いつもと違う夕方
「帰った…帰ってきたぞおお」
土の急階段を上り、とうとう部屋に帰ってきた。
地下3階からここまで、魔物に遭遇することもなく帰ってこられた。
出発してから数時間しか経っていないのに、全てが、ガラスの鎧さえ懐かしい。
靴を玄関に置くと手を洗い、空間庫から水のペットボトルを取り出した。
蓋に水を入れ、テーブルに置く。
「はいよ、Pちゃん」
俺もペットボトルからそのまま飲む。
「うーんまいっ!」
「ピッ」
Pちゃんも美味しそうに飲んでいる。
ダンジョン内では水を飲むことさえ忘れていた。
もっと余裕をもって行きたいな。準備もちゃんとしてさ…。
実際いつ死んでもおかしくなかった。やっぱり幸運200MAXのお陰だろう。
外からはまだ子供たちの遊ぶ声が聞こえてくる。
テーブルに置いたままのスマホを触ると、時刻は16:03を映していた。
約7時間、ダンジョンに潜っていたことになる。
7時間でLv11まで到達して、魔法もひとつ覚えて、上々の滑り出しだろう。
「よし、風呂だ! 今日は風呂に入ろう」
最寄り駅から徒歩10分、1Kながら家賃55000円と安く、建物は古いがリフォーム済みで、ユニットバスも付いている。
2年前実家を出る時に、探しに探してたどり着いた物件だ。
いつもはシャワーだけなので、狭い浴槽をしっかり洗いお湯を溜める。
溜めている間に、Pちゃんの空になったペットボトルの蓋に、オレンジジュースを入れてやる。
「ピピッ」
うし、喜んでる喜んでる。
「これも食べていいよ。ご飯前だから、ひとかけな」
「なんですピ?」
空間庫から取り出した板チョコを少し割り、欠片を小皿に載せてPちゃんの前に置くと、仕切りの戸を閉め台所に戻った。
閉めた部屋からPちゃんの叫び声が聞こえたのは気のせいだろう。
さて、今日は早めの夕飯だ。2ドア冷蔵庫を開ける。
空っぽだ。
卵は朝使ったし…そっか、今日は20時のタイムセールに行く予定だったんだ。
冷蔵庫の中にはゴールドスライムの原液しか入っていなかった。
どんな冷蔵庫だ。
とりあえず原液の入ったコップを空間庫に収納する。
ゴールドスライムの原液120ml(ラップ付) 1
こんな高性能な冷蔵庫がなんとタダ!
「…いや、ほんとに空間庫あれば冷蔵庫要らないな。これは…電気代が浮くぞ」
そんなに電気代は高くないがチリも積もれば、だ。
はっ! いやダメだ、空間庫は冷凍ができない。冷凍ができないとご飯のまとめ炊きができなくなる。
「これは水魔法に氷系の魔法があるか分かるまで保留だな」
まあとにかく今は夕飯の準備だ。
炊飯器に3合の米を入れ、研いで炊飯スイッチオン。
タイムセールまで待てないな。今から買い出しに…。
そして思い出した。
「あるじゃないか…食材が!」
空間庫を確認する。
ビッグホーンの特上サーロイン 30kg 1
「おおお…」
だけど30kgの肉は、さすがにこの狭いキッチン台には乗らない。
俺は布巾とラップを持つと、Pちゃんがいる部屋へ戻った。
「Pちゃん…どうした?」
水色の体は前面が茶色く汚れ、黄色いくちばしが茶色いくちばしになっている。
「航平! この茶色い塊はチョコレートですピ!」
つぶらな瞳がキラッキラッに輝いている。
「…うん、そうだけど」
「航平が言っていた『美味しいものがごまんとある』とは、このチョコレートのことだったのです! ピピ!」
いや、違うけど。
「そうか、そんなに美味しかったのか」
「ピ! それはもう…ピィ」
羽を持ち上げくちばしに持っていく。羽もチョコで汚れる。
「良かったなぁ。じゃあご飯が炊ける前に風呂入ろうか」
「風呂? あの温かい湯の…源泉かけ流しという…ピ」
「それ温泉な」
もう風呂のお湯も溜まっている頃だ。
脱いだものを洗濯機に放り込み、後退りするPちゃんを左手に乗せた。
「ちょっと狭いけど、まあPちゃんなら大丈夫か」
手の上に乗せたまま、空いている手で湯船のお湯を手桶に汲む。
「じゃあ、お湯かけるぞ?」
「ピ?」
ジャバッとお湯をかけると、びっくりしたのかPちゃんが固まって動かなくなった。
体洗うのどっちだ? 洗濯洗剤か? ボディソープか?
とりあえずボディソープで洗うことにした。泡立ちめちゃめちゃ良いな。
Pちゃんは固まったままだ。
これ、傍から見たらぬいぐるみと風呂に入っている男だな…。
お近づきになりたくないです。
洗い終わり、何度かお湯をかけても泡が流れ切らない。
しょうがないので、手桶の中のお湯に浸からせる。
「からだが、おもひです…ピ」
ようやくPちゃんがしゃべった。
「…何か、Pちゃんちょっとデカくなったね」
「おゆが…からだに…ピィィィ…」
出したほうが良さそうだ。
トポポポッ
つまみ上げると勢い良くお湯が滴り落ちる。
普通のぬいぐるみならぎゅっと絞りたいところだが、さすがにそれはまずそうだ。なので軽く体を掴むと、ピッピッと湯切りし、大きめのタオルで包んだ。
便器の上蓋にそのまま乗せておく。
「あー、さっぱりしたっ! な、Pちゃん」
「……」
台所に出てゴシゴシ頭を拭いてる横で、床に敷いたタオルの上でPちゃんが背中を向け寝そべっている。
突いてみるが動かない。どうやら屍のようだ。
ふてくされる叡智、大いなる方が嘆くぞ?
「風呂上がりのオレンジジュースは、格別美味いんだよな〜」
ピクッとPちゃんが反応する。
「しかも今日の夕飯は、サーロインステーキ! 極上の旨味らしいなぁ」
Pちゃんがムクッと起き上がる。
「ピ! それは素晴らしいですピ! まずはオレンジジュースをくださいピ!」
なんか叡智に勝った気がした。
しかし叡智に勝った俺はこの後、トランクスと靴下を入れたプラスチックタンスが消えたことを思い出し、ノーパンで洗濯機を回すことになる。
ちくしょー
小説好きな人に悪い人はいないと婆ちゃんが言っていました。読んでくれてありがとうm(_ _)m