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16〜19


16、



 秋平はドキドキしながら部屋に飛び込んだ。混乱していて、畳に座ってどうにか落ち着こうとした。


 写真を見てしまった。普段とは違う冴織。そして春臣おじさん。家族なのだから親の写真くらいはあってもいいだろう。


 久しぶりに見た春臣おじさんの顔。目鼻立ちの良さは冴織と同じでやはり似ている。でも母親の写真はなかった。冴織は母方の苗字で、高校生の時に母親は亡くなっていると言ってたのに。


 それにあのメール。あのままパソコンを使っていればどうしたってそのメールは目についてしまっただろう。


 「会いたい」と書いてあった。いや、ちょっと待て。メールアドレスを登録していない相手だ。しかも「冬舞」と書いてあった。なんと読むのか知らないが「冴織」ではない。ということは間違いメールだ。そうだ。何をドキドキする必要がある。たまたま間違いメールを見ただけで、冴織宛だと早とちりしてはいけない。秋平はそう納得した。


 見てはいけない写真なんか見るからトチるんだ。秋平は自分を責めて反省した。明日はちゃんと冴織と顔を合わせて話をしようと決めてゴロンと畳に横になると、すぐに眠りに落ちてしまった。


 目を覚ますと窓の外が青藍(あお)色に包まれていた。秋平は飛び起きて窓の外を見る。東の空が明るく輝き始め、西の空はまだ暗い。


 冴織が言っていたのはこのことかと分かり、もしかしたら彼女もこの時間を楽しんでいるかもしれないと思った。


 離れへ行って自分も一緒に見ようと秋平が窓から離れると、何かを踏んづけて、ピョンピョン飛びながら痛みに(もだ)えた。


 痛みが治ってから何を踏んだのか見ると、あの星の指環だった。秋平はそれを拾ってポケットに入れた。冴織に見せたら子供じみてると笑ってくれるだろうか。冴織のあの細い指なら入るだろうかと考えながら、秋平は静かに家を出て離れに向かった。


 縁側の方へ回り込むと秋平の思った通り、冴織はそこにいた。しかし彼女はいつものようにどこか遠くを見ているわけでも、座っているわけでもなかった。


 縁側にペタンと寝転んでいる。まるでそこの冷たさを感じているかのように。秋平と同じように寝落ちてしまったかのように。


 少しずつ近づくと、秋平は冴織が起きていることに気付いた。冴織は泣いていた。


 「冴織さん...?」秋平は蚊の鳴くような声で呼んだ。髪が顔にかかっており、冴織がどこを見ているのかわからない。


 重さを感じられるほどじっとりとした空気の中で、冴織の鼻を(すす)る音が響いた。


「どうしたん?」さっきよりしっかりした声で秋平は尋ねた。不安になってさらに近づく。


 冴織は頭を背けて部屋の方を向いた。秋平はゆっくり動いて縁側に腰をかけた。冴織の手に触れようとすると、彼女は大きく息を吸った。


 秋平は驚いて手を止める。冴織は息を吐いた。


「寂しいの」


それを聞いて今度は秋平が大きく息を吸った。


「どうして?」囁くように聞く。


「独りだから」


「1人?」どういう意味だろう?ここにこうして2人でいるのに。


「冴織さんは1人じゃないけ。友達もおるやろし、家族もおるし...。俺もおる」相変わらず冴織の顔は見えないが、秋平はじっと彼女を見つめた。


「違う...」


「え?」


「会いたいの。でも会えない」


「...どうして会えんの?」秋平は心のバランスを保つのに必死だった。


 冴織は誰かに会いたくて寂しがっている。それは紛れもなく好きな人のことだろう。


 秋平の問いに冴織は答えなかった。何分か、何時間かすぎて、太陽が顔を出し始めた。秋平が空を見つめていると、後ろで冴織が動く音がした。


 振り返ると冴織は秋平に背を向けて座った。どうすればいいのか秋平は戸惑って、咄嗟にポケットに手を入れた。星の指環を取り出して冴織の側にそっと置く。


「それ、夏祭りでとったんよ」秋平は再び空を見上げて話を続けた。


「取ったはえぇけどどうしたもんかなって。子供のオモチャやけ。でも捨てられんし、俺が大事に持ってんのもなんか変かなって思て。それで...」


 秋平はなんとか冴織の寂しさを紛らわせようとペラペラ喋った。自分にできることをして彼女を元気づけたかった。


「ありがとう」冴織はふっと笑った。


 秋平は安堵して振り向いた。冴織は指環を拾って左手の小指にはめた。冴織のために作られたかのようにピッタリだった。


「かわいいね、これ」冴織は手を広げて指環を見た。「いらないならちょうだい」


「うん。えぇけど...」秋平は複雑な気持ちになった。冴織が喜ぶのならいいが、そんな安物のおもちゃでいいのだろうか?


冴織は手を膝に置いた。右手で星を触りながら何かを考えている。


 また時間が過ぎて辺りが一段と明るくなると、蝉の声が遠くから聞こえ始めた。


「冴織さん」俯いている冴織の横顔を見ながら秋平は言った。


「ん?」


「俺...」自分には何もできないかもしれない。けれど冴織を笑顔にさせたい。泣かせないように側にいたかった。


 今は間違いなく冴織のことが好きなのだとわかる。たくさんの感情が胸に詰まって苦しいから。切なくて、冴織の代わりに自分がむせるほど泣いてしまいたい。


「頼りないってわかっとる...」言葉がうまく選べない。こんなに伝えたいのに。


「もっと...。ちゃんと勉強して、強くなって、冴織さんの側におれるような大人になるけ。だから...」手を伸ばして冴織の右手の小指に自分の人差し指をそっと重ねた。


 冴織の涙が顎に(とど)まってキラリと揺れた。


「好きなんよ。冴織さん」秋平の声はゆったりと空気を漂った。


 冴織の涙が膝に落ちた。


「会えないっていうのはね...」冴織は突然言った。秋平の告白など聞いてなかったかのように。


「どこにいるか分からないってことなの」


「え?」


 冴織は秋平の指の下から手を引き抜いた。


「今は1人にさせて」


 冴織は立ち上がって部屋の奥へ消えた。1人ポツンと残された秋平は呆然とした。冴織に自分の想いが届いたのだろうか?彼女を1人にしていいのだろうか?


 射すような日差しが秋平のつま先を焦がすまで、秋平は冴織が戻ってくるのを待ったが、結局は諦めて母屋に戻った。


 秋平の去っていく足音を聞きながら、冴織は体を丸めて青いタオルに顔を埋めた。








17、


 あれから秋平は冴織をとんと見かけなくなった。朝の挨拶もなくなり、何度か訪ねようとも思ったが、なかなか足が出ない。離れに明かりが灯ることで冴織がまだここにいるのだと安心した。流石に何も言わずに帰ることもないだろう。


 気の抜けた日々を送りながらも秋平は黙々と宿題を終わらせて、冴織の本を読んだ。彼女を少しでも理解したい。どのタイミングで会えばいいだろうと思いながら、8月27日を迎えた。


 今日は登校日で、午後からは野球部の練習もある。ノロノロと制服を着て、ノロノロと自転車を走らせた。いつもならなんてことのない道のりなのに、溝にハマりかけたり、駐輪場を通り過ぎたりした。


 「おっはーよー!秋平」


 溶けるような暑さの中、これまた熱い男が話しかけてきた。


「おぅ」秋平は席に着くと、後ろの席の田城にやる気なく返事した。


「なんじゃいそれ。な、聞いて聞いて。次の土曜日に佐月ちゃんとデート決まったでぃ」


「へぇ」


「なんじゃその反応。振られたんか?」田城は冗談でふざけながら聞いた。


「は?違うし。まだ振られたわけじゃ...」


「は?告ったんけ?」田城は身を乗り出した。「なんじゃ?なんじゃ?どういうこと?詳しく」


「なにが詳しくなん?」夏希がひょいと顔を出した。


田城は驚いて机に置いていた筆箱を落とした。


「な、な、なんじゃあれ、宿題や。宿題教えてもらお思て。詳しく」


「ふーん。秋平に聞いたらあかんよぉ。あたし、教えたろか?」夏希は田城の筆箱を拾った。


「お、おぅ。ありがとう山本さん」


「今日提出のやつは全部やっとんの?」


 田城と夏希の会話を耳にしながら秋平は冴織のことを想った。やはりあそこで母屋に戻らなければよかった。


「なにボーッとしとんのよ秋平」


秋平の目の前に夏希の顔が現れた。


 夏希が泣いているのを最後に見たのはいつだっただろう。冴織は夏希のように日に焼けたことがあるだろうか。


「な、なにジロジロ見よんのよ」夏希の頬が赤くなった。


「お前が顔つっ込んでくるからじゃ」秋平はそっぽを向いた。


「どうかしたん秋平?元気ないね」


「夏バテでもしよんやコイツ」


田城がフォローしてくれたので、秋平もそれに乗ることにした。


「久しぶりの学校じゃからな。元気もなぁなるやろ」


「ふーん。大丈夫なん?熱中症とかやったら保健室に、」


「大丈夫じゃ。はよ自分のクラス戻りや」


「う、うん」


 夏希は秋平の異変に気づきながらも他に言葉をかけることができなかった。秋平がまるで別人になってしまったかのように見える。


 チャイムが鳴ってしまい夏希は渋々、自分のクラスに戻った。


「あとでな秋平」担任が入ってきたので田城も切り上げた。


 田城も秋平の様子がおかしいと気付いていた。秋平が話してくれるかは分からないが、振られたのかどうか気になる。もしそうなら、田城の胸には喜びと共に悲しみも同じくらい押し寄せた。


 「で、どうなったん?」


「わからん」


 田城と秋平は他の野球部員よりも少し遅れながら、日の照りつける熱いグランドを走っていた。グラウンドには他の部活も練習していて、あちらこちらで掛け声が飛び交っている。


「ほんまに告ったんけ?」


「うん...。でも返事がなかったんや。そもそも聞いとったんかも怪しい」


「なんじゃそれ」


 秋平は告白したが別の話をされたことだけ話した。


「うーん。そりゃ微妙じゃな。でも話しとったのに急に1人にしてなんて言ったんじゃ。聞いとったじゃろ」


「やんな...」秋平は歩くような足取りまでスピードを落とした。


「脈ないてわかっとんのに。なんでその場で振らんかったや?」秋平はここ数日悩んでいたことを田城に聞いた。


「なんで脈ないってわかんのや?」田城もスピードを落とす。


「やって...」冴織が涙していたことは言いたくない。「冴織さん、他に好きな人がおるらしいんじゃ」


「はぁ?」


田城と秋平はトボトボ歩いた。


「誰やね?」


「さぁ...?」秋平は肩を落とした。「俺の知らん人じゃろうな...。たぶん横浜の人」


「...やなぁ。じゃったらどうにもならんなぁ...」


田城の言葉に秋平は鳩尾(みぞおち)にパンチを食らった気分になった。


「まぁ...。諦めも必要やけ...」落ち込む秋平を見て田城は言った。立ち直るのに時間はかかるかもしれないが、またいつもの秋平に戻って欲しいと田城は思っていた。夏希のためにも。


「おい!なにしよんじゃ!走れ!」顧問の怒鳴りが聞こえて、田城と秋平は再び走り出した。


 「秋平」


部活が終わり、秋平が駐輪場にいると夏希が話しかけてきた。


「よかった。まだ帰っとらんで」


「なんじゃ?」


「どうしたん今日?元気なさすぎじゃね?」


 秋平は夏希が心配してくれているのはわかっていたが、今はそっとしておいて欲しかった。


「なんも」


「なんもて...。嘘じゃろ。なにがあったん?」


「夏希...」秋平は自転車に(またが)った。「夏希は好きな奴がおるけ?」


「え?」


「今じゃなくても過去におったとか」


 夏希は顔に熱がこもった。過去も今も一緒にいるのに。


「おるよ」


「え」秋平は驚いた。夏希と恋愛話をしたことは(ほとん)どない。自分の知らないうちに恋していた相手がいたとは。


「俺の知ってる奴?」


「うん」


「そうけ...」誰とまで聞く勇気はなかった。


「なんでそんなこと聞く?」今までこんな話はしたことないと夏希も思っていた。


 嫌な予感がして夏希の顔の火照りは冷めていった。秋平がなんの話をするのか予測はできる。けれどどこかで小さな希望も持っていた。


「なんでやろな...」秋平はペダルに足を乗せた。好きな人がいる夏希にこんな話をしても仕方ない。


「なんじゃそれ」夏希は怒った。


「すまんて。なんでもねぇわ」足に力を入れてペダルを押し込んだ。ゆっくりと自転車が進みだす。


「またな」反対の足もペダルに置いて漕ぎ出そうとした時、夏希が叫んだ。


「秋平のアホーー!!」


秋平は驚いてブレーキをかけた。後ろを振り返ると、夏希は顔を真っ赤にして秋平を睨みつけていた。


「はぁ?」


「どんくさいやつ!!」声が裏返るほど叫んだ。


「なんじゃ!?」


「知らんもぅ!」夏希は秋平の横をズンズンと通り過ぎた。


 この熱さのせいで自分も秋平もどうかしてしまったんだと夏希は頭を振った。そして顔を伝ってきた汗を乱暴に腕で拭った。


 急な夏希の怒りに秋平は呆気に取られた。なにを怒っていたのだろう?冴織には振られ、夏希には怒鳴られ、散々な目にあっていると思いながら、秋平はふらふらと自転車を漕いで帰った。








18、


 8月28日(火)


 午前中の部活を終えると秋平は田城と一緒に学校のプール場に忍び込んだ。木陰になっているところに座り、靴と靴下を脱いでズボンの裾を捲った。そして足だけをプールに入れる。


「ひぇー。冷た!!」田城は叫びながら手もプールに入れた。「はぁ。夏休みも終わりじゃのぉ」


「やめぇ。受け入れとおない」


「秋平くんよ」


「なんじゃ」


田城は手を振って水滴をばら撒いた。


「日曜日にパーっと遊びに行こや。夏休み最終日やけ」


「お前、土曜日に佐月とデートじゃろ」秋平は顔についた水滴を汗と一緒に拭った。


「それはそれ。これはこれじゃ」田城ははにかんだ。「来年は遊んどるヒマないけぇな。大学じゃ就職じゃ言うて。今のうちに遊んどこや」秋平の気を晴らすために田城は明るく言った。


「せやなぁ」


「よっしゃ、決定!山本さんも誘うけ?」


「夏希...」秋平はプールの水を(すく)って顔にぶつけた。


「...なんじゃ。そっちともなんかあったんけ?」


「怒らせたけ。謝らなあかん」


「なんでや?」田城はプールから足を出して膝を抱えた。


「夏希、俺のこと心配しよったのに、俺が適当な態度とったんや」


「ほぉ」


「なんで元気ないんか聞かれたから、夏希は好きな奴がおるんかって聞いたんや」


「...は?」


「え?」秋平は田城を見た。


「で、山本さんはなんて言ってたんじゃ」田城は勢いよく立ち上がった。


「おるって言ったから、そうけって。夏希に好きな奴おるとか驚いたや。俺の失恋話なんて聞きとぉないやろから、はぐらかしたら怒りよって」


 背中にドスっと衝撃が走り、秋平は一瞬にして息ができなくなった。全身に冷たさを感じ、本能的の上へともがいた。


「なにすんじゃ!」秋平はプールから顔を出した。


「お前ほんまにアホやの!」田城は秋平を見下ろしている。


「はぁ?」


 秋平が顔についた水を払いながらプールから上がろうと縁に近づくと、横で大きな音がした。波が押し寄せて来る。音のした方を見ると、田城が水から顔を出したところだった。


「お前はアホじゃて言うたんや」頭を振って田城が言う。


「なんじゃい。お前も夏希と同じこと言いよって」


「当たり前やろ。お前もっと山本さんのこと見いや!」


「イヤ言うほど見とるが」秋平は腕を払って田城に波を寄せた。


 すると田城も同じように秋平に水をかけてきた。


「見とって分からんとか、どうしようもなくどんくさい奴やの!」


「それも夏希が言うとった!」


「こんな奴のどこがえぇんじゃ、山本さんは」田城はボソッと言った。


「はぁ?」秋平は先にプールから上がり、田城の方へ手を差し出した。


「どんくさいくせに気ぃ使えるところやろな」また田城はボソッと言って秋平の手を取るとプールから上がった。


「なにを言っとんじゃさっきから」


「お前らなにしとんじゃ!」どこからか怒鳴る声。


「やべ。先生来よるぞ。はよ!」田城は秋平を引っ張って急かし、カバンと靴を持った。「逃げるぞ秋平!」


「ちょ、おい!」


 水を含んだ制服が体に張り付いて重い。それでも2人で走り、プールから脱出するとケラケラ笑いながら学校を出た。


 「あーぁ。自転車置きっぱじゃ」秋平は学校の方を振り返った。


「明日も部活あるが。えぇやん」シャツを絞りながら田城が言う。


「ゆっくり帰ったら乾いとるじゃろ。ほんならまた明日。日曜の約束忘れんなよ」秋平に念を押すように指をさすと田城は家路に向かった。


「なんじゃあいつ?」田城の後ろ姿を見ながら秋平はつぶやいた。








19、



 「なんでそんなに濡れてるの?」


「え、冴織さん...」


 冴織が玄関の戸に背を預けて座っていた。数日ぶりに顔を合わせたので、秋平は自分の格好もあってか顔が熱くなった。


「待ってた。帰ってくるの」


「え、あ、うん」秋平はまごついた。


「プールにでも飛び込んだの?」冴織は立ち上がった。


「うん。そう」秋平の制服は歩いているうちに大半が乾いたものの、側から見るとまだ濡れているとわかる。


「そっか。青春だね」


 柔らかく微笑んだ冴織を見て、秋平は落ち込んでいた気分が一気に跳ね上がった。期待してはいけないとわかっていながらも、彼女への想いが胸を圧迫する。


「話したいことあったんだけど、このあと時間あるかな」


「うん」秋平は食い気味に返事した。


「着替えてきなよ。離れにいるから」冴織はそう言うと離れの方へ歩いた。


 秋平は急いで裏口から家に入った。


「母ちゃん!タオル!」


「なんじゃあんた。そない濡れて」台所にいた母は秋平を叱った。


「えぇけ。早よぉタオルください」


 タオルを受け取って全身を拭いたあと、秋平は部屋にカバンを置いてTシャツに着替えた。急ぎすぎて裏と表を間違えそうになった。


 部屋を飛び出て離れへ向かう。話の内容よりも冴織とまた話せることが秋平は嬉しかった。


 「冴織さん」縁側に回ると冴織はそこに座って、また遠くを見ていた。


秋平が近づくと冴織は隣に座るよう手で床を叩いた。秋平は冴織から目を逸らさずに座る。


「早かったね。まだ髪が濡れてるのよ」冴織はクスッと笑った。


「あ、うん」秋平は照れて(うつむ)きかけたがやめた。


「部活は順調?」


「うん」


「宿題は?」


「もう(ほとん)ど終わり」


「そっか。すごいね」冴織は俯いた。「ごめんね。ここ数日、ずっと書いてたんだ」


「あ、うん」


「だからあとは編集と話して、細かい修正だけなの」冴織はパソコンの方に目をやった。


「うん」


「だから」秋平のことをまっすぐ見つめる。「土曜日にここを出ようと思って」


「え?」


 眩しい日差しがギラギラと照りつけているというのに、秋平の目から輝きが消えた。


 冴織と秋平の間は冬の夜のように冷たい。


 蝉の声をいくつか聞いたあと冴織が口を開いた。


「おばあ様には言ったけど、秋平くんに早く知らせたくて」


秋平は冴織の手に視線を落とした。あの指環が小指にいる。


「ありがとう。秋平くんのおかげでいい本ができそう」


 秋平は声が出なかった。冴織が帰るというのは最初から知っていたのに、どこか夢のように思っていた。かといってずっとここにいるというのも現実的に思えない。


 冴織に視線を戻すと彼女はまたどこかを見ていた。


「今日も暑いね」


「...うん」


「ここはすごく良いところだったよ」


「うん」


「良い経験させてもらっちゃった」


「うん...」


「親戚とか色んな人に出会えたし、」


「俺じゃあかんの?」


 冴織の表情が固まった。開いた口がゆっくり閉じられ、力が入る。


「そんなこと言わないで」


「なんで?」


「苦しくなるから」


「なればえぇ」秋平は吐き出すように言った。「俺みたいに苦しくなればえぇ」


「やめてよ」冴織の声は震えていた。「私じゃない人を好きになりなよ。私みたいな最低な奴じゃなくて、もっと純粋で良い子を好きになりなよ」


「冴織さんがそうや」


「私は違う」


「冴織さんは純粋で綺麗で良い人や。だから俺は好きなんじゃ」秋平は自分の胸の苦しみが冴織と同じものだと思っていた。


「それじゃダメ」


「え?」


「それだけじゃ、ダメなんだよ」冴織は大きくため息をついた。


 秋平は冴織の言葉が理解できなかった。好きなだけじゃダメな理由はなに?


「俺...。冴織さんが来てから毎日楽しかった。本も読んだし、勉強もする様になった。自分でも変わったってわかる。それは冴織さんがきてくれたからじゃ。好きになったからや」


冴織は首を振った。


「なにがあかんの?」


「なにも」


「じゃあなんで?」


「秋平くんからすれば突然やってきた年上の小説家が珍しく映ってるだけ」


「んなことない。歳の差じゃったら、」


「違う。そんなことじゃない。秋平くんが思ってるより22歳って大人じゃないんだよ」


「わからん。冴織さんの言ってることが」


「君の好きと私の好きは違うから」冴織は淡泊になった。「ここへは小説を書きにきた。でも本当はそれだけじゃないの」


「え?」


 何時間も時が過ぎたように感じられた沈黙のあと、冴織は冷たく言った。


「おばあ様にはバレちゃったけどね。何かわかるかもしれないって思ってた」


「なんのこと?」ゆっくりと秋平に時間が戻ってきた。


「あの人...。父を探しにきた」


「春臣おじさん?」


「そう。最近連絡を取ってないって言ったけど、本当は2年前から行方がわからないの」冴織は俯いて話した。


「私の祖母、美佐子おばあちゃんから、父は昔この辺りに住んでいたって聞いて。何かわかるかもしれないと思って、ここへきてから半月くらいは調べ回ったけど、結局なにも見つからなかった」冴織は遠くを見た。


「もうここにいる理由は何もない。私は秋平くんが思ってるような人間じゃない。言えないこととか、嘘ついてることだってたくさんある。私にはもったいないよ。私の好きなんて汚れているもの」


 冴織の話していることを秋平は理解しているようでしていなかった。


「汚れててもええ」つぶやくように秋平が言うと、冴織は悲しげに微笑んだ。


「あなたにあげたくない」


 その言葉で、秋平の心臓は止まってしまった。冴織は自分を受け入れてくれない。冴織の全てを自分は受け入れることができるのに。何がダメで、何が足りないのかわからない。


「私はただ一瞬、ここにいただけ。それで君の全てを奪うつもりはない」


 秋平の頬に汗が伝った。無意識にそれを腕で拭う。


「可能性は少しもないん?」(かす)れた声で秋平は聞いた。


 冴織の胸は(えぐ)られた。秋平は良い子で、みんなに好かれている。自分のような人間が影響させてはいけない。少しの希望も見せてはいけない。今度こそ、自分が彼を傷つける。


「ない」


 冴織はハッキリと目に見えるくらいの線を引いた。


「...わかった」秋平の頬にまた汗が伝った。「ごめん、冴織さん」


「こっちこそ、ごめんね」


 冴織はあの青いタオルを取ってきて秋平に渡した。秋平はそれを受け取って顔を(うず)めた。冴織と、何か別の匂いがした。


 秋平は深く打ちのめされて、しばらくタオルに顔を押し付けたままだった。冴織は彼の隣でどこか遠くを見ていた。









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