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11日目 7月23日(金) 瑠美視点

 暑い。梅雨が明けてからずっと晴れの日ばかりが続いている気がする。いつもの部室に居れば、クーラーもついて涼しいはずなのに、どうして外に出ているのかと言えば、学校の周りを走るためだ。


「なんでこんな暑いのに走らないといけないんだろうね、瑠美ちゃん」

「仕方ありませんよ。そういう部活ですから」


 走る目的としては、体力作りである。聞いての通り、健康のため自主的に、なんてわけではない。私の所属する部活の活動の一環である。


 この炎天下の中で体力作りのために走るという苦行を課しておきながら、世間的には運動部として見られていないのだから、首を傾げたくもなる。


「頑張りましょう。夏休み明けには本格的に練習が始まりますから、今のうちに体力をつけておかなくては」

「うんうん、それもまたブカツだね」

「ええ、まあ、そうですね」


 悪い子ではないのだが、クラスで話しているときも、この子はときどきよくわからないことを言う。


 無駄話も程々に、学校の周りを走り始める。私はあまり汗をかく体質ではないけれど、激しい運動をするといくら何でもタラタラと汗が流れる。タオルを持っていなかったら今頃体操服全体がベトベトに張り付いていただろう。


「瑠美ちゃん、汗の匂いも、何かいい匂いする」

「はぁ。あの、さすがにそれは気持ち悪いです」


 始まってからずっと隣で走っているけれど、さすがに離れたくなってきた。走りながら喋る余裕もあるようなので、スピードを上げてもついてこられるだろうし、静かになってくれるだろう。


「あまり喋っていると置いていきますよ」

「うわ速っ。待ってよー」


 私は体力に自信がある方ではないが、入学以来部活のランニングを真面目に続けていたお陰で、随分改善したように思う。中学生の頃は一時間も走り続けることなんてできなかった。


「はぁ、はぁ。ちょっと飛ばしすぎじゃない?」

「限界に、挑戦してこそ、ですよ」


 とはいえ、このペースはさすがに苦しい。けれど、ノルマまでもう少し。ラストスパートで頑張ろうと思えるくらいの距離だ。


「ゴールっ。はーぁっ。瑠美ちゃん大丈夫?」

「はい」


 ゆっくり歩きながら息を整える。少し無理をしすぎたのか、ドクドクと心臓が激しく鼓動しているのがよくわかる。


「全然大丈夫そうに見えないよっ。フラフラしてるって」

「そう、ですか?」


 確かに、なんだか思うように足が進まない。それどころか、だんだん頭がぼーっとしてきて、立つこともままならなくなってくる。耐えられず、その場にしゃがみ込んだ。


「ほ、保健室! 保健室行こう! お茶飲んで!」

「お、落ち着いてください。少し休めば、このくらい」

「だめだよ! 死ぬよ!」

「死にはしませんから」

「とりあえず保健室っ。先輩たちには言っておくから、早く早く」

「わかりましたから。少しだけ待ってください。もう少し動けるようになるまで」

「う、うん」


 大袈裟だとは思うけれど、これこそ彼女が良い人たる所以というもので、何より友達思いなのである。




「熱中症ね」


 保健室のベッドで、氷枕に頭を預け、脇や膝裏に氷入りのビニール袋を当てた状態で寝転がっている私に保健医はそう言った。この処置の時点でそんなことはわかっている。


「大丈夫ですか? 死にませんか?」

「軽度だから大丈夫よ。心配しないで部活に戻りなさい。あなたも熱中症には気をつけてね」

「はーい」

「そう言いながら離れる気がありませんよね」

「えへ。やっぱり心配でさ」


 友達思いというか、ただの心配性なのかもしれない。お陰で一人取り残されて寂しくなるなんてことはないだろうから、私からすれば助かるけれど、損の多そうな性格だと思う。


「サボろうと構わないけど、私はこれから出張だから、戸締りはよろしくね」

「はい。わかりました」


 保健室の先生はそうして去っていった。保健室には私たち二人が取り残される。


「私のことは大丈夫ですから、部活に戻ってください」

「えー、どうせ戻っても筋トレだしなあ」

「私の分も頑張ってください」

「う、そういう言い方はよくないよ。私の良心の呵責があ」


 こんな言葉で良心の呵責に苛まれては世話がないだろう。きっと彼女には、部活に戻りたい気持ちもあるのだ。彼女は性格からもわかる通り、仲の良い友達が多い。勿論部活のメンバーにも。


「わかりました。そう心配するなら、人を呼びます」

「ぅえっ! 私通報されるようなことした?!」

「いえ、そういう意味ではなく。代わりに見ていてくれる人を呼ぶということです」

「ああ、そういうことね。でも誰を呼ぶの? この時間に残ってるのって、だいたい部活勢じゃない?」

「大丈夫です。暇、ではないでしょうけど、頼めば必ず来てくれます」


 体を起こして、持ってきてもらった鞄からスマホを取り出し、メッセージを送る。


「十数分も経てば来るでしょう」

「お兄さん?」

「そうです。体も冷えてきましたし、お茶も飲みましたから、余計な心配をかけるだけかもしれませんが」

「心配してしすぎることなんてないよ。お兄さんだってきっと飛んでくるって」

「そうでしょうか」

「そうだよ。お兄さんが来るまでもう少し休んで、今日は早退ね」

「わかりました。そうしますから、もう行ってください」

「うん。じゃあまた明日ね」

「ええ。また明日」


 保健室を出て駆け足になった足音が遠くなるまで聞いてから、いい加減に冷たくなってきた氷袋を体から離す。そのまま脱力して、ぼーっと天井を眺める。そうしていると、氷袋からの冷気が心地よくて、だんだん瞼が下りてくる。


 そのまま意識も微睡んできて、兄が来るとわかっていながら学校で眠るなんてと思いつつも、抗えずそのまま眠ってしまった。




 それほど眠ってはいなかったと思う。授業中に居眠りなんてしたことはないけれど、きっとそれと同じくらい浅い眠りだった。やはり氷枕では眠りにくい。


「お。起きたか」


 とはいえ、寝起きは寝起き。突然近くから男の人の声が聞こえてきては驚きもする。ベッドから落ちるというほどではないものの、思わず背を向けてしまうほど、言ってしまえば怖かった。


 恐る恐る顔を向けてみると、見慣れない顔がそこにあった。


 いや、実際には世界で一番見慣れた顔だったのだけれど。


「驚かせないでよ馬鹿にい。人が寝てるときに」

「それは悪かった。まさか瑠美が寝てると思わなくて」

「他に誰が寝てると思ったのよ」

「いや、そういうことじゃなくてだな。真面目な瑠美が学校で寝るって想像がつかなくて」

「ふうん」


 困っている兄を後目に身を起こし、ベッドを下りる。いつの間にか氷はほとんど溶けていた。


「もう大丈夫か?」

「平気。心配しすぎなのよあの子」

「ああ、この間の」


 どうやらこの愚鈍な兄にもわかってしまうほど、彼女はお人好しらしい。


 それから二言三言交わして、帰ることにした。保健室を出た瞬間の熱気に思わず唸ってしまいそうになったが、そんなはしたないことはしない。


「鍵返してくるから、先に下駄箱で待っててくれ」

「待たないとだめ?」

「そりゃそうだ。じゃなきゃ俺は何のために呼ばれたんだよ」

「はいはい」


 駆け足で職員室に向かう兄の背を見送って、靴箱まで向かう。思わず家での口調で喋ってしまっていたが、ここからは気を引き締めなくては。


 結局そんな注意は杞憂に終わり、幸いにして知人と会うことなく、兄と合流した。


「荷物持つぞ」

「別に。大丈夫」


 教科書は決して軽いとは言えないけれど、わざわざ持ってもらうほど重くはない。筋トレをサボった分、ここで挽回というほどではないにせよ、何かしら負荷をかけておきたかった。


「持たせてくれよ。俺が手ぶらだと見栄えが悪いんだ」

「今更気にする体裁なんてないでしょ」

「辛辣すぎるだろ。というか、仮にも病人なんだから素直に寄越せよ」

「窃盗?」

「身内相手にか」

「妹の荷物を無理矢理持とうとしてくる変態って認識にした方がいい?」

「やめてくれ」


 昔の兄はこんな軽い悪口にも必死になって、というか必死なフリをして応えてくれたものだが、最近、とりわけ高校に入ってからは落ち着いた対応しかしない。そういうところがつまらないから、こっちも塩対応になるのだが、これが大人になるということなのだろうともわかっている。


 心の中で、昔に固執しがちな自分にため息をつきながら兄に荷物を押し付ける。


「仕方ないから持たせてあげる」

「どうも」


 呆れたように息をつく兄。本当はありがとうって言いたいけれど、どうにも言いずらくて、口を噤んでしまう。


 昔は感謝の言葉くらい、素直に言えていたはずなのに。昔から変わっているのは私もそうなのだから、いつまでも兄に昔の面影を求めていてはいけない。


 気持ちを切り替えて、感謝を述べるタイミングは逃したが、素直に謝るくらいはいつだってできるはずだ。そう、学校でしているような演技だと思えば、きっとできる。


「えっと、その、ごめんなさい。急に呼び出したりして」

「ん、いや。そんなこと気にするなよ。重症じゃなくてよかった」


 あの頃は良かったなんてジジ臭く昔を振り返るよりも、今の彼の姿を見つめてあげなくてはならない。


 つい最近髪型も良くなって、きっと何か変わろうという意識を持っているはずなのだ。それを応援してあげるのが、家族として良い事のはず。


 それに、そうして明るく変わった先はきっと、私が浅ましくも望んでしまう昔の姿にも近づいているだろうから。


「瑠美って運動部だったんだな。この暑いのにランニングしてたんだろ?」

「ん」


 私の考えなどお構い無しに、兄は世間話を振ってくる。本当は文化部と答えるべきなのだろうが、絶対に兄には部活バレしたくないので、適当に頷いておく。


「馬鹿にいだって元運動部でしょ。熱中症にはならなかったの?」

「あー、それは、まあ。柔道場はあまり日差しも入ってこないしな」

「ランニングとかなかったわけ?」

「無くは、なかったな」

「サボってたんだ」

「ぎくっ」


 声に出しては認めているようなものだ。図星とばかりにサッと私から目をそらす、馬鹿な兄の姿に思わず笑みが溢れる。


 ただ、いつも部活の話になるといつもこの兄は具体的なことを言わなくなる。それだけサボっていたのか、はたまた友達が少なく思い出に残るようなこともなかったのか。どちらでも結局私には関わりのないことだけれど。


「瑠美が真面目なのはわかってるけど、あんまり無理するなよ」

「だからって馬鹿にいみたくサボるのは嫌」

「誰も手を抜けなんて言ってないから。完璧主義的なところもわかってるし、ただ体調管理も抜かりなくしろってだけだ」

「はいはい」


 この兄も、あの子ほどではないにせよ心配性だ。正確には、ここ数年で一気に心配性になった。過保護になったと言ってもいい。昔なんて、私が転んで膝から血を流してもとにかく頑張れの一点張りだったくせに。何がきっかけかはよく知らないけれど、それで距離を感じるようなこともある。


 また昔に焦点を当ててしまったことを反省しつつ、ちゃっかり私の性格を熟知していることを評価する。


 私は完璧主義とは言わずとも、できることはやらないと気が済まない質である。特に課題として出されたものはそれこそ完璧に仕上げたいと思うし、場合によってはそれ以上の努力も惜しまない。だからこそ、うまくサボれなんて言われても苛立つことしかない。


 少なくとも、大きな失敗をするまではこの性格はそのままだろう。それを理解してくれているというのはポイントが高い。




「ただいま、おかえり」

「自問自答? 寂しい人」

「おかえりは瑠美に言ってるんだよ」


 そんなことはわかっている。どうでもいいことだとわかっていながら、つい口に出してみたくなってしまったのだ。


「いい匂い」

「ん、今日はちょっと手の込んだものをな」

「ただのカレーじゃないの?」


 この匂いは紛れもなくカレー。ライスかうどんか、もしかするとナンかもしれないが、折角カレーなのであれば、こだわりポイントは炭水化物の方であってほしくない。


「それは食べてのお楽しみだ。荷物置いてこいよ」


 もったいぶってキッチンに入る兄の後ろ姿に、期待させておくほどのものなのか訝しむような目を向けつつ階段を上って自分の部屋へ。


 エアコンもついておらず、窓も締め切った私の部屋はとにかく蒸し暑かった。一刻も早くエアコンのついたリビングに戻りたい。


 そこを我慢して、やるべき課題を机の上に置き、教科書を片付けていると、早くも汗が出てきた。そういえば、すっかり乾いているが私の着ている体操服は元々汗を吸っていたものだ。スンスンと嗅いでみると、ツンとした臭いがする。


 ここで問題。これを着替えるべきか否か。着替えないと不快というほどではない。臭いだって、積極的に嗅ごうとしなければ大丈夫。リビングにはカレーの匂いが充満しているのだから尚更だ。けれども、あの愚鈍な兄が万が一気づいたら、それは少し恥ずかしい気がする。


 別に兄の前で見栄を張ろうなんて思わないけれど、最近カッコよくなった彼に汗臭い妹だとは思われたくない。私が馬鹿にいより素行が悪いみたいになる。


 しかし、その程度のプライドで洗濯物を増やすのも嫌だ。別に一枚や二枚増えたところで変わらないのは知っているけれど、確か今日の洗濯担当はあの兄だ。私のプライドのために彼に何か押し付けるというのは癪に障る。寧ろそれこそ私のプライドだ。


 そんなことを考えている間に、暑すぎて体温が上がり、どうでもよくなってくる。そこで、ひとまず妥協案を採ることにした。


「カレーできた?」

「ああ。なんか遅かったな」


 リビングへ下りてみると、兄がカレーをテーブルに並べていた。遅かったと言いつつ、タイミングは完璧だったようだ。


「え、なんだその格好」

「わ、悪い?」

「いや、別に、家の中でくらい好きな格好でいればいいけど」


 結局、兄に変な目で見られることには変わりなかった。私が着ているのは、制服のシャツに体操服のズボン。文化祭の準備以外ではおよそ見慣れない格好である。


「あんまり見ないでくれる」

「悪い」


 対面に座っていれば、普通に制服を着ているようにも見える。自分でもなぜこの判断をしたのかわからないくらいなのだから、触れないでほしい。


「いただきます」

「召し上がれ」


 気を取り直して、まず一口。味はそれほどいつもと変わらない。使っているルーは同じなのだろう。では手をかけたというのはどこか。普段のカレーにはおよそ入っていないものが入っているのだ。


 今度はそれを含めて一口。


「どうだ?」

「おいひい」

「そうかそうか」


 口に含んですぐ感想を述べさせられたが、反射的に答えてしまうほど美味しかった。何が入っていたかといえば、塊肉である。


 うちには圧力鍋というものがない。だからこそ、ここまでホロホロに解けるよう煮込むには相当な時間がかかるはずだ。


「ほんと美味しい」


 思わず素直にそう言ってしまっていた。兄は私の言葉に気をよくしたようで、ニコニコとカレーを頬張っている。


 こんなものを作る暇があるなら勉強しろ、と小言を言ってやりたくもあったが、その子供っぽい表情と仕草に免じて許してあげよう。


 髪を切って顔がよく見えるようになって、やっぱりこの兄は可愛いところがあるというのに気づく。普段の感じは変わってしまったけど、ふとした時に面影がある。


「そうやって嬉しそうなの見るの、久しぶりかも」

「そうか?」


 昔のような表情も私は好きだが、変わって良かったと思うところもある。具体的には、顔の骨格がはっきりするようになったところだ。正直、我が兄ながら良い顔立ちをしている。直視し続けていられないほど。


「馬鹿にい、ここカレーついてる」

「んぅっ、まじか」


 気づいたことだけを言って、サッと目を逸らす。


 どうにかしてこの姿のまま、昔みたいな性格にならないかなと、詮無いことを思い描いてしまうのだった。

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