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桜子が勤務してから3ヶ月ほどが経った。
「むほほほ。おじさんが貢いであげるわね〜」
「……三久、セクハラだぞ」
桜子の手をさすりながら冗談めかす三久に悠二が突っ込みを入れる。
フレアや唯人ほどではないが、三久や悠二、九条も度々お店に顔を出していた。
「皆さん、お忙しいところ本日も来て頂きありがとうございます」
「んな畏まらなくていいって。武人のような桜ちゃんがキャバ嬢として働くなんて奇跡に近いからな。冷やかしのようなものだから気にしないでくれ」
悠二が笑いながら言う横で、しかし、と九条が口を挟む。
「3ヶ月も過ぎて進展がないようならお仕事について考え直してもいいのでは?」
どこか嗜めている口調だった。
九条は最初から桜子がキャバ嬢になるのを快く思っていなかったが、唯人同様、何も言わなかった。
しかしここにきて直接的に言われ、桜子は言葉を詰まらせる。
見かねた悠二が宥めるように、
「一宇、固いこと言うなよ。いいじゃねぇか。桜子ちゃんの人生なんだ、気が済むまでやってみればいいだろ」
「だねぇ。桜っちは一度決めたら最後までやるタイプなんだよぉ〜。だから昔働いていたブラック企業でもやってこられたんだろうしさ〜」
確かに以前の上司やその太鼓持ちたちは、桜子に自分たちの仕事を押し付けてキャバクラに遊びに行っていたので、毎日深夜まで残業をするという社畜の日々を送っていた。
意地でも辞めてなるものかと思っていたが、自分でも気付かぬうちに今もそんな心境になってしまっているのだろうか――?
九条は困ったように笑うと、
「反骨精神も大事ですが、発揮する場所を間違えてはいけませんよ」
「はい……」
「そうそう。もう二度とアホ上司がいるような場所で頑張っちゃダメだからね、桜っち」
うん、と桜子が苦笑した時だった。
ソファで仕切られている隣の卓から1人の男が桜子を見て、
「お前……ひょっとして花ノ路か?」
桜子は自分を旧姓で呼んだ男を見ると、
「あ……」
男は重西という、かつて桜子が勤めていたブラック企業の先輩だった。
――嘘でしょ……。
この時、桜子は重西たちがいる卓に座っている人たちにようやく気付いた。
そして青ざめる。
「ん?どうしたぁ、重西?」
酔って舌が回っていない声で男に問いかける男――。
忘れもしない――。
桜子の元上司とその太鼓持ちの先輩たちであった。
――か……か、か、か課長!!……と、その太鼓持ちたち!!
桜子は一瞬でこの場から消えることができるなら消えてしまいたかった。
彼らがキャバクラに遊びにいくため、桜子は社畜のように働いていたというのに、今は自分がキャバ嬢となって彼らとキャバクラ店に居合わせているなんて、なんという運命のいたずらなのだろうか。
あれから4年も経ち、まさかこの場で再会するとは――!
「課長!あの花ノ路ですよ!」
「あのって?――花ノ路……ああ!あの花ノ路か!」
亞房は腰を浮かせて桜子を凝視した。
「お前――!キャバ嬢になってたのか?ははははは!全然見た目が違うから分からんかったよ」
「ほんとだ!嘘だろ??」
「あのオタク野郎眼鏡がこんな変身するなんて、女ってやっぱこえーな」
亞房や太鼓持ちたちも驚きの声を上げ、重西は桜子たちの卓に座り自慢そうに言った。
「いや〜。どっかで聞いた声に“桜子”って呼ばれてたんで、もしかしたらって思ったんですよ。てか、お兄さんたちカッコいいっすね」
そう言われた悠二は素っ気なく「どうも」と返し、九条は完全に無言である。
三久に至ってはあからさまに迷惑だという顔をしていたが、すでに酔って気が大きくなっている亞房らはお構いなしであった。
亞房も身を乗り出すように桜子に近寄ると、急に真面目くさった顔で桜子が会社を辞めてから、どれだけ大変な目にあったのかを愚痴り出した。
「まったくお前が会社を辞めてから災難続きだ。新しく人を雇ってもすぐに辞めていく根性なしばかりでな、今の若い奴らは辛抱が足りない連中ばかりだ。おかげで俺の仕事は増えるばかりだよ。――お前、もう一度戻って来ないか?」
桜子は絶句した。
事件が起きる前――唯人のストーカーから桜子の会社宛に脅迫状が届き、亞房は大事になる前に桜子に会社を辞めるよう迫ったあげく、警察に通報する事すら許さなかった。
「……いえ、せっかくなのですが……」
桜子がこめかみをぴくぴくさせながら穏便に断る横で、三久や悠二は思いっきり不穏な空気を出し、九条に至っては呆れ果てて首を振っていた。
そんな彼らの様子など気付いていないのか、重西は陽気な口調で、
「課長、こっちで働いた方が楽して儲かるってのに、そりゃ戻るわけないでしょーよ。めでたくキャバ嬢となった元部下にボトル入れてやりましょーよ」
そりゃいい!と、盛り上がり始める亞房とその部下たち。
九条は我慢の限界に達したのか黒服を呼び、VIP席に移動できるよう頼むと、桜子たちはVIP席へ移動し始めた。
その背に太鼓持ちたちがノリが悪いなどと揶揄するなか、後ろから桜子の手を掴んだ重西は、また来てやるからな、と意味ありげに笑う様に、桜子は正直ぞっとしたのだった。
*
翌日の朝。
朝の食事時である。
(仮)夫である唯人は桜子の顔を見て心配そうに訊ねてきた。
「桜子さん、もしや疲れていませんか?」
桜子は目の下にクマでも出来ているのかと思い、顔に触れながら、
「え?そんな顔に出てます?」
「いえ、お顔には出ていませんが、少し、お疲れのご様子だったので……」
昨夜の元上司たちが原因なのは分かっていた。
珍しく帰ってからもすぐには眠れず、初めて唯人の帰りを出迎えることができた。
桜子が社畜だった時よりも遅い、深夜3時過ぎの帰宅である。
朝6時にはすでに起きているのだから、ほとんど寝てないんじゃないかと逆に桜子の方が心配になった。
「少し飲み過ぎただけなので平気ですよ」
唯人だって毎日頑張っているのだ。
こんなことで自分が弱音を吐くわけにはいかない。
唯人の方はというと、密偵の報告からすでに昨夜の出来事を知っていた。
しかし――
「もし、お辛いようでしたら無理をなさらないで下さいね」
この言葉を言うのが精一杯だった。
“桜子の意思を尊重する――“
それが唯人にとって桜子と接するうえで最も重要な事だと肝に銘じていた。
21時過ぎ――。
退勤時間まで1時間を切ると、桜子はひとまずほっとした。
元同僚たちがさっそく来るのではないかと思ったが、今日のところは訪れる気配はなかった。
しかし、意外な人物が訪れた。
指名が入って卓に向かうと九条がいた。
「九条さん!珍しいですね、お一人で来られるなんて」
「少し、昨日の事が気になって……」
実は今日フレアが遊びに行くはずが予定が入り、唯人も仕事で行けそうにない様子だったので、九条は昨日の事もあって店に寄る事にしたのだ。
「昨日の方たちは……来られていないようで安心しました」
「ご心配お掛けして申し訳ありません」
「いいえ。こちらが勝手に気になっただけなので。――それより、もう退勤の時間ですよね。よろしければアフターでどこか寄り道でもしませんか?」
「え?あ、はい」
“アフター“はお店の外で引き続きお客と一緒に過ごす事を意味する。
基本アフターをするつもりがない桜子だったが、友人とも恩人とも言える九条が相手だったので、2つ返事で返すと、九条は少し話したい相手がいるから先に店の外で待っていてほしいと言う。
一体、誰と?――と、桜子は不思議に思いながらも頷くと、1人、店の入り口付近で九条を待つ事となった。
キャバクラ店が並ぶ通りなので、周囲には水商売の女性やその客とで賑わっている。
今日に限ってまだ10代であろう、若くて活気のある子たちが多かった。
今年27歳になった桜子は、場違いな気がして急に居た堪れなくなった。
――ほんと何やってるんだろう、私……。
その時だった。
「よう。花ノ路」
重西だった。
「今から店に行こうと思ってたんだよ。何だよ、もう帰るのか?」
「ええ」
「全く嫌になるよ。今まで別の店に行ってたんだが金にがめつい女ばっかでさ。やっぱ女はお前のように従順な真面目な奴に限るよ。なあ?」
「すみません。今、人を待っているので」
「水くせぇな。昔よく面倒みてやっただろぉ?」
酔っているのか、妙に絡んでくる重西に桜子は店に戻ろうとしたが、強引に肩を引き寄せられる。
「――!」
「人を待ってるだなんてどうせ嘘だろ。仕切り直しに呑みに行くぞ」
「やめて下さい――」
強引に連れて行かれそうになった時、
「彼女を離してくれませんか?」
九条の低い声が後ろから聞こえた。
重西は後ろを振り返ると、風格のある九条を前にしてたじろぐ。
九条はその隙に桜子を自身の方へ引き寄せては庇うように前に出た。
「すでに彼女は私との予定があります。今日はもうお引き取り下さい」
重西は一気に酔いが覚めたのか、逃げるようにその場から去って行った。
その後ろ姿を見ながら九条は1つ息をつくと、
「すみません。私が外で待たせたばかりに……」
「いいえ。助けて頂きありがとうございます」
桜子がお礼を言った直後くすりと笑ったので、九条は不思議そうに首を傾げた。
「いえ、何だか懐かしくって。以前もこんな風に九条さんに助けてもらったな、と」
「……ああ、そう言えばそうでしたね。なら、この後ラーメン屋にでも行きましょうか?本当は喫茶店にでもお誘いしようかと思っていたのですが」
「いえ、ラーメンの方が好きです」
同時に笑い合う2人。
行きましょう、と歩き出した九条は、今日、自分が訪れた本当の理由を話し始めた。
「実は今日、桜子さんを説得するために来たんです。案の定、厄介な人間が現れましたからね。これは兆しでしょう。そろそろこの仕事を辞めるべきだと思います」
「う……」
桜子は、九条の言う言葉を素直に受け入れてしまう自分がいると自覚していた。
「ずるいです、九条さん。あんな風に助けられた後に説得されたら、“はい“と頷くしかないじゃないですか」
「ふふふ。それは良かった」
いつも辛い時やピンチの時に駆けつけてくれた九条――。
彼の傍にいると自然と心安らぐ桜子だった。
そんな談笑を交えながら歩く2人の後ろ姿を、離れた所で見つめていた唯人の存在に桜子と九条は知る由もなかった。
最後までお読み下さりありがとうございました⭐︎




