25日目 8月6日(金)
「馬鹿にい、お母さんは?」
「俺が起きたときにはもういなかった。散らかすだけ散らかして、片付け全部押し付けやがって」
朝。和室の掃除をしていると、瑠美が入って来た。
「昨日何話してたのよ。随分ヒートアップしてたみたいだけど」
「聞こえてたか」
「別に、内容までは。またお母さんと喧嘩したの?」
「まあな」
「いい加減、そういう人だって認めてあげたら。性格が合わなくても、家族なんだし」
「嫌なこった。絶対認めない」
俺のことを蔑ろにするような母親だ。最期にしか会わないとわざわざ言ってきたのだから、こっちから好いてやる理由もない。
「もう。そういうとこばっかり意地っ張りなんだから」
「そういうとこってどういうとこだよ」
「潔癖みたいなとこ」
「はぁ?」
掃除は嫌いではないが、潔癖と言われるほど綺麗好きではない。
「それじゃ、私は部活行くから。馬鹿にいも来る? OB役」
「いや、今日はいい」
「そ。せいぜい勉強頑張りなさい」
勉強以外の選択肢が残されていないというのも、悲しいものである。だからといってわざわざ勉強に熱中するような人生ではない。
そうは考えつつも、やることがない。そこで試しに机に向かってみたが、勉強には手が付かない。
代わりに、母さんに関する心の整理はついた。いつも通り、考えても無駄というやつである。昨日説得して無理だった時点で考えてもどうしようもないことの仲間入りなのだ。
どうせ会えない母さんよりも、今重要なことは同居人である。時間があるのだから、お菓子の一つでも作って献上しようか。それで夕食を忘れるようなヘマはもうしないが。
「ただいま」
「おかえり」
「今日の晩ご飯は? 鯖?」
「当たり。よくわかったな」
「愚鈍な馬鹿にいと違って鼻がいいから」
「焼き魚はともかく、魚の種類まで分かるのはすごくないか?」
「普通よこんなの」
「お、おう。急に謙遜するなよ」
焼き魚はグリルの掃除が面倒という理由で敬遠しがちなのだが、たまにはということで選んでみた。鯖が安かったというのもある。
「馬鹿にい、今日外出した?」
「買い物くらいは」
「ご飯の後、散歩行かない?」
「え。急にどうした」
食後の散歩というと、ご高齢の方のイメージがある。だからといって嫌というわけではないが、瑠美の提案は意外であった。
「運動不足じゃないかなと思って。勉強も大事だけど、健康の方が大事だし」
「変な気遣いだな。別にいいけど、瑠美まで来るのか? 自分の運動不足は自分で解消するぞ」
「馬鹿にいだけじゃ迷うかもしれないし」
「土地勘くらいはあるつもりだぞ」
わざわざ俺のためについてきてくれるというわけでもないだろう。思い当たる理由と言えば、カロリー消費。ここ最近、毎日のように俺がお菓子を提供するものだから、そこが気になっているだろう。
「わかった。じゃあ一緒に行くか」
瑠美は何事もないように頷いた。
食後。案の定片付けに手間取り、随分遅い出発となってしまった。周囲は街灯に照らされているものの暗く、人通りも少ない。
「どこまで歩く? どっかの公園とかにするか」
「そうね。あの見晴らしのいい公園にしましょう。ちょっと遠くの」
「あれか。いいぞ。ちょっと早足で歩くけど、ついてこれるか?」
「大丈夫よ。走ってくれてもいいくらい」
体の大きさが違うということは、歩幅も違うということだ。俺の早歩きは瑠美のジョギングくらいの速さになる。
「走るのはちょっとな。疲れるし」
「元運動部が情けないわね」
「無理言うなよ。もう引退したんだから」
「そうね。元々サボり魔だったらしいし」
瑠美は俺のことをサボり魔だと認識しているが、そんなものではない。俺が部活に参加したことなど一度もない。完全に幽霊部員である。
「否定はしない」
「あっそ」
ちょくちょく会話をはさみながら、目的の公園へ歩く。閑静な住宅地を、時折空なんか見上げながら歩いていると、前から人が歩いてくる。俺たちと同じく散歩中らしい中年男性である。
挨拶するわけでもなくすれ違うわけだが、今まで隣にいたはずの瑠美が俺の後ろに陣取った。別に道幅が狭いというわけでもなく、男性と触れ合うような距離にもならない。
「どうした?」
「べ、別に」
そう言って瑠美は元のポジションに戻る。
「なんだ、あの人が何かしたのか?」
「そういうわけじゃないけど、ちょっと怖くて」
「何が?」
「もしかしたら、あの人がナイフを隠し持ってるかもしれないし」
「杞憂が過ぎるだろ。誰がこんな通りの真ん中で殺人事件を起こすんだ」
「でも、ここで刺されても目撃者はいないのよ」
「そりゃこんな時間だしな」
日中すれ違ったところでなんとも思わないだろうが、宵闇の効果だろうか。幾分か怖がりになっているらしい。
「それで俺を盾にするのもどうかと思うけどな」
「馬鹿にいは図太いから、そんなこと考えないでしょう?」
「図太いかはともかく、考えないな」
「なら大人しく盾にされなさい」
どうせ起こらないことだからいいのだが、妹に盾扱いされるのは微妙な気分である。
それからもしばらく歩いていると、今度は女性が目の前の角を曲がってきた。
「ひっ!」
瑠美は小さく悲鳴を上げて、俺の服を思いっきり掴んで隠れた。通りがかった女性は何事か独り言を発しており、こちらに何ら興味を示すことなく過ぎ去っていった。
「おい瑠美。今のはいくら何でも失礼だぞ」
「だって。独り言が」
「独り言くらいすることあるだろ」
「あんな大きな声でしないでしょ普通。話しかけられたのかと思ったわ」
俺の服の裾を掴み、ちらちら後ろを振り返る瑠美。無論杞憂に過ぎないのだが、過剰に怖がる瑠美はちょっとかわいい。
「電話でもしてたんじゃないか。そんなに気にすることないって」
「でもでも」
「はいはい。わかったから服を離してくれ。伸びるだろ」
瑠美の手を引き剥がし、代わりに握ってやる。小さいくてすべすべの手だ。
「はい。これで怖くないだろ」
こうして手を繋ぐのも随分久しぶりである。父さんが死んで以降なかったような気がする。しばらくお互いの感触を確かめるような時間があった後で、瑠美がキレた。
「子ども扱いするんじゃないわよ!」
瑠美は思いっきり俺の手を振り払った。あまりに予想通りの未来で、少し笑ってしまう。
「馬鹿にして。絶対許さないから」
「許さないとどうなるんだ?」
「女装させた上で奏ちゃんに写真を送る」
「許してくださいお願いします」
もの凄い勢いで馬鹿にされるに違いない。もしかすると、クラス内くらいには拡散される可能性もある。
「ふん。主人に逆らった奴隷の末路、って何この音」
言われて耳を澄ませると、何らか機械が稼働している音が聞こえる。この何もない路地に。住宅からという大きさでもない。
「ねえ、何この音」
「何だろうな」
自分で振り払っておきながら、今度は瑠美から手を握ってきた。手首を掴まれたと言った方が正しいか。完全に及び腰である。
「そういえば、昔こんな話があってな」
「え?」
「ある男性が夜道を歩いていると、ちょうどこんな感じの機械音が聞こえてきて、そしてだんだん近づいてくるんだ」
「え? え?」
戸惑っている瑠美を連れ、俺は歩を進める。すると、話の通り、だんだん音が大きくなっていく。
「そして、その音が男の目の前まで近づいたとき、突然」
ガタン。
「ひっ!」
見計らったようなタイミングの物音に瑠美はビクッと体を跳ねさせて、俺に飛びついてきた。瑠美の身体が俺に密着し、とても歩きづらい。
「その男は機械からジュースを取り出し、乾いた喉を潤しましたとさ」
「は?」
瑠美が気づかぬ間に公園に到着しており、そこには自販機が置いてあった。たまたま居合わせた人がお茶を買って、俺たちを不思議そうに見ながら立ち去っていく。
「ただの自販機の話の何がそんなに怖いんだ?」
「っ!」
暗闇でもわかるくらい顔を真っ赤にした瑠美は俺を突き放すと、思い切り殴りつけた。傍から見れば暴行事件である。
「コロス! ゼッタイ!」
「ちょ、落ち着けって。痛い痛い。足はなしだって。汚れるだろ」
「心が穢れた馬鹿にいみたいな人間には汚れた服がお似合いよ!」
「悪かったって!」
怪談にもならないお粗末な話だが、その役割は十分に果たしたらしい。青ざめた表情から急激に赤くなる瑠美は面白かった。
「お茶奢りなさい」
「はいはい」
街灯の真下で足を組んで座る瑠美に、自販機で買ったお茶を手渡す。
飲みながら、瑠美は身体を震わせた。
「おかげで涼しくなっただろ」
「求めてないわよ。あとで覚えてなさいよ」
俺としては、そっちの方がよっぽど怖い。
「ねえ、近くにコンビニとかなかったっけ?」
「なんだ、まだ奢らせたいのか?」
「違うわよ。ちょっとトイレ行きたくなっただけ」
「でも近くにはないぞ。割と歩くことになるな」
「そう。じゃあ我慢ね」
「なんでだよ。そこにトイレあるだろ」
「は?」
公衆トイレ。お世辞にも綺麗とは言えないが、その役目だけは果たす代物である。
「無理無理。こんな薄暗いところで無理」
「そんなに怖いか?」
確かに、それっぽい雰囲気はある。灯りなんて近くの街灯くらいで、個室の扉を閉めれば本当に真っ暗だろうし、怖いのも無理はないか。
「べ、別に怖くはないわよ。衛生面はちょっと怖いけど」
「大丈夫だって。匂いは最悪だけど、最低限清掃されてるから」
「我慢できるから。ここでするのは嫌」
「そうか? ならいいけど」
瑠美の膀胱が強いというイメージはないが、本人が大丈夫と言うなら大丈夫なのだろう。
「じゃあちょっと景色見て帰るか」
「え、すぐ帰らないの?」
「せっかく来たんだ。ちょっと階段上るだけだし、夜景見ていかないか?」
「でもそこの階段、すごい暗いわよ」
やたらと自然が豊かなせいで、街灯の光も木々に遮られて届かず、ここを歩くのは確かに危険かもしれない。
「じゃあ別ルートで行くか。一回公園から出る方で」
「うー、まあいいけど」
一度公園を出て、舗装された坂を上る。別の入り口からまた公園に入った。
「やっぱ綺麗だな」
「そうね。星もちょっと見えるし」
見晴らしが良く、遠くの家の灯りも見える。住宅地の広がる中にマンションが一つ輝き、それに誘導されるように空を見上げれば、ちらほらと星が輝いている。
「暗いから、足元気をつけろよ」
「言われなくても気を付けるわよっと」
「言ってるそばから。仕方ないなあ」
「子ども扱いするんじゃないわよ」
「安全性のためだ。お互いのな」
「むぅ」
瑠美の手を掴んだ状態で、夜景を眺める。夜とはいえ暑いので、じっとりと手汗をかくが、我慢してもらうしかない。
「ここ、結構風があるのね」
「高台だからか? 開けた場所だから、風通しは抜群だろうけどな」
「昼間は熱風だけど、夜風は気持ちいいわね」
「だな」
「馬鹿にい、お茶ちょうだい」
「あいよ」
風にあたって身体が乾き、口の中も乾いたのか、瑠美は少しお茶を流し込んだ。
「馬鹿にいも飲めば?」
「ん、いいのか?」
「別に気にしないわよ。馬鹿にいのお金で買ったものだし」
「じゃあありがたく」
乾いた喉を潤す。
「ぷは。そういえば瑠美、トイレ我慢してたんじゃなかったか? 普通にお茶飲んだけど」
「あ」
「忘れてたのか?」
「なんで思い出させるのよ」
「それは、すまん」
尿意と戦っているのか、つないだ手をぎゅうっと強く握る瑠美。恐らく、俺への抗議の意味も込められている。
「もう我慢せず下のトイレ行けよ」
「うぅ」
「歩けないなら背負ってやるから」
思い出した上にさらに負荷をかけてしまった結果、我慢が利かなくなってきたらしい。もじもじとして、そわそわと手で太腿をさすっている。
「手遅れになる前に行くぞ」
「おんぶ」
「はいはい。汗臭いのは我慢しろよ」
瑠美を背負い、道を引き返す。なるべく揺らさないように気を付けながら、公衆トイレまでたどり着いた。
「はい。行ってこい」
「う、やっぱ怖い」
「我儘言うな。漏らしてもいいのか」
「うぅ」
呻きながら、瑠美は渋々、トイレの個室に入った。
「ぜったい近くにいてよ」
「はいはい」
しかし、あまり近くでは音が聞こえるのである。妹の放尿音を聞き続けるという謎の時間を過ごしたくはない。
「もっと静かにできないか?」
「はぁ? 喋ってないわよ」
「喋るだけじゃなくてさ。当てる場所を変えるとか」
「は? はっ! 変態!」
「お前が近くにいろって言ったんだろ」
「耳塞いでなさい!」
言われるがまま耳を塞ぐ直前、音が止まった。
「終わったか?」
「黙れ!」
流した後しばらくして出てきた瑠美にタックルをくらい、俺はよろめく。
ともあれ、俺への怒りで恐怖を忘れたなら計画通りである。無論、からかうのが楽しいという要素も多分に含まれているが。
「誰かに言ったらほんとに殺すから」
「はいはい。言う相手もいないから」
「絶対よ」
それでも俺を無視するという結論に至らない瑠美は、やっぱり優しい。




