26日目 8月7日(土)
昼下がり。やはり今日も、家には俺と愛羅しかいない。今日の午前中は、もし選択とやらが全て正しくて、神様から生かしてもらえたときのために、勉強をしていた。それと、瑠美に寿命の件がバレないようにするためというのもある。
「起きたか? おはよう、愛羅」
「んぅ、おはよう」
俺が勉強している間、愛羅は眠っていた。そして丁度今目を覚ました。俺が愛羅を起こしているというわけではないが、毎朝の関係とは逆転している。
「よく眠れたか?」
「睡眠は、良いイメージ」
「そうか。寝るのが好きか」
「好き」
愛羅は緩慢な動きで起き上がる。睡眠が必要ない体でも寝たいと思うほどに気に入ってもらえたらしい。眠るときは髪を解いているので、愛羅は話しながら髪を結う。
「慣れたものだな」
「そう」
「あとは恥じらいさえあれば、女性らしさの概念コンプリートって感じなんだがな」
「難しい」
「こればっかりは、恥ずかしいって感情がインストールされてないんじゃないかってレベルだな」
「そう」
最近は部屋で喋っているだけなので、そこまで常軌を逸したような行動が目立つわけでもない。しかし、また何の拍子にそういう行動をとるかわかったものではない。
「そうだ愛羅、おやつでもどうだ? 俺も勉強で疲れたし」
「私も食べる?」
「ああ。甘いもの好きだろ?」
「好き、かもしれない」
「おやつって、何かしながらでもなく一人で食べると虚しいからな。好きかどうかの確認も含めて、どうだ?」
「食べる」
「そうか」
ちょうど、家にアレがあったことを思い出したのだ。十年ほど前、瑠美がどうしても食べたいからとゴネて、当時娘に激甘だった親父が買ったやつ。
「それにしたって買い物には行かないといけないか。愛羅、一緒に行くか?」
「構わない」
誘ってから、一緒に行動しても大丈夫かと心配になった。しかし、いざというときは他人のフリでもすれば良いかと思い直す。
なるべく人通りの少ない道を選んで歩く。メジャーな通学路は通らないようにしているので、知り合いと出会う確率は低いだろう。
その予想は正しく、愛羅と二人並んで歩いて近所のスーパーまで来たが、知り合いと呼べるような人と出会うことはなかった。しかし、人が少ないであろう昼過ぎのスーパーで、まさか出会うと思わなかった。
「あっ」
「会って早々馬鹿みたいな顔をするのはやめてもらえるかしら」
「まさかこんなところで会うとは思わなくて」
「前にも会ったでしょう」
「そうだったな」
お菓子コーナーにやってくると、チョコレートのパッケージを凝視している美川と出会った。頭には帽子、目元には眼鏡をかけているが、確実に美川と判断できる見目の良さである。
とりあえず、事前の打ち合わせ通り、愛羅には他人のフリをしてもらう。具体的には、俺に合わせて立ち止まることなく、美川の横を素通りしてもらった。
美川はチラと愛羅の方を見たが、無関係だと思ってくれたのだろう、視線を俺に戻した。
「で、あなたはこんなところで何をしているのかしら」
「いや、おやつでも作ろうかと」
「そんなのはどうでもいいのよ。彼女はできたかって聞いてるの。彼女をほっぽりだしてこんなところで何をしているのかって」
「あー、それはー」
そういえば、そんなミッションを課されていたのだった。ここ最近、愛羅と関わってばかりで完全に忘れていた。
「えーと、実は、さっき通り過ぎた女の子が彼女だったり」
「はぁ」
俺の苦しい返答に察したのか、美川は大きなため息をついた。
「別に、あなたがどうしようと勝手だけど。私の努力を返してほしいわね」
「す、すいません」
そうして美川は、悩んでいたと思われるチョコレート菓子を全てカゴに入れてレジに向かった。じゃあなぜ迷っていたのか、謎である。
「私は、彼女?」
隣の棚から、愛羅がひょっこり現れた。会話はばっちり聞いていたらしい。俺は答えることをせず、話を変えることにした。
「それより、目的のものを買おう」
「どれ?」
「こっちだ」
向かうは期間限定のコーナー。その片隅にある、数本のカラフルな液体である。言わずもがな、かき氷のシロップであった。
「好きなの選べよ」
「承知した」
てっきり、わからないと返されるかと思ったが、意外にも愛羅は先程の美川よろしく、パッケージと睨めっこしている。もしかすると、自分の意思を鍛えようと考え始めたのかもしれない。
「これ」
「イチゴでいいのか?」
愛羅はこくりと頷いた。悩んでもらったところで、彼女にとっては衝撃の真実を暴露することにしよう。
「まあ、どれも同じ味なんだけどな」
「知っている」
「なん、だと?」
「原材料がどれも同じ」
悩んだ奴に限ってそれを言って絶望させるのが夏の醍醐味だというのに。そもそも愛羅にそういった反応を期待していなかったので、構わないのだが。
シロップを買って、ついでに晩御飯の材料も買って、家に戻ってきた。スーパーで美川に会った以外誰とも会わずに済んだ。むしろ、あの完璧なタイミングに美川と遭遇したことに驚きだ。
「さて、じゃあ作るか。愛羅、やってみるか?」
家にあったかき氷機に氷を入れ、頷いた愛羅にハンドルを譲る。
「そのハンドルを回すんだ。土台を押さえるのを忘れるなよ」
「承知した」
ガリガリという特有の音が鳴り、かき氷機にセットしたガラスの器に氷が降ってくる。愛羅はハンドルを回すのに集中している様子だったので、俺が皿を回転させてバランス良く積もるように調整する。
こういうのも懐かしい。瑠美が中学生になってからはこれを引っ張り出すこともなくなって、わざわざ作るということもなくなってしまった。あの頃の夏はここまで凶悪な暑さではなかったように思うが、だからこそエアコンをつける機会も今より少なく、暑い暑いと唸ることが多かったような気がする。だからかき氷を度々作っていたのかもしれない。
「よし、ストップ。こんなものだろう」
「ただの氷」
「そう言うなよ。味はなくてもシロップがあるし、氷はあくまで食感が大事なんだ」
「そう」
ガラスの器に山盛りになったかき氷が一つできた。二つ作らないのは、瑠美が帰ってきたときに食器が二つ並んでいないようにするためだ。さっさと洗ってしまえばいいのであり、心配しすぎかもしれないが。
「好きなだけシロップかけろよ。あんまり少ないと味がしなくなるぞ」
そう言って俺は愛羅に買ってきたシロップを渡す。愛羅がシロップを開けたりなんだりしている間、俺はかき氷機を片付ける。こいつがまた日の目を見ることを期待しながら。
「もし俺が生きてれば、また作ってやるからな」
そう呟いた。そんな無駄にかっこつけなくても、明日にでも瑠美に作ってやればいいのだ。どうせシロップなんて、今日一日でなくなるはずがない。
「あんまりかけすぎると溶けやすくなるから気をつけろよ」
「遅い」
ガラスの器に山盛りだったかき氷は、ピンク色に染まり、その体積は半分程度になっていた。
「あーあ。てか途中で気づけよ」
「これが普通ではない?」
「ちげーよ」
苦言を呈しつつも、俺は笑っていた。あまりに愛羅らしい反応に表情筋が自然と緩む。
「溶けきらないうちに早く食べろよ」
「あなたは?」
「愛羅の後でいいから」
このかき氷は、別に俺のために作ったわけじゃない。郷愁のような気持ちで食べたいと思ったのも確かだが、愛羅に食べさせたいという気持ちが第一だった。この前、カップケーキを喜んでもらえて嬉しかったのかもしれない。
「美味いか?」
「冷たい」
「そりゃそうだろうよ」
「でも、多分、美味しい」
「そうか」
シャリシャリ、ザクザクと音を立てて愛羅はかき氷を咀嚼する。愛羅が今まで食べたものは、ソフトクリーム、カップケーキ、そうめん、かき氷と、非常に栄養バランスが悪い。そのうちちゃんとした食事も摂らせてみたいが、どうせ愛羅は体調なんて崩さないだろう。
「んっ」
愛羅の向かい側に座り、かき氷を食す愛羅の姿をぼんやり眺めていたのだが、その愛羅が急に手を止めた。目を閉じ、何かに耐えている様子である。
「頭キーンってしたか?」
愛羅は無言で頷いた。体は死神でも、かき氷の痛みは通るらしい。
「それも醍醐味だ。俺も貰うぞ」
愛羅の手からスプーンを拝借し、俺もかき氷を食べる。シロップの甘さと、氷の冷たさ、そして硬い食感。昔食べたかき氷そのままで、少しノスタルジックな気持ちになる。
俺も、口の中がキンキンに冷えるのと同時に、やはり頭痛がやってきた。吐く息が冷たくなっているのがよくわかる。昔感じたままの感想だ。
「愛羅、あとはやるよ」
「貰う」
残りを全て愛羅に押し付け、まるで熱いものでも食べたかのように、はふはふと口で呼吸をする。口元に手を持っていくと、手のひらに冷たい風が当たるのがわかった。
俺の口内が気温と変わらないくらいの温度になるのと同時に、愛羅もかき氷を食べ尽くしていた。山のようにあったのが、シロップをかけ過ぎたせいもあって早いものである。
「美味しかった」
「そうかそうか。また作ろうな」
これが瑠美なら、お腹冷やすなよと兄らしく注意していたところだが、愛羅に限ってそんな心配はないだろう。
しかし、愛羅は食べたものをどうするのだろうか。全てエネルギーに変換するなんて土台無理な話だ。今のところ胃袋の大きさ程も食べていないだろうから、別段不思議という程でもないが、いざ普通の食事を摂った場合、愛羅のお腹は破裂するだろう。もしかすると、体内から異空間へ転送、みたいな機構があるのかもしれないが。
さて、ここまであえて排泄には触れてこなかったが、それは昭和のアイドルのような、トイレになど行かないという幻想があるからではない。一番現実味のある思考を後回しにしたのだ。なぜなら、目の前の愛羅がまさにそうといった様子でソワソワしているからである。
「どうかしたか、愛羅?」
まさか女の子に対してトイレ行きたいのかと直接的な訊き方をするわけにもいかず、遠回しに異変に気付いたことを示唆する。
「下腹部に異変」
「どういう風に?」
「むずむずする」
ほぼほぼ確定演出である。きっと食事をしてこなかった愛羅はそういう感覚さえわからないのだろう。
「えーと、愛羅は排泄はできるのか?」
「可能、らしい」
「今まで経験は?」
「ない」
「だよな。じゃあたぶん、そういうことだろ」
「どういうこと?」
「いいからトイレ行ってこい!」
まったく愛羅はデリカシーというものがなっていない。それでなぜ男側がキレているのかと思うと不思議な気分だが。
愛羅をトイレに押し込み、ふぅと一息つく。しかし、中からすぐに扉が開かれた。
「使い方がわからない」
「はぁ?」
別に特殊なものでもない。うちにあるのはただの洋式トイレだ。さすがに見たことがないなんてことはないはずだ。
「俺を四六時中監視しているなら、ここくらい見たことあるだろ」
「ここは観察対象外」
俺のプライバシーもある程度は守られているようで安心したような、しかしたった今に関しては残念というか、面倒だ。だからといって排泄シーンを見せたいとは決して思わないが。
「えーと、そこに座って用を足す。それで終わり」
「あなたに見ていてほしい」
「ばっ、はあ?!」
「それが確実」
確かに俺だって、他人の排泄物を処理するのは嫌だ。だがだからといって、そんなことをしていいものか。というか、愛羅はもう少し抵抗を感じるべきだ。
「お、おい」
俺の反論を待たず、愛羅はパンツを脱いだ。その布はポトリと愛羅の足元に落ちる。愛羅はそれを意に介した様子もなく、便器に座った。
「合っている?」
合っていない。便座を下ろしていないのだ。それを言葉で訂正しようとする俺を、さらに衝撃が襲った。愛羅は確認を促すように、あろうことかスカートを捲り上げたのである。そこには言うまでもなく、白くハリツヤ完璧な太腿様があるわけで。そこをもう少し根本まで見ることは、理性ある俺にはできそうにもなかった。
目を逸らしたくなるような現実から逃れるように、以前考えたことがフラッシュバックする。今度愛羅がそういうムーブをしたときには、男として相応の対応をしようという考えである。それを実行するときが来たというわけだ。
これは教育。決して俺が欲望に負けたとか、そういうわけではない。あまりに恥じらいというものに欠ける愛羅の行動を矯正するためにしょうがなくするのだ。
「愛羅」
俺は彼女の名前を呼び、その細い両手首を左手でまとめ、頭の後ろに持っていく。抵抗しないだろうが、抵抗できないようにするということが大切だ。
ふわりと、愛羅がたくし上げていたスカートが再び彼女の足を隠す。しかし、言わずもがな、俺の目的はそれではない。なるべく気色の悪い手つきになるように、彼女の太腿を撫でる。愛羅はその華奢な身体をびくりと震わせた。
「あまり男を舐めるなよ」
愛羅の耳もとで囁いた。それと同時に、そっと左手を離す。これで俺の右手を止めてくれたら俺だって引き下がれたのだ。しかし、愛羅はなされるがまま動かない。
「痛くしないで」
「なら抵抗しろよ」
注文を付けるより先にすることがあるはずなのだ。俺はお前が抵抗しないせいで、後に引けなくなっているのだから。
ため息をついて、無駄かと思った末に手を引こうとすると、愛羅の身体に異変が起こる。
「あっ」
愛羅の身体が大きく震え、声まで漏れた。今まで何でもないという様子で無表情だったのに。
すぐに異変の正体はわかった。これが自然豊かな滝などならともかく、トイレで聞くと決して不快にしかならない水の音が聞こえ始めたのである。
俺は冷静になって、バッと身を引いた。汚いというのもあったが、流石にやりすぎたかと思ったのだ。それでも、トイレから立ち去ることはなく、ただ後ろを向いて、言いたいことを言った。
「これでわかっただろ。あんまり男の前で服を脱いだりするものじゃない」
「そう」
「ほんとにわかったか? 嫌だっただろ」
考え込むように無言の時間があった。その間にも水の音は続いている。そして水の音が止んだと同時に、愛羅は口を開いた。
「悪いイメージではなかった」
もう言葉もない。この手を用いても、愛羅に恥じらいを学ばせることは叶わないらしい。
「わかった。もう諦めよう。それより、拭くのを忘れるなよ」
「何で拭く?」
「そこにあるだろ」
トイレットペーパーを千切って渡してやると、何の学習もせず、愛羅はぴらりとスカートを捲って処理を始める。もはやため息しかでない。
「ちゃんと、そこのレバーで流してから出てこいよ」
俺は甘い匂いが充満するその個室を出た。それでも、ため息は止まらなかった。




