3日目ー1 7月15日(木)
結局、昨日は瑠美と顔を合わせずに終わった。それどころか、誰とも会っていない。ろくに食事も摂っていなかった。栄養も何もなく、ただ空腹を消すためだけの食事として菓子を口に放り込むだけ。味も何も感じなかった。
精神が一応の安定期を迎えたのは、再び朝日が昇ったのとほぼ同時だった。隙あらばフラッシュバックしようとする死の感覚を、感情の伴わない形式的なものとするよう、理性をフル活用して必死に抑え込む。今夜に関してはほとんど本来の役目を果たさなかったベッドから起き上がるまで、その作戦はうまく機能していたのだったが。
立ち上がった俺の眼前に銀の髪、銀の瞳が刃物を携えて立ってさえいなければ。
「さっさとその鎌をしまえ!」
俺が掴みかからんというほどの勢いで叫ぶと、死神は驚いたように目を見開き、俺の狂ったような気迫もあってすぐに鎌を虚空に投げ捨てた。しかし死神は性懲りもなく、さながら命令を忠実にこなすアンドロイドのように淡々と言う。
「48日後、あなたは死ぬ」
「黙れ!」
俺が感情に任せて吐き捨てるのもやむべからざることであったろう。あまりに感情を無視した言動に、死神の胸倉を掴み、拳を振り上げていた。だが、抵抗らしい抵抗も見せずなされるがまま、均整の取れた顔についた無機質な目を向ける死神の姿を認識するにつれ、自分が情けなくなって、俺は突き放すように手を離した。
「お前は、毎朝そうやって告げないといけないのか」
「それが私の役目」
「そうかよ。やめてくれないのか」
「宣告はしなければならない」
「わかった。それでいいから、今日はとっとと消えてくれ」
舌打ちまじりの俺の言葉に死神は何の感慨もなく頷き、そのまま消え去った。
「馬鹿にい、朝から何叫んでるの。起きたならさっさと朝ご飯作ってよね」
タイミングを図ったかのように、瑠美の声が響く。
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選択肢
1、部屋を出る
2、部屋を出ない
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「あ、ああ。今行く」
今日は俺の当番だ。出ていかないでまた下手な言い訳をすると、瑠美は怒るだろう。着替えながらに息と精神を整えて、部屋を出てリビング、通り過ぎてキッチンへ。
時間に余裕があるわけでもないが、少しばかり用意に時間がかかるものを作る。少しでも例のあれ、仮想未来について考える時間を減らしたかったのだ。しかし、またも俺の思惑はあてが外れることとなる。
俺の視界に映った銀色。仮想未来にあったそれとまったく同じ凶器、包丁であった。一瞬のうちに体温が上昇し、しかし背筋には冷たいものが走る。血の気が引いていくのがありありとわかった。息が詰まりそうなりながらも、どうにかそれを視界の外へ追いやった。
「馬鹿にい、どうかしたの? やけに遅いじゃない。唯一の取り柄の家事もできなくなったら、いよいよ奏ちゃんにも見捨てられるわよ」
リビングから瑠美の声が聞こえて、だんだん感覚が元に戻ってくる。返事をしようとするが、荒い息が何時まで経っても整わない。
「早くしてよ。遅れちゃうじゃない」
「わ、悪い」
予定を変更して、簡単な、絶対に刃物を使わない調理に移行する。なるべく早く、キッチンに留まりたくない一心で。
「待たせたな。時間は大丈夫か?」
「ギリギリ合格ね。まったく、これだけを用意するのにどうしてそんなに時間がかかるのよ。体調でも」
悪いのか。恐らくそう言おうとしたのだろうが、俺の顔を一目見た瑠美はその言葉を思わずといった様子で飲み込んだ。その表情は、仮想未来で俺が監視を依頼したときのように、憂慮に染まっていた。
「馬鹿にい! どうしてそんなになるまで放っておいたのよ!」
「瑠美? 何をそんなに」
「鏡を見てからものを言いなさい馬鹿!」
そう言って瑠美はスマホカバーについた鏡をこちらに差し向けてきた。それを覗くと、映っていた俺の姿は酷いものだった。目の下には眠れていないことがはっきりわかる隈が浮かんでおり、目つきは普段よりも数段悪い。どことなく痩せて見えるし、顔色など良いはずもない。
「今日は学校を休みなさい」
「いやでも、二日も休むのは」
「体調管理もできない馬鹿は学校なんて行ったって無駄よ! 黙って休んでなさい!」
叫ぶように言った瑠美は、俺を部屋に押し戻そうとする。それがやはり仮想未来の光景と重なって、俺の足を止める。
「やめてくれ!」
今度は俺が叫んでいた。抵抗されるとさえ思っていなかったのだろう、瑠美はビクッと体を震わせて、力を緩めた。その瞳に若干の怯えが映るが、それはすぐに怒りに上書きされる。
「馬鹿は大人しく従っていればいいの! 抵抗しないで!」
「嫌なものは嫌なんだ! 部屋にだけは戻りたくない!」
駄々をこねるように、俺はを腕を掴もうとする瑠美に反発した。今までの俺の行動からは考えられないのだろう。俺だって、誰かの言うことにこうも真っ向から反対することなどないと思っていた。トラウマとはこうも精神を蝕むのかと一周回って冷静に考えてしまうほどだ。
「わかった。じゃあここにいればいいよ。ここならいいでしょ」
逡巡する。確かに、リビングで何も恐れることはない。しかし、リビングから見える玄関への廊下は、俺が丁度刺された場所だ。
「母さんの部屋に行く」
「わかった。それでいいから。何があったの? いくら何でもおかしいよ」
本気で心配そうな、寧ろ悲しそうな声で尋ねられたのだが、答えに窮してしまう。本当のことを伝えて、信じてくれるはずもない。それであの死神が瑠美に同じものを見せるのなんて想像したくもない。しかし、俺の尋常ならざる様子に、生半可な嘘では通じそうにないほど、瑠美は俺の顔色に集中している。
「なぁ瑠美、俺があと48日で死ぬと言ったら信じるか?」
真実を信じるか否かの問いかけくらいしか、口からは出てこなかった。気の利いた嘘を吐けなかったのは、この運命を一人で受け入れるのが苦しかったからなのかもしれない。そんな俺の情けない気持ちは、幸か不幸か瑠美には伝わらなかったらしい。
「何、あんた、自殺でもする気じゃないでしょうね」
瑠美は両手で俺の胸倉を掴み、静かに、されど力強く意思の篭った声で、俺の瞳を貫通しそうなほど強い眼光を宿した眼で俺を睨みながら言った。
「そんなつもりはない。寧ろ、どうすれば生き残れるか考えてる」
「そ。なら一先ずは許してあげる。で? そんな無意味な質問で何が言いたかったの?」
無意味。つまり、信じないということだ。そりゃあそうだとも。自殺する気がない健康体の人間が二ヶ月もしないうちに死ぬなんて、普通は信じられない。
「信じられないなら、それまでだ。俺が苦しんでいる理由は、その無意味な質問そのものなんだから」
俺だって信じたくなどない。しかし、ああも鮮烈に死のビジョンを見せられて、自分の命について考えないでいられる間抜けがいるものか。あと二ヶ月も経たないうちにあの仮想未来が現実になると言われて、戸惑わないほど大物には生まれていない。
「何よ、それ。ふざけてるの?」
「大真面目だ。信じられないのなら、俺の気持ちなんて理解できない」
「そんなの勝手じゃない! 私だって、少しくらい」
「無理だ。経験もなしに、あの感覚を理解するなんて」
「じゃあ馬鹿にいは、未来で死ぬのを経験したっていうの?」
肯定はできなかった。今の瑠美は、自分も経験すると言ってしまいそうなほど焦っているように思えたから。俺はぎこちなく首を横に振った。
頭に血が上って俺の意図に気づけなかった瑠美は、怒ったように顔を歪ませて泣き出した。
「そんなの、勝手すぎるわよぉ。馬鹿ぁ」
瑠美の涙を見て、罪悪感が湧いてくる。俺の言葉が如何に瑠美を傷つけていたかに気づいて、胸が苦しくなった。次々と零れる涙を見ていたくなくて、瑠美を胸に抱く。
「わたしは、お兄ちゃんが、心配で」
「悪かったよ。俺の言い方が悪かった」
「ばかぁ」
「ありがとう。俺のことを考えてくれて。瑠美はもう十分力になってくれたよ。誰かに話せて、少し冷静になった。何より、瑠美の気持ちが嬉しい。力になりたいって思ってくれる人がいるだけで、元気になれるんだ」
「本当?」
「ああ。ありがとう、瑠美」
ただの慰めでなく、偽らざる本心だ。荒んでいた心は、少しだけ軽くなっていた。今日部屋を出て、瑠美と話せてよかったと本気で思う。
瑠美を必死で宥めて学校に行かせた後、母の部屋である和室で様々なことに思索を巡らせて数時間。今頃は瑠美も奏も昼休みだろうか。
「気分転換に外にでも出るか」
ちょうど昼食の買い出しに出ねばならない。包丁を目にしたくないので、冷凍食品になるだろうが。
近所のスーパーまで自転車で向かう。ぽかぽかの日差しに、少しだけひんやりした空気が肌を撫ぜる。その温度差がふさぎ込んでいた気分に爽快感を与えてくれる。お世辞にも吹っ切れたとは言えないが、闇雲に不安に駆られるようなことはなくなった。
極めて平常心に近い状態でスーパーに入店。迷いなく冷凍食品のコーナーへ。最近は多様でかつ調理が楽なものが揃っている。そして値段も良心的。ただ、この時間のスーパーは高校生がいるような場所ではなく、注目を集めているような気がしてしまうので、迷っている暇はない。
そう思い、なるべく早く退散することを目標にたどり着いたわけなのだが、まさか、同類がいようとは思わなかった。
ジャージ姿で冷凍餃子とにらめっこをしている少女。年齢は恐らく俺と同じ。高校生だろうが、ゆったりとしたジャージの上からでもわかるほど起伏のはっきりした体つきは、モデルという職種を彷彿とさせる。ちらりと覗いてみると、顔立ちも思わず二度見してしまう程に整っている、というか、この美貌には見覚えがある。眼鏡をかけ、帽子をしているので印象が違って見えるが、こんな美少女がそう何人もいてはたまらない。
「美川?」
「げっ」
俺が小さく名前を口にしてしまうと、相当驚いたのか、手にしていた餃子を取り落とし、ぎょっとした様子で、髪が遠心力でふわりと靡くほどの勢いで振り返った。
「げっ。こほん。人違いです」
「今思い切り『げっ』って言ったよな」
「ぐ」
誤魔化すのは難しいと判断したのか。ごにょごにょとどもった後、キッと眦を吊り上げ、責めるような口調に変えた。
「こんな時間に、どうしてこんなところにいるのかしら。もしかしてサボり? ついに真面目に登校することもやめてしまったの。愚かね」
「あまり言い訳のできる状況でもないからそれでもいいが。そっちこそなんでこんなところにいるんだ。思い切りブーメランだぞ」
「ぐ。ああ言えばこう言う」
至極真っ当な反応だと思うのだが。
「女の子には色々あるのよ。デリカシーのない男は嫌われるわよ」
「今更嫌われたって、別に気にしないけど。聞かれたくないなら別にいい。それじゃ」
寿命まで定まった俺とはやはり生きる世界が違うのだ。これから死ぬ覚悟をしなければならない俺とは、もうまともに関わることもないだろう。
「ねぇ」
そう思って、さっさと選んで退散しようとしたのだが、彼女の口から出た言葉に俺は引き留められた。
「なんだ。ここであまり長居はしたくないんだが」
「一つだけ質問させて」
「なんだ?」
「最後の晩餐には、何を食べるべきだと思う?」
その質問は、意図が全くわからなかったが、俺も考えなければならないことだった。そして、彼女の質問は、俺のたった今の行動を反省させた。適当に選んでしまった冷凍食品を棚に戻し、先ほどの彼女のようにパッケージとにらめっこを始めた。
「ねぇ、聞いていたの」
「ああ。聞いていた。今選んでいるところだからちょっと黙っていてくれ」
「何よそれ」
二人並んで冷凍食品を品定めする。結果、俺は肉じゃが、美川はハンバーグを選んだ。
「それが君の最後の晩餐?」
「いや。最後が冷凍食品は嫌だろ」
「たしかに」
「俺は、そうだな。彼女の手料理かな」
本気の決断というわけではない。ただ、冗談というわけでもない。彼女の愛情篭った手料理を男は誰しも夢見るものだ。それで最後にするかは別として。
「へぇ。なんか、馬鹿っぽい答えね」
「文句があるなら訊くな」
「ふふ。嫌いじゃないわよ。それも一つの正解だと思うわ」
「最後の晩餐に正解も不正解もあるのかよ」
「ないわけじゃない、と思うわ」
「あるにしても、どうせ最後なのに、正解を出したところで意味なんてないだろ」
「さぁ、どうかしら。もしかしたら、最後じゃなくなるかもしれないわよ」
「どうだか。さておき、美川はどうなんだ」
「どうって?」
「最後の晩餐。出題者の意見も参考にさせてくれ」
「そうねぇ」
美川は中空を仰ぎ見た。とはいっても、目に映るのは店の蛍光灯くらいだろうが。
「家族の手料理、かしらね」
そう言った美川は、話は終わりとばかりにその場を立ち去った。