3〜5
3、
「井浦冴織と申します。この度はお世話になります」
落ち着いた風鈴のような声だった。彼女は正座したまま客間の畳に額がつくほど深々と頭を下げた。
「ウチの場所を貸すだけやからなんも出来んかもしれませんが、ゆっくりしていってください」祖母が改まった声で言ったあと、一変していつもの声になった。
「さ、夕ご飯にしましょ」
なんともあっけない紹介に秋平は拍子抜けした。え?それだけ?なぜここにいるかとか、何をしに来たとか、どのくらいここにいるのか、春臣おじさんとどういう関係なのかとか…。
彼女が作家ということは仕事相手?でも春臣おじさんは建築関係の仕事だったはず。接点なんてあるのだろうか?もしかして結婚相手?春臣おじさんはもういい歳で、彼女は若すぎる気も…。
秋平の頭の中に次々と疑問が湧いてきたが口にすることはなかった。この家では祖母の言うことが絶対であり、みんなもそれに従っていた。だから今回のことは祖母が決めたならだれも口答えはできない。
夕方6時過ぎに佐月が家に帰ってくると、家族全員が客間に集まった。客間では井浦冴織の隣に佐月、その隣に秋平。テーブルを挟んで井浦冴織の向かいに祖母、父、母という座り位置だった。
「井浦さんって何歳ですか?作家って聞いたけど、本当ですか?」佐月が物怖じせず質問した。
秋平は佐月に腹が立った。馴れ馴れしく話しかけているのも気に食わない。父や母も秋平と同じように訝≪いぶか≫しげに佐月を見ていたが、本人はお構いなしだった。
「22歳です。えっと、サツキちゃんだよね?いくつ?」井浦冴織は透き通った声で答えた。
テレビでしか耳にしない標準語に秋平はドキッとした。
「15歳です」佐月が言った。
「中学生かな?若いね」井浦冴織は苦笑いで答えた。
「22も十分に若いやろ」祖母が口を挟む。
井浦冴織はふふっとはにかんだ。
秋平はその笑顔を正面からちゃんと見たいと思った。
「作家…と言うより小説を書いてるの。まだまだ無名だけどね。次に書こうと思ってる話が田舎町をイメージしてるから、おばあ様にお願いしてしばらくここで生活させてもらうことになったの」
井浦冴織は説明し終わると、行儀良く手を合わせていただきますと言った。他の家族もいつの間にかテーブルに並べられていた食事を食べ始めていて、秋平も慌てて食べた。
「横浜の人やって。たくさんお土産もろたんや」先ほどとは変わって母が佐月のように話し始めた。
「へぇ!横浜!都会の人なんやねぇ」佐月が口をモグモグさせながら言う。
「そういえば父ちゃんが春臣おじさんの知り合いや言うてたけど、」と佐月は続ける。「おじさんとはどういう関係なん?愛人?」
秋平は佐月を肘で小突いた。いくらなんでも失礼だ。しかし秋平も気になっていたことを聞いてくれたのは有難かった。だが本当に愛人だったらどうしようと不安にもなった。
「佐月、失礼やろ」母が注意する。
井浦冴織は静かに微笑んでいた。
「だって、おじさんもう50近いやん。こんな若い人となんの関係がある言うんよ」
「んな聞くことないやろ」母が再度注意した。
「春臣は私の父です」井浦冴織はさらりと言った。
「えぇ!?」
彼女の言葉に、祖母以外の全員が驚いた。父も母も詳しいことは知らされていなかったのだろう。秋平も春臣に娘がいることを知らなかったのだ。
春臣おじさんは賢くて背が高くて色気があってなかなかのイケメンなのに、結婚する気配さえなかったので秋平は1人でいたい人なのか、男の人が好きなんじゃないかと考えていた。
井浦冴織が春臣おじさんの娘なら、秋平にとって彼女はハトコにあたる。彼女となんらかの繋がりができたことを秋平は密かに嬉しく思った。
「春臣がまさか結婚しとるとは知らなんだ」父が驚いて小声で言った。
井浦冴織は何も言わずにうつむいている。
「春臣の娘やったら苗字は古田やないんか?ばあちゃんもなんで早よぉ言ってくれんのや?」父は先ほどより大きな声で祖母に尋ねた。
秋平も自分から何か質問したかったが、声が出なかった。
「井浦は母方の苗字です」井浦冴織が言った。
「ベラベラ人様の家庭のことをしゃべらんでもえぇ。人には事情っちゅうもんがあるやろ。余計なこと詮索しなさんな」祖母が全員に注意した。
秋平まで怒られた気分になる。だがこの会話でまた様々なことを考えた。苗字が古田じゃないなら春臣おじさんと井浦冴織の母はおそらく離婚していることになるだろう。さっき感じた繋がりが急に薄くなったように思えた。
祖母に注意されてから食卓は一旦静まり返ったが、少しずつ他愛のない会話が再開された。秋平は結局ひと言も喋らずに黙々と夕食を食べた。
食事が終わると母がテーブルの片付けを始めた。すると井浦冴織は立ち上がって母を手伝った。
「あら、えぇよ。冴織さんは座っとって」
「いいえ。お手伝いします。これからお世話になりますし、なんなりと申しつけて下さい」
「そぉ?悪いわねぇ」母は嬉しそうだった。「なんだか娘がもう1人出来たみたいやねぇ。頼りになるわぁ」
「いいえ」
母と井浦冴織は話をしながら台所へ消えていった。
井浦冴織の言葉使いに秋平は質の違いをありありと感じさせられた。春臣おじさんの娘だから彼女は相当『良いお家』で育ったに違いない。彼女と壁があるようにも感じる。
「秋平」
井浦冴織を目で追っていた秋平は突然、祖母に呼ばれてビクッとなった。
「え?何?」ジロジロと見すぎていたせいで何か言われるのではないかと秋平は身構えた。
「冴織さんのサポートしてあげなさい」
「へ?」秋平は意味が理解が出来なかった。
「あんたどうせヒマやろ。冴織さん、夏の間はここにおるけ。道教えたり勝手教えたりしよりんさい言うとるんじゃ」
「あぁ。うん」内容を理解した秋平は少しがっかりした気持ちと嬉しい気持ちが入り混じった。
「余計なことはすなよ」ギロッと祖母に睨まれる。
「はい」秋平は背をピシッと伸ばした。祖母は鋭くて肝が冷える。母と夏希のようにヒマ呼ばわりされてしまったが、この時はそれでよかったと思った。
4、
7月21日(土)
「道を教えて欲しいんだけど、いいかな?」
秋平は午前10時の自分の部屋で、突如現れた井浦冴織に驚いた。昨夜は食事のあとで彼女の姿を見ることはなく、秋平も自分の部屋に引き上げていた。
土曜日の今日もこれと言った予定があるわけでもなかったので、ゲームでもして昼まで時間を潰そうと思っていた。
「え、あの...」秋平は情けない声が出た。
「おばあ様に聞いたら、サツキちゃんかシュウヘイくんに聞きなさいって言われて。サツキちゃんはいないし...。ごめんね、突然」
「いや、全然いいです。はい」秋平は姿勢を正した。
今日の井浦冴織は昨日と全く違って見える。顔を正面から見ているせいもあるが、昨日の綺麗な格好から一変して七部丈のジーンズにTシャツ姿だった。
「スーパーとかこの辺にある?」
「えっと...」彼女と目があってしまったので秋平はパッと逸らし、あさっての方を見ながら考えた。スーパーはこの近くにはない。コンビニさえも気軽に寄れる距離にはなかった。
「ちょっと遠いですよ?」
「うん」そんなことは見ればわかる。と言うような返事だった。彼女は都会から来たのだからすぐ近くになんでも揃≪そろ≫っているのだろう。
「母ちゃんの車でいつも行ってるんです。自転車でも行けるんですけど」失礼にならないよう秋平は丁寧に話した。「よかったら案内しましょうか?僕、ヒマですし」
「いいの?」冴織は微笑んだ。
「はい」秋平は恥ずかしくなって微妙に目を逸≪そ≫らした。
「ありがとう」
昨夜は見れなかった井浦冴織の笑顔を正面から見られて、秋平は心の中で拳を握った。
10分もしないうちに秋平と冴織は陽炎のゆらめく田んぼ道を歩いていた。秋平は自分の自転車を押して、井浦冴織はその隣でカバンを持ち、日傘をさしていた。
「本当に歩きでいいんですか?」秋平は聞いた。家にある母の自転車を借りることも出来たのに。
「歩くのが好きなの。景色もゆっくり見られるでしょ?」
「そうっすか...」秋平にとっては変わり映えのしない景色でも、彼女には珍しいものなのか。
「シュウヘイくんは高校1年生だっけ?」日傘の向こうで井浦冴織が言った。
「あ、いや。2年です。11月で17になります」
「そっか。部活は?」
「野球部」
「へぇ。しっかり日焼けしてるもんね。身長はどのくらい?」井浦冴織は秋平を見上げた。
「え。あー...。175cmくらいです...」ドキッとした秋平は身長を誤魔化した。本当は173cmなのに。これからまた伸びると自分に言い聞かせる。実際に高校に入ってから10cmは高くなっていた。
「そうなんだ」彼女は前を向いた。
秋平はひっそりと井浦冴織の身長を予想した。恐らく160cmもない。そんな小柄な体が自分の隣を歩いているだけでドギマギした。
道だけでなく他にも色々教えてあげようと思った秋平は質問した。
「井浦さん...はスーパーに行ってどうするんですか?」
ふふっと小さな笑い声が聞こえた。けれど、日傘のせいでその笑顔を見ることは出来なかった。
「冴織でいいよ。敬語も使わなくていいし」
「え、あ、うん」秋平にとって大人と話すのは家族や親戚、先生か近所の人くらいだったのでどう話せばいいのか迷った。
「食材を買うんだよ」スーパーとはそういう所でしょ?と言う口調だった。
「え?」
「昨夜はお呼ばれしちゃったけど、今日からは自分でやるから。おばあ様は住む場所だけ貸して下さったの。その他のことは自分でやりますって私もお願いしたし」
秋平はてっきり毎食一緒にできるものと思い込んでいたのでショックだった。
「あ、離れの掃除してくれたんだって?ありがとうね」冴織は再び秋平を見上げた。
「いや、僕は何も...」ショックだった秋平は冴織に見つめられて一気に舞い上がった。手伝いをしてよかった。
「シュウヘイくんはさ...」冴織が言った。
「なん、ですか?」方言が出ないようにしたいのだが上手くいかない。それに敬語が出てしまう。
「秋≪あき≫って書くんだね」と秋平の自転車にマジックで書かれた名前を指さした。
「そう。ウチの親、楽観的な人たちやから」
「じゃあサツキちゃんは?」
「5月に生まれたから。美佐子おばさんと同じ佐の字に月って書くけど」
「そうなんだ」
「冴織さんは?」自然と冴織の名を呼べたことに秋平は内心喜んだ。
「私?私は...。特に意味はないよ。冴≪さ≫えるに織≪お≫る」どこか気の抜けた答え方だった。
「へぇ」秋平は冴織の顔を見たくなったが、中々見えない。
「今の高校生って何してるの?」
冴織が話を変えてしまったのでそのまま流れに任せて会話をしていると、徐々に秋平の緊張も取れていつもの話し方になった。
「ここがスーパー」2人は時間をかけてスーパーの前まで歩いてきた。
「ありがとう。あと、図書館ってある?」冴織はスーパーを見上げながら尋ねた。
「え?」
「ここからは遠いかな?」
「いや、高校の近くにあるけ。ここからも近いんよ」
「案内してくれる?」冴織はまた秋平を見上げて頼んだ。
「もちろん」秋平は照れながら微笑んだ。
「ありがとう」
早速2人はスーパーから歩いて10分もしないところにある図書館を目指した。
「ここに通っとるんよ」秋平は途中にあった高校を指した。
「そうなんだ」冴織は校舎を見上げながらまた気の抜けた声で言った。
冴織が校舎をひと回り見終えると、2人は再び歩き出した。そして高校から300mほど先にある図書館にたどり着く。秋平には全く縁のない場所。
「本、借りられるかなぁ」秋平がTシャツの首元で汗を拭っていた時に冴織は言った。
「え?」
「ほら、図書館ってこの町に住んでたりしないと本は借りられないじゃん」
「あ、じゃあ佐月がカード持ってるけ。聞いてみよか?」
「いいの?」冴織は秋平を見た。
「えぇよ。佐月もそんなに本借りんもん」秋平はニッと笑った。
それ見て冴織は胸に小さい針が刺さったように感じた。
「何から何までありがとう。暑いからスーパーで買い物してさっさと帰ろうか」
「うん」
「あっ!秋平」
スーパーへ戻るために高校の前を通ると、制服姿の夏希と出会してしまった。
秋平はいい夢から覚めた気分になり、夏希は秋平が知らない女の人と歩いているのを見て面食らった。
「な、なにしよん」夏希は少しうわずった声で聞いた。
「夏希。お前もなにしよん」秋平は小声で答えた。
「あたしは今から部活ですけど?」夏希は少しキレ気味に言った。160cmを越える夏希は冴織を見降ろし、ジロジロと観察している。
「道案内しよったんや」秋平は冴織を隠すように1歩前へ出た。
イトコである夏希にとっても冴織はハトコに当たるのだと秋平はこのとき気付いた。
「その人、誰なん?」夏希は秋平の態度にさらに苛立った。
「春臣おじさんの娘さんやて」秋平は渋々説明した。
「はぁ?」
「だから、美佐子おばさんの孫」秋平は夏希が理解できなかったと思って言い方を変えた。『俺らのハトコ』とは言いたくなかった。親戚が多いとなんともややこしい。
夏希は秋平の家族と同じように混乱していた。春臣おじさんは独身だと思っていたし、小さな頃から彼を慕っていたからだ。
「なにそれ!意味わからんのやけど!」夏希は怒った。
「あ、あとでちゃんと説明するけ。お前も部活あるやろに」秋平はどうにかして夏希から解放されたかった。
「部活終わったら秋平ん家≪ち≫行ったるからね!」夏希はヤキモキしながら冴織と秋平を見たあと学校に入っていった。
「なんや、夏希のやつ…」困った兄弟を見るように夏希を見送っていた秋平だが、隣から小さな笑い声が聞こえたのでパッと冴織に視線を移した。しかし彼女はもう笑ってはいなかった。
「仲がいいんだね。あの子と」
それが田城の言い方と似ていて、秋平は慌てた。
「ち、違う!あいつはイトコの夏希いうて、兄弟みたいなもんやし」
「そう?まぁ誤解されると困るもんね。あとで私からも夏希ちゃんに説明するよ」
何を誤解されるのか秋平にはわからなかったが、このあと夏希が家に来てまた冴織と会うのかと思うと、少し気が重くなった。
しかし2人でスーパーに戻った時には再び夢気分になっていた。
5、
夏希はあのあと本当に秋平の家に来た。母と佐月も説明していたので、夏希は冴織がハトコだと信じたようだ。冴織が夏希に声をかけると、なぜがその場がぎこちない雰囲気になった。
その日の夜、秋平は携帯電話で「井浦冴織」と検索した。小説を書いているのなら何かヒットするのではと思ったが、出てきたのはSNSなどのアカウントばかりで、小説家を加えて検索してみても見つからなかった。
試しに適当なSNSアカウントを見てみたが、どの人も違うようだった。
もしかしたら冴織は別名で小説を出しているのかもしれない。冴織のことをよく知りたかった秋平は、彼女の本を読んでみたくなったのだ。
翌の日曜日、秋平は佐月と一緒に離れを訪れた。佐月がいいタイミングで離れに行ってくると言ったので、秋平もチャンスだとついていくことにした。
「冴織さーん」離れの引き戸を開けて佐月が呼ぶと、冴織はすぐに出てきた。
「どうしたの?2人揃って」
「遊びに来ちゃった。ダメやった?」
「ううん。いいよ。ここは2人の家でもあるんだから好きなように入ってきていいよ」
佐月は喜んでズカズカと入っていった。冴織はノースリーブのワンピースを着ていて、なんだか新鮮に見えた。
秋平も中へ入ると空き部屋にしたひとつには布団とキャリーケースとダンボールが置いてあり、隣のもうひとつの部屋にはローテーブルとその上にノートパソコンが置いてあった。
「そういえば風呂は出んのやった?」秋平が思い出して聞いた。
「うん。でもシャワーだけでいいよ。横浜にいる時も夏はシャワーだけだったし」
都会の名前が出ると秋平は急に冴織が遠く感じた。
「あ、そうや。冴織さん。これ図書館のカード」佐月が冴織にカードを渡した。
「ありがとう。すぐ返すね」
「えぇよ。なぁ、これパソコンやろ?えぇなぁ。学校でしか使ったことないけ」画面がつけっぱなしになっているパソコンの前に佐月が座った。
「なんや、難しそうやねぇ」画面を見ながら佐月はつぶやいた。
「慣れれば平気だよ。よければ使う?」冴織は佐月の隣に座った。
「え?いいの!?」
「うん。ネットに繋がるようにしてあるから好きに使っていいよ。バックアップはとってるからちょっと失敗しても大丈夫」冴織は勇気付けるように頷いた。
「やったー!うちはパソコンどころか携帯も制限かかっとるけ。不便だったんよ」佐月はバンザイと喜んだ。
「秋平くんも好きな時に使っていいからね」冴織はボーッと立っている秋平を見た。
「え、あぁ…」話を振られて秋平は驚いた。
「ねぇねぇどうやって小説書いとるん?」佐月は聞いた。
「どうやって…?普通に打ち込んでるけど…」冴織は戸惑った。
「そうやなくて。文章て書くの難しいやん?どうやれば上手く書けるんやろうて。ウチ、いつも国語の作文、苦労しとるんよ」
「うーん…」冴織は首を傾げた。
秋平は間合いを取るようにゆっくりと冴織の向かいに腰を下ろした。
「上手く書こうとしなくても、自分の思ったことを書けばいいと思うよ?」
「それが難しいんよなぁ〜」佐月は天を仰いだ。
「まぁ書く癖をつけておくのも大事かな。日記をつけるとか手紙を書くとか。毎日じゃなくても楽しいこととか辛いことがあった日だけ書くとか」
「へぇ。やってみよかな」
「冴織さんはどんな小説書いとんの?」秋平は思い切って聞いてみた。冴織の名前を呼ぶだけでもかなり声が詰まってしまう。
「そうや!ウチも冴織さんの本、読んでみたい!」佐月が同意した。
「うーん…」冴織は困った顔をした。「なんか恥ずかしいなぁ」と言いながら冴織は立ち上がり、隣の部屋に入った。
ダンボールの中から小型の本を取り出して戻ってくる。それをそっとローテーブルの上に乗せると、秋平と佐月は覗き込んだ。
表紙は夕日が沈む砂地に、逆光で黒くなった船が立っている写真だった。タイトルは『砂漠に立つ船』作者の名前は『おおみや ゆき』と記されている。
「すごーい。これってペンネームとか言うんやろ?」佐月が聞いた。
「ペンネームは漫画家やろ」秋平が言った。井浦冴織と検索しても出てこないわけだ。本を読まない秋平は『おおみやゆき』と聞いてもピンとこなかった。
「小説家でもペンネームって言うよ」冴織は髪を耳にかけながら言った。
「へぇ。そうなんや」秋平は冴織の仕草に見惚れた。
「ねぇ、どんな話なん?」佐月が口を挟んだ。
冴織は本を裏返してそこに書いてあるあらすじを指した。
「うーん。難しそう」あらすじを読んで佐月は唸った。
秋平も読んでみると、1人の少女が人間関係に悩まされながらも変化しながら成長していくというような文章だった。
「うーん」秋平も唸った。「なぁ、これ読んでみてもえぇ?」と思い切って聞いてみる。
「いいけど…。恥ずかしいから感想は言わないでね」
困ったように微笑む冴織をみて、秋平は胸を打たれた。絶対に最後まで読んでやろうと決心する。
「なんで、おおみやゆきなん?」胸打たれている秋平をよそに佐月は尋ねた。
「うーん…。特に意味はないよ。わかりやすいほうがいいかなって」
「ふーん。でもえぇよね。別の名前があるって。なんかカッコいい」
「そうかな?」
秋平は昨日の会話を思い出した。冴織は自身の名前についても同じことを言っていた。
「冴織さぁん。夏休みの宿題、国語の文章問題と読書感想文あるんやけど、助けてくれん?」佐月は拝むように手を合わせて冴織に頼んだ。
「おい、佐月、冴織さんも忙しいんやぞ。宿題くらい自分でやれや」
「なんよ。お兄だって宿題ピンチのくせに」
「いいよ。私で力になれるかわからないけど」2人を宥≪なだ≫めるように冴織は優しい口調で言った。
「やったー!」佐月はまた手をあげて喜んだ。
「えぇの?冴織さん」と秋平。
「いいよ。秋平くんも、私でよければ手伝うし」冴織は秋平をじっと見た。
秋平は心臓が喉元まで上がってくるようだった。
「でも、仕事の邪魔なるやろし…」
「平気。いつだって字は書けるし。私も色々と参考になりそう」
「じゃあ…。お願いします」秋平は嬉しくなった。なんとなく冴織とは滅多に会えない気がしていたから、会える口実ができた。それに本当に宿題がピンチでもあった。
「やっぱお兄もやるんやんけ」佐月がジロっと秋平を睨む。
「えぇやろが」秋平も睨み返した。でも気分が浮ついていたせいで上手くはいかなかった。