46・【ロゼ視点】お二人の過去
「理由は、これよ」
ソフィア様は、左腕の内側をわたくし達に見せた。
わたくしは両手を口元に添えて息を呑む。
驚いたのはレオ様も同じだったようで、隣で息を詰めているのがわかった。
腕には、痛ましいほどの、深い傷跡が残っていた。
「……これは、どなたかに?」
痛みを想像して、声が震える。ソフィア様はそっと腕を引き、首を横に振る。
「いいえ、自分でしたものよ。そう……あなたのような人には、想像もつかないのかもしれないわね。今にして思えば、何故こんなことをと思うんだけど、それほどまでに追い詰められていたのよ」
ソフィア様は、傷跡にそっと触れ、当時を思い出すように話してくれた。
「私の父をご存じ? ロドリゴ・フォン・シュヴァルツベルク公爵。貴族至上主義の堅物。淑女とは、貴族とは、王家に血を連ねる者とは正しくはどうあるべきだと、毎日私を叱責したわ。凄い剣幕で。私に出来なければ、その怒りは母に向けられた。毎日、毎日、本当に息が詰まるかと思った」
苦々しく放たれる言葉を聞きながら、記憶を甦らせる。シュヴァルツベルク公爵は、現宰相閣下。わたくしは遠目からしか見た事はないけれど、確かに厳格な雰囲気を感じる方だった。貴族然とした装いに、髪も瞳も王家特有のゴールドの色を持っていて、顎が細く……とても痩せた方だったように思う。ソフィア様はそっとテーブルクロスの裾を持ち上げて言う。
「見て? これ、私が刺したのよ? まあまあな出来じゃなくて? 昔はね、刺繍が大っ嫌いだったのよ。でも、上手になるまで何時間でも刺し続けたわ。淑女の嗜みだからと。本当は絵を描くのが大好きで、でも、そんな事を言えばどんな目に合うかわからなかったから毎晩部屋でこっそり書いていたの。その時間だけが、唯一の救いだった」
刺繍は、我が国を始め近隣諸国にも通じる子女達の文化だ。刺繍に使うハンカチーフの生地や糸の話を基に、物流が生まれる事もある。一方、絵画は、余程の腕前ならまだしも、少し特殊な趣味として認識される。
「でも、ある日、遂に見つかってしまってね。何か月も掛けて描いたお気に入りの絵をびりびりに破かれてしまったの。……まるで、私自身が切り刻まれているみたいに感じたわ。それで、積もりに積もったものが溢れ出してしまって、見せつけるように自分を傷つけたの。それを、偶然我が家に来ていた皇后陛下に見られてしまったの」
「……! それでは、ご婚姻は……」
わたくしが思わず口を挟むと、ソフィア様は同意するように頷いた。
「ええ。恐らくだけど、皇后陛下が整えられたんだと思うわ。時期が、そのすぐ後だったから。私も皇后陛下に気に入られていたわけではないし、レオノール様と二人、国の深部に沈められてさぞ満足だったでしょうね。父の中では、私のその行いと婚姻が結びつかなかったみたいでかなり憤慨していたけど、それだけが本当に良い気味だったわ」
「……そうだったのか」
レオ様が、腕を組んで難しい顔をして、ぼそりと零される。ソフィア様は、ふっと笑われる。
「あなたは、何も知らなかったでしょうね。逃げるように戦場に向かって、親族の集まりにさえ数回しか顔を出さなかったから」
「……まあ、顔を見せるなって言われていたからな」
その言葉を聞いて、今度はソフィア様が驚いた顔をされる。わたくしも同様に、レオ様に視線を向ける。尋ねたのは、ソフィア様だった。
「誰がそんなことを?」
「ん? あ~……」
レオ様が、ぽりぽりと頬を掻き気まずげに答える。
「后妃だよ」
「后妃……って、あなたのお母様?」
「ああ」
わたくしは、レオ様とお出掛けした時の記憶を蘇らせる。
確か、レオ様はまだ子のいなかった後宮に召し上げられたと言って居た。
后妃様は、レオ様の育ての親。気持ちをざわざわさせながら続きの言葉を待てば、二人の視線を前にレオ様が諦めたように教えてくれた。
「お前の顔を見ていると石女だと責められている気がするから、顔を見せないでくれ。出来る事なら、戦場から帰って来ないでくれと泣かれたんだよ」
「……そんな、何てことを!」
思わずガタンっと椅子を揺らす音を立て、声を荒げたのは、わたくしだった。ソフィア様は冷静で、納得するように告げられた。
「……そう。まあ、わからなくもないわ。子供が出来ないからと言って、他所で作ってきた子を宛がえられたんですもの。それも、戯れで手を出した平民の踊り子の子を。恨まずにはやっていられなかったのでしょうね」
「わかりません! そんな事、レオ様に告げたって仕方のない事ではありませんか!」
怒りで胸が焼けてしまいそう。命を賭して戦ってくれた方に、労いこそすれそんな言葉を告げるなんて!
わたくしは、テーブルの上に置いた手をぐっと握り、小刻みに震える。
そんなわたくしを心配して、レオ様が大きな手を戦慄くわたくしの手に乗せた。
「おい……落ち着け。昔の事だし、俺は何とも思っちゃいない。大丈夫だ」
感情が昂り、瞳に涙が溜まる。
わたくしは、乗せられた手を引き抜き、逆にレオ様の袖を掴んで言い募る。
「何が大丈夫だと言うのですか! それでは、レオ様が安心して帰りつける場所がないではありませんか!」
レオ様は、わたくしの様子に驚いたようで、目を見開き動きを止めた。
ソフィア様は、その様子を見て、ふぅと息を吐き言葉を続ける。
「……なるほどね。要するに、私達はすれちがってしまっていたのでしょうね。お互いに問題を抱え、それを打ち明け合う事も出来ず。私は私で、自分の孤独で精一杯だったもの。だから、飛び出したのよ。公女でも、公爵夫人でもない自分になりたくて」
わたくしは、俯いて、そっとレオ様の袖から手を離した。
お二人の心の傷が、痛ましい。どうして人は、そうして傷つけあってしまうんだろう。
言葉も出ないわたくしを慰めるように、ソフィア様は笑って言った。
「そうして私は、今の夫に出会ったの」
「……え?」
今の夫? わたくしが顔を上げると、ソフィア様は幸せそうに笑った。
「実はね、公爵邸に居た頃、偶然街で出会ったお医者様がいたの。素朴な人で、靴が壊れて転んだ私を助けてくれたのよ」
運命的でしょう? と、ソフィア様は嬉しそうに語る。その表情だけで、救われた気がした。
「迷惑をかけるつもりはなかったのよ? でも、行く当てもないし……最後に挨拶をしておきたいと思って、馬車の事故の日に立ち寄ったの。そしたら、『僕も一緒に行きます』って言ってくれて。それからは二人、手を取り合って乗り越えてきた。子供も一人いるのよ? もう二歳になるわ。実は、この街に来たのはその子の為なの。生まれつき、足が悪くて……騙し騙しやってきたけど、小さな村では十分な医療が受けられないから」
「……それでは、戸籍がないとお困りになるのではありませんか?」
ソフィア様がお一人、身を隠して生きる事は出来るかもしれないけれど、お子さんがいるとなると話は別だ。これから、様々な場面で問われる事になる。ソフィア様は困ったように眉根を寄せ、仕方ないのだと語る。
「取り敢えず、夫と婚姻前に亡くなった孤児との間の子という事にしているの。幸い、夫が医者だったから色々と細工もできてね。この家も、夫の医者と言う身分を活かして何とか特別に手に入れたものなの」
そうして、嘘に嘘を重ねて、どこまで進んでいくつもりだろう。進めば進むほどに、罪は重くなる。本当は、この辺りで引き際なのかもしれない。差し出がましくも、わたくしが口を出す事ではないのかもしれない。でも……。
わたくしは、ぐっと顎を引き、背筋を伸ばす。そして、ソフィア様を真っすぐに見て、告げる。
「ソフィア様……宰相閣下に、会いに行きませんか?」
貴重なお時間をいただき、ありがとうございます。
読んでくださった皆様に、素敵な事が沢山ありますように(。>ㅅ<)✩⡱
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