49日目 8月30日(月)
「今日、翔は死ぬ」
「とうとうか。長いようで短かかったな、50日」
「まだ49日目」
「そうだけど、実質的にさ」
思い返してみれば、平穏だった俺の人生にしては激動と言っていい50日だった。俺なんかでは話すことすら恐れ多いとされた美川から直接身だしなみやら性格やらを指導され、そのお陰で瑠美や奏との関係も良くなったし、一切話すこともなかったようなクラスメイトともある程度は打ち解けられた。
そして、何かを残そうと決めたときに愛羅と関わり始め、なんだかんだと世話を焼くうちにお互いを想い合うようになり、付き合うまで発展した。仮にではあるものの結婚式もしたし、今では子供もできている。まさか、自分の余命を宣告した存在とここまでの関係になるなんて、あの頃の俺は想像もしていないだろう。
そうして俺は、希望に満ちた人生を思い描きながら、死んでいくのだろう。
「翔?」
「ごめん。なんでもない。起きるか」
「うん」
子供ができたとあって、愛羅も繋がりを求めてくることなく、穏やかに着替えを終える。最期らしい、ゆったりとした朝であった。
「あれ、瑠美。早起きだな」
「まあね」
今日の朝食当番は瑠美の予定だった。しかし、俺も日の出すぐのような早朝に作れというほど鬼畜な兄ではない。むしろ、最後くらい俺が作ろうと思っていたくらいなのだが、なんと瑠美は俺よりも早くに起きて、朝食を作っていてくれたらしい。
「はい。できたわよ」
「ありがとう、瑠美」
毎朝のように、三人でテーブルを囲む。放送されているテレビ番組は違うが、メニューも何も、変わったことはない。瑠美が自ら口を開かないのだって、珍しいことではなかった。
しかし今日ばかりは、なんだか瑠美の様子が変だった。黙っていることに違いはなくとも、咀嚼があまりに遅い。俺が食べ終えるまでに、瑠美はほんの数口しか進んでいなかった。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「別に」
「早起きしすぎたんじゃないか。無理しなくても、朝ご飯くらい俺が作ったのに」
冗談のつもりで、苦笑しながら言うと、瑠美は何か反応するでもなく、ただ、パンの上のハムを凝視していた。
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫よ。ぼーっとしてただけ」
「ならいいけど」
瑠美はパンを皿に置いて、向かいに座る俺の顔をじっと見た。
「馬鹿にい、怖くないの?」
「何がだ?」
「死ぬことに決まってるでしょ」
「まあ、怖くないわけじゃない。でも、未練はないから」
強いて言えば、瑠美を一人残すことが未練ではある。けれども、世渡り上手な瑠美のことだ。奏もついているし、大丈夫だろう。
「それに、神様も安楽死を約束してくれたからな」
「はぁ。あっそ」
「ああ。だから、心配はいらない」
気負うことなく、俺は笑って見せた。瑠美を安心させたくて。なんだかんだ家族想いな瑠美は、一番に俺のことを考えていてくれるだろうから。
「馬鹿にい、お母さんには連絡した?」
「いや。してない」
どうせ、子供二人を置いてどこぞへ仕事に行っているような人だ。あの楽観主義者が、今日死ぬと言っても信じないだろうし、わざわざ仕事を切り上げて帰ってくるようなこともないだろう。
「お母さん、残念がると思うよ」
「どうだかな。どこかでまた会えるとか、呑気なこと言ってるんじゃないか」
「それは、そうかも」
俺と瑠美はくすりと笑う。父さんがいなくなってからの、母さんの口癖みたいなものだった。
「今日は、おばあちゃんの家に行くのよね」
「ああ」
ばあちゃんにも挨拶をするためであり、そして俺は、あわよくば向こうで死ぬつもりである。後処理なんかは大人に任せておきたいし、瑠美に色々と負担をかけることも少ないだろうから。お墓も向こうである程度計画を立てている。
「私は行かないけど、暑いから気を付けてね。おばあちゃんに会う前に死ぬとかやめてよ」
「わかってる。熱中症には気を付けるから」
「部屋は片付けて行ってよ。整理するのめんどくさいから」
「ああ。手間はかけさせないようにするから」
終活中の家族らしい会話。それをしているのが高校生だというのだから、世の中何があるかわからないものだ。
「お皿、洗っておくから、準備してきたら」
「ん。わかった。ありがとう」
お言葉に甘えて、部屋で軽く支度をする。とはいえ、日帰りどころか片道切符なのだ。準備するものなどほとんどない。着替えも衛生用品もなく、必要なのは財布だけ。携帯だって解約済みであり、持ち出したところで使いようもない。
「行こうか、愛羅」
「うん。瑠美にも挨拶して」
「勿論」
瑠美の部屋の扉をノックする。返事はない。キッチンで皿洗いでもしているのだろう。朝食のペース的に、まだ食べていてもおかしくない。
「瑠美。そろそろ行くから」
「う、うん」
丁度食べ終えて食器を流しに置いている瑠美に声をかける。瑠美は戸惑ったように声を出して、こちらへやってきた。その表情は、うつむいていてよくわからない。
「今までありがとうな。瑠美がいてくれたおかげで、ずっと寂しくなかったよ」
俺の目の前に立つ瑠美に、そう言葉をかけた。これが一人暮らしだったなら、とっくの昔に俺は心を病んでいただろう。瑠美の機嫌が悪いときは喋らないこともあったが、それでも帰ってきたら家族がいるという安心感は計り知れない。
「瑠美。俺がいなくても、頑張れよ。いざとなったら、奏だっているし、遠慮なく頼れよ。なんて、俺が言えた義理じゃないけど」
「本当よ」
そこで瑠美は顔を上げた。もう何年も見ていなかった、瑠美の泣き顔がそこにある。
「馬鹿っ! 何が寂しくなかったよ! これから私を一人にする癖に! 自分が消えるからって奏ちゃんに押し付けて! 家族なんだから、面倒くらい見なさいよ! 私が大人になるまで! 私が幸せになるまで!」
幾度となく、瑠美は弱弱しい拳で俺の胸を叩く。
「ちゃんと、家族らしく、見届けなさいよ」
その勢いは次第に収まり、ついには、だらりと両腕を下ろした。
「家事も、勉強も、部活も、頑張るから。頑張るから、お願いだから、一人に、しないで」
「ごめんな」
またうつむいて、涙を落とす瑠美をそっと抱きしめる。
どんなに強気で、逞しい妹でも、兄が死ぬことを悲しまないわけがない。一緒に住んでいるたった一人の家族が消えて、耐えられるわけがない。それに気づかなかった自分自身を覆い隠すように、瑠美の泣き顔を胸に埋めさせた。
こんな風にあやしたことなんて、今までにない。幼いころの俺はいつだって、泣いている瑠美に優しい言葉をかけなかった。喧嘩したって、父さんに言われるまで謝りなんてしなかった。
「謝るんじゃ、ないわよ」
今は、謝らなければならないと思った。しかし、違った。
「我儘言うなって、突き放してよ。こんな風に抱きしめられたら、甘えたくなるじゃない」
「ごめん」
「謝らないで」
俺は、瑠美を離した。泣きじゃくる妹を前に、俺は何もしないままでいる。
「ごめんなさい。こんなはずじゃ、なかった。どうにもならないってわかってるのに、無理なことを言って、困らせた」
俺は黙って、瑠美の謝罪を聞く。優しくしてはいけないと、そう言われたから。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「最後に、お願いがあるの」
涙を拭って、瑠美は決然とした表情で俺の顔を見る。
「私のこと、大嫌いって言って。昔、喧嘩したときみたいに」
昔は、たった一言謝っただけで全て水に流せるほど大人じゃなかった。それでも次の日になれば忘れてはいたのだが、その日一日は瑠美のことを嫌いだと言って何かにつけて突き放した。それが、今、望まれている。
「瑠美。俺は、お前のこと」
何かある度に俺を罵る。努力をしたらした分だけ伸びて、いつだって俺より優れた結果を出す。真面目で、妹の癖にいつでもお節介を焼く。瑠美を嫌う理由は、ないわけではない。
しかし、そのどれも、俺にその言葉を言わせしめない。瑠美は、俺の家族で、大切な妹。家族想いで、時には自分で負担を背負い込んでしまうこともあるくらいお人よし。好きになる理由の方がよっぽど多い。
「早く、言ってよ」
それでも、俺は言わなければならない。強くて、俺なんて必要としていないだろうと思っていた妹が、我儘を言っているのだから。叶えてやらなければならない。最期に一言、すっぱり別れるための言葉を。俺の口から。
「瑠美。お前のこと、大嫌いだ」
歯を食いしばった。殴られると思ったわけではない。これが最期になることが歯がゆいからだ。本当は、もっと感謝を伝えたい。家族として、愛情を伝えたい。
それでも、強くて、強がりな瑠美は、それを許さなかった。
「奇遇ね。私も馬鹿にいのこと、大嫌いよ」
そう言って、瑠美は自分の部屋へ走っていった。
「いってきます」
今日から一人暮らしになるこの家に、小さく呟いた。
「ばあちゃーん」
長らく電車に揺られ、幸運なことに事故に遭うこともなくばあちゃんの家に辿りついた。瑠美にはああ言ったが、ここまで来られる確率は半々だと思っていた。
「かーくん? どうしたね。こげな変な時間に」
「ああ、よかった。出かけてなくて」
居間からひょっこり顔を出したばあちゃんの姿に安堵する。夕方なので、家を空けているとは思っていなかったが、タイミングが最後であるだけに、万が一を不安に思う気持ちは否定できない。
「なあばあちゃん、死神って知ってる?」
「唐突じゃの。そろそろお迎えに来るとは思うておるで、愛たんがそうと言われても驚きはせん」
「いや、実は、愛羅が死神っていうのは合ってるんだけど、迎えに来たのは俺なんだ」
「ほぇ」
ばあちゃんらしからぬ素っ頓狂な声を上げる。それと愛たんはきつい。
「それで、今日死ぬみたいだから」
「介錯だの」
「順応早すぎない? そして物騒」
冗談だと思っているからこそなのだろう。しかし、こちらとしては本気も本気であり、遺言状も用意してある。それを見せれば、いかに本気かということが伝わるだろう。
「これ、諸々の話が書いてあるから、俺が死んだ後に読んで」
と言ったものの、ばあちゃんはすぐさま封を切った。ひとしきり目を通すと、一つ頷いて、ばあちゃんはそれをそっと畳の上に置く。
「あいわかった。全部ばあちゃんに任せて、安心してお逝き」
「ありがとう、ばあちゃん」
言い方は悪いが、手慣れた様子で覚悟を決めるばあちゃん。さすが、高校生よりよっぽど死が身近にある生活をしている。
「愛たん、かーくんのこと、よろしう頼むよ」
「任せて」
「ほいで、かーくん。また向こうで会おうで」
「縁起悪いこと言わないでくれよ。ばあちゃんはもっと長生きしてくれ」
何ら重い雰囲気にはならず、ばあちゃんは俺を送り出してくれた。いったいどこで死ぬのだろうかと思っていたが、ばあちゃんは神社を勧めてくれた。果たしてあの幼女神様と祀られている神様が同じかはわからないが、安らかに死を運んでくれるとのことなので、縁起はいいかもしれない。
茜色に染まった境内で、俺と愛羅は呆然と立ち尽くす。
「愛羅、最期だな」
「うん」
「向こうでも会えるのかな」
「多分?」
愛羅でも、神様たちの審判がどのようなものかは知らないということらしい。会えるかどうかわからないというなら、ここでお別れの言葉を言うべきだろう。
「愛羅、今までありがとう」
「翔、みんなに同じこと言ってる」
「感謝を伝える語彙のレパートリーが少ないからな。ごめん」
「いい。翔の言葉は全部本物だから」
「ありがとう」
手を強く握り、改めて言葉にした。
「愛羅を好きになってよかった。幸せだったよ」
「私を置いていくとしても?」
「ああ。俺自身が幸せだったし、愛羅のことも幸せにしたと思ってる。俺が消えても、愛羅は良い記憶をたくさん持ってるから、俺と出会う前より幸せに暮らせるだろうしな」
「正解。私は翔と出会えて幸せだった。この記憶があれば、これからも幸せ」
にっこりと笑う愛羅。そこには別れの悲しみも、寂しさも全く感じさせない。そうして、俺の選択が正しかったのだという風に肯定してくれる。
「愛羅。大好きだ」
「私も」
向かい合って、触れるだけのキスをする。
「翔。私は、翔を好きになってよかった。翔と出会って、いろんなことを教えてもらって、私は満足。だから、翔。どうか安らかに眠って」
今度は愛羅の方から、キスをする。甘い唾液が流し込まれて、俺はそれを躊躇いなく飲んだ。
瞬間、心臓が跳ね、そして停止する。
不思議と、痛みはなかった。次第にふわふわと身体の自由が利かなくなり、死ぬのだということを否応なく実感する。
しかし拒む気は一切なかった。きっと愛羅が、心を痛めて俺に飲ませてくれた薬なのだから。
「ごめんね。翔」
愛羅が看取ってくれるのだ。謝る必要などない。もっとも幸せな死に方なのだから。
「また、会おうね」
日が沈む直前、もうわずかにしか見えない視界で、愛羅の淡い微笑みが見えた。
それに笑顔を返そうとして、俺は意識を落とした。




