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40日目 8月21日(土)

「綺麗」

「だな」


 電車から海が見える。快晴の空を反射して煌めく美しい海。一泊二日を予定している今回の旅の目的地である。今日と明日は俺と愛羅の、いわば新婚旅行のようなものだ。


「海、初めて」

「だろうな。でも、入るのは明日だから。今日は他を観光しよう」

「うん。たのしみ」


 期待に胸を膨らませて、結構な数の観光客に混じって電車を降りる。海が出迎えてくれるかのように、潮風が俺たちの身体に吹いた。


「まずはのんびり釣りでもしようか」

「お昼ご飯」


 食材確保というよりは、過程を楽しんでほしいのだが。今はもう昼過ぎだが、今朝も愛羅が作ってくれた朝ご飯で腹を満たし、午前中はひたすら電車で移動していただけなので、それほどお腹はすいていない。


 釣り道具を借りて、防波堤で釣りを始める。押し寄せる波は穏やかで、他にも釣りに来たであろう親子連れが俺たちとは離れた場所でキャッキャと騒いでいた。魚が逃げないといいなと思いつつ、ぼーっと水面を眺める。逃げていくフナ虫がどうしようもなく気持ち悪いのは置いておくとして、動く水面というのはどうも見ていて飽きない。


「たのしい?」

「楽しいというか、落ち着くな」

「そう?」


 何が面白いのかわからないといった顔。あまり愛羅の性に合わないのかもしれない。それでも付き合ってくれる優しい彼女で俺は幸せ者だ。


「こうした方がもっと落ち着く」

「あ、こら」


 すすすっと身を寄せる愛羅。慣れたもので、もはや暑苦しいとは思わない。しかし、この状況ではあまり褒められた行動ではない。


「あんまり近づくと糸が絡まるだろ」

「むう。さみしい」

「可愛いけど、お店の人に迷惑かけられないから」

「仕方ない」


 離れたかと思うと、竿を片付け始めた。まだ十分と経っていない。というか、初めての釣りよりそっちの方が大事なのか。


「いいのか?」

「翔と一緒の方がいい」

「可愛いやつだな」

「えへへ」


 バカップルらしく恥ずかしげもなく愛羅は俺の肩に頭を乗せ、目を閉じて俺の体温と少しひんやりとした潮風を堪能している。


「お、来た」

「何?」

「何ってそりゃ魚だろうよ」


 ぐっと引き上げると、手のひらサイズの小さな魚。鱗が赤い。竿を貸してくれた店では調理もできるので、食べられる魚だといいのだが、あいにくと知識はない。とりあえず水の入ったバケツへ。と、思ったのだが、釣り上げた魚は言うまでもなく暴れるため、ナイスインとはならず、堤防の上で跳ね回る。


「んっ」

「ナイス愛羅。そのままバケツに入れてくれるか?」

「力、結構強い」


 びちびちと跳ねる魚を気持ち悪いと思う人も多いだろうが、愛羅に限ってそんなことはなかった。手から逃れようとする魚をぐっと掴み、針を外してバケツへ。


 今更だが、毒があるかどうかくらい確認しておかなければならなかった。大丈夫だとは思うが、万が一倒れるようなことがあっては俺も後追いしかねない。釣ったら毒魚リストをチェックすることを忘れないようにしよう。


「次、愛羅が竿持ってみるか?」

「うん。任せて。大物を釣る」


 威勢よく、餌のついた針を海に投げ込む。あまり激しくすると魚が逃げると思うのだが、咎めるような人もいないだろうし、注意など必要ないだろう。どうせすぐに当たるわけではないのだから。


「来た」

「まじで?」

「まじ。強い」

「地球釣ったんじゃないのか?」

「地球が釣れる?」

「えっと、海の底に引っかかることをそう言うんだ」

「でも、強弱がある」


 確かに、持ち手の角度は変わらないのに、しなり具合が変化している。それも大幅に。本当に大物かもしれない。


「愛羅、離すなよ」

「わかった」


 膠着状態の愛羅の後ろから、俺も竿を握る。確かに、これは魚の手ごたえだ。それも、こんな防波堤にいるとは思えないくらいの大物。釣りの経験は多くないが、それくらいはわかる。


「せーの!」

「お昼ご飯!」


 俺のためを思ってくれているのだということはわかっているが、とても食い意地が張っているみたいだ。息を合わせてまだ姿の見えぬ魚と格闘していると、愛羅はちょっと楽しそうだった。


「愛羅、こっちは俺に任せていいから、網持ってきてくれるか」

「ん。わかった」


 もうすぐ浮上してくるというところで、愛羅が手を離す。最期の抵抗とばかりの予想外の力強さに声が出そうだったが、男の矜持にかけてこらえた。


 帰ってきた愛羅を視界に入れて、思い切り引き上げた。輝く大きな水しぶきとともに、愛羅の顔と同じくらいの大きさの魚が姿を現す。


「愛羅!」

「任せて」


 我ながら見事なコンビネーションで、魚を網に収めた。随分と重そうなそれを、愛羅は涼しい顔で持ち上げている。


「どうする?」

「とりあえず、店に戻るか」


 バケツには入りそうもない。そういうわけで、網と竿を交換し、店へ。お店の人曰く、クロダイという魚だという。随分と驚かれたが、稀にあることだそうだ。


「土産話ができたな」

「うん」


 お店の人に証拠写真も撮ってもらい、愛羅初めての釣りは大成功に終わった。


 釣りの後は、釣ったクロダイを塩焼きにして食べることになった。お店付属の海を臨むバーベキューコーナーで、コンロの熱気と潮の香を含んだ風が夏を感じさせる。


「翔。あーん」

「え、ここで?」

「あーん」


 昼過ぎということもあってそこまで繁盛しているというわけではなく、人目はほとんどないものの、外でこれは少し照れ臭い。でも嬉しいので食べる。濃い目に振られた塩の付いた皮は香ばしく、脂をたっぷり含んでいるのか柔らかな身からは旨味があふれ出す。


「めちゃめちゃうまい。愛羅も食べてみろよ」

「あーん」

「はいはい。あーん」

「おいしい」

「だろ」

「もっとちょうだい」

「はいはい」


 介護かと思うくらい、求められるがまま俺は愛羅に餌付けを続けた。お店の人がちらっとこちらを見てニヤニヤしていたので一瞬動きを止めたが、期待を込めた目で見られては終わりと言えない。全て愛羅が可愛いのが悪い。




「どこに行く? まだチェックインには早いしな」

「涼しいところ」

「えー、そうだな」


 そうして向かったのは、水族館。デートの定番と言える。家族連れかカップルしかいないので、どれだけイチャイチャしても目立つことはないだろう。薄暗いからこそ、愛羅の容姿が人目を惹くということもない。


「お昼ご飯がたくさん」

「魚のことお昼ご飯って呼ぶのやめろよ」


 堂々と手をつないで、巨大水槽を並んで見上げる。比較的小さな魚、おそらくイワシが群れを作って泳いでいるのを見て愛羅はそう言った。


「あれだけの魚が衝突なしに渦を巻いてるってすごいと思わないか?」

「やろうと思えば私もできる」

「なんでそこで対抗心燃やしてんだよ。というかそんな大量に愛羅がいたら」


 困るかと思ったが、逆に天国だった。たくさんの愛羅に囲まれたら、大変ではあるだろうが、幸福であるには違いない。


「分身、する?」

「できるのか?!」

「できない」

「冗談かよ」

「瑠美に教わった。あからさまな嘘を言うと翔がつっこんでくれる」


 ばあちゃんに続いて瑠美まで。うちの家系の女性陣は愛羅に何か入れ知恵をしないと気が済まないのか。いや、それで困るようなことはないのだが。


「愛羅が言うとあながち嘘にも聞こえないから困るな」

「もっとわかりやすい嘘がいい?」

「そうだな」

「翔のこと嫌い」

「え」


 一瞬で泣きそうになる。流れ的に嘘なのはわかりきっているが、言葉にされると刃物より刺さる。


「翔? つっこんで」

「それよりダメージがさ。愛羅、人が苦しむような嘘をついたら駄目だ」

「わかった。ごめんなさい」

「いや、いいんだ。わかってるから」

「翔大好き。よしよし」


 胸を押さえた俺の頭を愛羅が撫でてくれる。大天使愛羅の癒しの力で俺の体力は元に戻った。天使というか死神なのだが。


「わ、大きい」

「ジンベエザメか。愛羅何人分の大きさだろうな」

「百人乗っても大丈夫」

「大丈夫なわけあるか。可哀想だろ」

「つっこんでくれた。うれしい」


 今度はうまくいったので、愛羅は微笑んでくれた。水槽の中で客引きをしている海の生き物たちには悪いが、愛羅の方にこそよっぽど注意が向いてしまう。


「翔、トイレ」

「俺はトイレじゃないぞ」

「知ってる。トイレ行ってくる」

「いってらっしゃい」


 小学校の先生の定番ネタも愛羅には完全にスルーされてしまった。もう少し構ってくれてもいいと思うのだが、我慢していたのだろうか。


「ねえ」

「ん?」


 愛羅を待っていると、俺の腕が斜め下から引かれた。そこにいるのは、俺の半分くらいの背丈しかない少女である。水族館内はクーラーがよく効いているからか、とても冷たい手だった。


「来て」

「ちょっ」


 そのままずるずると、人目につかない壁際の窪みまで引っ張られる。華奢な身体で、見た感じ小学生かそこらだと思うのだが、それにしては異様に力が強い。抵抗はできたが、動揺が先に来てそのままおしこめられてしまった。


「お兄さん、お願いがあるの」

「え、あ、うん」

「私の妹を、助けてあげて」

「え?」


 そこで初めて少女の顔がはっきりと見えた。とはいえ、ただでさえ薄暗い水族館の隅っこである。それほど鮮明というわけでもないが、なんとなく覚えがある顔立ちであった。子供ながらに美人だと思わせる造形である。


「迷子とかか? 迷子センターに行って放送してもらうか」

「違うの。そういうことじゃなくて」

「とりあえず、妹の特徴は? 助ける云々にしても、まず見つけないと」

「えっと、顔は私に似てるんだけど、今の私の倍くらいの身長があって」

「それ、ほんとに妹か?」


 いまいち伝わらない話を聞いていると、トイレの方から愛羅が出てきたのがわかった。


「あ、愛羅。今この子が妹を助けてくれって」

「翔!」


 声をかけると、必死の形相で急接近してきた。しかも、死神の鎌を顕現させて。


「え?」


 そして愛羅は俺の目の前にいる少女に向かってその刃を振り下ろした。あわやトラウマものの血の海が出来上がるかと思いきや、刃を突き立てられた少女はふっと消えた。


 先ほどの少女の話もそうだが、いまいち理解できない状況に首を傾げることしかできない。


「な、なにが起こったんだ?」

「大丈夫?」

「ああ。なんともない。でも、さっきのは」

「さっきの少女は亡霊」

「え? でも、ちゃんとした人間っぽさがあったぞ」

「どれだけ見た目が人間でも、存在としては亡霊」

「なんじゃそりゃ」

「逃げられたみたい」


 亡霊にしては、触られてもなんともなかった。触れられたなんて言うと心配されそうだから言わないが。なんというか、あの少女には敵意のようなものを感じなかった。それも含めて、よくわからない。


「翔。ここはもう出よう」

「ああ、わかった」


 そう心配げにされては、もう一度会って話を聞いてみたいなんてこと言い出せそうにない。妹を助けてくれとあの少女は言ったが、本当に亡霊だというなら、その妹とやらも既に死んでいるだろう。生きていたとしても、俺の残り寿命では見つけて救うなんてことはできそうにない。


「ん、眩しい」

「中は暗かったからな」


 外に出ると、日が傾き始めていた。そろそろ宿に向かおう。ばあちゃん家辺りほどではないだろうが、日が暮れると真っ暗になる。


「翔。こっち」

「え? 宿はあっちだぞ」

「来て」


 海沿いのホテルを予定しているのだが、愛羅が手を引く先は坂の上。さっきの少女の手前、ちょっと怖かったが、目に入った看板を見ると納得がいった。


「ここ」

「綺麗なところだな」

「うん」


 高台の上。海に沈む夕日を眺めるには絶好のスポット。そこには幾組かのカップルがベンチに座っていちゃつきながら夕焼けを鑑賞している。


「翔。一緒に写真が撮りたい」

「お。いいな」


 あえて茜色に背を向け、横に座った愛羅の肩を掴んで引き寄せる。スマホのカメラを構えて、逆光ながらも精いっぱいの笑顔で写真を撮った。




「それじゃ愛羅、お風呂行くか」

「うん」


 チェックイン後。少し狭めのツインルームで荷物を少し整理した後、夕食前に大浴場に行くことに決めた。今日は日差しが強くて暑かったので、汗を流さねば気持ち悪い。


「愛羅、浴衣の着方は」

「わからない」

「だよな」

「観察する」


 服を脱いでから帯を結ぶまで全てを観察する愛羅。そうじっと見られると恥ずかしい。


「はい。おしまい。できそうか?」

「翔にやってほしい」

「俺が目の前で着替えた意味!」


 どうせ有能な愛羅のことだ。完璧ではなくともほとんど自分でできるだろうに。こっちの気も知らず好き勝手甘えやがって。


 とはいえ、愛羅が嫌がるようなことをする気はない。落ち着いて、極めて落ち着いて愛羅の前に立つ。


「脱がして」

「それくらいは自分でしなさい」

「むう」


 凝視するわけにもいかず、後ろを向いた。これをしても、どうせ下着姿を見せつけられるのだが、下着姿そのものよりも着替えの方が破廉恥であることには賛同していただけるだろう。


「はい。脱いだ。翔、やって」

「お、おう」


 とりあえず、なるべく見ないように本体を着せた。あとは帯を締めるだけなのだが、帯なしの浴衣が異様に扇情的で息が詰まった。


 舌を噛んで欲望に耐え、その凶暴なまでのものをさっさと隠してしまう。それでも浴衣越しに大きさはわかるのだが、考えない。あとはほどけないように帯を巻いて、完成だ。


「はい。どうぞ」

「ありがとう。えへへ」


 その場でくるりと一回転する。浮かれているのもまた可愛い。


「よく似合ってる。可愛いよ」

「うれしい」


 とてもシンプルなデザインではあるが、いかんせん素材が最高なので、何を着ても似合う。




 ニッコニコの愛羅と一緒に、温泉で体を温めた。一緒と言っても、もちろん男女別で、混浴もない。俺と愛羅は極めて健全な夜を過ごすはずだった。


「かけるぅ」

「愛羅、大丈夫か?」


 赤い顔の愛羅をベッドに転がす。どうしてこうなったかと言えば、夕食が原因である。


 部屋は洋室だが、夕食は和食だった。結構豪華な会席料理で、美味さと美しさに驚いたものだが、そのメニューに問題があった。食前酒である。


 愛羅はあろうことか、おちょこ一杯分にも満たないお酒を飲んで酔っ払ったのである。死神の身体は万能だと思っていたのだが、過信していたらしい。


「姿を消せば、状態は初期化できる」

「そういう仕組みだったのか」

「迷惑なら、そうする」

「迷惑なものか。弱ってる愛羅も可愛いよ」


 そう言うと、赤ら顔の愛羅はにへらと笑う。可愛い。


「食前酒を最後に飲んでおいてよかったな」

「うん」


 横たわる愛羅のベッドに腰かけ、俺も笑う。アルコールに弱いことを感知していたのか、愛羅は食前酒に最後まで手を付けなかった。残すのはもったいないからと飲んだところで酔いつぶれたのである。


「とてもおいしかった」

「それは何より。愛羅が喜んでくれて嬉しいよ」

「ん。かけるぅ。ぎゅってして」

「はいはい」


 横になった愛羅は赤ん坊のように手を広げる。仰せのままに、正面からその華奢な身体を抱きしめた。柔らかい身体の感触と湯上りの温かい体温が薄い浴衣を通して伝わってくる。


「よしよし。いい子いい子」


 濡れた髪を優しく撫でつける。


「あれ? 愛羅?」


 しばらくそのままでいると、愛羅は眠ってしまったようだ。俺の耳に愛羅の寝息が当たってくすぐったい。


 俺も眠ろうかと思って愛羅から離れようとしたが、器用なことに愛羅は俺の浴衣を掴んだまま眠っている。


「どうすっかな」


 苦笑しながら、すやすや眠る愛羅の頭を撫で続けた。

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