第一話 少女と妖精
* * *
「……とまあ、あんなに堂々と言ったけど、貴族の前で踊るのは経験したことがないのよね。どうしよう」
「俺だって都会のダンス? なんて初めてやるぜ。踊れねぇ身にもなってみろ」
街の端にある森にて、切り株に腰を下ろしたセラは肩をすくめて溜息を吐いていた。前では腕を組んだロムルスが、木にもたれ掛かっている。ダンスパーティまで、あと五日しかない。
夜の帳が落ちた時間帯、二人を照らし出すのは真ん中にある二つのランプだけだった。
「ルルミーア様の言っていた、いわゆる都会のダンスはコツさえ掴めばできるから、そこまで心配しなくていいと思う。細かいところは明日教えてもらうんでしょう?」
すると彼は苦虫を潰したような顔をした。
「……まったく迷惑な話だ。俺は勝手気ままに踊りたいのに、形式的な踊りを指導されるなんて……」
「お嬢様に指導されるなんて貴重なことよ。それにあの胸をじっくり見られるかもしれない」
「ば、馬鹿、何言ってやがる! んなこと考えてねぇよ!」
顔を真っ赤にして否定されても、彼の下心が丸見えなのは明らかだった。男は胸が大きな女性に対し鼻の下を伸ばす生物だと、セラの母が常々言っている。小柄でわずかな膨らみしかないセラには縁のない話だった。
「もともと相手の男はいたんだろ? 何かあったのか?」
「隣街の男爵の三男に声がかかっていたらしいけど、夜逃げしたんだって」
「夜逃げ?」
「そう夜逃げ。二十歳の青年で、街の女性と恋に落ち、両親の反対を押し切って屋敷を出ていったらしい」
「よく知っているな」
「街の女性や酒場の情報網を侮らない方がいい。ロムルスが女を振ったなんていう話は一瞬で出回るから」
「えっ……」
顔を青ざめたロムルス。一瞬というのは誇張表現だが、数日でだいたい広まっている。
酒場に顔を出していれば、その手の話など簡単に手に入った。情報を集めるには、酒場は最適の場所。セラが踊りに関係なく顔を出すのも、そこに理由があった。
「ダンスパーティでは周辺にいる貴族を呼ぶらしいから、体裁を保つためにも、貴族でなくてもとりあえず背が高くて顔もいいロムルスを選んだわけよ」
「とんだとばっちりだな」
「いつもちやほやされているツケでしょ」
セラは時間を確認してから、ランプを手にして森の奥に向かって歩き出した。後ろからロムルスがついてくる。
「当日は笑顔を振り撒きなさいよ、街のためにも」
「ああ、頑張るさ……。おい、どこに行くんだ?」
セラは振り返り、人差し指を軽く口元に当てた。
「私の秘密の場所。ロムルスの顔なら大丈夫よ」
「はあ?」
本当ならば一人で行く予定だったが、裏から家を出たところを彼に見られてしまった。夜中にどこに行くのかしつこく聞いてくるため、渋々連れてきたのである。
ランプを掲げて黙々と進んでいく。背後がうるさかったが何も応えずにいると、さすがに諦めたようだった。
森を抜け、半月の明かりに照らされた草の広場が見えてくる。そこから囁き声が聞こえてきた。
「おい、こんな時間に誰――」
「いいから黙っていなさい。そこで待っていて」
飛び出しそうになるロムルスを押さえて、セラは広場に足を踏み入れた。
囁き声が消え、警戒心を露わにした六つの目が向けられる。しかしある二つの目と視線が合うと、その目の持ち主は嬉しそうな表情でセラに声をかけてきた。
「セラじゃない!」
「こんばんは、リーリ」
リーリと呼んだ銀髪の少女は、くるくる回りながら寄ってきた。背丈はセラの腰の高さほど、背中には人間にはない、透き通った羽がついている。
セラはひざを地面につけて、リーリと視線を合わせた。きらめく大きな目が向けられる。他の子も近づいてきた。
「どうしたの? 今日は来る日じゃないよね」
「ちょっとね、近々変わった場で踊ることになったの。でもどんな踊りをすればいいか、わからなくて……」
「セラが悩むなんて珍しい。あの草むらの中にいる恋人に、愛のダンスでも踊るの?」
セラは息を詰まらせて、せき込んだ。
「ち、違う! あの口うるさい男はただの幼なじみ!」
「口うるさくて悪かったな」
ロムルスが両手をあげて、セラたちに近づいてくる。彼の後ろには弓矢を握りしめている、リーリと同じ背の高さの少女たちがいた。
「こいつらって、もしかして妖精か?」
「そうよ。害がないとわかれば襲ってこないから、しばらく大人しくしていてね」
「こんなに見られると、居心地が悪いんだが……」
ロムルスの周りには五人の妖精がいる。誰もが目を彼に向けていた。その頬は仄かに赤い。
(この男、男爵の娘だけでなく、妖精にも惚れられたの?)
もはや乾いた笑いをあげるしかできなかった。
妖精が弓矢を下げると、殺気だっていた空気が緩んだ。それを感じたロムルスは手を下げる。すると妖精たちが彼の足にくっついてきた。
「何だ、こいつらは……」
「……そのまま妖精たちとじゃれていなさい」
視線をロムルスからリーリに戻す。
「リーリ、私が今度踊るのは、この街を納める男爵の娘たちの前なの。もしかしたら男爵がでてくるかもしれない。そんな人たちの前で踊ってもおかしくない踊り、私、習ったことないのよ」
「楽しませればいいんでしょう。ならいつも通りに踊れば? セラの踊りは皆の心を明るくさせるものよ」
「でも、街の人と同じように貴族たちまで喜ぶかどうかはわからない。入念に準備しないと笑い者になる」
セラは今まで貴族と交流したことがない。育ちが違えば感性も違うかもしれなかった。
「わたしからしたら人間たちは皆同じだと思うんだけどね。愛も嫉妬も、誰もが抱く感情だから」
「それと踊りは違う気が……」
「そう考える人もいるかもね。――まあいつも楽しませてもらっているセラのために、いわゆる貴族向けの踊り方を教えるよ。さあ、踊ろう」
リーリに促されて、セラは立ち上がった。月が照らしている場に移動する。草の上には丸い跡がいくつも残っていた。それらは妖精たちが踊った後に残る、妖精の輪だ。
その上に乗ると、セラは不思議とわくわくしてくる。ふと、この上に初めて乗った日を思い出した。
踊り好きのリーリたちとセラが出会ったのは、とある寒い夜の日だった。
三年前、大好きだった祖母が亡くなり、泣きながら街を歩き回っていた。行く当てもなく、途方に暮れながら森をさまよっている時に、リーリと出会ったのである。
少女の背から白い羽が生えているのを見て、驚きのあまりセラは流していた涙が止まってしまっていた。初めて見る生物におそるおそる手を伸ばす。リーリは怪訝な表情をしつつも羽に触らしてくれた。柔らかく温もりを感じられる羽。それはセラの心も温めてくれた。
「どうして泣いていたの?」
「おばあちゃんが死んじゃったから……」
「そう……」
リーリは沈黙の後に、セラに手を伸ばしてきた。
「死者を送り出す踊りをしよう」
「踊り?」
「死は怖くない。体から精神が離れるだけ。だから新たな始まりを祝うんだよ」
当時は何を言っているかわからなかったが、気を紛らわすためにリーリの動きを真似しながら踊った。右に左に動き、くるくる回る。それぞれにどのような意味があるのか考えながらも、懸命に踊った。
やがて踊り終える頃には涙は乾き、心は落ち着いていた。そして一筋の風が吹き抜けていく。
「セラのお婆さまが、ありがとうって言っていたよ」
リーリが代弁してくれた言葉は、セラも薄々気づいていた。あの風に乗って祖母は旅立っていったのだ――。
踊ることの奥深さを知ったセラは、それ以後リーリと交流するようになり、自ら進んで踊り始めたのである。
半月に照らされながら、セラは妖精の輪の上で回っている小さな妖精の動きを真似した。指先までしっかりと伸ばし、きびきびとした踊りをしていく。しかしどこか柔らかで、大人の雰囲気を漂わせた動きだった。
淑やかに優雅に、いつもとは違う気持ちで踊っていく。回る際も恥じらいながら、小さく回っていく。
リーリが扇子を手にしたのを見て、セラも扇子を取り出し、ざっと音を立てて開いた。
踊るのではなく、舞う。
規則正しい動きで舞っていく――。
ロムルスが腕を組んで、セラのことをじっと見ているのに気づかずに舞った。
やがてリーリはくるりと回った後に動きを止めた。そして静かにスカートに手を付けて、柔らかに頭を下げる。セラもそれを真似し、舞うのを終えた。
視線をあげると、ロムルスの黒色の瞳と目があった。彼の顔を正面から見て、途端に頬を赤らめる。
「な、何よ……」
「いや、綺麗だったなって」
「ありがとう……」
彼に珍しく褒められたため、照れてくる。しかし彼は笑みを浮かべておらず、真顔だった。
「どうしたの?」
たまらず聞くと、ロムルスはゆっくり首を横に振った。
「綺麗だけど、それだけだなって」
「え?」
「可もなく不可もなくってところだな。ルルミーア様に貶されることを避けた舞いだった」
「さっきから何なのよ」
口をとがらせて言う。するとリーリがロムルスのことを見て、にやりと笑みを浮かべた。
「いい目をしているのね。見た目だけの男かと思った」
「本当の俺を見抜いてくれるとは嬉しいねぇ。外面なんてただのついで。本質は中身だよな?」
「その通り。貴族であっても庶民であっても、心が通じれば、自ずと感じてくれるものよ」
目を細くしたリーリの目が向けられる。
「ねえセラ、貴女はなぜ踊るの?」
「なぜって?」
首を傾げると、リーリは肩をすくめた。
「特にないのならいい。大丈夫だよ、失敗はしない舞いだったから。それでいいのなら、屋敷で舞ってきなよ」
リーリに問いかけられた言葉がわからず、その場で立ちすくむ。妖精は軽く一瞥してからくるりと回り、その場から消え去った。