4日目 7月16日(金)
「残り47日で、あなたは死ぬ」
「はいはい」
四回目ともなると、目を覚ました瞬間に現れる死神にもさほど驚かなくなった。昨日トラウマを払拭とまではいかないにせよ、軽減してくれるような出来事があったからというのも大きいだろう。
「何かあった?」
「ん?」
この死神が死神としてのアイデンティティ以外のことに興味を示すのは初めてのことではないだろうか。別に話してやる義理もないのだが、その物珍しさに触発されてか、部屋を出るまで付き合ってやろうと思った。
「俺の周りには、案外俺のことを考えてくれてる人が多いんだなって実感したんだ。それで何もかも解決ってわけじゃないが、少なくとも後ろ向きな考えはやめることができた」
「そう」
返事こそそっけないものの、彼女の視線はもっと話せとばかりにこちらを見つめ続けている。そう見られていると着替えにくいのだが、胸を触られて動じない死神に何を思ったところで無駄かと思い直す。
「しかし、死神は俺のことを監視しているわけじゃないのか」
死神は俺の言葉にきょとんとした様子で小首を傾げる。
「昨日、あなたが消えろと言った。だから消えた」
「姿だけでなく?」
「そう。感覚も、思考も、存在全てを消した。私は最低限、朝にいればいい」
存在全てなどと軽々しく言ってくれるが、それは死んでいるというのと同義ではないのか。たとえ翌朝復活するとしても、そう易々とできることじゃない。やはりこいつの倫理観は人間とは違うのだと改めて認識する。
「普段はどうなんだ。監視しているのか」
「監視という言い方には語弊がある。傍観しているだけ。あなたの行動を神に報告する義務は、ほとんど存在しない。死神同士で情報共有することもあるが」
「ほとんど、ねぇ」
「例外については、おそらくあなたには関係がない」
「そうかよ。じゃあどうして人間を傍観しているんだ。報告する必要がないなら、見ていたところで無駄だろう」
「それは、私自身のため。多分」
「なんだそれ」
自分のためだと言っておきながら、本当にそうかはわかっていない様子だ。死神の表情には戸惑いのようなものが見られ、こんな人間らしい顔もできるのだと感心する。
ちょうどそこで時計を見ると、いつも朝食を作る時間だった。包丁を見て正気を保っていられるかどうかはわからないが、昨日の詫びということで、今日は俺が作ることにしようと思う。
「それじゃあな。現れないのなら傍観でもなんでも好きにしろ」
「承知した」
死神は姿を消した。存在ではなく、ただ姿を消しただけ。恐らく今もそのあたりに佇んでいるだろう。いくら死神で、倫理観が違うとはいえ、やはり存在を消せとはもう言えない。
「おはよう、瑠美」
「ん。もういいの?」
「ああ。完全回復ってほどじゃないが。心配かけたな」
「あっそ」
無理にでも作った笑顔で瑠美に挨拶すると、その瑠美は昨日の晩にも心配げだったのとは打って変わって、不機嫌そうにトーストの乗った皿をテーブルに置く。
「今日は学校行くんだ」
「ああ。奏にも心配かけたからな。元気なところを見せないと」
食事中、自分で振っておきながら、瑠美は特に興味もなさそうにトーストを頬張る。何を望まれているのだろうか。
不思議に思いながら、眠気覚ましのブラックコーヒーが入っているはずのカップに手を伸ばし、一口飲む。
「んっ!? なんだこれ」
苦めのカラメルのような、不味いというより変な味だ。しかも、コーヒーがホットであっただけに冷蔵庫にあったコーラと混ざって温く、絶妙に不快だ。
容疑者である瑠美にジト目を送ると、その瑠美は声を押し殺して笑っていた。まるで、というか実際、悪戯が成功した子供の笑顔だった。
「やっぱり馬鹿はカップの中身にも気が付かないのね」
「ぐ」
「節穴な目で可哀想ね」
言い返すこともできず、ただ笑っている瑠美を見ていた。悪戯に引っかかって苛立つ気持ちもあるのだが、彼女の笑顔を見ていると、逆に気持ちが落ち着いてくる。
そして俺は、この悪戯が俺を元気づけようとした遠回しな気遣いである可能性に至った。
「さすがに見たらわかるでしょ。ぷくくっ」
この煽り様を聞く限り、気のせいかもしれない。
二日ぶりに登校した。誰も俺のことを気にかけてなどいない。友達さえもろくにいない、見た目の特徴も、クラスでの役職もないような男子生徒の欠席など気にするだけ無駄というものだ。ただ、奏の友達の女子だけは一瞥をくれた。俺のことについてで、おそらく奏の様子がおかしかったのだろう。そう考えるのも、思い上がりではないと信じたい。
奏は今日、学校にも一緒に来たし、何の憂いもないと言えば言い過ぎかもしれないが、他人から見ればいつも通りの顔をしている。不審に思われない程度にチラチラと奏の様子を見ても、よく笑っている。時折周りに気づかれないように不安そうな顔でこちらを見たりするが、それだけだ。
さて、登校したことで奏や瑠美に不要な心配をかける懸念こそなくなったが、当然のことながら、頭に上るのは今後の身の振り方についてばかりで、授業の内容など頭に入ってこない。それどころか、奏以外のクラスメイトの様子さえ朧気にしか認識していない。
だからだろう。休み時間になって、突然後ろからつつかれた時に、声が出るほどに驚いてしまったのは。
いくら嫌われ者だからと言って、突然声を上げれば、近所の数人が振り返る。そして彼らの目には、学校一の孤高の美少女が俺なんぞにちょっかいをかけているのが映る。
やはりというか、どうしてお前なんぞにという視線はある。奏と共に登校していれば珍しくもないそれを無視するのには慣れたもので、気にすることもなく俺は後ろの美川に何事だという胡乱気な目を向ける。
「この後、時間あるかしら」
「この後って、授業があるだろ」
「勿論サボるのよ」
「それに俺が乗ると思うのか?」
普通の男なら、こんな美少女からまるで逢引のお誘いじみたものを受けたらホイホイついていくだろう。しかし、こっちは余命持ち。特殊な人間に分類される。さして仲良くもない、寧ろ邪険に扱われているような人と過ごすのもどうかと思ってしまうのだ。
それに、今美川と学校を抜け出せば、必ず俺の名は学校中に広まることだろう。今までは、避けられているといえどもそれだけだった。事務的な会話には応じてもらえるし、ただ単に距離を取られているだけ。しかし、一度美川渚とデート等という噂が広がろうものなら、それはあっという間にいじめに発展するだろう。明日には席がなくなっているかもしれない。
「私じゃ、だめ?」
わざとらしく小首を傾げ、上目遣い。瞳を潤ませて、まるで本当に悲しんでいる、ないしは不安がっているように見えるが、机に置かれた目薬は隠せていない。
「だめだな。もっと不細工になって出直してこい」
「ひどい。それが女の子に言うセリフなの」
「知ったことか。やんごとなきお方の気まぐれに構ってられるほど俺も暇じゃない」
「昨日は密会してくれたじゃない」
「おい馬鹿。言い方に気をつけろ。偶然会っただけだろう」
「いつからあれが偶然だと錯覚していたのかしら」
言われてむっと考え込む。確かに、二人が同じ日に休み、同じタイミングで同じスーパーに向かうことなど、普通に考えてありえない。もしや待ち伏せていたのか。もしかして、美川は本当に俺に興味が。
「まぁ、あれは偶然なのだけど」
「おい」
「今のところ急ぐ必要はないからいいわ。今日は勘弁してあげる」
「そりゃどうも」
それきり関わるのをやめてくれたおかげで、その休み時間のうちに俺の悪評が広まるということはなかった。
しかし、天下の美川渚がただ振られただけで終わるような少女かというと、決してそうではない。
授業中。教師の目を盗んで俺の席に投げ込まれた紙屑。奏はそんな悪戯を授業中にするような娘ではない。美川に絡まれたことを不服に思う誰かの犯行かと思われたが、誰も此方に目を向けていない。そうなって思いつくのは後ろの席の奴である。
くしゃくしゃに丸められた紙を広げてみる。そこには英数字の羅列と、文章があった。
『これは私の連絡先。これを不用意に捨てたり、第三者に伝えた場合、あなたの居場所はなくなると思いなさい』
とのこと。半ば脅迫である。これを断ると、あることないことあらゆる人に吹聴され、しまいに瑠美や奏の耳にまで入り、いよいよ47日経つ前に社会的に死ぬのだろう。いっそそれも学校を休む理由になるので良いかもと思ったが、奏と瑠美に冷たい目で見られるのは悲しい。
そういうわけで、帰宅後、その連絡先を登録し、一度電話をかけてみることにした。
「もしもし」
『も、もしもし。どちら様でしょうか』
やけに狼狽した声が返ってくる。おどおどした雰囲気はいつもの美川とは少し違い、独り言の時の雰囲気に似ている。もしかすると、家では、あるいは一人の時はそっちのモードなのかもしれない。
「一ノ瀬だ。今日連絡先をもらったからかけておいた」
『あら、そう。残念だったわね、お風呂中じゃなくて』
「なんでそんなことで残念がらないといけないんだ。とにかく、そっちからの連絡手段はできたから、これでいいだろ。切るぞ」
『待ちなさい。せっかくだから、本題も今のうちに話しましょう。勿論だけど、私の連絡先の紙は誰にも見られないように捨てておいて』
「はいはい」
折り返し電話がかかってこないのなら好都合。どうせ聞かなければならないのだ。さっさと要件を聞いて、関わりを断ってしまいたい。俺の残り47日に、今更誰かと仲良くなる時間はない。
『明後日。土曜日の朝十時にアウトレットに集合しなさい。言っておくけど、拒否権はないわよ。お金も十二分に持ってきて』
「は? アウトレットって言ったって、この近くにはないだろう」
近所のスーパーで会うくらいなのだから、美川の家もそう遠くはないだろう。最寄りのアウトレットだって、電車で一時間はかかる。
『そんなことはわかっているわ。だから秘密の逢瀬にはちょうどいいんじゃない』
妖艶な声が電話越しに伝わってくる。演技だとわかっていても、少しドキッとしてしまう。もしかしたら、本気で俺と出かけたいのではないのか。先ほどは仲良くなる気はないと思ったが、向こうにその気、つまり交際に発展させる気があるのなら話は別だ。恋人との甘い生活というのは、俺の人生でやり残したことの一つである。今まではその具体的なビジョンもなかったが、これはチャンスかもしれない。
「わかった。土曜日だな」
『あら、承諾が早くて助かるわ。それじゃあね』
要件だけ伝えると、美川は随分あっさりと電話を切った。
わなわなと手が震える。初デートの約束をしてしまった。どうにも落ち着かない。デートにはどんな服を着ていけば良いのだろうか。何をもっていけば、美川の気を引けるだろうか。
そんなソワソワとした子供っぽい感情が湧く一方で、醒めた自分も存在していることに気が付いていた。荷物持ちとしていいように使われるだけじゃないのか。それとも、恋人になったふりをして俺に集るつもりではないのか。そんな夢の欠片もない苦々しい思考も浮かんでくる。
しかし、何はどうあれ俺の寿命は残り短い。小遣いなんて惜しくもない。高級デパートでないだけよかったと思おう。美川の思惑がどうあれ、これはデートだと認識してしまえばいい。俺さえ楽しければいいじゃないか。どれだけ利用されようとも、天下の美川渚とデートに誘われたという図式に変わりはない。となれば、めいっぱい楽しもう。
そう考えて、都合の悪い考えは徹底的に排除することにした。長くない命。楽観しているくらいがちょうどいいのだ。
「馬鹿にい、なんか気持ち悪い」
夕食時。瑠美からそんな辛辣なコメントを頂いた。自分では普段通りのつもりなのだが、見る人が見ると違うらしい。
「いやらしいことでも考えてるんじゃないでしょうね」
「冤罪だ」
「ふぅん?」
「ただ土曜日に、友達と出かけるから楽しみなだけだ」
さすがに、身内に対してデートという言葉を口にするのは少し気恥ずかしい。
「ねぇ、もしかしてなんだけど。奏ちゃんじゃなかったり、する?」
「ん? ああ」
ここで奏だと嘘をついたところで、確認を取られるのは目に見えている。何より、嘘をつく理由がない。そう考えての普通の回答だったのだが、瑠美は口をあんぐりと開けて固まっている。今の会話のどこにそんなに驚く要素があったのか。
「馬鹿にい、友達いたんだ」
「いや、そんなに驚かなくてもいいだろ」
「驚きもするわよ。高校で一人も友達ができなかった馬鹿にいに友達って」
「中学の時だっていただろうが」
「それでも出かけるなんて滅多になかったじゃない」
「それは、たしかに」
「しかも、女の子でしょ」
「なんで知ってる」
「そんなだらしない顔してたらわかる。それより、その人の連絡先教えてよ」
「は? なんでだよ」
「馬鹿にいが如何に馬鹿かっていうのを教えてあげないと、その人後悔するかもでしょ」
「友達でありながら遊びに行ったのを後悔させるって、どんだけ嫌な奴なんだよ俺」
苦言を呈する俺の言葉にろくに耳を貸さず、瑠美は一人あわあわと動揺している。妹にこんな反応をさせる俺っていったい。