バッシュ/お母さん/巨大胎児
「じゃあここで。死ぬなよ」
「馬場さんも元気で。もし大島にゾンビがいなかったら、呼んでください」
「携帯通じねーだろうが」
濃紺の霧が立川を包んだ日の午前、カズキたち一行は馬場たち大島行きのグループとは別々に出発した。
馬場と共に大島を目指すグループは、スーパーにある物資をバンに積み込んでから向かうという。
カズキたちも必要最低限の荷物を積み込んでいたが、大島に行くよりも距離が短いのでそれほど大荷物にならなかったのだ。
グループ内部で様々な思惑が錯綜し、結果的に別行動をとることになったけれども、元が何の縁もない人々の集団である。
確執があっても、他人と思えば根は深くならない。
別れる際には手を取り合って互いの健闘を祈るだけの余裕はある。
マリナ、トモヤ、カズキの乗ったバンがスーパーから離れていく。
車を運転しているのは、自治区を離反するまではペーパードライバーだったという男、北野右雄21歳。
カズキに義理立てして残ったメンバーの一人である。
走行中(とはいってもスピードはぜんぜん出ていない)マリナが、カズキが履いている靴に目を留めた。
もともと白色だったのが、汚れで黒ずんで見る影もなくなってしまったバスケットシューズ。
スニーカーなどのハイテクシューズは、日常を過ごすには高機能すぎて、足本来の筋力を弱めてしまう。
今となってはこのバスケットシューズがあったからこそ、カズキは自治区での労働でキビキビ動け、それによって人望を獲得したのだと言える。
日常生活に適さない靴を履いていたから、7人のメンバーが彼のもとに残ったのだ。
「その靴、格好いいね」
マリナが言った。
「忘れもしないよ。7月15日の前日、バスケを辞めたっきりほっぽり出しといたバッシュをお母さんが持ってきて、1万円もしたんだから普段履きにしろって無理やり玄関に置いて。次の日に玄関までついてきて、俺がちゃんと履いていくか監視してるんだぜ。笑っちゃうよな。どんだけバッシュ履かせたいんだよって……」
「いいお母さんじゃない」
「ああ、自慢の母だ」
楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽
車は東小金井あたりで停まった。
これが彼らと怪物との初邂逅となる。
巨大な胎児を思わせる姿の怪物、手足が異様に短く、まるでイモムシのように這って移動していたそれは、カズキたちの前方50m付近にある十字路を横断している最中だった。
「なんなんだよ……あれは……」
それ以上言葉が続かない。
運転手の右雄が絶句している。
「アルミ材なんかで太刀打ちできる相手じゃない」
唯一冷静を保っていたトモヤが、的確に指示した。
「迂回しよう。多摩公園のほうを通って西に行く」
「そうね……あれは、見るからに危険だわ」
トモヤの手をぎゅっと握りながら、マリナが言う。
巨大胎児の姿が見えなくなってから数分待ち、車は方向転換していま来た方向に進み、一番最初の角を左に曲がった。
この辺の地図には詳しいという右雄は、ペーパードライバーとは思えない軽やかな運転をした。
「本当に理想郷があるのかよ? あんなのがうろついているのに?」
「俺たちも大島に行ったほうがいいんじゃないか。今ならまだ引き返せる。スーパーには馬場さんたちがいるだろうし」
動揺した数人が、計画の変更を口にする。
誰も意見せず、しばらくの間沈黙が車内を支配した。
それを破ったのはカズキだった。
「俺のお母さんが言ってた。男は一度決めたことをやり遂げるもんだって。理想郷はある」
本心から言った言葉だったが、思わぬ効果があった。
場が和んだのである。
「お母さんってなんだよ。小学生かよ」
トモヤが茶々を入れる。
「うるせえな。いいじゃんか別に」
「いいけどよ。俺は信じてるから。カズキのこと」
「私も」
「あの、私も信じています。カズキさんだけじゃなくて、ここにいる皆のこと」
梓が、どうしても言っておきたいという風に言った。
「目指してみますか、理想郷。ここまできたら、後は野となれ山となれだ」
右雄は格好つけて言った。
注意がおろそかになった瞬間、あやうく停めてあった車にぶつかるところだった。
急にハンドルを切ったので車内は揺れ、皆静まり返った。
そして顔を見合わせて笑った。




