ご飯の時間になったのでヒューイを呼ぶ
「ヒューイ、ご飯よ」
マミが敷地で叫んでいる。
霧の発生中、行方をくらませていたヒューイがどこからともなく走ってくる。
ドッグフードの缶詰など、平時であれば高級品で常食には向かない。
ヒューイに一度缶詰を与えると、それからは乾燥したドッグフードを嫌がるようになった。
一番の贅沢者はヒューイである。
「おいヒューイ、一体どこをほっつき歩いてたんだ」
僕が言うと、ヒューイはワンと吠えた。
もはやグッボーイではなくバッボーイだ。
「犬を飼っていらっしゃるんですね」
工場からマリナが出てきて言った。
他の者と違い、彼女はここが理想郷ではないと分かってからも、それほど気落ちせず気丈に振る舞っていた。
外を出歩いてこうして話ができるのは、彼女が唯一である。
ほかは皆工場の一階でうなだれて、現実を受け止めきれないでいる。
マリナは、缶詰にがっついているヒューイを眺めて微笑んだ。
「私にとっては、今この光景こそが理想郷です。こんなに平和な光景が見られるなんて、そして私自身がそこにいるなんて、信じられません」
「辛かったのね。ゆっくり休むといいわ。焦らなくても時間はたっぷりあるんだから」
「そうですね。時間だけは本当に、飽きるほどたくさんある……」
気丈な態度とは裏腹に、マリナの目元にはパンダ並の隈ができていた。
騒動の前は高校生だったのだ。
無理もない。
「Hey! イワン、ちょっとこれどう? 作ってみたんだけど」
「Oh My Wife! VERY GOOD!」
妊娠約四ヶ月、お腹が少し出てきたユキは、医療用のチタン製カテーテルをナイフの先端に取り付けて、刺した後手元のスプレー缶からガスを噴射し、敵を体内から圧力で断ち切る槍を作っていた。
この女、凶暴につき。
腐ったスイカで試し突きをしているのを、僕たち三人は遠巻きに観察していた。
壁際に置いてあるスイカに、白鋼製の狩猟用剣鉈が突き刺さる。
本来の柄を外して、長柄に取り替えてある。
霧が出ているあいだ静かにしていると思ったら、こんなものを作っていたとは。
イワンの入れ知恵があったに違いない。
ユキがスプレーを噴射すると、スイカは爆発した。
弾力のある水々しいスイカであれば、爆発まではしない。
行き場を失ったガスがどこかから噴出して、その部分からパカっと割れるだけだ。
しかしそれが人体で起こったと考えると、ゾッとする。
「大成功! イエーイ!」
ユキとイワンはハイタッチする。
そのままユキを抱き上げたイワンが、ユキの顔に猛烈なキスを浴びせている。
ユキは敵に回すべきではないな、と改めて思った。
もちろんそんな状況になったら、戦うとか逃げるとか以前に土下座する。
「あいつまたあんなもん作ってやがる。マミ、もう少しユキを女の子らしくするよう説得できないか」
「無理ね。ユキちゃんと比べたら、田中のほうがまだ女の子らしいわ」
「それもそうだな」
田中は隠しているが、彼が最近読んでいるのは「ちゃお」である。
「私、ここに残りたいです。いえ、残ります!」
マリナが唐突に宣言した。
「どうしたの急に」
「時間はあるんだから結論を急がなくても……僕たちも西側のことはよく知らないし、ひょっとしたら理想郷が本当にあるかも」
「いいえ。この世界にはもうこれ以上の理想なんてありません」
彼女の言い分からすると、渋谷区連合は相当酷い環境だったらしい。
カズヤも連合について否定的なことしか言わなかった。
肯定的に捉えている人間が、脱走などするはずもないから当然ではあるが。
「わかったよ。こちらにはいつでも受けれる準備がある。しかし訓練はきついぞ」
「若いから大丈夫です。私もユキさんみたいになりたい」
それはこちらから遠慮願いたい。
「僕たちに言う前に、仲間に伝えたほうがいいんじゃないか。どこの集団に属するにせよ、報告・連絡・相談は必須だよ」
「わかりました! すぐみんなに言ってきます!」
そう言い残し、マリナは工場に駆けていく。
後ろ姿は、まさしく女子高生のそれ。
同い年でもユキの場合は女子高生ではなく“くノ一”だ。
「元気いいわねえ。何かいいことでもあったのかしら」
化物語の台詞を言うマミの脚に、ヒューイがおしっこをかけた。




