30.愛されるはずだった、子
ファフニールを見て、マリアは腰を抜かした。ラファエルはそんな彼女が邪魔になると思ったのだろう。腕を振り払うと、彼女を押し出して、重い聖剣を放り出して駆けていく。
マリアはラファエルに手を伸ばすけれど、彼が振り返ることはなかった。結界を叩いても、すでにそこに人はいない。聖剣を胸に抱いて、祈りを捧げることしかできないのだ。
マリアもまた、結界の魔法を習って、使えはする。だから、目の前に迫る竜に怯えながら必死に祈る。
転生者であるマリアは、自分に女神の加護があることを知っていた。
この世界の主人公であることを知っていた。
だから、時間さえ稼げばだれかが助けてくれるはずだと、まだ希望を持っていた。
しかし、彼女の行いは本当に主人公に相応しい物であっただろうか。
魅了の力で都合よく人を操り、邪魔な人間を始末することに躊躇いすらもつことはなく、思い通りにいかないことが許せず、さりとて努力をしない。
そんな女の子が『魅了』を失った時、何が残るのだろうか。
そう、マリアを助けようなんて考える者はだれ一人いなかった。
彼女がいなければ失わずに済んだものが多いのに、どうして助けようと思うのだろうか。
マリアに操られて、大切な家族を、友を、恋人を。多くを蔑ろにしてしまった者は多くいた。それでも生きているなら、やり直しがきく状態なのであれば、まだ救いはある。しかし、死んだ者がいた。口にできないような所業を受けて、狂ってしまった者もいた。面白半分に多くの悪意を振りまいてきた彼女を、どうして救おうと思えるのだろうか。
主人公であるということなんて、今を生きる人々に関係がない。彼らにとって確かなのは、失った大切なものがあって、取り返しのつかないことがあって。
――彼女が、大本の原因だということだ。
「助けて!わたくしは聖女、聖女なの!!わたくしがいなければ、大変なことになるのよ!!」
泣きながらそう叫ぼうと、その声が届くことはない。
大変なこと、になんてもうなっている。彼女がいてもいなくても、すでに変わらない。
それならば、無様に、泣きわめきながら。
魔物の餌にでもなってくれた方が、気が晴れるというもの。
マリアの結界にヒビが入る。彼女の口からは怯えるような悲鳴が出た。必死に周囲を見回すが、近くには誰もいないことを理解させられるだけだった。
だんだんと、彼女は理解を始める。お姫様を助けてくれる王子様なんていないのだ、と。
「なんで……?なんで、わたくしがこんな目に……。死にたくないよぉ……!!」
泣きながら、遊ぶように結界を叩くファフニールの前で必死に結界を作る。
けれど、それは飽きたのか。それとも極上の餌に我慢ができなくなったのか。ついに結界を押しつぶすと舌なめずりをする。
「あ……、あ……。た、たすけ……、だ、だれかぁ……」
絞り出した悲痛な声は、小さくて誰にも聞こえはしない。
涙と鼻水で濡れた顔に、涎が垂れる。
竜の涎に、吐息に。彼女は自分がただの哀れな獲物でしかないことを理解せざるを得ない。
ファフニールは一口で食べるのを『もったいない』とでも思ったのだろうか。それとも、その性根の邪さからだろうか。
彼女の身体の一部を爪で遊ぶように引きちぎる。そのたびに大きな悲鳴が上がるが、それすらも楽しいようで、竜の瞳は愉悦を映している。
「い゛っっっ……あ゛、あ゛ぁぁぁ!!」
(こんなはずじゃなかった……!!だって、私はヒロインで、主人公で、幸せであるべき、選ばれた存在で!!なのに、なんで。なんでこんなことに!!)
痛みに喘ぎながら、少しでも逃げようと身体を捩る。
マリアの脳内を占めるのは食われる恐怖と、なぜ自分がこんな目に遭うのだという怒り。
意識が消える時になって、彼女が思い出したのは異母姉アマーリアの笑みだった。
彼女は、最期まで『こうなったのは悪役令嬢のせいだ』と他者に責任を転嫁し、自分の行いを省みることはなかった。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。