25日目 8月6日(金)
また、愛羅に起こされるより早くに起きてしまった。しかし、今度は微睡みなどと言っていられない。朧気な意識で目を開けるよりも先に悟ったことがあった。それは、異様なまでの寒気である。いくらエアコンをつけて寝たからといって、風が直接当たっているわけでもなければ、風量を強く設定したというわけでもない。
包み隠さず言ってしまえば、悪寒がするのである。風邪なんて生ぬるい、まるで生命の危機を体が察知しているかのような。
だからこそ、俺は目を開けることを躊躇った。その決断には、もし本当に命の危機が迫っているとして、それを避けるべきか、避けないべきかという問題から話は始まる。
このまま目を瞑り、動かないままで死ぬとしよう。その場合、俺はこの身に迫る脅威の姿を知ることなく、命を終えることができる。逆に、目を開けて回避行動をとった場合、俺は恐らく脅威の姿を認識し、その後で死ぬか、運良く逃げられたとして一ヶ月もしない間に死ぬ。
しかしここで、神様の言ったことを思い出した。俺は正しい選択をすることで、祝福を授けられる。すなわち、生き長らえることができるのだと。これがその選択なのではないか。
そう確信、というか思い込んだ俺は、思い切って目を開けた。そこにあったのは、いつも通りの天井である。ただし。
「うわあぁあぁあ!」
大量の亡霊がひしめき合っている、だが。
その光景は、まるで地獄にでも来てしまったようだった。天井をすり抜けて侵入を果たそうとする亡霊は、その全てが俺に向かって手を差し出している。まるで、お前もこっちに来いと言われているようだった。
「こっちへ!」
金縛りに遭ったように硬直する俺を、誰かが呼んだ。その声は、紛れもなく愛羅のもの。しかし、こんな切羽詰まった声を聞いた事はなかった。
俺は愛羅を信頼し、声がした方向に思い切り身を投げた。恐怖で震えが止まらない体を動かすためには、思い切った動きをするしかなかったのだ。
それで俺は運良く愛羅のちょうど足元に着地、もとい転がり込んだ。
改めて周囲を見回す。ここは俺の部屋のはずだ。それなのに、元の様相が分からなくなるほど、部屋は亡霊で溢れていた。亡霊の動きは早いわけではない。しかしそれだけに、押し合い圧し合いしている様がよくわかるのだ。
「あ、愛羅」
無意識のうちに、俺は今縋りついている人の名前を呼んだ。あまりの恐怖映像に、俺は女々しくも彼女のスカートを掴んでしまっている。
「大丈夫」
そんなときに、落ち着いた愛羅の声が聞こえた。こんなときでも愛羅は無表情で、淡々と鎌を振るい、俺に近づこうとする亡霊を軒並み刻んでいく。
「決して触れないで」
一瞬、愛羅にかと思って掴んでいたスカートをバッと離した。しかしそれは亡霊に対してだと理解し直し、それでも邪魔をしないよう、再びしがみつくようなことはしない。
「こ、こいつら何なんだよ」
愛羅に言ったのか、感想として言ったのか、自分でもわからない。どちらにせよ、愛羅は答えず、黙々と亡霊を処理していた。
そのままどれくらい時間が経っただろうか。体感では、十五分程度。その間、俺と愛羅の間に言葉はない。そこで口火を切ったのは、俺でも愛羅でもなく、亡霊たちだった。
「昭子」
「美嘉」
「静江」
俺に手を伸ばす亡霊たちが、口々に女性の名前を口にしだしたのだ。なぜ俺に対して、女性の名前を呼びかけるのかは全くわからない。俺をその当人に重ねているというわけではないと信じたいが、亡霊のことは何も知らないのだ。
「俺は翔だ。男だ。なんで俺に執着するんだよ」
そう言い張ってみても、亡霊の勢いは衰えることを知らない。
しかし、その数分後。まるで押し寄せた波が返すかのように、忽然と亡霊の姿は消えた。
「終わった、のか?」
「肯定」
愛羅は腰が抜けた俺の手を取り、立たせてくれた。その感触と声でどうにか動悸を抑え込む。ふと時計を見ると、時刻は午前二時三十一分。どうやらあの亡霊は、丑三つ時にのみ現れるらしい。
「あいつらの狙いは俺か?」
「肯定」
言いずらそうに、愛羅は言った。そういえばこの間ははぐらかされたのだったか。尋ねるべきではないことだというのは聞かずとも理解している。
「これ、本当に大丈夫なのか?」
「手は打つ」
先程の愛羅の手並みを見るに、この間格闘ゲームで感じた戦闘勘のようなものは本物だったらしい。とはいえ、あの量を現状のままで捌き切ることは難しいと判断したのだろう。作戦は用意してあるようだ。その作戦が何であれ、今日のように悪寒で目が覚めるようなことにならないようにして欲しい。
さて、亡霊が落ち着いたところでもう一眠りといきたいところなのだが、時間的にもう来ないとわかっていても、目を閉じると先ほどのひしめき合う亡霊たちの映像が瞼の裏で再生され、とてもではないが安眠できそうにない。
「このまま起きるのはなぁ」
それはそれで、これから数時間も起きているのは不安になる。できるのなら、眠ってしまうのが一番だとは思うのだが。
「眠れない?」
「ん、ああ。まあな」
俺が寝付けないことは愛羅にもわかったらしい。愛羅は死神の鎌を虚空に消し、ベッドまでやってきて腰かけた。
「横向きになって、これに体重を預けて」
「お、おう」
「落ち着いた呼吸を繰り返す」
昨日俺が教えたことを、今度は愛羅が俺に教えていた。学んだことをすぐ人に伝えたくなるのは人間でも死神でも変わらないらしい。
「目を閉じて、力を抜いて。喋らなくていい」
微笑ましく思いつつ、言われた通り眠りに落ちるよう努める。すると、愛羅は俺がやったように、俺の頭を撫で始めた。少し驚いて、若干照れ臭かったものの、すぐにそれにも慣れ、後には安心感だけが残った。誰かに優しく触れていてもらえることがこんなに心地よいとは、正直思っていなかった。
それから、案外すぐに眠りに落ちた。
「おはよう。あなたの寿命はあと26日」
「おはよう、愛羅」
亡霊騒ぎの後、いつもの時間に再び目を覚ました。恐る恐る目を開けてみると、今度こそ正真正銘いつもの俺の部屋である。俺が寝ているベッドには、愛羅が腰かけていた。
「って、いつまで撫で続けてたんだ」
「今まで」
「ずっとかよ」
こういうところは流石だと思った。愛羅は俺が目覚めた後もずっと頭を撫で続けている。悪い気はしないのだが、明るいときにされるのは一層気恥ずかしい。明るいといっても先ほどよりはという程度で、全てくっきり見えるというわけではないが。
「もういいから。ずっと撫で続けなくていい。眠ったと思ったら離してくれればいいんだ」
「眠ったかどうかはわからない」
「そこは呼吸とか、返事をするかどうかでさ。眠っている間も観察していたなら、その違いくらいわかるだろ?」
「理解した」
我ながら、まるでまたお願いするといった口ぶりである。恐らく頼めばしてくれるのだろうが、恋人でも親子でもないのに毎日それというのは、さすがに恥ずかしい。常に同室にいる時点で、そういった関係を議論するのはほぼ無意味かもしれないが、とにかく恥ずかしいものは恥ずかしい。
「とりあえず、今日は何をするかだな。少し思いついたことがあるんだ」
「何?」
「折角服を新調したんだから、髪型も変えてみないか?」
こうは言ったものの、美容院に行こうというわけではない。そもそも愛羅の髪が本当に切れるのかという問題もある。そして切れたとしても、恐らく愛羅が姿を消せばその髪も消える。まず間違いなく見た人を驚かせることになるだろう。
「ただ垂らしているだけじゃなくて、たまには結んでみたらどうかと思うんだ」
「理解した」
「とはいえ、俺も結び方なんて知らないから、調べてみるか」
「承知した」
スマホを渡すと、慣れた手つきで髪の結び方を調べる愛羅。簡単に沢山の検索結果が出てくるのだが、全く知識のない俺からすれば、簡単と書いてあるものでも難しく感じる。
「自分でできそうか?」
「難しい」
「だよな」
人の動きをコピーできる愛羅といえど、見た事のないものを、それも手元を見ないまま再現するのは難しいだろう。
「よし。じゃあ俺がやってみよう」
愛羅に頭の上でスマホを構えてもらって、俺はその後ろに立つ。俺の手にはヘアゴムがあった。これはさっき、出かける前の瑠美に頼んで貰ったものだ。前髪が邪魔だから括りたいという言い訳は、我ながら機転が利く答えだったように思う。
見よう見まねで愛羅のサラサラな髪を手に取った。結び切れていないということがないように首元に張り付いた髪も掬う。そのとき首筋に触れたのだが、愛羅の体がピクリと反応してこちらもキョドってしまった。
「わ、悪い。くすぐったかったか」
「構わない」
軽く深呼吸をして、落ち着きを取り戻してから再開する。何度も試行錯誤をして、ようやく形になった。
「どうだ?」
「再現はできている」
手鏡を渡して確認を促したところ、俺が期待したのとは別の答えが返ってきた。自分で似合っていると思うか聞いたのだが。そこは愛羅らしいが、とりあえず俺は髪を結ぶという目的自体は達成したようだ。
「こっち向いてくれ。うん、似合ってるな」
「嬉しい」
愛羅の言葉に対応するように、アホ毛がぴょこっと起き上がった。
やってみたのは、後頭部にお団子を作るような結び方。いつもの下ろした状態も似合っているが、これもアリだと思わせる。カジュアルでありながら、どこか真面目そうな印象も抱く。そして何より、ほっそりとした首元が強調されており、どことなく色気のようなものもあった。
「ただ、ちょっと手の込んだものを選びすぎたな。今度はもっと簡単なもので、試行錯誤してみるか」
「承知した」
「愛羅もやってみたらどうだ?」
結んでいた髪を解いて、ゴムを愛羅に渡す。すると愛羅は、瑠美をイメージしたのか、髪を二つに結びツインテールを作った。瑠美に比べて毛量が多く長いため、瑠美を見たときとは印象が異なる。というより、瑠美の髪型は見慣れすぎて最早感想を抱くこともない。
愛羅のツインテールは、良い意味でのあどけなさを持っている。普段が少し大人びた印象であるため、対照的で可愛らしく見える。それでありながらも、流し目でかつ、二つのうち一つの束を掬って口元に持っていくと、途端にミステリアスな雰囲気にもなる。これでもう少し表情豊かなら、と思ってしまうのも致し方ないことだ。
「じゃあポニーテールもやるか」
愛羅にゴムを貰い、髪を後頭部で一つにまとめて結ぶ。活発な印象を与えるものの、その表情が無表情なのでなんともチグハグだ。
「これは?」
「良いじゃないか」
ポニーテールの結ぶ位置を低くし、髪の束を胸の前に持ってくる。それをするには愛羅の髪は長すぎると思うが、不思議とそこまでの違和感はなかった。
こう髪が長いと、どんな髪型にもできて面白い。俺と愛羅は思いつくままに色々な髪型を試していった。
結局、一番似合うのはハーフアップではないかという結論を出した。結論といっても、俺一人の独断で、愛羅は頷いていただけだが。
「今日からはこの髪型にする」
そんな俺の意見を反映してか、愛羅はそんなことを言い出した。俺は嬉しいが、面倒をかけるほど拘りがあるわけではない。
「え、いいのか? 難しいだろ?」
「一度成功したなら可能」
そういえば、愛羅はただの人間ではなかった。一度自分で成功してしまえば、俺の助けなど借りず、最速で結ぶことができるだろう。
「よし。じゃあ成功するまで俺が指示するから、やってみてくれ」
「承知した」
それからは愛羅に言葉で教えたり、時折彼女の手に俺の手を重ねて導いたり。なんだか、娘とお洒落を楽しむ母親のようだと思ってしまった。せめて自己評価の中では男でありたい。
「ほい。これで完成」
「理解した。再現可能」
さすがの有能っぷりだ。もう俺の手を借りる必要はないらしい。俺が軽い達成感のようなものを感じていると、愛羅は言いずらそうに、それでいて思い切った様子で口を開いた。
「私は、可愛い?」
恋人が彼氏に言うようなセリフを、愛羅は口にしていた。傍から聞けば惚気のようにも聞こえるだろう。ただ愛羅は純粋に、褒められたいという気持ちで聞いたに違いない。きっとそこに、俺の事が好きだとか、そういう感情はないのだろう。
しかし、そうわかっていながらも、可愛い服を着た可愛い髪型の可愛い少女にそう言われると、勘違いしてしまいそうになる。鼓動の早まった心臓を落ち着けるために深呼吸をすると、愛羅は不思議がって首を傾げた。
「か、可愛いよ」
「嬉しい」
少し目を逸らしながら言うと、全然嬉しくなさそうな声音で愛羅はそう返した。それが愛羅らしいとも思っているし、頭のアホ毛がその分主張しているので、俺は彼女にぎこちない微笑みを返した。




