街頭配布
脳味噌が白く茹で上がるような暑い午後。男はこんな日に外出したことを後悔していた。
が、家のエアコンが壊れたのでは仕方がない。駅を出て、近くの大型家電量販店に向かう。
しかし、ふらつく足取り。暑い。背中が。それに頭も。熱があるかもしれない。頭痛もする。熱中症か? ダルい。寝ている間にクーラーが止まったせいだ。
己の境遇を恨み、苛立ち、男は息を切らしながら歩く。そこへまるで弱った虫に群がるかのように人が寄って来た。
「どうぞー」
「よろしくおねがいしまーす」
「――にご興味ありませんか」
「カットモデルの――」
「お時間ございませんか?」
ああ、うるさいうるさい。こんな暑い日にご苦労な事だ。
テッシュ配り、チラシ、客引き、宗教。いらないいらないいらないうるさいうるさい。お前たちと蝉の声に頭がガンガンするんだ。あ、待てテッシュはいるかも。この汗を拭きたい。
「――どうぞ」
はいはい、どうも、え、重、えっ。
……サボテン?
彼が手渡されたのは鉢に植えられたサボテン。土の重さも込みで三、四キロはあるだろうか。
これは一体どういうつもりで……と、彼は渡した者に目を向けようとしたがすでに姿はなかった。いや、暑さでボッーとしていたから
男か女か、どんな服を着ていたかもわからない。
何かのキャンペーンだろうか。しかし、何て刺々しいんだ。色は青汁のように濃い緑色。
と、サボテンを眺めていた彼はふと、気づく。視線。周囲の人間が彼に目を向けていた。それも怪訝な、蔑むような目を。
さらに妙なことにこの人混みの中、まるで穴が空いたように彼の周囲に空間が。誰も、先程まであれほど寄ってきていたにティッシュ配りも宗教の勧誘の者まで彼に近寄ろうとしなかったのだ。
一体これは……と思ったところで彼はフッと笑った。
まあ、それもそうか。この人混みの中、サボテンを持っている奴に近づきたくはないだろう。ドンと押され、棘が刺さるかもしれない。
これはいい人よけだ……いや、邪魔。重い。
どこかそこの隅にでも置いていき……と、腰を低くしたところでシャッター音がした。それにヒソヒソと話し声も。
彼が体を向けるとまるで信じられないと言わんばかりに顔を顰める人々。居た堪れなくなり仕方なく、彼はサボテンを持ち、その場を後に。家電量販店に向かった。だが……
「ふぅー……涼しい」
「あ、あのお客様」
「ん?」
「と、当店ではそちらの持ち込みは禁止とさせていただいておりますっ」
「いや、え? ……ああ、確かに針が危ないですよね。でもエアコンがさ、壊れちゃいましてね。まあ、すぐ済むので」
「どうかお引き取りを……」
「え、いや、あ、でもそうだ、そっちでこれ処分してくれません? ほら」
「いえいえいえいえいえ何卒、さぁ……」
「いや、あの」
「とぞ」
「とぞって……」
店に入って早々に追い出されてしまった。大きい店だからって傲慢になっているんじゃないのか、と彼はため息をつく。
そうしている間も人々から向けられる蔑んだ視線。
それもこれもこのサボテンさえなければ……しかし、捨てようにも人の目、それもああも非難めいては気が引ける。不法投棄は不法投棄なのだ。正義面したお節介が警察に特徴を伝えるかもわからない。それはあまりいい気がしない。
……と、そうだ、そんなに見ているのなら、ほら誰か貰ってくれないか?
と彼はサボテンを向けるが皆、サッーと逃げ、距離を開けてくる。
捨てるのも駄目、あげるのも無理。だが、まあ簡単な話だ。袋か何かに入れ隠せばいい。適当な店で買い物すればビニール袋でも……
「――当店では」
「誠に申し訳ございません」
「お、お客様!」
「どうかお引き取りを」
彼はそう考えたのだが入店拒否。一体いつからこの国にそんなルールができあがったのか。イライラし、頭を掻くと彼の頭痛はさらにひどくなった。
クソクソクソクソクソ……。と罵り、風で飛んできたビニール袋をよし来たと拾い上げてサボテンに被せれば棘で引き裂かれ、再び露に。
今日は全てが調子悪い。噛み合わない、そういう日なんだ。いったん家に帰ろう。扇風機に、そうだ、風呂に水を溜めてそれで涼もう。サボテンは道中、人目が無くなったら捨てるか、最悪、家に置けばいい……。
と、彼は駅に向かったが、改札口で駅員の目が光る。
おいおいおいまさか電車も無理なのか?
そのまさかであった。険しい顔で駆け寄ってくる駅員。他の利用客も彼を見るなり怪訝な顔。
「ねえ、あれ」「おいおい」「なんか……」「変なの」と、スマートフォンを取り出し、撮影を始める者まであった。
その異様な圧に彼は逃げるようにして駅から去った。しかし、歩いて帰るのは無理だ。遠い上にこの暑さ。滴り落ちる汗が口に入る。意識が朦朧としてきた。
じゃあ、どうやって……。
と、絶望的な気持ちに顔を俯かせようとしたその時。彼の視線の先。こちらに向かってくるタクシーの姿があった。
ああ、ようやくツキが戻ってきたようだ。だが念のため、サボテンはTシャツを脱いで隠そう……。
彼は前方から走って来たタクシーを呼び止め、中に乗り込んだ。
「お客さんどちらまでー」
「三つ離れた駅まで。いや、もう家まで頼もうか。住所は――そうそこで、ふぅー、よろしく」
運転手は上半身裸に汗だくの彼を見て嫌な顔をしたが、乗車拒否まではしなかった。
ホッと一息。彼はTシャツに包んだサボテンを脇に置き、シートに背をつける。
今日はお休みですか。
ああ、そのはずだったがえらい目に遭った。
という、何てことはない会話だが彼は心底、安堵し冷房の涼しさも相まって次第にウトウトしてきた。
……意識を失ってどれくらい時間が経っただろうか。よく寝た気がするが……と目を覚ました彼は、額に手をやる。
少し頭が痛い。それよりも喉が渇いた。ん……タクシーが動いてない。ああ、着いたのか。それで起こされた、いや、運転手は? それにどこだここ……。
なぜかタクシー運転手がおらず、信号もないのにタクシーは停まっていた。
一体、運転手はどこに、ここは今どこだ。誰か、誰か。……ああ、なんだいるじゃないか。大勢が、はははは。ああ、これだけいれば誰かこの厄介で忌々しいのを貰ってくれるかもしれない。
そこのおばちゃんはどうだ? そこの子供は?
おばあちゃん、もらってくれよこいつを。今、見せるからさ。
ほら、ははははははは。ははははは……あ……。
「お下がりください! まだ危険です! お下がりくださーい!」
「なになに、何の騒ぎ?」
「爆弾ですって!」
「まあ、爆弾!?」
「怖いわぁ」
「大丈夫よ。もう終わったそうよ」
「撃たれたらしいわね。ああ、ほら、あそこよ」
爆弾……そんなことあるはずが……。
彼はそう思う。
だが、薄れゆく意識の中、それは違うと完全に否定できない気もしていた。