみにしています」
一礼して会議室から出る吾妻。
フレアはその吾妻の消えていった扉を見ながら、
「野心のある子は好きだけど……」
――タイプじゃないわね、と心の中でつぶやいたのだった。
最後までお読みくださりありがとうございました(o^^o)




