6〜7
6、
7月23日(月)
「ダメダメダメ!絶対に嫌や!」
「お前えぇ言うとったや!」
部活が終わり、部室で制服に着替えているところだった。田城はしっかりと秋平の家に作家が来ていることを覚えていて、しつこく秋平にどんな人か尋ねていた。まさか冴織のような人が来るなど思いもよらなかったので、秋平も今では田城に言ったことを後悔していた。
田城に若い女性が来たと言ってしまったら、何がなんでも家に来てしまうだろう。それだけは言わないように秋平は避けていた。
「泊まってもえぇ言うたや!なぁ作家ってどないな人やったん?」
「知らんがな。泊まってもえぇ言うたんは、母ちゃんに聞いてみる言うただけでえぇとはいっとらん」ユニホームや水筒をカバンに詰め込みながら秋平は言った。
昨夜は冴織と宿題ができるとウキウキしながら眠りについたのに、学校に来た途端、田城がずっとこの調子だったので秋平の気分は一気に沈んだ。
「なら聞きにいくけぇ!一緒に帰ろうや。お前が聞かんのやったら俺が直接おばさんに聞く」田城はなおも主張した。
「あかん」
「なんでや」
秋平と田城は一緒に部室を出た。
「お前、俺のことが嫌いになったんかぁ?中学からの付き合いやろ?」田城は粘った。
「嫌いやないが、この辺にいる奴は大体小さい頃からの付き合いやろがい」
言い合いをしながら駐輪場まで来ると、秋平は自分の自転車に鍵をさした。サドルが日に当たって鉄板のように熱くなっている。秋平は慎重にハンドルを持って自転車を引き出し、またがった。
「んなこと言うなって〜」田城が言う。
「はいはい。いつか聞いておくけ。またな」秋平は自転車を進めた。
「秋平くぅ〜ん」田城が自転車の後ろを掴んで引き止める。
「秋平!」
秋平はドキッとした。今1番会ってはいけない声と田城の声が重なったからだ。
「あ!山本さん」田城は夏希を見つけると嬉しそうな声を出した。「なぁ。聞いてや山本さん!秋平や家に泊めてくれんのやぁ」
まずい。秋平は冷や汗をかいた。
「そりゃ、あんな綺麗なお客さん来とったら嫌やろうなぁ」夏希はニヤニヤしながら言った。
秋平は夏希を睨みつけたが、夏希はいい気味だと思っていた。
「なんや!作家て女の人やったん!?」
「そうやで。若くて綺麗な女の人。私たちのハトコに当たる人やって」
「夏希...」秋平はこのまま自転車を飛ばして帰りたくなった。
「秋平!なんで隠しよんや!早よ言わんかい!」田城が噛み付く。
「別に聞かれとらんし」秋平はそっぽを向いた。
「まぁえぇ。今から秋平ん家行くけど、山本さんもどう?」田城は夏希に聞いた。
「行く行く」夏希は嬉々として答えた。
「はぁ?」秋平は大声で2人を振り返った。
「やってあたしは元々行こうと思ってたし」
「なんでや」
「なによ。自分のおばあちゃんに会いに行っちゃいけんの?」
「もぉ...」秋平はため息をついて肩を落とした。
こんなことになるなんて。夏希とイトコ同士なのが嫌だと思う瞬間だ。隠し事など一切できない。誰も冴織と会わせたくなかったのに。
「おるかどうか分からんぞ」秋平は折れた。
「何を言うとるんよ。あたしはばあちゃんに会いに行くけ」
「俺はおばさんに会って泊まる許可を貰うけ」
「マジかよ...。もぅ」秋平は首を振った。
あとで秋平の家に集合ということで、夏希と田城は帰っていった。秋平は猛スピードで自転車を飛ばして家に帰った。自転車を玄関横に止めて真っ先に離れへ向かう。
「冴織さん?」
入り口から声をかけたが返事がないので、裏に回ってみた。縁側から中を覗いてみても誰もいない。
秋平は首を傾げながら母屋に戻った。居間に祖母がいたので尋ねる。
「冴織さんは?」
「まずはただいまやろ」祖母は秋平を叱ってからお茶を啜≪すす≫った。
「ただいま」
「おかえり。冴織なら父ちゃんと母ちゃんについて畑の方に行っとるよ」
祖母はいつから冴織を呼び捨てにしているのだろうと秋平は不思議がった。そういえば春臣おじさんの娘だと言った時、祖母だけは驚かなかった。いつから冴織のことに気付いていたのだろう?
「私は今週末から頼子≪よりこ≫のところへ行ってくるから。あんたしっかり宿題しとりよ。ゲームばっかりせんと」
「うん。わかっとる」頼子とは秋平の父の姉だ。
「美佐子おばさんの所に行ってたのに、次は頼子おばさんの所に行くんや?」
「そうや。頼子の旦那さんが病気なったから色々と手伝いに行くんや」
「へぇ」
頼子おばさんの家はそこまで遠いわけじゃないので、祖母はすぐに帰ってくるだろう。冴織のことをもっと聞きたかったが、余計なことを聞くなと怒られるはずだと秋平は思った。
「じゃあ来週は佐月もおらんし、ばあちゃんもおらんのやね」秋平は言った。
「そうや。夏休みやからって怠≪なま≫けたらあかんで」
「わかっとるよ」自分はどれだけ怠け者に見られているのだろうと秋平は不安に感じた。冴織にもそう思われているのでは?
「母ちゃんたちはいつ帰ってくるやろか?夏希と田城が来るんやけど」秋平は尋ねた。
「もう帰ってくるやろ」
夜まで帰ってこないでくれと思ったが、そうもいかないようだ。秋平が台所へ行って麦茶を飲んでいると、祖母が言った通りすぐ母が裏口から帰ってきた。
「あぁ秋ちゃん。おかえり。すぐお昼にするけ」
「あー...。夏希と田城が来るんやけど」
「あぁそう」母はなんてことないように言った。
「冴織さんは?」秋平はやんわりと聞いた。
「お昼を一緒に食べよう言うたんやけどね。やることがある言うて図書館に行ってはるわ」
「へぇ」秋平は少しほっとした。冴織が帰ってくる前に田城と夏希を帰してしまわないと。
その後、30分もしないうちに2人は来た。
「お邪魔しまーす」2人は揃ってキョロキョロしている。2人を居間に通すと母がお茶を出してくれた。
「あ、おばさん。夏休み中、泊まりに来てもえぇですか?」田城はさっそく母に尋ねた。
「えぇよ。8月15日から18日はみんなで出かけるからおらんけど、それ以外やったらいつでも来んさい」
「やったー!ありがとうございます」田城はニヤニヤしながら秋平を見たが、秋平は無視した。
「夏希はばあちゃんに会いに来たんやろ。さっさとばあちゃんのところ行ったら?」秋平は言った。
「えぇやろ、秋ちゃん」
母に言われて秋平はムッとした。さっさとこの2人をどうにかしたかったのに。
「ほれ、俺の部屋に行くぞ」夏希は仕方ないとして秋平は田城を自分の部屋へ移動させた。
「で、どうなん?」秋平の部屋に入るなり田城は聞いた。
「なにがや」
「何って、作家さんや」
「残念ながらおりません。それと作家やのうて小説家」
「なんや。つまらんの」チェっと舌打ちをしてから田城は秋平を小突いた。「どんな人なん?」
「ノーコメント」
「なんじゃい!ちぃと教えてくれたってもえぇやろ!」
「うちに来とるお客さんのことペラペラ喋るわけないやろ」
「なぁ。俺も会ってみたい」
秋平と田城はこのようにしばらく小競り合いをしていたが、やがて田城が折れた。
「もうえぇわ。いずれ会えるやろに」
秋平は安心したが、冴織に会わせないよう夏の間中、注意しなくてはいけないというのは気が滅入りそうだった。
「いつ泊まりに来よかなぁ」田城は机の上にあるカレンダーを見た。「8月5日は夏祭りやろ。山本さんと佐月ちゃんの合宿はいつやった?」
「30日から4日までや」秋平も一緒になってカレンダーを見た。
「うへぇ。4日に来よ思たのに、佐月ちゃんおらんのかい」田城は残念がった。
「4日の夕方には帰ってくるよって」秋平は扇風機のスイッチを押して首を振るようにした。「佐月の何がえぇんや。あんなじゃじゃ馬」
「わかっとらんなぁ。佐月ちゃんの兄になれるなら俺がなりたいわ」
「意味わからん」
「甘いなぁ、秋平は」
秋平はふざける田城をよそに考えた。冴織は自分のことをどう思っているのだろう。22歳から見れば高校生は弟のようにしか見られないのだろうか。彼女が姉だったら嬉しい反面、悲しい気分にもなる。
ハトコ同士でむしろ良かったのでは?近すぎず遠すぎない関係だ。もし夏祭りに誘ったら来てくれるだろうか?しかし祭りには夏希も田城も行くに決まってる。けれど一緒に行きたい。秋平はモヤモヤした。
結局、田城が泊まりにくる日は決まらずに午後を過ごした。ひとしきりにゲームをやったり、動画を見てコメントをつけたりしたあと、田城は家に帰っていった。
田城を玄関の外で見送った秋平はついでに離れを覗いてみた。冴織はまだ帰っていないようだった。確か図書館は18時に閉まるので、冴織ももうすぐ帰ってくるだろうと秋平は思った。
冴織が帰ってくる前に彼女に借りた本でも読もうかと玄関の中に入ると、夏希と鉢合わせた。
「なんや、まだおったんかい」秋平は言った。
「おったらあかんのかい」框に座っていた夏希は訝≪いぶか≫しげに秋平を見上げた。
「あ、そうや。夏希は本を読むタイプやろ?」
「うん」
「『おおみやゆき』って小説家、知っとる?」
サンダルのボタンを留めていた夏希は顔を上げた。
「知っとるけど...」
「へぇ。さすが夏希」本を読まない秋平からすれば知っていた夏希は素直にすごいと思えた。
秋平に褒められて夏希は舞い上がった。
「確か、初めて出した本がなんかの新人賞もらっとったんと違うかな?名前だけであたしも読んだことはないけど」嬉しくなった夏希は照れながら話した。
「ふーん。そうけ。サンキュ」秋平は内心、驚いていた。冴織は自身の小説をなんてことない言い方をしていたから、そんなにすごい人だとは思わなかったのだ。それと同時にまたひとつ壁を感じてしまった。
「その人がどうしたん?」夏希は立ち上がった。
「いや別に」
秋平の答えに夏希は眉をしかめた。
「まさか、あの人が『おおみやゆき』なん?」夏希は離れの方を指した。自分の知っている小説家が親戚にいることを嬉しく思う反面、秋平が冴織を気にしていることに腹立った。
「そうや」隠しても夏希にはすぐバレるだろうと思って秋平は頷いた。
「へぇ...」夏希は戸惑った。けれど秋平だって親戚に小説家がいれば気にもするだろうと自分を落ち着かせる。
秋平はつっかけを脱いで框を上った。
「そうや。秋平」夏希は引き戸を掴んで秋平を見る。「夏祭り...行くやろ?」
「ん?おぅ...」秋平も振り返って答えた。
「今年は佐月ちゃんと一緒に回るん?」
秋平はその年によって田城や友達と回ったり夏希や佐月と回ったりする。
「田城が佐月と回りたがっとるからどうかな」
「そうなんや...。じゃあ一緒に回らん?」
秋平は夏希をまっすぐに見た。夏希はギクっとして慌てた。
「いや、ほれ、みんなで!みんなで回ればええやん。田城くんと佐月ちゃんとも。あたし、田城くんに聞いてみるけ。ほんじゃ、またね!」夏希は早口で言い捨て、帰っていった。2人で行こうとは言えなかった。
「なんやあいつ?」秋平は首を傾げた。
自分の部屋に戻りながら秋平は悩んだ。夏祭り、冴織は行くだろうか?いつものように田城や夏希たちと回ろうか。思い切って冴織を誘ってみようか。
そうして悶々としながら自分の部屋に入った秋平は携帯電話を取って『おおみやゆき』と検索した。
最初に出てきたのは彼女のプロフィールだった。横浜出身の22歳。作品は『砂漠に立つ船』『木の上の猫』雑誌にコラムを掲載していたことがある。冴織自身の詳しい情報はなかった。現在執筆中の作品があるとも書いてあったので、恐らくいま書いているのがそうなのだろうと思った。
どこかの新人賞を受賞したが授賞式には参加しなかったらしい。彼女の画像を探してみても本の表紙しか出てこない。SNSもしていないようだ。
本の感想が書いてあるサイトも出てきた。読んでみると、「感動した」や「自分を見つめ直したい」「ぜひ映画化を」と高い評価が書いてあったので、秋平は得意げに他のサイトも見てみた。
こちらには良くない評価がしてあった。「つまらない」「何を伝えたいのかわからない」「中身がない」「内容が曖昧」「書いた人の顔が見てみたい」「賞を受賞するほどか?」
秋平はそこで見るのをやめた。無性に腹が立つ。冴織の何を知っているんだと怒鳴りたかったが、自分はまだ1ページも読んでいない。
急いで隠してあった冴織の本を取り出して読み始めた。1ページ目で頭が痛くなってきそうだったが、気合を出して10ページまで読めた。話の内容をゆっくり噛み締めて理解した。
ふと時計をみるともうすぐ19時になろうとしていた。秋平は慌てて居間に行くと、夕食の準備が始まっていた。
席にはつかず、急いで離れを見に行く。冴織はまだ帰ってきていない。帰り道を迷ってしまったのだろうかと心配になってきた。電話してみようと思ったが番号を知らない。冴織のことはほとんどなにも知らない。誕生日も好きなものも。なにも。
漠然とした不安が秋平を襲った。いても立ってもいられなくなり、自転車に飛び乗る。あたりを見回しながら図書館までの道を辿たどろうとしたが、冴織はすぐに見つかった。スーパーまでの道案内をした時にも通った田んぼ道に彼女はポツンと立っていて、空にカメラを向けている。
「冴織さん?」秋平は声を掛けた。
「あ、秋平くん」冴織は秋平を見ずに答えた。
「何しよるん?」秋平は自転車から降りて彼女の隣に立った。
「綺麗だなぁと思って。でもやっぱりちゃんとしたカメラじゃないと同じような色に映らないね。肉眼の方が綺麗」冴織は空を見上げていた。
秋平は冴織と同じように空を見た。西の空に夕日が沈み、東の空が暗くなっている。
「もう少しなんだけど」
「え?」隣でつぶやいた冴織を秋平は見下ろした。
「この辺は蝉の声が遠いね」
「ん?うん。田んぼしかあらへんからね」急に話が変わったように感じたが、秋平は勘違いだろうと思った。
「都会に蝉はおらんやろ?」
「いるよ」冴織は困ったように微笑んだ。「建物が密集してるから壁に張り付いたりするんだ。ベランダで息絶えてるのを何回も見たことがあるの」
「へぇ」冴織の住んでいる所はどんな所だろう。聞いても祖母に怒られやしないか秋平は心配になったが、街のことくらいはいいだろうと思った。
「冴織さんはどんなとこ住みよるん?」
「うーん...。人がいっぱいいる」遠い自分の家を思い出しているようだった。「いつも音がしてるし。ここみたいな自然の音じゃなくて、人工的な。空が狭くて星も見えないし。なんていうか...。ギスギスしてる」
冴織の感想に秋平はハッとなった。その表現が冴織には相応≪ふさわ≫しかったし、彼女のような人が都会に住んでいることが不思議だった。いま住んでいる場所が好きじゃないように聞こえるからだ。
「でも便利やろ。バスや電車やって数分のうちに来よるし。コンビニだって遊ぶ所だってたくさんあるや」
「うーん」冴織は何かを考えているようだった。
「俺も一度は都会に住んでみたいなぁ。便利やろし楽しそうやけ」沈黙になるのが嫌で秋平はベラベラと話し続けた。
「都会が嫌ならこうやって遊びにくればえぇやん。普通に住んだってえぇ。親戚同士なんやから。ばあちゃんも喜ぶやろし」
「そうだね...」冴織は返事をしたが心ここに在らずという感じで、どこか遠くをじっと見ていた。
夕日はさっきよりも沈み、暗さが増して不気味だった。
「そろそろ帰らんと。この辺は真っ暗になるけ」秋平は静かに言った。
「そうだね」冴織は秋平を見上げた。彼のようにもっと純粋にならなくてはと思った。
「カバン、カゴに入れぇな。傘も貸して」秋平は冴織が持っていたカバンを自転車のカゴに入れて、日傘をハンドルにかけた。
「ありがとう」冴織の声は夕闇の中へ吸い込まれて行きそうだった。
だが秋平は彼女と並んで帰れることを嬉しく思っていた。
7、
金曜日まで冴織は午前中に父と母について行き、午後は図書館へ行ったり小説を書いたりしていた。秋平も変わらず部活へ行き、宿題をこなしたり田城や夏希の相手をしたりした。
7月28日の土曜日、祖母が頼子おばさんの所へ出掛けて行き、30日の月曜日から夏希と佐月は合宿に入った。
7月31日(火)
「冴織さん」
夏の午後。むしむしする気温と熱い日が照る中、秋平は冴織の元へ来ていた。
「どうしたの?」団扇≪うちわ≫で扇≪あお≫ぎながら冴織は入り口まで出てきた。今日は前髪をピンで留めていたのでいつもより幼く見えた。
「あー...。なんかしよった?」
「うん。ちょっと書いてた」
「ごめん。ならまた後で、」
「いいよ。休憩しようと思ってたし。入って」
秋平が中に入ってパソコンのある部屋に行くと冴織は台所へ行って冷蔵庫を開けた。
「その冷蔵庫、どうしたん?」この離れに入るのは佐月と来て以来だ。その時は冷蔵庫なんてなかった。
「中古で買ったの。ここを出るときにまた売るつもり」冴織は2本のジュースを取り出して、1本を秋平に渡した。
「あ。ありがとう」ここに長居するつもりは無いと言われているようで、秋平は少し傷ついた。この離れは冴織が使い始めても生活感がない。
「テレビはねぇよね?」
「うん。元々見る方じゃ無いから」
テレビのない生活は秋平には無理だろうと思った。
「どうかしたの?」冴織は開いているパソコンの前に座った。
「え、うん」秋平は冴織の向かいに座ってジュースをひとくち飲んだ。そしてポケットから携帯電話と冴織から借りた本を取り出す。
「よかったら、アドレス交換せんかなぁ思て...。何かあったときに便利やろうし...」自分からアドレスを交換しようだなんて言ったことのない秋平は、とても緊張してジュースをもうひとくち飲んだ。
「あぁ。うん...。いいよ」冴織はぼんやりとした返事をした。
秋平は安堵してホッとひと息ついた。
アドレスを交換したあと、秋平は間違って消さないように大事にそのアドレスにロックをかけた。
さっそく携帯電話にメールの画面を表示させると、秋平は昨日あったことを思い出した。夏希からメールが来て、田城と佐月と一緒に祭りに行けることになった、という内容だった。
秋平は今日、なんとかして冴織を祭りに誘おうとしていたので、このメールには返信していなかった。
「この本、」秋平は言った。また一気に緊張してきて心臓の音がうるさいくらいだった。
「ん?」冴織は自分の本を見た。
「まだ半分くらいしか読んでないやけど、」少しずつ時間をかけて読み進めていた。
「あぁ、いいよ、焦らなくて。秋平くんにあげる」
「え?」
「家にまだあるし。いいよ」
秋平は嬉しくて笑顔になった。宝物がひとつ増えた。大事に大事に読み進めていこうと決意する。
「ありがとう。ほなら、別の本はちゃんと買うけ」秋平がまっすぐ冴織を見ていうと、冴織はふっと優しく笑った。
そんな笑顔を初めて見た秋平はときめき、冴織にもっと笑って欲しいと思った。いつも困ったように微笑むところしか見ていなかったからだ。たくさん彼女を笑顔にさせたかった。
「ありがと」冴織は言った。
「あ、や」胸を打たれていた秋平は言葉に詰まった。「まだ半分やけど、俺は面白いと思うけ。俺は本読まん奴やけど、それでも読みやすい」
「感想はいいって言ったでしょ」冴織はまた困った笑顔に戻った。
「読書感想文の宿題が出たら絶対に冴織さんの本、選びよんのになぁ」照れを隠しながら秋平はつぶやいた。
「私の本は向いてないと思うよ」パソコンにチラリと視線を向けた冴織は一瞬、白≪しら≫けた目をしてタッチパッドを触り、一度タップしたあとパソコンを閉じた。
秋平は気になったが、尋ねるのはやめておいた。
「宿題は進んでる?」冴織が尋ねた。
「え、あ、うん。ちょっとずつやけど」
「そっか」
秋平は国語以外の宿題から始めていた。なるべく冴織といる時間を引き伸ばしておきたかった。
「自由研究とかあるの?」冴織は続けて質問した。
「ううん。中学まではあったけど、今は無いんよ」
「へぇ。宿題とか懐かしいなぁ」
秋平は冴織があまり身の入っていない話し方をしているのにが気付いた。きっとさっきのパソコンを見たことと関係があるのかもしれない。けれど深く聞けるほど冴織と仲良くない。そのことに軽く凹んだが、冴織のためにも邪魔にならないよう長居はやめようと思った。
「冴織さんは勉強得意やった?」
「全然。よく言われるんだ。作家とかって頭がいいんでしょって。本当はそんなことないのにね。社会や歴史はからきしダメだったな」冴織は秋平がこちらを伺っているのに気づいて取り繕った。
「そうなんや。でもやっぱ頭はえぇやろ」
他愛のない話を2、3つ続けてから秋平は意を決した。
「あの、冴織さん。8月5日て何か予定ある?」
「8月5日?」冴織はパソコンの横にあった手帳を開いた。「ううん。何もないよ」
手帳に色々と書き込まれているのが見えた秋平はドキッとした。田舎でしばらく生活すると言っても彼女にはやることがたくさんあるのだ。
「あ、じゃあ、夏祭りあるけ。神社で。よかったら行かん?」
「あぁ...」冴織少し間を開けてから返事をした。「面白そうだね。行ってみようかな」
「ホンマ!?」急に大声を出した秋平は、驚いている冴織をみてハッとなった。
「あ、いや。よかった」一緒に行こうとは言っていないと秋平は改まった。「よ、よかったら案内するけ」声がどんどん小さくなっていく。
「え、でも。秋平くんは友達と行きたいんじゃない?ほら、夏希ちゃんとかさ。私は1人でも大丈夫だから」
冴織の返事を聞いて秋平は一気に気持ちが沈んだ。
「いや、そうやのぅて...」
秋平は人生の中で初めて、とてつもない緊張と焦りに襲われていた。誰かを誘うのがこんなにも難しいことだったなんて。自分がこんなにもドキドキする人間だったなんて。どうしてこんなにも緊張するのだろう。
とりあえず今は言ってしまわなければ。でも断られたら?そのあとはどうしたらいい?
「どうしたの?」冴織は聞いた。
いや。これは遠回しに断られたことになるのでは?1人でも大丈夫だということは、1人で行く気なのだから。でも案内というのも道のことを指しているのかもしれない。問題は一緒に祭りを回ることなのに。
「だから...」秋平は乾いた唇を舐めた。
冴織は秋平が何を言いたいのか薄々勘づいていた。
「友達と行っておいでよ。今しか楽しめないんだからさ」冴織は後押しした。
秋平は心がポッキリと折れる音を聞いた。言いたかったことが冴織にバレバレだったことも、断られたことも含めて恥ずかしくなり、高いところから突き落とされた気分になった。
「いや、夏希たちとは何回も行ってるし...」秋平はそれでもめげずに、途中に生えている木の枝にしがみつくかのように踏ん張った。
冴織は困ったように目を伏せている。
秋平がもうひと声かけようとした時、秋平の携帯にメールが入った。驚いて慌ててそのメールを開く。
<お兄!夏希ちゃんから聞いたけど、祭りに冴織さんも誘ったらえぇやん。お兄が聞いといてや!>
佐月からだった。秋平は思わぬ助けに感謝した。佐月がロープを降ろしてくれた。しかしみんなで行くとなると田城にも会うことになる。けれど仕方ない。どうしても一緒に行きたい気持ちに任せ、もうこうなったら田城のことはどうでもできるだろうと考えた。
「佐月からメール。冴織さんも一緒に祭り行こうやって」
「え?佐月ちゃんが?」冴織は目線を上げた。
「うん。夏希と俺の友達もおるけど...」秋平は冴織にメール画面を見せた。
「でも迷惑でしょ?全然知らない人がいるなんて」冴織は不安そうに言った。
「いや!俺の友達も冴織さんに会うてみたい言うとったし。それに大人数の方が楽しいじゃろ?」こんなときに田城を使うのは癪に触ったが、冴織が一緒に行ってくれるならもうなんでもいいと思った。
「うーん」冴織は少し考えてから秋平を見た。「わかった」
「ほんまに!?」秋平は再び大声を出した。
「うん」
ロープを伝って秋平は天にも登りそうだった。大興奮してまた別のドキドキが心臓を打つ。
そんな秋平を見て冴織は密かに申し訳ない気持ちになっていた。
「じゃあまた詳しいこと決まったら言いにくるけ!」
「―――うん」