初めての正気度喪失
SANチェックなんて言葉、今までネットスラングくらいにしか思ってなかった。
でも冷静に考えてみれば正気度を喪失するということは、そんな軽く捉えていいようなことではなかったのだ。
正気度を喪失するということは、普通が壊れるということ。
自分の普通という概念が破壊され、平常が異常に侵食されるということ。
そしてそれは二度と元には戻らないということ。
冷静に考えれば、などと言ったがそれは誤りだ。
冷静であるなら自分の『普通』に疑問など抱かない。
つまり今の俺はもうどうしようもないくらいに『異常』なのだ。
眼前にそびえ立つ『ソレ』は、俺の身長の倍をゆうに超える大きさだった。
異臭を放ちながらごぽごぽと泡立ち、俺に興味を向けている。
蛇に睨まれた蛙、どころの話ではない。
好奇心溢れる子供と虫。
これから俺はなす術もなく振り回され、四肢をもがれ、踏み潰されて蹂躙される。
そんな今まで想像したことすらなかったほどの恐怖に支配されたとき、俺は、
「……夢、これは夢だ……」
現状から目をそらし、思考を放棄することを選んだ。
夢、そう夢だ。
きっとこれはいつまでもフィクションにうつつをぬかしていないでそろそろ現実で彼女を作れという俺の心の中の罪悪感が産み出した悪夢なんだ。
異形から液体状の棒のようなものが一本突き出てくる。
それはぐにぐにと蠢きながら少しずつ、しかし確実に形を整えていく。
槍か、それとも俺の首を刈り取る鎌だろうか。
少なくとも俺に確実に死を与えるものになるのだろうという確信があった。
「夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ……」
誰か俺の頬を叩いてくれ。
そうすればこんな悪夢からは目覚めて、汗だくの最悪な気分で朝を迎えることができるんだから。
──そして、死が、俺に向かって振り払われた。
瞬間、俺は首が胴体に別れを告げる声を聞いた。