APPEARANCE
「最悪の事態は忘れたころにやってくる。懸念や問題の先送りという行為は、往々にして悲劇をもたらすのものである」
倫理物理学者 シュート・H・フィールド
某年二月十三日、都内中心部。オフィスビル街に位置するS駅の駅前広場。
その物体は予告もなく、唐突に設置されたかのようであった。
置かれていたのは、得体の知れないオブジェを思わせる代物だった。全高が約五メートルほど、黄色いペンキで雑に塗られた球体が、灰色の台座に乗せられている、という恰好をしていた。
より正確には、球体部分は卵型というか、紡錘形とでもいう表現が適切に思われた。あるいは、見る人によっては果物のレモンを連想させた。台座部分は、やや台形のかたちをした側面の四角形。おそらくコンクリート製と思われる、どっしりとした作りになっていた。そして、その側面の一カ所には、子供でも手が届く高さに、赤色で直径二十センチほどのボタンが付いていた。
赤いボタンすぐ横には
〈これは核爆弾です。ご自由にボタンを押してください。起爆します。〉
という文言が書かれたコピー用紙が張り付けてあった。
さらにその下に、赤ペンの手書きの乱雑な文字で
〈取扱い注意! ちょっとの刺激でも誘爆にご用心〉
という言葉も加えられていた。
続いて、球体部をよく観察すると、赤いボタンがあるのとは反対側のところに、黒丸とそれを囲むように黒い扇形が三つ描かれたマーク——人々に警戒心を呼び起こさせる放射能標識——が、でかでかと描かれていた。
もしも、記されていた文言が、
“ボタンを押さないでください”
というような内容であったならば、早々に誰かが押して、都市が吹き飛んでいたかもしれない。意外にも、やれと言われて実行する人は少ないものである。ときに相反する行動心理は、人間の一種の性のようなもであろう。
この核爆弾を自称する物体の第一発見者は、早朝出勤の一般男性会社員であった。彼は最初、何かのオブジェが新しく立てられたのだろう、というくらいの気持ちであった。だが、試しに近寄って見て、その表記の気味の悪さ、というよりもタチの悪さに辟易した。幸いにも、彼は真面目な性格であったので、ボタンに触れることもなく、ひとまずは駅の窓口の駅員にこのことを告げたのであった。
駅員からしてみれば、知らぬ間にヘンテコなオブジェが駅前の広場に置かれていたものだ、という訝しい思いだった。また、近づいて確かめた駅員も、その表記をみて不審に感じた。いずれにせよ、警察に連絡するのは当然の成り行きだった。怪しい不審物であることに変わりはなかった。
通報から数分後、近くの交番から警察官がやって来た。駅では朝のラッシュがはじまる頃合いであり、核爆弾を主張する不審物の周りには、すでに野次馬が集まりかけていた。駆けつけた警察官としても対応に手を焼いた。まがりにも、いかにも怪しい不審物ならともかく、ここまで堂々と爆発物を主張するものなど見たことがなかった。ひとまず周囲にいる人たちを遠ざけ、コーンやポールを立てて非常線を張った。それから、現場の警察官は上層部に指示を仰いだ。
とはいえ、警察の上層部としても困惑のかぎりだった。もちろん、不審物や不発弾騒ぎならば、これまでにも幾度となく経験していた。だが、あからさまに核爆弾を自称する物体など、聞いたこともなかった。
むしろ、本当にそれは爆弾なのか? と、にわかには信じがたいという思いの方が強かった。ともかく、場所が場所なだけに、何かしらの対応を迫られた。周辺の市民や交通整理のために、機動隊を出動させるととともに、自衛隊から爆発物処理班に来てもらうよう応援を要請した。
物々しい恰好の警官隊が駆けつけるころには、新聞記者やメディアのカメラマンが集り、物好きな一般人も一緒になってスマホで写真を撮っていたりと、騒がしい状況になっていた。
「核爆弾と表記されていますが、本物なんでしょうか?」
「誰が設置したのか、見当はついているんですか?」
「警察はどこまで状況を把握していますか?」
「なにか、犯行声明などはありましたか?」
記者やレポーターは、無遠慮に警官たちへ質問をぶつけた。
「皆さん、静かに!」
警官の一人が大声で制した。「質問は、今は、お答えできません。危険ですから、現場から離れてください! これから対処するところです!」
対応にあたる警官たちからしてみれば、黙って鎮座している不審物より、周囲で騒いでいる人たちの方がよほど厄介に思えた。
そして昼前には、自衛隊から爆発物処理班がやって来た。
ただ彼らは、物体に書かれている
〈取扱い注意! ちょっとの刺激でも誘爆にご用心〉
という文の理解に苦慮した。しかも、乱雑な手書きということも混乱に輪をかけた。設置者が後で書き加えたのか? それとも、無関係な第三者が、勝手に書き足したものなのか? どう判断すべきか分からなかった。
とにかく、これが事実だとして、少しでも動かしたりしようとすれば起爆するということなのか? この不審物が、万が一にも本物の核爆弾で、起爆するような事態になれば取り返しがつかなった。仮に内部が、通常の爆発物——たとえばTNT爆薬など——だけだったとしても、起爆すれば大惨事になるであろうことは、容易に想像がついた。慎重に慎重を重ねる、という具合で作業が進められることになった。
間近で物体を観察をした隊員は、戻ってくるなり「駄目です。外観からでは、分解できる作りではないと考えられます」と言った。
「うむ、そうか……」処理班の隊長は小さく唸った。
素人からしてみても、外観にネジやリベットのようなものは見当たらず、簡単に分解ができそうにないことは明らかだった。
「台座はコンクリートだな?」
「はい」
「それと、球体部本体はどうだ?」
「はい。慎重に、ペンキの一部をシンナーで剥がしたところ、下地の素材はステンレス鋼と思われます」
「たんなるハリボテではなさそうだな」
隊長は小さくため息を漏らした。「物体の中身がどうなっているか、少しでも知りたいところだ。これでは、何も手が付けられない」
「バーナーで穴を開けるわけにも、いきませんよね」
「当然だ! 仮にこれがほんとうに核爆弾で、もしものことがあれば、我々ともども街が消えることになる。それに現状では、被害がどれほどに及ぶか想像もつかん」
処理班が行なったことは、目視で外観を観察することや、主要な寸法の測定くらいであった。それから、起爆スイッチと思われる赤いボタンが万が一にも押されることがないよう、透明で分厚いプラスチック製のカバーを取り付けたことだけだった。さらに、風雨や人目をしのぐための、全体を覆う巨大テントも張られた。
あっという間に各所では、“自称核爆弾”のニュースが話題となった。すでにインターネット上には大量の写真がアップロードされ、憶測が飛び交いった。早くも、海外でまで話題になりはじめていた。
国内のワイドショー番組では、
「おそらく、手の込んだ悪戯ではないでしょうか? このようなものを、誰にも気づかれずに設置するなんて困難だと思います。核爆弾は、たしかに基本原理は難しくない構造です。ですが、そう簡単に作れるものでもありあせん。そもそも、原料のプルトニウムの入手が……」
といったことを述べる専門家もいれば、
「ほんとに核爆弾で仮に爆発するなら、ヒロシマ型原爆程度の威力だと仮定しても、都心は壊滅でしょうね。本物ならばすぐに逃げた方がいいかもしれません。私は一応荷物をまとめて、いつでも避難できるよう……」
などと、冗談交じりに不安を煽るようなことを述べるコメンテーターもいた。
ネット掲示板やSNSなどでは、自称核爆弾をめぐって真贋の議論やつぶやきが飛び交った。果ては、政府の陰謀だの、某国によるテロ行為などとという話まで出る始末であった。さらには「疎開だ! 避難だ!」などと、騒ぎ立てる人もいた。じっさいのところは、都心でのパニックと呼べるものはごくわずかで、大半の人達は今までどおりの生活を続けていた。そもそも真偽が分からないのでは、個人も企業も、今の生活や仕事を放り出して逃げ出す、というわけにもいかなかった。
当然のことながら、この得体の知れない自称核爆弾について、政府も週明けの国会討論では議論の的となった。
「首相! これは国家的危機ではありませんか?」
野党議員から総理大臣に対する質問が飛んだ。
「ええ、非常に憂慮すべき事態というふうには考えております」
「悠長に構えている場合ではないと思われます」
「はい、たしかに」
総理大臣は、原稿と野党議員を交互に見ながら、ゆっくりとした口調で続けた。
「不審物に核爆弾であるとの旨が、記されているということは私も、また現場で対応にあたっている警察および、自衛隊の爆発物処理班の隊員も、把握しておりまして、ええ……ただ、現段階でその真偽の確認がとれていませんので、対応そのものには、慎重に行なわれるべきである、と考えております」
「早い段階で、市民の安全確保、もしくは避難を開始するべきではありませんか?」
「それに関しましても、現在、対策班と専門家委員会の組織を、指示したところであります。万が一の際の、国民の安全確保、避難誘導などにつきましても、合わせて検討するところでございます」
すると、しめたとばかりに野党議員が聞き返した。
「つまり対策は、まだ、何も行われていないということですか?」
しかし、総理大臣もすぐに言い返した。
「対策は始めているところでございます」
続いて、別の野党議員からも質問が出た。
「不審物が本物の核爆弾だと仮定して、もしも時限性の起爆装置が備えられているとしたら、今すぐにでも国民の安全確保、避難を図るのが筋ではないでしょうか?」
「しかしながら、現在のところ、その爆発の兆候といったようなものは、みられておりません。それから、現在都心部で生活している国民の数が、膨大であるのは、ご承知の通りでございまして、万が一にも、大規模なパニックが発生した場合、それだけでも、相当の被害が発生すると考えられます。ですので……ええ、避難誘導に関しましても、綿密な計画の策定が必要と思われますので、そのために、これに関しましても、この後に専門家との会合を開く考えでございます」
さらには、与党内の議員からも質問が出てきた。
「それと、この核爆弾を自称する物体は、動かしても爆発する可能性がある、との情報もあるそうですね。慎重に運び出し、安全な場所まで移動させるというようなことは、検討していますか?」
「対応には、慎重を期するというとになっていますので、現在では、核爆弾を自称する物体を動かす、というな段階には至っておりません」
いずれにせよ、国家的危機と考えられる事態にあっても、野党は与党の揚げ足取りばかりな態度で、与党は与党で「慎重に、慎重に」と言うばかりだった。討論において、具体的な案が出るわけでもでもなかった。まるで、時間がそのうちに解決してくれるのではないか? とでも思わせるばかりであった。




