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目が覚めるとまた見知らぬ天井だった。
桜子の実家は古民家だ。
空き家になってから、さらに傷んでいるはずの天井のはずだが、真新しい白を基調とした天井だった。
服もいつも愛用している高校の頃に着ていたジャージではなく、肌触りのいいスウェットだった。
桜子は昨日の夜の記憶を辿った。
唯人と別れた後の記憶が全くない。
まさか、と思いながらベットから出て部屋の扉を開けて廊下に出ると、物音がする部屋の扉をおそるおそる開ける。
広いリビングだった。
キッチンで料理をしているスーツ姿の唯人が桜子に気付き、驚いた声を上げる。
「桜子さん!起き上がって大丈夫ですか?まだ横になっていないと――」
「あの、一体どうして私は――」
ここにいるんですか、と言い終える前に、唯人は困惑する桜子を椅子に座るよう促しながら説明した。
「覚えていませんか?あれから急に桜子さんが眠ってしまって――。それで、俺の自宅にお連れしたんです。着替えは家事手伝いの女性がしてくれたので安心して下さい」
――なんてタイミングの悪い……。
桜子は昏睡状態の後遺症からか、眠気がくるとすぐに熟睡モードで眠れる。
そのうえ一度寝入ったら、叩いたり、ゆすったりしてもなかなか起きない。
「すみません、すぐにお暇します。ご迷惑おかけしてすみませんでした」
そう言って立ち上がった桜子を唯人が制す。
「待って下さい。そもそも桜子さんは昨夜どこに帰ろうとしたのですか?」
「それは……一度実家に戻ろうかと……」
「消滅集落になった家にですか?」
以前住んでいたアパートはとっくに契約が切れ、別の住人がすでに住んでいると聞いた。
桜子は今は空き家になってしまった実家に帰ろうとしたが、なぜ唯人がそれを知っているのだろう――?
「桜子さん、ご実家に戻られても雇用先があるのですか?体調も万全じゃありませんし、無理をすれば元も子もないはずです」
「それは……」
「桜子さんが昏睡状態になった責任は俺にあります。力にならせて下さい」
「そういうわけには……」
冗談ではないと桜子は思った。
ただでさえプロポーズを断ったというのに、これ以上関わりたくはなかった。
そんな桜子の頑なな態度に唯人は小さくはあ、とため息をつき、目を閉じ黙り込んだ。
そして瞼を開けると、唯人は足を組んでどこか挑発的に、ある1つの提案を持ち掛けた。
「桜子さん、俺たちらしくゲームをしませんか?」
「ゲーム?」
「ええ。かりそめ夫婦ゲーム、というのはどうでしょう?――リミットは3年」
そう言って、すでにこういう流れを予想していたのだろうか、仕事用の鞄から何かの用紙を取り出すと、テーブルの上に2枚の用紙を置いた。
婚姻届と離婚届だった。
そして彼は言った。
「婚姻届を提出してからゲームスタートです。3年間、一緒に住んでみてやっぱり俺のことが気に食わないのなら、桜子さんの都合のいいタイミングで離婚届を提出して下さって結構です。慰謝料もお支払いします」
「はい?」
突拍子のない提案に目が点になる桜子だったが、唯人は構わず続けて言った。
「けれど、もし3年の間に俺に惚れたら、その時は――桜子さんの全てを下さい」
「――な?!」
「籍を入れたからといって行動の制限なんてしません。ゲーム期間中、好きな人ができたらその方とお付き合いしても問題はありません。――もちろん俺から触れるなんてことは一切致しませんからご安心下さい」
「そんなバカな……」
結婚という人生の一大イベントをゲームにするなんて馬鹿げた提案であるし、そのうえ浮気も許容し、夫婦の営みを求めないと言ったのだ。
文字通り、かりそめ夫婦である。
「俺にはなぜ桜子さんがこの提案を躊躇うのか理解できません」
「籍を入れるってそんな簡単なことじゃないでしょう?」
「そうですか?俺にとってはただの形式上の紙切れです。税制上のメリットしか感じられません。相続に関しても公正証書遺言の方が効力が大きいのですよ?――それにご存知の通り、俺は金銭に余裕のある人間です。離婚用紙だって桜子さんのタイミングで提出していいと言っているのに」
この自信に満ち溢れたところが“彼”らしいと思った。
目の前の”彼”とはゲームで長いこと一緒に行動していたから、どんな人物かは分かっているつもりである。
合理的で約束はきっちり守るタイプの人間だ。
しかしーー
「私たちだけの問題だけじゃないし、月乃さんのご両親の許可も……」
「俺は勘当され絶縁した身なので俺の身内が関与することはありません。その点の心配はいりません」
「でも……」
なおも言い募る桜子に、唯人はため息をつき、「そもそもーー」と、あらぬ方向を見ながら切り出した。
「そもそも人の求婚という人生の一大決心を受け入れておいて、なかったことにするのですか?ーー桜子さんって、そんな人の心を弄ぶような軽薄な方だったのですね」
ぴく。
こめかみに痙攣が走った。
小さな約束でも必ず守れ、と両親に教えられ育った桜子には“軽薄“――という言葉は聞き捨てならなかった。
そして思わず口をついて出る。
「ーー分かりました。そのゲーム受けて立ちます」
「交渉成立ですね」
挑むような顔で了承する桜子とは反対に、唯人は文句のつけようのない微笑みを浮かべたのであった。
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