2・【ロゼ視点】お父様との約束
そんな祈りを続けて、もう10年。この春、わたくしは16歳になる。王都の邸宅のお父様の執務室で、わたくしは午後のお茶を頂く。窓からは暖かい日差しが差し込み、明るく手元を照らしている。テーブルには、色とりどりのお菓子と香り高いお茶が並ぶ。使われているのは、真白い陶器に花の装飾が施された精巧で上品な茶器達。わたくしの好きな物ばかり……。
ちらっと顔を上げると、優しく微笑むお父様。我が父ながらとても整った顔だなといつも思う。カフェラテ色の癖のない髪を後ろに流し、きめの細かな肌は艶と張りを保っていて、鍛えられは体はそこはかとない色香を纏っている。お父様の後ろには、片眼鏡と上質なモーニングコートを身に着けた家令のブランドンが隙のない様子で控え、手には数冊の冊子を持っている。今日も大切な話があるという事で、この部屋に呼ばれた。
わたくしは、湯気が立つカップを持ち上げ、手を翳し魔法で花びらを散らす。この魔法は、私の特別。カップとソーサーを持って口に運ぶと、フルーティーな茶葉の香りとローズの香りがいっぱいに広がる。そうして、のんびりとお茶を楽しんでいると、お父様は、まるで幼子に言い聞かせるように話しかけてくる。
「いいかい? ロゼ。僕だって本当は、僕自身が高等学院の中にまでついて行って、君を守ってあげたいんだ。でも、それは現実にはできない。そうだろう?」
わたくしは、カップを持つ手を降ろさずに頷く。もう、このやり取りも何度目かしら。
「高等学院には、様々な爵位の家の者達が集まる。それも、まだまだ年若い。そこには、私達には信じられない程、程度の低い者もわんさかいる」
「まあ、お父様。爵位が全てではありませんわ。人を示すのは、その方の行いですもの。年齢だって、年若くても、立派な方は沢山いらっしゃいますわ」
「……そうだな。すまない。言葉の綾だ。そうではなくて、何を言いたいのかというと、学院の中でも君を守ってくれる者が必要だという事なんだ」
「だから、婚約者を据えてから入学しろと?」
そう言いながらお父様は、鷹揚と頷く。王立高等学院は、王家が持つ唯一であり、我が国の誇る教育機関。この春、確かにわたくしは学院への入学を予定している。入学に際しては一定の基準があり、上位貴族であればある程、この学院に無事入学して卒業出来なければ社交界からは爪弾きにされてしまう。大丈夫だと思ってはいたけれど、入学試験の結果が出てほっと胸を撫で下ろしたのは、数か月前。
高等学院では、学ぶ事は多くあるけれど、子息子女にとっては初めて己だけで挑む社交の場。そこで出会いを求め、婚約者や伴侶を決める者も多い。特に、愛と豊穣の女神を主神とする我が国では、最終的な判断は家長にあるものの、出来る限り本人の意思を尊重する風潮にある。だからこそ、誤った判断をしないよう、学院入学までにしっかりと生家で礼儀と家の役割などを学ぶのだ。だから……。
「少し……心配し過ぎている気も致しますが」
わたくしが首を傾げ、ついそう漏らすと、お父様の後ろで黙していたブランドンが片眼鏡を抑え白い頭を重く横に振りながら、一言一句にしっかりと説得力を込めるように言う。
「お嬢様。そのような事は決してございません。お嬢様は、本当に、お美しくご成長なされました。私共の誇りです。奥様譲りの花びらのような薄桃色の柔らかいお髪も、輝く藤色の瞳も、新雪を散らしたような肌も、楚々として愛情深く洗練された淑女の様な振る舞いも、その中に残す純粋さやあどけなさも……もはや芸術、いえ、どのように才のある芸術家でもその真の麗しさを表現することは叶いますまい。神の起こされた奇跡です! 我が国の宝と言っても過言ではございません! そして宝は、厳重に守られるべきなのです!」
「よく言った、ブランドン! その通りだ! ああ。なぜ学院などに通わねばいけないんだ。生家で学べば十分じゃないか……」
お父様が頭を抱え、ブランドンがそれを宥める。わたくしは、お菓子に手を伸ばす。体型を気遣うわたくしの為に、シェフが研究を重ねて編み出してくれた優しい甘さのお菓子。その思いが伝わってきて、思わず頬が綻ぶ。とても嬉しい。おいしく味わっていると、お父様が元の調子に戻ってくる。
「本当は、この案でさえ遺憾であり、苦渋の決断なんだ。けれど、“婚約者がいる”と言うのは、それだけで大きな盾となる。それも、同じ年頃の婚約者であれば学院内で行動が共にできる。君を守ってくれるだろう。家格もつり合いが取れていて、強く、賢く、節度のある、信頼に厚い者をブランドンと共に選りすぐった。なぁに。軽い気持ちで選べば良い。もし、嫌なことを言われたらすぐにそいつの首をとば……っん゛ん。お父様が対処してあげるから。だから、さあ、この吊り書きの中から気になる者を選んでごらん?」
ブランドンが、冊子を見せるように一歩近づく。お父様が、王都の邸宅に長期にわたり滞在できるようになったのは、ここ数年の事。漸くこうしてゆっくりとお茶をする時間も取れるようになったというのに、わたくしの入学試験の結果が出てからはこの話ばかり。溜息が出ちゃう。わたくしは、カップとソーサーをそっとテーブルに置き、姿勢を崩さないままにこやかに話す。
「お父様」
「わかってくれたかい?」
「わたくしには心に決めた方がいらっしゃるので、その方と以外、婚約も結婚も致しません」
「あぁ、もう、またそれか!」
お父様は、ぐしゃぐしゃと頭を掻く。私は鼻をツンと高くして、視線を逸らす。またそれか! は、わたくしのセリフです!
「何度も言ってるだろう! 彼は、諦めなさいと。爵位も向こうの方が上だし、色々と複雑なお立場だ。そして何より、年齢なんて僕との方が近いんだぞ?」
彼……というのは、他でもないわたくしの思い人、レオノール・バレナ公爵閣下。現国王の兄君であり、この国の英雄。ご年齢は、わたくしより17歳年上の33歳。20歳前後で結婚する事が一般的な我が国では、確かに少し年の差はあるかも? ううん。それでも、愛があれば何も問題ない。
「でも、お父様は以前、とても信頼できる方だと仰っていたではありませんか!」
「それは戦闘の場においての話だ。私生活は、よく知らん! 若い頃は、前王のように浮名を流していたという噂もある。それに、彼は奥方とは死別されて以降、再婚の意も唱えていない。そもそも。彼と君とが結婚してしまっては、フォンテーヌ侯爵家はどうするんだ」
わたくしは、胸に手を当て毅然と答える。
「法律上、夫婦それぞれの領地を持っていても問題はないはずです。高等学院では、しっかりと勉強をして、わたくしが後を継ぎます!」
「それは机上の空論だ。我が領地は魔獣との攻防が耐えない地形にあるんだ。隣国の情勢も、ようやく落ち着いてきたとは言え油断はできない。戦えるものでなければ、少なくとも、戦う術を知っている者でなければ、領地民も自分自身の事も守ることができない。僕が君を王都に残し、泣く泣く離れて暮らしていた理由もそこにあるという事は、君もわかっているだろう?」
わたくしの生家は、広大な魔獣の森を有し、その上、争いの絶えない二国と我が国との国境に位置している。幸い、数年前にその二国の和解が成立し、停戦となった為にこうしてお父様も王都で過ごせる時間が長くはなったけれど、動向には常に目を光らせて、有事の際は率先して戦火に身を賭さなければいけない。それなのに、わたくしは王都で蝶よ花よと育てられてきてしまった。お父様の中では、私に危険なことなどさせるつもりはなく、妙齢の頃には立派な婿を招いて私ごと領地を守らせる算段だったのだろう。一人乗馬や弓やクロスボウの練習などに励んでは来たけれど、強大な魔獣を前にしたら何の役にも立たない。その上、私の使える魔法は戦闘向きではない。悔しさに唇を嚙みながらも、反撃の一手を考える。
「でも、彼なら、戦闘の際は誰よりも知恵と力を貸してくれる筈です!」
「それは、夫婦の信頼関係があって初めて成り立つものだ。君の思いは一方的なもので、彼は何も知らないんだろう?」
「それは……」
思わずぐぅっと唸って俯いてしまう。6歳から始まった私の片思いは、まだなんの進展も見せていない。彼に釣り合えるようにと、落ち着いた振る舞いを身に着け、頭の悪い女ではいけないと寝る間も惜しんで勉強し、大人っぽく見える見た目を研究して、背を伸ばす努力をしてと――要するに、自分自身に向けて出来ることは何でもしてきたつもりだ。でも、彼もお父様と同じ様に討伐や戦闘に赴いてばかりで、中々連絡を取ることも難しかったのだ。わたくしの情報網によると、彼も最近ようやく王都に身を落ち着けたという。だから、むしろこれからなのだ。
「それでも……いいえ、だからこそ、この恋を今諦めることなどできないのです。わたくしは、まだ、彼に気持ちも伝えられていません。お父様も、お母様を心から愛していたとおっしゃっていたではありませんか。自分の唯一だったと」
お母様は、わたくしを産み落としそのまま儚くなられてしまった。けれど、お母様がどんな方だったのか、お腹にいるわたくしをどんなに愛してくれていたのか、全てお父様が教えてくれた。お母様の話をする時、お父様はとても寂しそうな悲しいお顔もするけど、同時にとても幸せそうに笑う。わたくしも、そんな風に心から愛する方と人生を共にしたい。
「お願い、お父様。幼い娘の妄想だとおっしゃって頂いてもかまいません。領地の事も、自分の義務も、理解しております。でも、どうか……どうか、わたくしに時間をくださいませんか?」
お父様の心配も、よくわかる。それに本来なら婚姻は、わたくしの了承など取らなくとも家長の命で従わせることも出来るはずだ。でも、こうして話し合いの場を設けてくれているお父様の優しさに甘えて、懇願する。薄紫色の瞳を揺らし、お父様を真っすぐ見つめる。お母様譲りのこの瞳をお父様は大好きだと言っていた。お父様におねだりするには、非常に有効な筈だ。
「旦那様、いけません。目を合わせられますな……」
「ブランドン……。いや、しかし……」
わたくしはじっとお父様を見続ける。お父様は、始めこそその視線を受け止めていたけれど、その内耐えきれないとばかりに喉から妙な唸り声を出し、空を仰いで両手で顔を覆ってしまった。そうして、待つこと数秒後。
「……お父様は、何も手伝わないよ?」
「旦那様!」
「……! はい。かまいません。」
お父様が諦めたように積めていた息を吐き出した。
「わかった。1年だ。1年待とう」
「お父様……ありがとう」
わたくしは、思わず胸の前で手を組んで喜びの笑顔を零す。けれどお父様は、わたくしの前に指を一本立てて、それを制止する。
「けれど、それだけじゃない。もう1つある。1年のうちに、彼の方からプロポーズの言葉を聞くことが出来たら許可しよう」
「それは……」
「無理だと思うなら諦めて、すぐにでも僕の用意した吊り書きの中から気になる者を選ぶんだ」
どうする? と、お父様が意地の悪い顔で微笑む。レオノール様からしたら、わたくしなど、きっと殆ど初対面だ。1年で、彼の方からプロポーズ……。でも、もしここで期間の延長などを申し出れば、それこそチャンスも貰えないかもしれない。だから、悩んでいる場合じゃない。社交界では、危機の時こそ誰をも魅了する笑顔でと、そう習った。わたくしは、背筋を伸ばして笑顔を作る。
「かまいません。わたくしは、決して諦めませんわ」
そう啖呵を切って立ち上がり、入り口の前で優雅にカーテシーをして執務室を後にした。さあ、ロゼ、今こそ動き出すときよ!
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