澤井さんお疲れ様です
5月15日金曜日、昨日は気のせいとも思ったが、今日もやはり皆が視線を逸らす。航平君は相変わらず挨拶を――
「おはようございます。先輩」
くるりと椅子を回し挨拶をする。
「うん、おはよう」
後ろにいる先輩は相変わらずクールビューティーだった。そう、迫力があり過ぎるほどに。
「先輩、威圧2がだだ漏れです」
「…やはりそうか。満員電車でもボクの周りは常に空いていたよ。クククッ、フゴッ」
喜んでいる。
「参った。これでは相手が萎縮してしまって仕事に支障をきたす」
困っていたのか…。
周りが遠巻きに俺たちを見てはヒソヒソと話し、先輩が見ると視線を彷徨わせる。
「地獄耳も、聞こえすぎて困るな」
先輩の形の良い眉が下がる。
「先輩、Pちゃんから教えてもらった方法がありますよ」
「ほう、P様から。それはぜひ知りたい。じゃあまた公園で」
俺が小声で言うと、先輩も前屈みになって囁き、去っていった。
全く、周りも怖がるか羨むかどっちかにしてほしいもんだ。
俺はため息をついて、仕事に戻った。
「で、P様はなんと? …美味しいな、これも。甘じょっぱいタレがニンニクとあいまって、食欲を食べるそばから刺激してくる。そもそも肉自体も美味しい」
公園のベンチで、昨日の夕飯の残り、ビッグホーン焼き肉弁当を先輩がもりもり食べる。弁当を出した途端、先輩が持ってきた豪華弁当と交換されていた。
「先輩の弁当も美味しいのに」
サヤエンドウ、ニンジン、里芋の煮付け、玉子焼、西京焼きに本物の牛肉の和風ステーキ…彩りも鮮やかで、俺には出来ない上品な味付け。料亭の仕出し弁当みたいだ。
材料費が気になるところではある。
「こんな特技もあったんですね」
「いや、シェフが作ってくれた。ボクは料理ができないからね」
家の食事を作るのは、住み込みの専属シェフらしい。
「…薄々は気付いていましたが。でもなんで満員電車に? それこそハイヤーで会社に乗り付けるとか…」
「実家暮らしで言うのもなんだが、あまり世話になりたくない。ただ航平君の手作り弁当を頂くのに、コンビニの食事と交換というのは、手間を考えても不当と考え、今日は頼んだんだ」
初めから俺の弁当を狙っていたのか…。
「シェフには言ったぞ? 世話になっている男性にあげるがいいかと、ちゃんと了承は得ている。ククク、あの驚きようは凄かった。包丁が…クククッ。まあ初めて頼んだのだから無理もない。しかしあの慌てよう…クククッフゴッ!」
包丁も気になるが…もっと他の、嫌な予感がする。
「…先輩、失礼ですけど、付き合ってる人います?」
「いないぞ?」
「じゃあ、今までお付き合いされた方は?」
「いない」
ハッキリきっぱり言い切った。
「ボクはこんなだしね」
先輩が軽く肩をすくめる。
いくら変人とはいえ、顔も性格も良いんだからモテそうだけど…。社内にもファンは居るみたいだし。
「告白されるのかと思う場面は何度かあったが、その度に緊急電話が入ったり、お腹が痛くなったり、鳩のフンを浴びたり、側溝に落ちたり…。その後は連絡も無しだ。今思えば気のせいだったんだろう。ククク…フグッ」
それはまた運の悪い……あー!
丁度目の前を通り過ぎるOL風の女性3人に、心で謝りつつ鑑定をかける。皆幸運値は50ぐらいだった。一般的に50ぐらいが普通なのだろう。良いこともあれば悪いこともある感じで。
なのにレベルアップ前、先輩は幸運23だったからね…。激低だよね。
「千駄木先輩、もう大丈夫ですよ。これからは自信を持って、そういう場面に挑んでください」
「ん? ありがとう。頑張るよ」
先輩はどれほど運が悪かったか、そして今、どれほど好転したか、いまいち分かっていないようだった。
「それでですね、Pちゃんが言っていた方法なんですが、先輩今日、家に来れます?」
「ピ! お帰り航平、薫もいらっしゃいピィ」
玄関ドアを開けると、Pちゃんが飛んで肩に止まってきた。
「ただいまPちゃん」
Pちゃんの頭を撫でる。今日も手触り絶好調。
昨日は賢者の家を出た後も、隠者には早すぎる、経験も足りない、隠者とはー、と説教を食らったが、チョコケーキで機嫌を直してくれた。
良かった。水色の体が赤く変わるんじゃないかと思うくらいの剣幕だった。そして俺は未だサラリーマン(低)のままという…。
「P様、一昨日ぶりです。お元気そうで何よりです」
先輩が丁寧に頭を下げると、Pちゃんが片羽を上げて答える。
「P様、これは美味しいと評判のどら焼きです。前のケーキが残っていると聞きましたので、和風も良いかと愚考致しました。お口に合えば良いのですが」
愚考なんて言葉、戦記物の家臣以外に使う人がいたのか…。
「どら焼きとは炊いた小豆を甘くして、丸い皮に挟んだ――」
「ご飯前だから、食後な?」
昼休憩で先輩を家へ誘った時、先輩が即行で誰かに電話をかけた。
仕事が終わり、待ち合わせをした玄関ロビーで、紙袋を両手に持った、ひょろっと背の高い中年男性が声をかけてきた。聞き覚えのある低い声で、澤井さんだと分かった。
澤井さんはにこやかに俺に挨拶をしてくれたが、油断のない身のこなしで、つい武術をやられているのかと聞いてしまった。澤井さんは否定したが、あれは絶対身体操作2以上だ。鑑定はなんとなく良心が痛むのでかけていないけどね。
遅れてきた先輩が澤井さんから紙袋を受け取ろうとすると、俺たちを車で送るという。その申し出を先輩は嫌がったが、そのほうが早く家に着くので、俺がお願いした。なんか感謝された。
車の後部座席で不機嫌そうな先輩を無視して、俺は座り心地の良い座席を堪能した。澤井さんから色々聞かれたが終始笑顔で、人見知りの俺でも話しやすい人だった。
「じゃあ今日はどら焼き、明日はケーキ、それぞれ1個ずつな。今日の夕飯は先輩の奢りだ」
澤井さんが渡してくれた紙袋の中には、どら焼きの他にテイクアウトのイタリア料理が入っていた。
「これが鴨の赤ワイン煮、ミネストローネ、生ハムとオリーブオイルのパニーニ、モッツァレラチーズとルッコラのサラダだ」
もちろん俺がそんな料理を知っているはずもなく、全部車の中で澤井さんが教えてくれたものだ。テイクアウトできる店ではないので、待たせてしまったらどうしようかと思ったが、間に合って良かったと澤井さんが運転しながら笑っていた。
先輩、めちゃくちゃ実家に世話になっているじゃないですか…。
「ありがたく頂いたらダンジョンに潜って、先輩の威圧と地獄耳をなんとかしよう」
「了解ピ!」
「すまない、よろしく頼む」
イタリア料理はもの凄く美味しかった。特に鴨の赤ワイン煮。赤ワインの芳醇な香りとコクのあるソースが絶品だった。Pちゃんも気に入って何度もおかわりをした。
腹も膨れ、食後と考えていたどら焼きは、ダンジョン内での糖分補給に持っていくことにした。
先輩が着ていたジャケット、パンツから、持参したグレーのジャージに台所で着替えてきた。手には黒いスニーカーを持っている。
「ククク、トラックスーツとスニーカーを車に置くようにして正解だった」
トラックスーツとは多分ジャージのことだろう。
俺も部屋で、胸に白いカエデの葉が横に3本切られているマークに『adios』とプリントされている黒い半袖Tシャツと、カーキ色のチノパンに着替えていた。
Tシャツはまだ美波に見せていないおニューだ。アディオスとシャレているので、今度は笑われることも無いだろう。安く良い物が買えた。
しかしほんとに服代がマズイな…。
この前の雷電攻撃で『ニラ』Tシャツもジーンズも背中と片尻に、穴が空いていた。風呂で気づいた時は、呆然とするPちゃんの隣で、悲鳴を上げたものだ。
二人とも気遣って教えてくれなかったんだろう。…もうお嫁にいけません。
「じゃあ行きますか」
そのことには触れずここまで来たのだ。このまま忘れよう。
Pちゃんがバッグに潜り…。潜り込んでこようとして落ちた。
足でも滑らせた?
「ウィッピィ…。目が回ります、ご注意くださいピー」
足元で寝転がりながら片方の羽を上げる。
Pちゃんが、酔っ払っていた…。
「…先輩、赤ワイン煮って、アルコール飛んでますよね?」
「ボクに分かるわけ無いだろう…航平君のほうが詳しいはずだ」
「俺はあんな高級料理食べたこと無いんで…」
「P様を置いては行けないぞ? どうする?」
「…とりあえず連れていきましょう」
「ピッピッピー!午後8時丁度をお知らせしますピー! ピィ?」
時報のマネをしてご機嫌なPちゃんをバッグに入れて、俺たちはダンジョンへ降りていった。
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