16.事実婚の先駆者
夏の夜が白み始める頃、明かりの消えた部屋で俺は、ベッドからゆっくりと抜け出た。
わずかに布団から覗く人影に向かって、俺は静かに告げる。
「もう夜明けだ。約束通り、一晩限り。
これでお前は、今まで通りの人生を生きていけるんだな?」
布団の中から、満足気な声が返ってくる。
「ええ……これがカゲツさんの愛なのね。
なんて甘美な時間だったのかしら。
この思い出があれば、もう私は大丈夫だと思うわ」
「そうか……じゃあ、俺は部屋に戻る」
「――待って! そのままだと、匂いでミヅキにばれちゃう」
パチンという音と共に、香月の身体を一陣の風が吹き抜けていった。
「……今のはなんだ?」
クスリという笑みが聞こえた。
「ふふ、≪浄化≫の魔導術式よ。
入浴するほどさっぱりとはしないけど、汚れは匂いごと綺麗に消せるの――上級者ならね。
旅をする時に覚えておくと、とっても便利よ?」
俺は頭をかきながら応える。
「魔導術式じゃなぁ。俺には使えん。
だがいいアイデアをもらった。
こんど新しい星霊魔術を開発する時のネタにしよう」
俺はそのまま、振り返ることなくアイリスの部屋から立ち去った。
****
自分の客間に戻ると、部屋は静まり返っていた。
ベッドでは美月が大人しく布団に入っている。
――あーあ、ちゃんと寝とけって言った俺が、寝不足確定か。
あくびを噛み殺しながら美月の横に滑り込み、うっすらと見えるその寝顔を見つめた。
……不思議な気分だ。
アイリスを相手にしてる時は、虚しさだけが心を支配していた。
なのに今は、こうしてぼんやりと見える美月の安らかな寝顔を見てるだけで、俺の心が満たされて行く。
……美月は『本当の愛』が欲しいとか言っていたな。ならば今夜、俺がアイリスと交わした愛は、間違いなく『偽物の愛』だ。
そこに心などこもっていなかった。優しく愛する『ふり』をしていただけの、欺瞞の愛だ。
あんな行為、エレインとの思い出すら穢してしまいそうだった。
そんな偽物の愛を交わした俺が、こうして本当の愛を追い求める美月の横に居ていいのだろうか。
……罪悪感、そんなものは覚悟の上だ。
これは俺の罪。黙って背負っていけばいい。美月に知られることがなければ、それでいい。
何も知らなければ、こいつは純粋な愛を訴え続けてくるだろう。悲しむことも知らず。ただ無垢なままに。
あとはその想いに、俺がきちんと応えてやれるか、それだけを考えていけばいいんだ。
強い疲労感を感じた俺は、静かに暗闇に意識を沈ませた。
****
「香月さん! 朝だよ?!」
大きな声で目が覚め、ゆっくりと目を開く。
「ん……悪い美月、今は何時だ?」
「もう八時前! そろそろご飯を食べないと、集合時間に間に合わないよ!」
俺は重たい身体を起こして、あくびを噛み殺した。
さっさと顔を洗い、手早く冷めきった朝食を胃に流し込んでいく。
「――よし、食い終わった。俺の服は届いてるはずだよな?」
美月がきょとんとして俺を見てきた。
「何も聞いてないよ? 私の服も来てないし。
まぁこの巫女のローブがあれば、困らないけどね!」
となると、移動用の荷物に紛れ込ませてるのか。
少しみっともないが、このTシャツにスラックスで集合するか。
「よし、じゃあ集合場所へ移動するぞ」
「はーい!」
俺は、今日も元気一杯の美月の肩を抱きながら、昨日決めた集合場所へと足を向けた。
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集合場所の王宮広場には、一台の馬車が待っていた。
馬車の前には宮廷魔導士のハーゲン、そしてアイリスの姿。
昨晩の取り乱しようが夢だったかと思うほど、アイリスは穏やかに優しく微笑んでいた。
ハーゲンが俺たちを見て告げる。
「戦場まで数日かかります。
着替えに鎧を持ち込んであるので、途中でそちらに着替えるといいでしょう」
「ああ、予想はしていた。準備を急がせて悪かったな」
ハーゲンがニヤリと微笑んだ。
「なに、国家存亡の危機ですからな。
このくらいドタバタと慌ただしい方が、それらしいでしょう。
――さぁ、馬車に乗りこんでください」
俺たちは左右から馬車に乗りこんでいく。
四人乗りの馬車で、俺の隣に美月、前にはアイリスが座った。
使用人が扉を閉め、ハーゲンが合図をすると、馬車はすぐに走り出した。
街中を走っていく馬車から外を眺めていると、ハーゲンが俺に告げる。
「一晩経ちましたし、事実婚の決心は付きましたかな?」
俺は疲れをため息に乗せて吐き出した。
「昨日の今日で、すぐに心が決まるわけが無いだろう。
それに、いくら口では『周囲で認められている』と言われても、実際にその姿を見ないことには信用できん。
後から石を投げつけられるとわかっても、手遅れだからな」
ハーゲンが楽しそうに笑って告げる。
「ほっほっほ! 心配性ですなぁ、カゲツ殿は。
それなら一番わかりやすい例がほら、すぐそばにおりますよ?」
俺は目を瞬かせてハーゲンを見つめた。
「……この馬車には、俺たちしか居ないが?」
ハーゲンが実に楽しそうな笑みを作って告げる。
「ほっほっほ! ですから、私がその実例ですよ!
我が家は伯爵家でしたが、私の妻は平民出身でしてな。
妻が十三歳の時に、熱烈なアタックを受けて、私が陥落したのですよ」
「……あんた、『貴族社会は規律が厳しいから話が別だ』、と言わなかったか?」
ハーゲンが何度も頷いた。
「ええ、そりゃあもう、大反対されました。
平民の妻を娶ること自体が大問題。
その上に事実婚だなんて、我が家の沽券にかかわりますからな。
――ですが、妻はしたたかでした。
私も可能な限り守りましたが、妻はそれ以上に、笑顔ですべての障害を跳ね除けてみせた。
当時の私は三十を超えていました。やれ少女愛好だなんだと、陰で言われたものですよ」
俺は呆然と、白いひげに包まれた老人の笑顔を見つめていた。
「あんた、そんな苦労をさせることに、ためらいはなかったのか?」
「もちろん、悩みましたとも。妻ともなんども話し合いました。
ですが妻たち平民に取って、十三歳は事実婚が許される年齢。
ならば自分がそれをしない理由なんてないと、言い切られましてな。
『愛する男と生きる人生が、楽しくないわけが無いじゃない』と、啖呵まで切られました。
あれで私も、妻の心意気に惚れたのでしょうな。
それまでは妾の道も考えていましたが、きちんと正妻として迎えました。
妻は子供にも恵まれ、今では孫たちからも慕われておりますよ」
ハーゲンが楽しそうに語る経験談、そこには曇りのない幸福な人生がこもっていた。
ただの事実婚だけではない、貴族社会との戦いすら勝ち抜いた、歴戦の猛者の顔だ。
きっとこの笑顔の裏で、苦悩し、涙した日々もあっただろう。
だが現在、こうして穏やかに笑みを浮かべて昔話として語れるのだ。
ならば彼の言葉に嘘はないのだろう。
未成年が事実婚をしても、白い目で見られることはない。
ハーゲンの浮かべる表情は、そう確信させる笑顔だった。
横を見ると、美月の顔も輝かんばかりの笑顔で満ちていた。
やはり実例を目にするのは、応援される気になるのだろう。
――事実婚か。もう美月を止めることはできないだろうな。
俺も、その覚悟を決めていいのかもしれん。
南北十万の敵兵を追い払い終わったら、事実婚の準備を始めるか。
夏の朝の陽ざしを浴びた馬車は、幸福な家庭の昔話をこぼしながら、王都を駆け抜けていった。