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10日目 7月22日(木) 奏視点

「おはよう、翔君」

「ああ、おはよう」


 いつもの朝。隣の家から彼が出てくる。小学校の頃から目にしてきた、余りにもあまりにも見慣れた光景。でも、少しだけいつもと違うことがある。いつもより少し遅いのもそうだけど、もう一つ。昨日から、翔君は少しオシャレになった。昔から顔が良いのにもったいないと思っていただけ、いざ髪型が決まっている姿を見せられると、昨日の今日ではまだ慣れない。


 そうしてつい視線を顔から少し下にずらしてしまって、そこで気づいた。


「翔君、ボタン掛け違えてるよ」

「ん、そうか。道理でちょっと苦しいと思った」

「直してあげる。動かないで」

「ああ。ありがとう」

「どういたしましてー」


 至近距離まで近づく。こうすると顔が見えなくて心臓に優しい。せっかくカッコよく決まってるのにこういうところでだらしなくするのは勿体ない。なんて普通に思ってしまうほど、私は翔君に毒されているみたい。瑠美ちゃんがうまく話せなくなるのもわかってしまう仕上がりだ。


「はい、おっけー」

「ありがとな」

「さっき聞いたよ。せっかくかっこいいんだから、制服もちゃんと着ないとね」

「お、おう」


 翔君は照れたように目をそらす。その反応を見て、思っていたことがすんなり口から出たことに気が付いた。急に沸騰するかの如く顔が熱くなる。これじゃあ昨日と同じだ。冷静に冷静に。相手は翔君なんだから、今更意識なんてする必要なんかない。


「あ、奏。メロの毛ついてるぞ」

「え、どこ?」

「肩。とってやる」


 メロというのはうちで飼っている犬の名前。黒いポメラニアン。私は地毛が茶色がかっているから、翔君もメロのだと気が付いたのだろう。


 再度翔君が近づく。その表情はちょっとぎこちない。悔しいけど、そういう顔でもやっぱり顔が良い。というか、近い。本当はさっきと変わらないけれど、体感では至近距離に感じる。


「え、えと」


 あれ。翔君ってこんなにいい匂いしたっけ。一緒に洗濯しているって話を聞いたことがあるから、瑠美ちゃんと同じ匂いがするのかと思ったけど、やっぱりちょっと違う。なんというか、もっと男の人って感じがする。


「よし、取れたぞ」

「あ、ありがと」


 どうしてだろう。触れられた感覚がずっと残っている。もう翔君は手を離して、私の隣を歩いているのに。昔はこうして触れ合うのなんて当たり前だったはずなのに。どうしてこんなにもドキドキするのかな。


 きっと一時の気の迷いだ。翔君はただ顔が良いだけの幼馴染なんだから。悪いとこだっていっぱい知ってるし、男の人として見るなんてないない。そりゃ、昔みたいに仲良くはしたいけど。


「そうだ。昨日の話、本当に実行するの?」

「ああ。頼むよ」

「なんだかみんな殺気立ってたから、これで助けになるなら付き合ってあげるけど、本当に大丈夫?」

「あんな奴らの手で死ぬよりマシだろう」

「今回の件はともかく、普段はいい人たちなんだよ?」


 一応フォローはしたけど、翔君からしたら第一印象が生命の危機だから、彼らの印象は変わらないだろうな。どうせあと一年、受験期のピリピリした感じで付き合うんだから、それでいいのかもしれない。




 教室につく。今日は翔君と一緒に教室の扉をくぐった。


「おはよう」

「お、おはようっ」


 いつもみたいにたむろしている私の友達に挨拶をする。翔君も私に続いて、たどたどしく挨拶を続けた。その様子に首を傾げながらも、私の友達は挨拶を返してくれる。


 一先ず朝はそこまでだった。私たちが入ってすぐ担任の先生が入って来たし、私と一緒に登校してきたことを隠しもしなかったから、男子たちも躊躇って翔君にちょっかいをかけようとはしなかった。


 さて、私の日常が変化したのは次の休み時間から。いつもの友達との会話に翔君が混ざってきたのだ。そして私はそれを補助するように頼まれている。


『俺を奏たち女子の会話に入れてくれ。俺の命を助けると思って』


 昨日の晩に翔君から届いたメッセージはこうだった。意図はわかる。あんな目をした男子たちは初めて見たし、翔君が怯える、というか手の施しようがないと諦めるのもわかる。彼らだって好き好んで私たちの女子トークに混ざろうとはしないだろうから、効果はあるだろう。でもそれは翔君も同じこと。なぜこの結論に至ったのかは謎だ。


「えっと、一ノ瀬? どうしたの? カナに何か用事?」


 一瞬カナが私を指していると理解できず戸惑ったようで、翔君は言葉に詰まる。あるいは、およそ初めて絡むから、距離感を測りかねているのかもしれない。私の友達だって、いつもの豪気さは成りをひそめて、クラスメイト相手にしては随分よそよそしい。それだけ翔君の存在が小さかったんだと知って、少し悲しくなる。


 進展のない会話に救いをと思って口を開きかけた私を目で制して、翔君がしゃべり始める。


「俺も会話、というかグループに加えてくれないか?」

「は?」

「もっと直接的に言うなら、俺をかくまってほしいんだ」


 そう言って翔君はちらりと、こちらの様子を窺ったままの男子たちを見る。その視線で察したようで、彼女は理解したという風に小さく頷いた。そして、変なことでなくてよかったと安堵した様子で、いつもの調子に戻って翔君と話し始める。


「確かに、あれはうちらに紛れ込んででも逃げたくなるわ」

「だろう?」

「でもまあ、男なら? ガツンと言ってやってもいいんじゃないかって思うけど?」

「無茶を言わないでくれ。言って聞くような状況じゃない」

「それもそうだね。見るからに気弱そうだし」

「実際気弱だしね」

「奏が言うと説得力が違うんだからやめてくれ」

「ごめんごめん」


 苦笑しながら、翔君を完全に輪に入れるべく会話を回す。


「そういえば翔君、急にイメチェンしだしたのはどうしてなの?」

「おま、それは昨日も言っただろうが」

「ちゃんとは聞いてないじゃん」


 話したくないなら別にいいとは言ったけど。会話の種、というより、すぐそこで聞き耳を立てている男子たちへ本当のことを知らせてやればいいと思ったのだ。


「あたしも気になるよ。急に印象が変わったから」

「ぐ、それは」

「吐いたら楽になるよ?」


 笑顔で詰め寄られる翔君。かわいそうだけど、彼らをある程度鎮静化させるためには必要なことだと思う。


「あー、えっと、あれだ。モテたいなと思って」


 多分嘘だ。ほぼ初絡みのくせに、変に彼女の眼をまっすぐ見ている。それは翔君が嘘をついている証拠だ。だからといって、今聞きだしたりなんかはしないし静観するけど。


「ふぅん。美川さんと付き合ってるからじゃないのかい?」

「そんなわけないだろう。俺とあいつが釣り合うと思うか?」

「その容姿なら申し分ないと思うけど。少なくともそこら辺の嫉妬に狂った男どもよりは相応しいと思うね」

「言っておいてなんだが、何よりあいつの気持ちだと思うぞ。少なくとも俺に靡いているような様子は全くない」

「へえ。でもそれがわかるくらい接触はしてるんだ」

「む。それは、そうなのかもしれないが」

「でも、結局付き合ってるとか、特別な感情を抱いてるわけじゃないんだよね?」

「ああ。それはもちろん」

「そう断言するのもどうかと思うけどね」


 やはり苦笑が生まれる。ただ収穫はそれだけではなく、おそらく彼らのヘイトはある程度軽減されただろう。


「じゃあ、狙いはカナとか?」

「ふぇっ!?」


 唐突に私の名前が出てきて変な声が出てしまった。彼女は翔君をからかうつもりだったようだが、私の反応に矛先を変えられてしまった。


「なになに? 満更でもないかんじ?」

「そ、そんなわけないよ。誰が翔君となんか」

「お前、さすがにその言い草は酷くないか?」

「別に普通でしょ。私の翔君に対する評価なんてそんなものだよ」

「そんなこと言いつつ、意識しちゃってるんじゃないのかい?」

「そんなことないもん」


 何を言い出すのか。ちょっと焦っただけで、別に翔君を意識しているなんてことはない。ちょっとカッコよくなったからって、調子に乗らないでもらいたい。いや、乗ってはいないんだけど。


「そんなことよりもうすぐ授業だよ。早く席に戻って」

「ああ、そうだな」


 翔君が席に戻る。一緒に話していた友達は私の隣の席だから、もう少し会話が続く。


「ねえ、ぶっちゃけ、あいつ良くない?」

「本当にそう思う?」

「幼馴染ちゃんは見慣れてるかもしれないけど、あれはなかなかのものだと思うよ」

「えー?」

「ぶっちゃけ、カナはどう思ってるんだい?」

「さっきも言ったでしょ。なんとも思ってないよ」

「ふうん。じゃああたしがもらってもいいのかな?」


 ニヤニヤとからかうような眼で私を見る。それで私が嫉妬みたいなことを感じるかもという考えかもしれないけど、そんなことはない。


 もしそんなことで嫉妬を感じるくらいだったなら、きっと私は三年前に既に狂っている。


「翔君が選んだのならそれでもいいと思うよ」

「へえ。大人だねえ」

「だけど。お願いだから、軽い気持ちで告白なんてしないであげてね」

「ふうん?」


 彼女はよくわからないといった様子で、曖昧に頷いた。


 もうすぐ三年になるんだから、翔君だって吹っ切れているとは思うけど、ね。親心ってやつだ。




「一緒に帰ろうか、翔君」


 放課後。翔君が男子たちに拉致されるより早く、声をかける。翔君はホッとしたような顔で頷いて、そのまま一緒に校門を出た。


「助かるよ。本当にありがとうな」

「いいよ。ジュースでも奢ってくれたらそれで」

「きっちり要求はするんだな」

「翔君、世の中そんなに甘くないんだよ」

「へいへい」


 そんな会話をしながら、帰宅路にあるコンビニへ入る。帰路といっても、もう少し歩けば家に着くくらいの距離にあるので、実質帰宅後のものと言っていい。


「翔君、私これがいい」


 私が指さしたのは、だいたいどこのコンビニにもある、キャップのついたプラスチックパックのアイスだ。


「お前それにするのか?」

「もう夏だよ? 丁度いいじゃん」

「そうは言っても、帰るまでに食べきれないだろ。メロに見つかってひったくられたらどうするんだ」


 昔、私たちが遊んでいたときにはよく、メロがおやつを奪い去っていったものだ。メロは私たちと同じものを食べたいと思っているみたいだけど、人間の食べ物が犬にとって良いとは限らないから、私も翔君もなるべくメロの近くで物を食べないようにしている。


 もっとも、私の持っているものを奪ったりなんてことはなかったし、今となってはそんな元気もないだろうけど。


「メロはそんなことしないよ」

「そうか? でもそれに、あんまり冷たいもの食べたらお腹壊すぞ」

「もう、子供扱いしないでよね。少なくとも翔君よりは大人だよ」

「どうしてそう俺を下に見るんだ」

「翔君が私より上に立つ理由がないじゃん」

「それはそうかもしれんが、なんか酷いな」


 幼馴染なんて、貶しあうくらいが丁度いいコミュニケーションだ。わざわざよそよそしくする必要もない。


 高校に入った頃はそうも言ってられなかったけど、少なくとも今は、気安い幼馴染に近づいてきている。それは私がどうこうではなく、翔君の雰囲気がそうさせている。単に髪を切っただけで、中身は変わってないのかもしれないけど。


「それよりほら。アイスはやめてこっちにしとけよ」

「えー。うーん、じゃあそうする」


 翔君が差し出してきたのは、ミックスジュース。このコンビニの飲み物で一番安い。でも、子供の頃の私はこれが一番美味しいと思っていた。


 勿論好みなんて変わるもので、今はもっとお洒落な飲み物を欲したりするけど。ただ翔君が、昔のことを覚えていてくれたのが嬉しかった。


「これ好きだったの、覚えててくれたんだ」

「まあな」

「案外私のこと好きだったり?」

「たまたま覚えてただけだ」

「えへへ。ありがと」


 私が笑うと、翔君は恥ずかしそうに視線を逸らしながら、私と同じジュースを呷った。


「なんかさ、最近翔君、吹っ切れたって感じがする」

「そうか?」

「うん。そう」


 触れるべきじゃないかなとも思ったけど、出来るなら私は、早く昔の関係に戻りたい。そのためには、翔君の気持ちを知らなければならない。


「そう、かもな。今の俺は吹っ切れてる」

「何その言い方。変なの」

「なんだよ、お前が言ったんだろ」

「そうだけどさあ」


 なんだか変な感じがして、笑ってしまう。私が思っていたより、翔君は思い詰めてなんかいなかったのかもしれない。それを確認するのは随分遅れてしまったかもしれないけど、まだ取り返しはつくはずだ。


「翔君、今度映画でも行こっか」


 私は幼馴染との間に空いた空白を埋めるために、そう口にした。

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