表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
61/230

いろはにほへと ちりぬるを

夜這い決行日、僕とマミは屋上にあがって具なしコンソメスープを分けあって飲んでいた。

雨が降らなくて本当に良かったと思う。

午前中の間に、田中はイワン、ユキと共に東方へ出かけていった。

何事もなければ三日後に帰ってくるはずだ。


僕は観測所に行ってもよかったのだけれど、それだと警戒任務にあたる人数が一人だけになってしまう。

万が一の事態になったとき、鈴木と阿澄を加えても三人の殲滅力ではゾンビに対して心もとない。

事情を中島に話すと快く了承してくれたので、今日は中島班から二人が観測所に行くことになった。


夜は更け虫の羽音が高鳴る。

下の様子がまったくわからないので変にドギマギしてしまう。

当事者ではないのにこれなのだから、阿澄の心境は恐ろしいことになっているだろう。

今朝こっそり尋ねたところ覚悟は決まっていると言っていたが、実際やいかに。


今頃、下では何が起こっているのか。

僕がこれほどアタフタしているというのに、マミは至って平然としていた。


「心配じゃないのか?」

小声で話しかける。

「私たちがどうこうできる話じゃないでしょ。黙って待つしかないのよ」


それはそうだ。

気分転換に田中たちが向かった方角に目を移す。

双眼鏡で見渡しても何も見えない。

夜なのだから当たり前か。


「鈴木も幸せ者よね。あんな可愛い子に言い寄られるんだから」

「でも鈴木には彼女の件があるしな……」

「男っていつもそう。過去を振り返る前暇があるなら、前に進まなきゃ」


「こればかりは厳しいぞ」

「まァね……」


暗いムードになってしまった。

僕はいつもこういうふうに普通の話を暗い方に持って行ってしまう。

歴代の女友達にもそれで嫌われたのだ。

何度「あんたの話は暗いからつまらない」と言われたことか……。


「イノック・アーデンって本知ってる?」

マミが言った。

「知らない」


「遭難した水夫の話。船が転覆したか何かして、無人島に漂着したはいいものの、帰る方法がない。それで何年も生活した後に、偶然近くを通りかかった船に救助されるの。帰国してみると、愛していた奥さんは別の人と結婚していて、幸せそうにしている。みんな彼はもう死んだものと思っていたのね。そこで水夫は大人しく身を引くの。今自分が出て行けば、彼女たちにとっての平穏が乱されて滅茶苦茶になってしまうって。それから水夫は病気になって死んでおしまい」


「マミ、その話は暗いよ」


「ごめんなさい。でも、たとえ事実でも変に美化してポジティブに捉えるよりは、ありのままの悲劇を受け入れたほうが良い場合もあると思って」


「鈴木には辛いだろうが、乗りこえなきゃな」

「お葬式でもしてあげたほうがいいのかしら。せめて供養だけでも。ヘーゲルが葬式は残された生者のためにあるんだって言ってたわ。死を乗り越えて忘却するには何らかの儀式が必要だって」


「君はドイツ人ばかり持ち出してくるな。少しはフランスに気を使ったらどうだ。フランスで思い出したけど、こういうジョークがある。フランス人は最初のエッチは声を出さないという……いてっ」


「Hは発音しないって意味でしょ。馬鹿なこと言ってないで監視して」

「へいへい」



楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽



朝、念のためマミが先に降りて部屋を確認して、許可が出てから僕も降りた。

二人は離れた位置で眠っている。

僕らは顔を見合わせて、首を振った。


夜這いは失敗した。

あとでマミから聞いた話によると、鈴木は拒否したらしい。

まだ心の整理ができていないからと。


正式に返事をしたいから待ってくれとも言われたそうだ。

仕方のないことではある。

僕だって準備もしていないのにいきなり迫られたら断る自信がある。


世の男性がすべて獣のような性欲を持っていると思ったら間違いだ。

何事にも順序はあるし、こと恋愛においては順序こそが最も大事なのだ。


泣きながら「消えてなくなりたい、死にたい」と繰り返す阿澄には、ちょうどよかったので観測所に数日間滞在してもらうことにした。

鈴木と顔を合わせづらいだろうし、観測所任務も捗るし、一石二鳥の案である。


いろはにほへと ちりぬるを

わかよたれそ つねならむ


阿澄はまだまだ若いので簡単に散りそうもないがな。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ