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突き刺すような冷たい風が耳たぶに痛みを与える。
桜子は外灯の光を頼りに出口を目指していた。
無論、こんな時間に退院なんてあり得ない。
無理を言って退院させてもらい、誰だか分からないようマスクや帽子で顔を隠している。
こんな夜中だとかなり怪しいが、とにかく唯人に会いたくなかった。
昏睡状態になった原因は唯人自身の意図しないところで起きたことだ。
彼を責める気持ちはないが、もう二度と会うつもりはなかった。
そのうえこんな再会をしてしまうなんてーー。
今更ゲームの約束どころではない。
ふと指先が目元を触れていた。
不安になると父親の形見である眼鏡に触れようとする癖。
しかし、すでにお決まりの定位置に眼鏡はない。
昏睡状態になる数日前に、壊れて濁流に流されてしまったからだ。
仕方なく心細さを振り切るように、大股で中庭を突っ切ろうとした時だった。
「桜子さん」
突然後ろから声が掛かり、びくりと身体を飛び上がった。
後ろを振り返ると、もう会うことはないと思っていた唯人が立っていた。
思わず2歩、3歩と後退りする桜子だったが、唯人が何かに気づき、慌てて声を上げる。
「後ろ!危ないです!」
「え?」
ぐにょ。
足下を見ると犬のフンであった。
言葉を失っている桜子に、唯人は慌てて謝罪した。
「す、すみません。俺が驚かせてしまってせいで……」
なぜいつも自分にとって間の悪い場面を彼に見られるのだろうーー。
言葉を失っている桜子に、唯人は申し訳なさそうに話す。
「桜子さん、まだ退院するのは早過ぎるのでは?足元がふらついているみたいですし……あれからずっと心配していました」
「あ、えっと、おかげさまで、だいぶ良くなりました。もう大丈夫です。以前はほんとご迷惑をお掛けしてすみませんでした」
「いえ!目覚めたばかりの病人に食べ物を渡す人間が悪いんです。桜子さんのせいじゃないです!」
そして会話が途切れた。
しばらく沈黙が続くと、唯人の方から口を開いた。
「……桜子さん、黙って行かれるつもりだったのですね。……今回の経緯について、もうお聞きになりましたよね?」
「……はい」
当時、唯人はまだ小学生だったにも関わらず、あのユーワールドのデータベースを構築した立役者であった。
しかし、同じファンタジーゲームを制作していた前DIUコーポレーションは、九条らの会社に対し訴えた。
“これは我々が作ったものだ”――と。
相手は古巣の大手会社というのもあり、まだ新芽の会社である九条たちの状況は次第に不利になった。
そんな時、吸収合併の話が持ち掛けられた。
九条はこれを受け入れた。
このまま全て奪われるくらいなら、皆で作り上げたユーワールドに少しでも携われるのなら――と。
しかし、唯人だけは違った。
“なぜ承諾したー!“
唯人の怒りは九条らに向かった。
一悶着を起こし、その後、唯人の素行は荒れていった。
賭博、暴力沙汰、不特定多数との淫行を繰り返す生活を送ることになる。
その時期に事件の犯人であるストーカー女に出会った。
女は唯人の部屋にある大切に保管されていた箱に惹かれると、何かのデータであった。
データの情報を抜き取り、ハッカーの仲間に調べさせると、ユーワールドの裏コードだと知る。
ちょうど引きこもり生活を送るようになった唯人と、ユーワールドの発売がほぼ同時であった。
女はユーワールドにいるだろう唯人を追いかけ、盗んだ裏コードを使って唯人に近づき、彼に近づいた桜子をゲーム世界だけには留まらず、現実世界にも危害を加えたーーというわけだ。
「俺のせいで桜子さんに多大なご迷惑をおかけしたのは知っています。――そのうえでもう一度言わせて下さい。俺と結婚してくれませんか?」
これで三度目のプロポーズを受けた桜子。
一度目はお互いゲームで性別が逆転した状態でーー。
二度目は現実世界で目覚めてすぐ、初対面の人物に告白をされるという状態でーー。
そして三度目は、現実世界でようやくお互い認識し合った状態でーー。
ゲームで求婚を受け入れた――けれど――。
「……すみません。こういう状況になって、戸惑うばかりで……。お返事に応えることはできません。ごめんなさい」
桜子は深く腰を曲げてプロポーズを断った。
約束を破るのは不本意だが、事が事なだけにとても受け入れることができなかった。
この状況に桜子は何だかひどい頭痛と眠気が襲いだしてきた。
再度プロポーズを断られた唯人は、長いまつ毛を伏せて自嘲して言った。
「……そうですよね。すみません、俺のせいでこんな事になったのだから……」
「そんな、月乃さんのせいじゃないですよ。どうか気に留めないで下さい。では――」
桜子は再び深い一礼をして歩き出した。
今度こそもう二度と会うことはないだろう。
――これで良かったんだ。
桜子はこれまでの彼との思い出を振り切るように歩き出した。
一歩、一歩と、まるでこれまでの思い出の重みが乗っているかのように重かった。
比喩ではなく、本当に重い――!
そして次の瞬間――
足元がぐらつき、そのまま意識を手放したのであった。
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